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やがて夜のとばりが降りてくる夕暮れの公園を、泉水子と深行は並んで歩いていた。

 

昼間は群れたようなひつじ雲が広がっていた青空も今は茜色に染まっている。公園内も、一面の海も。

 

深行の髪がオレンジ色の光できらきら輝いていて、泉水子はそれをぼんやりと眺める。

 

「日が落ちるのが早くなったな」

 

深行が前を向いたまま、独り言のように言った。

 

もうすぐ冬がやってくる。けれども、暗くなってきても、まだ寒くはない。つながれた手はあたたかく、こうして一緒にいるだけで心がぽかぽかしている。

 

「うん」

 

今この瞬間を大切に。泉水子は胸の内で幸せを噛みしめた。

 

 

間もなく2学期の定期考査が始まる。

 

この時期特に大事な試験で、土日も返上して勉強することになっている。しばらくはゆっくり会えなくなるので、今日は深行と少し遠出をした。

 

そして、その楽しい時間もそろそろ終わりだった。駅に向かう足取りが、自然と重くなっていく。自分のためとはいえ、やはりテスト勉強は憂鬱だし、必死に上げた順位を絶対に落としたくないから緊張する。

 

「・・・帰りたくないな」

 

ぽつりと零した不安はしっかりと深行に届いてしまったようで、彼はちらりと横目を向けると、小さくため息を漏らした。

 

小さいころから要領が悪い泉水子は、クラスメートからため息をつかれることが少なくなかった。遊びや体育でのグループ決めなど、泉水子が入ると負けることが多く、ため息を聞くのが怖かった。そのたびにあゆみがかばってくれていたが、やっぱり心苦しくて。

 

深行もよくため息をつくが、それでも怖いとは感じない。泉水子に呆れていても拒絶を含んでいないからだ。

 

『しょうがないやつだな』 『仕方ないだろう』 そんな言葉の代わりに漏らしているだけだと、そう気づいたのはいつからだろうか。

 

駅が見えてきて、泉水子はつながれた手に少しだけ力をこめた。無意識だった。驚いたのか、深行の手が微かにぴくりと震える。けれども深行がそれ以上の反応を見せなかったので、泉水子はホッとした。

 

(深行くんを困らせてはだめだ。しっかりしなくては・・・)

 

紅葉シーズンにはまだ早くても、道端の街路樹は葉を落とし始めていた。

 

秋はひとを寂しい気持ちにさせるのだ。

 

 

乗り込んだ電車はそういう時間帯なのか、ひどく混雑していた。

 

「鈴原。こっちだ」

 

泉水子をドアの横へ誘導し、背の高い深行は手すりをつかむ。ぎゅうぎゅう人や鞄に押されるが、深行は片腕で泉水子を庇い、他の人からわずかながらに距離を作ってくれた。

 

ふいに大きく揺れて、深行にもたれかかってしまう。

 

支えるために泉水子の腰あたりに回った深行の手が、ためらいがちに拳を握った。見上げると彼は流れる景色を眺めていて、包まれていることに安心感が広がっていく。深行のおかげで、人ごみだって平気になった。

 

深行の裾につかまらせてもらい、泉水子はよろけないよう集中した。

 

 

寮までの道のり。テストのこと、クラスメートのこと、ふたりでいろいろなことを話した。いつもどおりだ。

 

男子寮と女子寮の分岐で少し脇にそれ、暗がりのなか木の陰で頬を両手で包まれる。別れ際に唇を重ねるのもいつものこと。

 

の、はずだった。

 

唇が微かにずれた隙間から小さく息を吐くと、さらに深く塞がれた。

 

「んっ ふ・・・」

 

口内を探る、やわらかな熱。小さく声が漏れると、深行の手が泉水子の後頭部に回った。立っているだけで精一杯の泉水子は、支えがほしくて深行の裾をつかんだ。

 

いったいどうしたというのだろう。何度も唇を食まれ、まるで本当に食べられているような気持ちになる。

 

唇も、舌も、思考さえも。

 

軽く音を立てて唇が離れたときには、泉水子の息は上がっていた。ぼんやりした頭で見つめていると、深行は困ったように眉根を寄せた。

 

「俺だって同じだよ」

 

「同じって?」

 

「・・・帰りたくないってこと」

 

急に意識がはっきりしてきて、泉水子は瞬いた。表面上は分からない深行の内心が少し見えた気がした。

 

泉水子からしてみれば羨ましいほど優秀な深行だって、テスト勉強は憂鬱なものなのだ。前回も真響に勝てていないことも大きいのかもしれない。

 

いつも励ましてくれる深行に何か言ってあげたいのに、気の利いた言葉が浮かばない。不甲斐ない気持ちで途方に暮れて・・・泉水子は真夏のことを思い出した。

 

深行や真響と同じ大学を目指すのであれば、赤点を免れるどころか好成績をおさめなければならない。夏休み前のテストのとき、どうにもやる気がおきないと言う真夏に、真響はにんじんをぶら下げたのだ。

 

詳しくは聞いていないが、馬関係のことだと思う。そして真夏は見事順位を上げ、楽しい夏休みを過ごしたようだった。

 

深行にそれが効くかどうかは怪しいが、言ってみるだけなら。

 

「深行くん、いつもありがとう。テストがんばろうね。私、応援しているから」

 

真響の喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、いつも彼女を応援してしまうけれど。今回は深行を励ましたい気持ちで泉水子は息を吸い込んだ。

 

「深行くんが一番をとれたら、ご褒美・・・私あげる」

 

深行の目が驚いたように見開く。

 

『ご褒美』だなどと、子供だましだっただろうか。それともえらそうに思われたのか。急に恥ずかしくなって、泉水子は真っ赤になってうつむいた。

 

言わなければよかったと後悔する。やはり深行には通用しないのだ。冗談だとごまかそうと見上げてみれば、深行は呆けた顔で泉水子を見つめていた。

 

「・・・マジ?」

 

(あれ・・・? 効いた?)

 

何をご褒美にするかは後で考えるとして、とりあえずこくんとひとつうなずく。深行は少しの間じっと泉水子を見つめ、それから手を引いて歩き出した。

 

分岐まで来ると、

 

「1分1秒が惜しいから。じゃあな」

 

足早に男子寮のほうへと去っていった。しばらくその背中を見送る。

 

深行がやる気になってよかった。じわじわ嬉しさが込みあがり、泉水子はほっこりとした気持ちで自分の部屋へ帰った。

 

 

 

その数日後。休み時間に教室で泉水子がテスト勉強をしていると、波多野美優が神妙な顔つきで近づいてきた。

 

「イズー、A組すごいよ。みんな必死になって勉強してるんだけど、何かあったのかな」

 

泉水子は何と言っていいのか分からず、曖昧な笑みを浮かべた。

 

相乗効果とでもいうのだろうか。深行がやる気になったのは大変けっこうなことなのだが、それを見て黙っている真響ではなく。彼女も1分1秒を惜しまず勉強し始めた。寮の自室でも、あれほど勉強をしている真響は今まで見たことがなかった。

 

真響から深行はいったいどうしたのかと聞かれたけれど、泉水子はなんとなく申し訳なくて、答えることができなかったのである。

 

真響の話によれば、高柳も俄然やる気を出しているらしい。そして、それに引っ張られるようにA組は殺伐としだしたようなのだ。

 

重い心を抱え、つっかえながらも泉水子が説明すると、波多野は実に楽しそうに笑った。

 

「恐るべし、イズー。大物! それにしても、けっこう大胆なんだね〜。あ、もちろん、こういうのは女の子から勇気を出しても全然いいことだと思うよ」

 

「えっ 勇気って?」

 

泉水子が聞き返すと、波多野は表情をあらためた。思いのほか真剣な顔で見つめられ、泉水子は息をつめた。ご褒美とは、そんなにも勇気のいる言葉だったのか。

 

「イズー、ひとつ聞くけど。ご褒美って、イズーのことだよね?」

 

「ええと・・・そうだけど」

 

波多野が目に見えてホッとしたので、泉水子も小さく息を吐き出した。

 

「でも、まだ何をあげるか考えていないの。やっぱり本人に聞いてみるのが一番かな」

 

相談できたことで気持ちが少し楽になる。泉水子は波多野に微笑んだ。

 

 

 

のろのろと自室にたどり着き、そっとドアを開けた。

 

すでに真響は帰ってきていて、机に向かっている。静かに部屋へ滑り込むと、真響は振り返ることなく「お帰りー。泉水子ちゃん」と言った。

 

「た・・・ただいま」

 

(どうしよう・・・)

 

あれから呆れ顔の波多野が泉水子に語った言葉は衝撃だった。

 

信じられない。深行が『ご褒美』を『泉水子自身』だと思っているなど、きっと波多野の思い過ごしに違いない。だって、それであんなにもやる気を出すとは到底思えなかった。

 

だけど、もしそのとおりだったら?

 

(真響さんに・・・)

 

真響はノートに書き込みながら、ぶつぶつ言っている。相談なんて、できるわけがない。

 

このままでは自分の勉強が手につかなくなってしまう。深行も真響もがんばっているのに、ここで泉水子が成績を落としたら本末転倒だ。泉水子は頭を振り、ひとまず定期試験に全神経をそそいだ。

 

 

 

* * * * *

 

 

 

こんなにハラハラする発表ははじめてだった。

 

放課後もほとんど私語をすることなく深行と勉強したおかげか、泉水子は順位をまた少し上げることができた。

 

試験結果を持って、生徒会室へ向かう。深行に会うのにこんなに緊張するのはいつ以来だろう。

 

震える手を握り締めて、何度も深呼吸をする。ドアを開けると深行はすでに来ていて、頬杖をついて参考書を読んでいた。

 

「何を突っ立ってるんだ」

 

「あ・・・あのね。順位、少し上がったの」

 

隣に控えめに座り、おずおずと結果を差し出した。それを見て深行の眼差しがやわらぐ。

 

深行くんはどうだった? その一言が出てこなくて。

 

動悸が激しくなって胸が苦しい。固まって動けずに机をひたすら見つめていると、そこに深行の結果を置かれた。

 

1位だった。さすが、と言うべきか。

 

どうしよう。どうしよう。どうしよう。そればかりが頭の中を駆け巡る。もしも泉水子自身がご褒美だとしたら、いったい何をすればいいのだろう。

 

目をぎゅっと閉じてうつむくと、目頭が熱くなった。ふいに引き寄せられて、ぬくもりに包まれる。

 

椅子ではない感覚。目を開けなくても分かる。きっと、膝の上だ。

 

「泉水子」

 

普段とは温度の違う声が泉水子を呼ぶ。優しいけれど、逃がさないだけの力をこめられた腕。逆らえずに、けれどもどうしたらいいのか分からなくて、心臓が壊れそうだった。

 

とうとう涙が零れそうになったとき、頭上でぷっと吹き出す声がした。

 

「泣くなよ、ばか」

 

驚いて顔を上げると深行が苦笑していて、泉水子は急いで目をこすった。

 

「深行くん・・・?」

 

「うっかりその気になりかけたが、鈴原がそんなことを言うわけないよな。どっちにしろ卒業するまでは自重するつもりだけど、そもそもお前は、どういうことかも分かってないだろう」

 

ぽんと頭を撫でられた。大きくて、あたたかい手。よく知っている深行の表情に、泉水子の胸が震えた。少しずつ身体の力が抜けていく。

 

「わ、私・・・深行くんに、がんばってほしくて。それで・・・」

 

「うん」

 

見計らったみたいに深行が目を閉じたので、泉水子は口ごもった。真意が分からず待っていると、

 

「かと言って何もなしじゃ、割に合わないと思わないか?」

 

言われた意味をしばし考え、一気に顔に熱が集まるのが分かった。逃げないよう、左手がしっかりと握られている。

 

泉水子は覚悟を決めた。

 

心を落ち着けるために、大きく息を吸って吐いて・・・そっと唇を触れ合わせた。恥ずかしくて、さらに動悸が激しくなる。包み込まれた手は汗をかいて震えている。

 

(本当に、これでいいのかな・・・)

 

こちらからするのはとても勇気のいることだけど、考えてみればこの行為自体は珍しいことではなく。深行にとって、ちゃんとご褒美になっているのだろうか。泉水子は心配になってきた。

 

「あのう、こんなことでいいの?」

 

 

5秒後、泉水子は聞いたことを後悔することになったのだった。

 

 

 

 

 

終わり

 

 

 

 

深行くんのやる気スイッチを握っている泉水子ちゃん。

起爆・誤爆は予測不可能(笑)

 

ため息ですが、細かい話なんですけど、コミカライズで泉水子ちゃんに九字を教えてあげるときの深行くんのため息(原作では『やれやれ』だったかな)が大変好きです。

 

 

本日も閲覧ありがとうございました!

 

 

説明
RDG6巻後。
時系列は高2の秋です。
毎度の妄想捏造ですがよろしくお願いします。
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