夜光花
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 新月の夜は、大きな反射鏡のごとき月の影響がないぶん星々は冴える。

 しかし、その輝きははるか彼方にあり、おまけにこのあたりは湿度が高いためか、目に届く光点はどこかぼんやりとしていた。

 町から少し離れたところにある川。その土手に陣取って三脚を立て、待つことしばし。

 蒸し暑さから体中汗ばんでいるが、時折清流に沿うように吹き抜ける風は涼やかで、居心地の悪さを幾分やわらげてくれた。

 目を閉じて深く息を吸い込む。

 周囲を覆い尽くすように群生している雑草が発する、塊のような植物の濃いニオイに、胸がつかえそうになった。太陽が中天から見下ろす昼間であれば、むっとした草いきれに辟易していたところであろうが、この時間帯ならばまだマシだ。

 水の流れる音や虫たちの声、細い道を挟んですぐ背後に控える林のざわめき。時折聞こえる鳥の鳴き声まで、いつもなら雑音でしかないものが意識を集中することによって、まるでまとまりのあるひとつの音楽のように聞こえてきた。

 

 ここを訪れたのは、先日町の酒場でひとつの噂を耳にしたからだった。

 その酔客たちは、カウンター席に座る私のちょうど後ろのテーブルに陣取っていた。にぎやかな店内に負けじと声を張り上げてしゃべる男たちの中に、不思議なことを言い出す者がいた。

「あれは去年の今頃だったか。南の川沿いを歩いているときに光る花を見たぜ」

 男の発言に仲間たちは意表を突かれたような表情を浮かべ、互いに顔を見合わせたかと思うと次の瞬間には大笑と変じていた。

「まーた始まったぞ。いつもの悪い癖が」

「嘘じゃねえ!」

 ムキになる男に、仲間の一人が冷静な態度で現実を突きつけた。

「でも夜中になってから一緒に見に行ったけどそんな花どこにもなかったろ」

「俺はたしかに見たんだ。間違いねえっ!」

 声を荒らげる男をすかすように別のひとりが詳しい場所を尋たので、私も耳をそばだてた。

 聞けばここから少し離れてはいるものの、わりとすぐに行ける場所であった。

「とにかくおまえらも一度見に行ってみればわかる!」

「けどそんなものなかったって言うじゃねえか。おめえ酔って幻でも見たんじゃねえか?」

「なんだと、この野郎っ!」

 誰かが揶揄するように言うと、酒の勢いかもともと喧嘩っ早い性格だったのか、男はいまにもそばにいた者につかみかかりそうな勢いで立ち上がった。

 剣呑な雰囲気に他の男たちの目つきも鋭く変わった。一触即発の空気を漂わせる。

 とげとげしい気配を敏感に察したのか、酒場の主があわててカウンターから飛び出し、間に割って入った。なんとかなだめるのを横目に、私は頭の中ですでにその「光る花」を探す計画を立て始めていた。

 酔っ払いの与太話という可能性ももちろんある。しかし、もし実在したらそれをカメラにおさめたくなるのが写真家の性というものだ。まだ見たことのないものに対する興味が尽きることはない。

 

 日が落ちて一時間ほど経つ。

 目はすっかり闇に慣れてしまった。

 身の安全を確保するなら灯火のひとつも用意するべきだが、もし光る花の出現に支障が出たとしたら元も子もない。このままじっとしているよりほかにないのだ。

 いつしか空は曇り始めたようで、淡い星明りさえ見えなくなった。風もやみ、ただ重苦しいばかりの夜の空気に身を委ねるしかなかった。

 ジワリと額ににじむ汗を手の甲で拭いながら待つうちに、ひとつの小さな光点がぽっと現れた。強く輝くわけではない。柔らかな光は一定の周期で明滅を繰り返す。と、それに呼応するかのように、ひとつ、ふたつと光の点が数を増していき、気がつけば私の周りを取り囲んでいた。

 この光は――蛍だ。

 いつの間にこれだけの数がすぐそばまで寄ってきたのだろうか。

 蛍たちはふらりふらりと相手を探しながら不規則に飛び交い、あるいは草木に羽を休めつつ、冷たくも温かな光を発していた。

 私は彼ら彼女らを驚かさぬようそっとファインダーを覗きこんだ。露出時間を長く設定して撮影する。これで、失敗していない限りはその光跡も捉えることができるだろう。

 求愛の舞は華やかに、しかしけっしてうるさく飛び回ることもなく、ただ本能のままに続けられた。

 小半時もたった頃だろうか。撮影に夢中になっていた私はふと、二つの光が重なるようにひとつ所にとどまっていることに気付いた。

 その光はほかと違いどこかぼんやりとしていて、且つ暗闇の中にある輪郭を浮かび上がらせていた。

「ホタルブクロか」

 思わず呟いた私は、そっとそばまで近づいてみた。

 明滅が繰り返されるたびに釣鐘状の花がランプよろしく姿を現しては消える。花冠の色が白いので、黄緑色の光をさらに薄くしたようなやさしい明るさを帯びていた。

 光る花の正体はこれだったのか。

 それにしても珍しいこともあるものだ。人為的に花の中に蛍を入れるならともかく、蛍が自ら入るなど偶発的なことであってそうそうお目にかかれない。まして二匹一緒にともなると、確率的にはごく低くなる。

 珍事に興奮を抑えきれず、シャッターボタンを押す指にも力が入った。

 しかし、それが珍しいことであるという認識も、あくまで私の主観でしかない。

 ここの「蛍」には――いや「蛍たち」にはごく当然のことなのだろう。

 そこではいまだ私が見たこともない光景が繰り広げられていた。

 こちらの感動などおかまいなしに、他の蛍たちも次から次につがいになってはホタルブクロに入っていく。まるでそこが新しい夫婦の閨とでもいうように。

 

 私はしばしの間言葉もなくたたずんだ。自分の意識が体から離れ、何か高次の存在に成り代わったような不思議な感覚に見舞われていた。

 微光をこぼしながら、闇の中にぼぅと浮かび上がっては消えることを繰り返す。そんな命の燈火の数々を目の当たりにして、なぜだか時間の流れが著しくゆったりと過ぎていくように感じられた――

 

 

説明
2014年1月17日作。夜光花(やこうか)=造語。偽らざる物語。
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偽らざる物語 写真 夜光花 オリジナル カメラ 大人の童話 掌編   

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