Essentia Vol.7「車輪」
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空になったプラスチック容器をもてあそび、自転車を押す彼のペースに合わせて歩く。

黄金の光に覆われた地平線は、今日という日を賛美するかのように眩むほどの強さで耀いていた。

 

(とてもいい日だった)

 

その余韻が心地いい。

 

彼女を送り届けた私たちは一度来た道をターンし、また同じようにして歩き出す。

車輪がアスファルトを転がるたびに、哀愁を誘うような軋みが聞こえるような気がした。

 

「今日は無理言ってすみませんでした。」

「無理だなんて、そんなことありませんよ。気心知れた人と過ごす時間は、やっぱり楽しかった。」

 

結城くんの計らいで偶然を装い、彼女と顔を合わせたまではよかったけれど、その後のことはもういっそ天に任せるよりほかになかった。

これ以上ないほど緊張したし、不安にも思った。

彼女に不信感を持たれたらどうしよう。嫌われたらおしまいだ、と。

そういう様々な不安要素が積み重なり、彼からの提案に最初は乗り気ではなかった私だ。

臆病風に吹かれ、決断しかねていたところに、彼が脅かすようなことを言ったのは昨日のこと――

 

「((星|ひかり))が他の男に盗られてもいいんですか?」

「他の男といるのを黙って見ていられますか?」

 

(とても無理だ)

 

誰かに託したいと思ったことは一度あったけど、諦めて手放すことの傷みは、もう二度と味わいたくないと思った。

 

(むずかしく考える必要はない)

(出会った頃を思い出せばいいのだから)

 

島原大門で出会ったとき、彼女は私を見て警戒心をあらわにしていた。

 

(今思えば、あの頃の出会いは散々だったな)

 

暗がりから声をかけた私に身を竦ませた彼女は、見るからに動揺していた。最初は抜け足でもするのかと思い心配して声をかけてみただけだったが、放っておいてほしいというような彼女の態度はとても冷たいものだった。

不信感を映した瞳、棘のある物言い、踏み込むことを許さない距離感。そのどれもが、私という人間のすべてを拒んでいるのだと思った。そんなのはもう慣れっこだ。いつものようにそう自分に言い聞かせてはみたけれど、慣れているとは言いつつも自分の好意が悪意のように受け取られてしまう現実が悲しかった。

 

(あのときの苦い経験があるからこそ、今度は柔軟にふるまえるような気がする)

 

気負わずに自分という人間を表現すればいい。焦らずに、ゆっくりと。

そう思いながらもぎこちなく言葉を重ねるうち、星さんは徐々に打ち解けてくれ、自然な笑顔を見せてくれるようになった。

まだ距離は感じられるけれど、根気よく回数を重ねればきっと自分にも慣れてくれることだろう。そして、いずれはあの頃のように自然なつき合いがしたいと思っている。今日という日をそのスタートにしようときっかけをくれたのが、結城くんだった。

 

(この日をどれだけ夢見たことか)

 

この世界に来てからあてどもなく彼女を探しまわった。目印も方向もわからずに、迷路のように出口の見えなかった毎日。いつ終わるのだろう。どうしたら報われるのだろうと途方に暮れていた日々と、ついに決別をするときが来たのだ。

 

「あまり喋れなかったけれど、それでも私は満足です。とてもうれしかった。」

 

彼女とともにいられた時間は数時間だ。その間に交わした言葉はほんのわずか。それでも私は自分の意義というものを、ようやく見つけられた気がしてうれしかった。

 

「星のやつ。本当は言いたいことがあったはずなのに、何だか我慢してるみたいだったな。顔に出てたんですよ。もう少し沖田さんに慣れてくれるといいんだけど。いつもなら人見知りはしないはずなんですけど、沖田さんの前だと変に猫かぶってるみたいなんですよね。」

「あはは。どんなにすました顔をしていても、私は星さんの素顔を知ってるんですけどね。」

「それ聞かせてやりたいですね。それで、どんどん自分をさらけ出していってほしい。少しずつでもいいから、思い出してくれるといいんですけど…」

 

(それは私も望むところではあるけれど)

(果たして、それは可能なんだろうか?)

 

決して声にはしないが、そんな疑問がずっと頭の中を占めている。

いざ彼女と話をしてみて手ごたえのようなものを感じなかったのが、そう思わせる要因のひとつだった。

 

(何か思い出すきっかけがあればいいんだけど…)

 

投扇興すら忘れている彼女に、一体どんなきっかけを与えれば思い出すというのだろう。今の私たちには究極の難問だった。

 

「そのことなんですけどね、急ぐ必要はないんじゃないかな。」

 

のほほんとした口調に結城くんは驚いていたけれど、少し考え込んだ後に「そうですね」と思い直したかのような同意を示してくれた。それが本心からの同意であったのかどうかはわからない。本当は手がかりさえ掴めずにいることを、深刻化したくないだけかもしれなかった。

おそらく私たちの頭の片隅には、同じ不安が浮かんでいることだろう。

 

もし、このまま戻らないのだとしたら――

 

それは声に出してはいけない言葉になっていた。わざわざ確認し合ったわけでもなかったが、少なくとも私の中では禁句となっている。それを一度でも口にしてしまえば、そういう現実が起こったときに認めなければならなくなるような気がして言えないのだ。彼もまた私の気持ちを察したように、あえてそれを口に出さないでいてくれる。

最悪の結末を受け止める用意は、まだお互いにできていないのかもしれなかった。

 

「つらくはないんですか? 出会いからやり直なきゃならないなんて…」

 

今まで築いてきたものを突き崩される瞬間というのは、想像するよりずっと呆気なく終わるものだ。

そこを引きずるか否かで、心の再生能力は違ってくると思う。私は引きずるタイプの人間だった。

 

「つらくないと言えば嘘になるけど、でも、出会いから始めることについては、そんなに苦じゃないんです。」

 

彼女を永遠に失ったわけじゃない。そう思えば、再起を図るのには十分すぎるほどだった。

 

「幸い、今の自分には、科せられたものというのがない。だから、焦らずともゆっくり進んで行こうと思っています。」

 

それは誓いの言葉であり、決意でもあった。私と彼女の二度目の出会い。それは糸の結び目のように固く繋がり、明日へと伸びていく。一本に繋がった糸の切れ端は、果たしてどこまでつながっているのだろうか。今はまだよくわからなかった。

 

「俺、考えたんですけど、自分たちがあの時代に飛ばされたきっかけがカメラであったように、記憶がなくなったのも何か象徴的なもの…というか、はっきりとこれというようなものが原因になってる気がするんですよね。自分にはそれが何かはわからないですけど…。」

 

あなたなら何か心当たりがあるんじゃないか。探るような、祈るような、どっちともいえない複雑な目をして、結城くんは私の答えを待っていた。事情を知らない人間が聞けば当てずっぽうのように無責任だったけれど、彼の言う仮説がでたらめなんかじゃないことくらい私には痛いほどよくわかっていた。

 

(言うべきか、言わざるべきか)

 

そんな観念的なことを白状したからと言って、彼は素直に聞き入れてくれるのだろうか。まだ高校生だからといっても、情に流されるような年齢ではないことくらい私にもわかっている。ならば、なおのこと言うべきではないのかもしれない。

そう考えた私は、引き続き言わないでおくことにした。

 

「たしかに、理に適った考えだとは思います。でもね、昨日も言ったようにこれだという確信が持てない。どんな些細なことであったとしても、疑わしいと思うことのすべてが彼女の記憶に関係するのかもしれないと思ってしまうんですよ。それをいちいち検証していたら、きりがない。まぁ、やってやれないこともないけど、きっと私がおじいさんになってしまうでしょうね。」

 

今まさに私が気に病んでいる「観念的なこと」をあえて仮説から外してみたとする。そうすると、残る可能性もまたとてもシンプルだった。

カメラのシャッターが時間に干渉を与えたように、記憶も同じ原理で干渉を受けたと考えられなくもない。だとすれば、何が彼女の記憶に干渉したのだろうか。やはり、物理的な何かだろうか。

 

(物理的なことだと決めつけるのにはまだ早いかもしれない)

(物理的な干渉があったのではなく、フラッシュを浴びたときの条件が悪かったのかもしれないな)

(そのせいですべてを元通りに再現することができなかったのかもしれない)

 

結城くんもところどころ記憶があやふやだと言っていたし、こっちに戻ってからの二人に共通する異変を洗い出して、もっといろんな可能性を検証してみる必要がありそうだと思った。

記憶は時間との因果関係もあることだし、もっと難しく考えるのならば、干渉によってどこか別の空間へ流出したということも考えられるだろう。

 

(そこまで途方もない話でなけりゃいいけど…)

 

「そうですか…沖田さんなら、何か手がかりを持ってるんじゃないかと思ったんですけど…」

 

結城くんががっかりするのも無理はなかった。わざわざ回りくどいやり方で彼女を誘い出し、私のために根回しまでしてくれたというのに、私はその望みに応えることができないのだ。

 

(私が願ったりしたから、こんなことになったんだろうか?)

 

それを知るための術は今のところ見えてこない。

すべての物事に原因と結果がある世界で、彼女が記憶を失った原因がなんなのか、私がこの世界へ飛ばされた本当の理由とは何か、まったく繋がりのない二つがどこかで繋がっているような気がするけれど、それがなんなのかははっきりと見えてこなかった。

 

(そもそも私は何をきっかけにしてこっちの世界に来たんだろうか?)

 

きっかけもなしに時代を超えることなどできるのだろうか。

たとえば、思いだけで時代を飛び越えることができたなら、きっと多くの人間があちこちに散らばっていることだろう。

それはとても素敵なことのように思われるが、いくら思いが強かったとしても、肉体を纏う以上は理論的にも不可能だった。

 

(二人が幕末へ飛ばされた原因ははっきりしているのに、私がこちらへ飛ばされることになった原因はまだ明らかになっていない)

 

そうして理を突き詰めていくと、自分がこの世界でどう存在するかが証明できないことに気づく。

 

(もしかして、この世界は本物ではない?)

 

再び生を取り戻したというこの素晴らしい感覚でさえ、自分が創り出した錯覚なのかもしれないと思うと、全身が総毛立つように寒くなった。もしもそれがこの世界の正体だったとすれば、私は存在しないものの前に悩み、心を痛め、さまよっていたことになる。

 

「これはあくまで推測だと思って聞いてほしいんですけど…」

 

そう前置きをした結城くんは、自信がなさそうに下を向いていた。

それは、さも私の不安が具現化したかのように見え、自分の感情の波形がこの世界に影響を及ぼしているのではないかとさえ思えた。

 

「もしかしたら、ヒントになるものを俺が持ってるかもしれない。」

 

私は、何気なく言い放ったその言葉の意味をすぐには拾うことができなかった。昨日と今日をかけて散々悩んだというのに、今さら種明かしとは人が悪い。どうしてもっと早くに言ってくれないのか。そう責めるのは簡単だったが、こちらを振り返る瞳の奥がまたしても期待と不安で揺れているのを見て、私はそのまま口を噤むことにした。

 

「とにかく、沖田さんに実物を見てもらいたいんです。それで判断しましょう。」

 

アスファルトに伸びた車輪の影が、運命の歯車のように横たわり、夕染の中に暗く沈んでいる。

手探りの私が進むべき道は、果たして日向の道だろうか、それとも茨のごとき獣道だろうか。それは、彼の手のうちにあるものにかかっていた。

説明
2016.12.9大幅修正と加筆しました。
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艶が〜る,沖田総司,結城翔太,現代,長編

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