「PROOF OF AZURE」
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◆CONTENT◆

 

二十四時間の神話

カムフラージュ

DISTANCE

One-way Traffic

Rain rain pain

Over

抱きしめたい

Cry for the moon

翔べない翼

永遠の片思い

Dearly

ココニイルコト

よくある話〜Another〜

ありふれた話〜Another〜

Unchained

Filament

君にカサブランカリリーの花束を

SAKURA

 

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カムフラージュ

 

――――オレはまだ、本当の君を知らない。

 

「小林。おまえ、『あの女』と付き合ってるって噂、本当なのか?」

午前最後の講義が終わると、学生たちはぞろぞろと動き出す。千尋が席を立とうとしたとき、背後から声がかかった。友人と言うほどではないが、たまに会話を交わす同期生。行く場所があるのですぐ教室を出たかった千尋は、不愉快そうにそちらを見た。

「だったら?」

千尋はさも当然という表情で返す。ここ数日、キャンパスに流れている噂のことは知っていた。周囲が好奇に満ちた視線で真相を知りたがっていることも。周りを気にしない千尋は、今まで肯定も否定もしなかった。直接、真偽を訊ねる人間がいなかったこともあるが。

もう一人の当事者なら、きっぱり噂を否定するんだろうなと、千尋は内心呟く。彼女はこの件に関して自分と同じ認識ではない。むしろ逆に、無関係だと答えるはずだ。だからこそ肯定して、公然の既成事実にしてしまおうと目論んでいた。

「噂は聞いてるだろ。どうして、あんなタチの悪い女に手を出す?」

まったく理解できないという面持ちで彼は言う。たしかに、彼女に関して流れている話はどれもいいものではない。千尋自身、それらの話が事実かどうか確認したわけではないが、どの話も第三者の悪意によって誇張された誹謗や中傷の類だと思っている。

「わかる必要はないよ。無関係な人間に」

千尋は冷たい眼光で一刀両断すると、振り返ることなくその場をあとにした。腕時計に目を落とす。無駄に時間を浪費してしまった。舌打ちしながら、足早に階段を下りていく。

学部が別の彼女と逢えるのは昼と夕方だけ。しかも、彼女はここ数日まとわりついている千尋の存在に、心底うんざりした様子だった。きっと講義が終わると、千尋に見つからないようどこかへ逃げるに違いない。だから、講義が終わった直後に捕まえておきたかったのだ。

校舎間をつなぐ二階の通路から、キャンパスを見下ろしながら歩く。行き交う人波の中に彼女の姿は見つからない。困った様子で千尋は顔を上げた。その瞬間、視界の隅に彼女が映る。向こうの校舎の階段を下りようとしていた。とっさにあとを追う。階段を駆け下り、踊り場で追いついた。声をかけるよりも先に身体が動いて、彼女の腕を掴んでいた。

「――――なに!?」

背後から唐突に腕を掴まれ驚いたのだろう、彼女が振り返る。その瞳に刹那、怯えを感じ取った千尋は慌てて謝った。

「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど…」

千尋の仕業だと分かると、彼女の身体に張りつめていた緊張の糸が解ける。

「………はなして」

「えっ?」

思惟のある眼差しで見ると、彼女は告げた。瞬時には理解できなかった千尋に、腕を黙視する。

「ああ、ごめん」

気づいて手を離すと、彼女は何事もなかったかのように再び階段を下りていく。千尋は間髪置かずに続き、隣に並ぶ。

「今日は屋上じゃないの?」

昼は屋上で過ごすのが彼女の日課だった。軽い口調で話しかけても、彼女は無表情。

「だれかが邪魔しに来るから」

涼しい顔で皮肉を言うが、千尋には効き目がない。二人は校舎を抜け、キャンパスに出た。裏庭に続く静かな並木道を歩いていく。

「邪魔しているつもりはないけど」

「あなたの存在自体が邪魔よ。それに、あなたのせいで迷惑しているの。女子学生たちから、身に覚えのない恨みを持たれて」

「覚えのない恨みってことはないんじゃない?」

「どういう意味?」

「だって、オレたち付き合ってるんだから」

平然と言い放った千尋を、彼女はまっすぐ見つめる。

「…だれとだれが?」

「オレと君」

だんだん鋭くなる彼女の口振りにも、千尋は笑みを浮かべていた。

「初耳だわ。一体いつから?」

「一週間前から」

「冗談言わないで」

「オレは至って本気だけど」

真顔での返答に、彼女はため息をもらす。

「わたしは承知した覚えはないわよ、そんなこと」

予想どおりの台詞に、千尋は悠々と用意していた回答を返した。

「一週間前、君はたしかに言ったよ。『好きにすれば』って。だから遠慮なく、その言葉どおりにさせてもらってるんだよ」

自分の発言を盾にされ、反論できない。言葉に詰まって千尋から顔を背けた。

「今さら、言わなかったことにして…なんて言わないよね?」

主導権を握った千尋は含み笑い。

「それに、噂は本当だって言ったから。明日にはキャンパス中に広がってるんじゃない?」

余裕綽々の表情で告げる千尋に、彼女は深いため息をもらした。

「あなた、タチの悪い知能犯ね」

「多分そうだと思うよ」

「…物好きにも、限度があるわ」

どうやら白旗を掲げたらしい彼女は、風に舞う木の葉を眺めながら、思案に暮れていた。秋が深まる風景の中、優しい風と静寂が心地よく、日常の喧噪も遠ざかる。そんな感傷に浸っていると、不意に彼女が足を止めた。どうしたのかと怪訝に思った千尋が振り返る。

「――――後悔する。あなた、きっと後悔するわ…」

いつものポーカーフェイスではない、心の奥底になにかを潜めた表情。切実な瞳が痛々しさを告げている。普段はだれにも見せない、彼女の素顔のひとつ。その言葉の意味も重さも、きっと自分が想像している以上だと千尋は感じたが、それでも意思は変わらなかった。揺るがなかった。

「しないよ。オレは、後悔なんてしない」

まっすぐに彼女を見て、真摯な声で告げる。

「………バカな人。自分から汚泥にまみれるような真似をするなんて…」

千尋の断言に、彼女は切なく呟いた。

 

――――本当のわたしを見つけて…。

 

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Over

 

「どこへ、行くの…?」

フロントガラスに叩きつける雨が、また一段と激しくなる。助手席の彼女は濡れた車道を見つめながら、心細い声で訊いた。夏が名残惜しそうに去っていく八月下旬。少し前から崩れ始めた天気は荒れていく一方。午後の降水確率ゼロパーセント、天気予報は見事に外れた。

重く垂れ込めた灰色の空が、彼方まで世界を覆い尽くす。時計は五時半を指しているのに、まるで夜のように薄暗い。ヘッドライトを点した車が行き交う海岸線。対向車線のトラックとすれ違うと、大きな水飛沫が飛んだ。振りしきる雨に、慌しく動作するワイパー。一瞬視界をクリアにするが、またすぐに水滴がガラスを濡らしていく。

「さあね」

オレは視線を前に向けたまま、他人事のように答えた。フロントガラスを曇らせないようにつけたエアコンが、車内に冷気を漂わせる。ガードレールの外側に迫っている海は、なにかを呑み込むかのように高くうねる波が打ち寄せていた。

――――どこでも、よかった。君と一緒なら、どこでもよかったんだ。行き先なんて考えてなかったから。君が隣にいて、君がそこにいてくれるのなら、行き先はどこでもいい。そう、君さえいてくれたら…。たとえそれが見知らぬ場所でも、世界の果てでも…オレはかまわなかったんだ。

今、離れていこうとする君を引き止めるためなら、オレはどんな手段も厭わない。このまま車を走らせて、帰れなくなるまで遠くに行ってもいい。だれも知らない場所へ連れて行けたら…。ただ分かり過ぎるほどに感じる気配を、押し潰されそうになる不安な予感を打ち消したくて、耐え切れなくて――――君を連れ去った。

 

最後に逢った日から一週間、彼女は音沙汰なしだった。夏休みも三分の二を過ぎて、蝉が去り行く夏を惜しむかのように鳴く。連絡を取ろうと電話をかけても帰ってくるのは同じメッセージ。

『現在、電波の届かないところにあるか電源が――――』

ため息混じりに電話を切った。夏休みでなければ、キャンパスで逢えるのに。あの日、別れ際に見せた彼女の表情が脳裏を掠めた。なにか重大な決断を心に秘めたような…諦めの境地を悟ってしまったかのような微笑。それがこのあとに訪れるだろう事態を予測させて、焦燥に駆られる。

やっと手に入れたのに。長い時間をかけて彼女の心の鍵を見つけたのに。ようやく彼女を掴まえたのに、不安のシグナルが点滅する。一度はオレの腕の中にいたのに、心を重ねたのに。いつの間にか、知らないうちにすり抜けていくんだ。そして彼女はまた一人で決めてしまうのだろう、二人の結末を。オレの意思なんて関係なく。

そんなことはさせない、させるつもりはない。手を離すつもりなんて毛頭ない。でも彼女は刻々とその方向に進んでいる。オレに逢わず、携帯の電源を切って。どうしてなのか、どうしてそちら側の選択を選ぶのか…分からない。けれど、このままおとなしく引き下がる気はない。

手に入れたとき、彼女の存在の大きさを思い知った。心を侵食するほど、オレにとって…。だから、なにもせず逃がすつもりはない。彼女が一方的に自分の意思を貫こうとするなら、オレも好きなように行動するだけだ。オレは彼女を手離すつもりはないのだから。

まるで子どものようなわがままで、彼女を縛りつけようとする。それで二人とも動けなくなると分かっていても、オレはその選択を選ぶだろう。いつかオレは、堕ちていくつもりはないと言ったけど、今ならそんなことは言えない。堕ちてもいい。彼女さえいてくれるなら。そこが地の果てでも、どんな暗闇でもかまわない。彼女の手を離すことに比べたら、そちらのほうがよほどマシだ。

そんな想いを抱えながら、今日こそは彼女を捕まえるつもりだった。どんなにオレを避けていても、バイトは休まない。勤務時間は知らないが、待っていればそのうち出てくるだろう。マンションの駐車場で埃をかぶっていた母親の車を無断借用し、オレはアクセルを踏み込んだ。

 

昼間は照りつけるような陽射しが満ちた空だったのに、今は曇りがちの空模様。市立図書館前の大通り、駐車禁止の標識は木隠れし、長い縦列駐車が続く。オレはエンジンを切り、カーラジオを流していた。不意に聞き覚えのある曲が耳に入り、何の曲だったかと思い返す。たしか、彼女が好きだと言っていた曲。古い映画で使われていた…そこまで思い出したとき、視界の片隅に彼女が映る。次の瞬間、オレは車から飛び出していた。

 

オレが目の前に現れると、彼女は足を止めた。一瞬、戸惑いとやっぱり…という感情が交錯する。おそらく彼女は勘付いていたはずだ。オレがこういう行動に出ることを。だから、まっすぐ顔を上げて目をそらさない。こんな状況を想定していたなら、その対応も考えていただろうから。

「久しぶり…っていうのも変だけど、他に適当な表現が見当たらないな。ずっと電源切ってたら、携帯電話の意味がないと思うけど」

皮肉めいた口調で言う。それまでは毎日のように逢っていたので、一週間逢えず声も聞けないのは、思っていたよりダメージが大きかった。

「…ごめんなさい。少し、一人になりたかったから」

オレの言葉を正面から受け止め、彼女は静かに答える。寂寥感漂う表情。もうすべてを決めてしまっているのだ。

「一人になって、なにを考えるわけ?」

「……いろいろなこと」

遠回しに本題に触れまいとする、彼女はまだ迷っている。その時点で望みはあるのだと、自分勝手な観測を植えつけた。

「今日はこのあと時間ある? ないって言っても、無理矢理付き合ってもらうけど」

腕時計を見て彼女に告げた。こういう言い方をしてしまうところが、オレの性分なのだろう。

「わたしも、あなたに話があったから」

彼女は一旦瞳を伏せ、深呼吸をしてから口を開いた。それがためらいを捨てるための儀式だったのか。オレは予感が確信になったのを実感しながら、彼女を車へと促した。

 

「乗って」

助手席のドアを開け、乗車を迫ったオレに彼女は惑い顔。

「…車、持ってたの?」

初めて体験する状況に、不安を隠せない。

「オレのじゃないよ。母親の車を無断で借りてきただけ。心配しなくても、免許は持ってるから」

おどけたように言うと、彼女は車に乗り込んだ。席に落ち着くのを確認してから助手席のドアを閉め、運転席にまわる。

「いつ免許とったの?」

「大学一年の夏。暇だったから集中合宿で。だけどそれからはろくに運転してないから、ペーパードライバーみたいなものか」

エンジンをかけながら平然と言うオレに、彼女は表情を硬くさせた。

「大丈夫だよ。安全運転するから」

そう言って笑うと、車を発進させる。いつの間にか灰色の雲が近づいてきていた。

 

海峡に架かる大きな橋が、イルミネーションを点灯させる。海に近い展望台。この大雨で、他に車は見当たらない。広い駐車場に雑然と車を止めた。ワイパーを止めた途端、フロントガラスに注ぐ雨が滝のように流れ落ちる。あっという間に目の前の景色をかき消していった。

ブリッジの光がぼんやりと浮かんでいる。オレはライトを落とし、エンジンを完全に切った。ライトの明かりが消えると、周囲に闇が迫ってくる。調子よく流れていたラジオの音も途切れた。

彼女もオレもなにも言わない。無言のまま、静寂が支配していた。やがて、ボンネットに叩きつける雨音が、静寂に代わって車内を満たす。沈黙と共存する雨音。やまない雨が、幾重にも際限なく空間全体に響いた。静かに…激しければ激しいほど、その響きは透明な色をしていて。まるで、この世界に二人きりだと錯覚してしまいそうになる。

近くに自動販売機を見つけて、オレは雨の中に飛び出した。缶コーヒーを買ってすぐに戻る。強い雨脚は、あっという間にオレの全身を濡らしていた。缶コーヒーを渡すと、彼女はありがとうと呟きながら、自分のハンカチをオレに差し出した。

「いいよ。すぐに乾くから」

断ったものの、彼女が心配そうな瞳で訴えるので素直にハンカチを受け取る。髪と顔を軽く拭いた。それから自分の缶コーヒーを開け、口に運ぶ。熱い液体が、のどを通って身体に沁み込んだ。飲み慣れたブラックコーヒーなのに、いつもよりか苦く感じる。彼女はオレの様子を伺ってから、コーヒーを一口飲んだ。相変わらず、淋しさと不安と迷いが同居しているような表情。

「………小林君」

消え入りそうなか細い声。予想以上に頼りない声だったのか、彼女は自分に戸惑う。

「話がある――――」

「あの橋渡って…どこかに行こうか?」

気を取り直して言いかけた言葉を遮り、オレは切り出した。刹那、彼女が困惑を浮かべる。オレが故意にそうしたことに気づいて。

「橋を渡って、どこへ行こう。どこでもいい。どこまでも行こう。車を走らせて、だれもオレたちを知らないところまで…帰れなくなるまで」

海を隔てた向こう側までつながる橋を見つめ、オレは一人言のように言った。

「遠いどこかへ、逃げようよ――――二人で」

ステアリングに腕を置き、視線を彼女に移した。ゆっくりと目を背けて、俯く。彼女には分かっていた。オレのこの提案が。オレが彼女の持ち出す話の内容を察知していたように、彼女もまた、オレがこう動くだろうと察していた。それでも。

「……話を聞いて」

オレの言葉に応えず、彼女は告げる。

「嫌だね」

「……小林君」

即時に拒んだオレに訴えかけるような声。彼女がオレに持ち出す話は、間違いなく別れ話。それが分かっているから、言わせないようにずっと彼女の話を遮っている。

「別れ話とわかっていて、話を聞くつもりはないよ」

オレはまわりくどい問答はやめて、はっきりと断言した。

「オレは、君と別れるつもりなんてないから」

自分の意思を明らかにしたところで、彼女の心を変えることはできないけれど、強く引き止めれば、どんな理由を盾にしても気持ちは揺るがないと伝えれば、少しは…ほんの少しくらいは、彼女も考え直してくれるかもしれない。なりふりかまっていられない。彼女は、失ってしまえばそれでおしまいだ。今さら、守る体裁なんてないのだから。

男のプライドやメンツなんてかなぐり捨てた、ずっと前に。彼女に出逢ってからは、そんなものを守ることさえ無意味に思えた。本当に欲しいものなら、本気で好きになったら、そんなこと気にする余裕もない。必死で、ひたすら愚直に手に入れようと奔走した。

最初の頃は、一緒の空間を共有することすら拒否され続け、痕跡を残さず逃げる彼女を追いかけるだけだった。彼女の心は頑丈な壁に囲まれていて、扉がどこにあるのかさえ分からない。それでも諦めるつもりはなかった。たったひとつ見つけた彼女の存在を、諦めるわけにはいかなかった。

時間を伴い、徐々に彼女へ近づいた。心の扉も壁もほんの少し薄くなって、鍵を探し続けた。彼女の心の扉を開く鍵を。たくさんの経験や想いを経て、オレはようやく見つけた。本当の彼女を。そうして手に入れた彼女を、手離せるはずがない。どんなことがあっても、離したくないんだ。

「君はわかってないんだな。オレがどれだけ君を好きか…その重さを量り違えてる」

「そんなことない…」

「だったら! どうしてそんな選択をするんだよ! ちゃんとオレの気持ちをわかっているなら、どんなことがあっても一緒にいられる道を選ぶはずだ。そうじゃないのは、君がオレの気持ちを軽く見積もっているからだよ」

思わず拳をステアリングに叩きつけた。彼女は怯えた眼差しでオレを見る。

「………そうじゃないの。そうじゃなくて」

声を詰まらせながら、切実に彼女は否定した。

「じゃあなに? なにが理由? オレの納得のいく理由なら考えるけど?」

口の端に自嘲の笑み、オレの言い分に彼女は俯く。潤んだ瞳が揺れていた。

「…苦しくて…。あなたと一緒にいると、すごく…苦しくなる。今までは、あなたが現れるまでは平気だったのに…どんなことがあっても、心の平安を保っていられた。自分の世界を守っていられた。なにも欲しいとは思わなかったし、すべてのものを諦めることにも従順でいられた。最初から自分に与えられるはずもなかったものだと思えば耐えられた。無駄だとわかっているから、なにも祈らず、なにも願わずにいられた。全部、なにもかも現実として受け入れられた。ただ暗闇に沈んでいく世界の中で、希望という名の光は見えなくても、それが罪に準ずべき罰だと思えばなにもかも享受できたのに…。今まで折り合いをつけて、自分を納得させてきた理論を、不文律を、あなたは簡単に崩してしまう、壊してしまう。間違っているってあっさり否定する。わたしを生かしてきた処世術を、そうしなければ生きてこられなかったのに…そう思っていなければ、自分に『生きていること』を許せない――――なのに。あなたの存在が理性を揺るがす。諦めたはずのことを望んでしまいそうになる。浅はかな夢を見てしまいそうになる。バカみたい…。どうせ空しくなるだけなのに………逃げられはしないのに。そんなこと分ってるけど、もしかしたらって期待してしまう心と矛盾して……ジレンマ、抱えてる。どちらを選んでも、きっと同じくらい傷ついて後悔する。だから頭の中が混乱して、身動きが取れなくなって…」

沈痛な表情で彼女は言う、心に映る本心を。

「同じだけ傷つくのなら、後悔するのなら、オレと一緒の道を選べばいい。なのに、どうして独りを選ぼうとするんだよ、君は」

「……もう、これ以上耐えられない。だれかの人生を狂わせてしまうこと…。まして、それが大切な存在なら」

彼女は頭を抱えながら、首を横に振った。オレは必死で思考を働かせる。彼女の意思を動かす言葉を、引き止める術を。

「オレの気持ちは? オレの意思は、どうでもいいわけ?」

「…………………」

「どうしても考え直してくれないなら、こっちも好きなようにさせてもらう。どんな手段も選ばないよ。もし力ずくで引き止められるなら、オレは迷わずそうする」

その台詞は、虚勢でも脅しでもない。まぎれもない本気だった。彼女が離れないでいてくれるのなら、どこにも帰さないでつなぎ止めるだろう。

「そんなの…哀しいだけよ」

彼女は哀願するように言い、沈黙する。こうやって、お互いを雁字搦めにしていくんだ、気持ちが空回りして。心が分かりすぎるほどに、重く…感じるから。動けなくなる、どこへも行けなくなる。そして二人は途方に暮れる。

最初から分かっていた。こんな想いをすることは、最初から分かっていた。オレが彼女に近づいたときから…いや、出逢ったときから気づいていた。だけど――――それでも選んだ、この道を。どうしても欲しかったから。自分だけの、自分よりも大切な存在。どうしても手に入れたかった、オレのものにしたかった。ずっと一緒にいてほしかった。

苦しむことも、傷つくことも、覚悟していた。この道を選んだのは自分、覚悟の上で選んだのは自分だから。どんなことがあっても、終わらせたくはないんだ。

今、泣き出しそうな瞳でオレを見つめている彼女。どうすれば、オレの気持ちを伝えられるだろう。分かってもらえるだろう。離れるほうが何十倍も苦しいということ。後悔するなら、傷つくのなら、二人でいることを選んで、二人で痛みを分け合おう。二人で味わう痛みと、独りの痛みなら、前者のほうが痛くない。

どうか、そのことを分かってほしい。君を喪うことに比べたら、どんな苦難も比較にならない。君がいることがすべてだ。

 

雨が降り続く。雨脚はいつまでも激しく。やまない雨、フロントガラスはもう雫しか映さない。静かな世界。雨音さえ遠ざかっていく。二人の時間が重なりたくて近づけない。行き場をなくした心がふたつ、さまよっていた。どこへ行こう。どこにも行けない。もうこれ以上、どこにも行けない。二人…帰れずに――――夜が明けない。

 

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SAKURA

 

――――あの日、桜の下で君を見つけた。

 

例年より遅い桜前線が、日本列島に本格的な春を告げた。開花宣言から初めての休日となった、本日の天気は上々。遠くまで青い空が広がり、空気は澄んでいる。絶好の花見日和。こんな日は、のんびり桜見物でもしたいものだが…。今日の小林家ではそんな気も起こらないようだ。

春の陽気に千尋は眠気を覚えた。こんなのどかな空気は人を眠りに誘う。それは人間だけに限らず、生き物全般に言えることかもしれない。千尋の足元で、ラッシーは健やかに眠っていた。それにしても暇だと思う。居間で雑誌を見ていたのだが、どうも退屈で仕方ない。

今日はゆっくり過ごせる休日なのに、なぜ暇を持て余しているかというと…彼女が不在だから。用事で出かけているせいだった。いつもなら三人でどこかに出かけたり、買い物をしたり、家で過ごすにしても、時間を持て余すことなどない。

だが、彼女が一人で外出し、千尋と光輝の二人が残されると、どうにも間が持たない。どこかに出かけるわけでもなく、ダラダラと過ごしているだけ。光輝はテレビを見ているが、お互い微妙な居心地の悪さを感じていた。それだけ彼女が、二人の間でバランスを取っていたということ。

三人だと自然に会話も生じてくるが、千尋と光輝だけでは話題に困窮し、どうしても沈黙が支配する。古い洋画に見入っている息子を千尋は伺う。改めて観察すると、やはり自分に似ていると思う。幼少時からそう思っていたけれど、自分の子どもの頃にそっくりだ。

それが外見だけなら問題はないのだが、中身まで似ているとなると、父親として複雑な気分になる。素直に気持ちを表現できない不器用さ、奇抜な発想や行動、自分が経験してきたことすべて、光輝が受け継いでいるのだ。それに、母親譲りの鋭い感受性が加味されている。

ある意味、世の中に適応していけるのか心配だったが、巧妙に世間を渡り歩くような話術も持ち合わせていた。この息子がどう育っていくのか、不安を感じることもあるが興味深くもある。似ているけれど自分とは違う、一人の人間。どんな成長をして、どういう道を歩いていくのか。そして自分は、親として見守っていくのだ。子どもの歩いていく道を。

「…なに?」

直視する眼差しに気づき、光輝は訊く。テレビに集中していたのに、気が削がれたらしい。

「いや、おまえは年々オレに似てくるなと思って」

「そんなの、親子なんだから仕方ないよ」

実感のこもった千尋の呟きに、光輝はなにを今さらと言いたげな口調で返す。

「僕だって、好きでお父さんに似てるわけじゃない」

そのことに不満があるような声色。日頃なにかと千尋に対抗意識を燃やしているのは、それが理由なのかもしれない。

「まあ、そう言われればそうだな」

「真尋さんも、いつも僕を見てはそっくりだって言うよ。たしかにアルバムを見たらすごく似てたから、事実は事実として認めるけど」

「親子なんだから、仕方ないだろ」

不服を訴えるような台詞に、千尋は光輝の言葉をそのまま返した。行き詰まった表情で黙り込む光輝。時折、自分の想像の中で他人の価値を判断してしまい、他者に対して軽はずみな言動をしてしまうことがある。一番危惧している点だが、気を抜くとこうして出てきてしまうらしい。

バレたらまたお母さんに怒られるなと思いつつ、光輝は千尋の様子を伺う。それほど気分を害しているわけでも、気にしてもいない。もともと光輝の性格をよく知っているので、これくらいのことは気にも留めないようだ。

「オレだけに似てるわけでもないだろう。おまえは気づいてないかもしれないけど」

「えっ?」

雑誌に目を落とし、さりげなく言った千尋に首を傾げる。

「結構あるよ。おまえとお母さんが似ているところ」

その言葉に、光輝は目を見開いた。自分の気にしていることを、的確に見抜いているらしい。

「…うん」

光輝は小さく頷く。千尋を見上げ、やはり父親なんだと思った。こういう子どもの気持ち、ちゃんと理解している。まだまだ敵わないと心の中で呟いた。

 

「そういえば」

しばらく時間が流れたあと、思い出したように光輝が口を開いた。

「なんだ?」

「どうしてお母さんと結婚したの?」

不意打ちの質問に、千尋は言葉に詰まる。

「どうしてと言われても…」

「だって、翔吾と栞ちゃんのところは高校時代のクラスメイト。奏ちゃんの家は高校のときの教師と生徒。身近なところで結婚してるよね」

「それは、たまたま相手が身近にいただけだろ」

近しい具体例を挙げながら、光輝は続ける。

「お父さんとお母さんって、大学時代に知り合ったんだよね。同じ大学だけど学部は違うのに、どうやって知り合ったの。どうして付き合うことになったの?」

子どもらしい素朴な疑問に、困惑の千尋。

「答えなきゃいけないか」

「自分の両親の馴れ初めを知りたいのは、当然だよ。だって二人が出逢って結婚してなかったら、僕は今ここにいないんだよ。自分のルーツを探るためにも、知っておきたい大事なことだ」

「そんな小難しいこと、今から考えてどうする?」

複雑な思考回路をしている分、普通の子どもより物事の真理探究に貪欲だ。返答に弱っている千尋を尻目に、光輝は平然と明言する。

「年齢なんて関係ないよ。自分の存在意義とかスタンスとか、根本を構成するものなんだから、好奇心なんかじゃない。重要な意味合いを持つ大事なことだよ、僕にとってはね」

論理的な話術で懐柔しようとする光輝に、千尋は諦めと呆れが混在する表情。もう少し子どもらしい考え方ができないのかと思いつつも、自分の息子なので仕方ないと自嘲する。そして、素直に降参して話すことにした。

「オレがキャンパスでナンパしたんだよ」

あっさりと告白した千尋に、光輝は意外そうな顔。

「嘘だ」

「嘘を言ってどうする。本当だよ」

自分の話を信用しない息子に、千尋は落胆する。

「信じられないよ。だって、お母さんがナンパに引っかかるはずない。しかも、お父さんみたいなタイプに」

「…光輝。おまえ、それどういう意味だ?」

光輝は明らかに自分を色眼鏡で見ている。千尋にとっては不本意なこと。

「だってお父さんって、天性の詐欺師みたいな顔してるから」

千尋はその表現に言葉を失う。それはそっくりなおまえにも言えることだろ、と心の中でボヤいたが口には出さなかった。

「おまえ、仮にも父親に向かって……」

「でも、本当のことなんだから仕方ないよね」

明るく言い放つ光輝に、もう反論する気も起こらない。

「じゃあ、お母さんはお父さんに引っかけられたの?」

「最初は、こっちが一方的にまとわりついてただけだよ」

もっとまともな表現はないかと思いながら、千尋は質問に答える。

「そうだろうと思った。それできっかけは? どうしてお母さんのこと、ナンパしたの?」

「それは…」

とことん追及する光輝に、当時を回想する千尋。その脳裏には、桜舞う景色が浮かんでいた。

「結局は一目ぼれ…だったんだろうな」

「へえ」

「向こうはそんなこと、知らないだろうけど」

思い返しながら話す千尋を、光輝は興味深そうに見る。

出逢った大学二年の秋より前、桜の花びらが舞う春の日。あれは大学の入学式の日だった。千尋は心の中に鮮明に残されている、その記憶を再生する。キャンパスは満開の桜で彩られていた。綺麗な花の色が、香りが、瞳に映る。自分の学部の校舎へ向かっていた千尋は、ふと足を止めた。

桜並木を眺めていると、一人の学生が目に入る。自然に引っ張られるような感覚、とでも言うのだろうか。なぜか説明のつかない懐かしさと共に、そこで立ち止まり桜を見つめている彼女を見つけた。満開の桜の下で、落ちてくる花びらに手のひらを向ける。

その光景があまりに綺麗だったので、千尋は見とれていた。そこに一陣の風が吹き、桜吹雪が彼女を描く。まるで儚い幻、次の瞬間には消えてしまうかのような。目が離せなかった。きっと、あのときが二人のはじまりなのだ。彼女は決して知らないだろうけど。

感慨に耽る父親の姿を見ていると、光輝はあることを思い出した。母親に、今と同じ質問をしたときのこと。少し思案顔のあと、意味深な笑みを浮かべた彼女。

「桜が、綺麗だったの」

訊きたいことと桜の関係性が光輝には掴めず、首を傾げる。

「お父さんには内緒よ」

光輝の怪訝な顔から、疑問を察した彼女は唇に指を当て、優しい眼差しで告げた。

「本当はね、知り合う前からお父さんのこと知ってたの」

そう話した彼女の瞳孔には、懐かしい景色が映っている。あの日満開の桜が舞っていた光景と、一人の学生が通り過ぎていく後ろ姿。なぜだかその記憶は、彼女の心の中に強く刻み込まれた。それがなぜなのか、彼女がその理由を知るのは、大学二年の秋だった。

二人の答えを聞いて、光輝はそのことに気づいた。お互いに、相手が気づいてないと思っているだけで…。そう理解できた光輝は、半分呆れてしまう。なんだ、ノロケじゃないか、と思わずにはいられなかった。二人とも知らないままなのが妙におかしい。このことを二人に知らせるべきかどうか迷ったが、自分だけの心にしまっておくことにした。

理由は、彼女に内緒と言われたこともあるが、本当のところはちょっと悔しかったからである。お互いの存在の大きさを、改めて思い知らされたような気がして。だから、このことは光輝だけの秘密だ。別にいいよね、今のままでも充分仲がいいんだから。自分に言い訳をしながら、光輝はその秘密を箱にしまって鍵をかけた。だれにも知られない心の中に。

「ねえ、お父さん。お母さんが帰ってきたら、桜を見に行こうよ」

光輝は何事もなかったように、明るい口調で提案する。

「ああ、そうだな」

千尋は窓の外に目を向け、好天を眺めながら頷いた。

「早くお母さん、帰ってこないかな」

きっと、今日の桜も綺麗だろう。待ちきれないように光輝は呟き、期待に胸を膨らませた。

 

――――桜の下で、君と歩こう。

 

説明
小林千尋×彼女のシリアスな物語。
ダウンロード版同人誌のサンプル(単一作品・全文)です。
B6判 / 186P / \200
http://www.dlsite.com/girls/work/=/product_id/RJ159198.html
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