Essentia Vol.9「眠る蝶は洛陽の夢を見るか」
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 『今日午前3時頃、東京都◯◯区で火災がありました。地元の消防によりますと、出火元は…』

 

(また火事か…)

 

ダラリと四肢を広げながら、薄べったくなりつつある布団に倒れこむ。

顔だけを画面の方へ向けて、神妙に伝えていくキャスターの声に耳を傾けていた。

 

 『…連続放火犯の可能性もあるとして、警察は捜査を進めています。』

 

(…やっぱりそうか)

 

ここ何カ月かのうちに、放火とおぼしき火災が立て続けに発生していた。

火事が起こりやすい季節でもないのに、発火場所の原因を特定できない火災が、23区内だけで10件以上にものぼる。そのうちの何件かは、ボヤ騒ぎだけで済んだからよかったものを。

 

(一体いつまで続くんだろう?)

 

火災というと、たいていは乾燥する冬場に起こりやすいものだが、今年の気候は妙なもので、気象条件によってはときどき乾燥する日があった。

 

まさしく、放火魔にとって好条件である。

 

(快楽を得るために、見ず知らずの家に火を放つなんて…)

 

こちらの世界では、いくら理屈で考えてもわからないことが多かった。

それらの多くは、人の妬みや嫉みに代表される心の闇。

回りくどいやり方で他人を傷つけ、残酷な手法で世の中を震え上がらせるのだ。

 

(心配だな)

 

実を言うと、署内も不穏な空気に包まれていた。

午前中に書類の整理をしている最中、消防隊の人たちが話しているのを小耳に挟んだのだけど、犯罪行動分析官が次のターゲットになりうるエリアを導き出したという。

それが、私たちの管轄なのだ。

 

今朝のミーティングでも、「日頃から気を引き締めておくように」と署長の訓示があったばかりで、皆が気を引き締めて警戒しているのがわかる。

 

正式に発表されていない未確認の情報によると、どうやら犯人は一人ではないらしい。

放火が始まった頃に狙われていた場所は、規則性もなく犯人の衝動性が顕著だったけれど、しばらくしてボヤ程度の火災が発生するようになった頃、発生場所に規則性が表れるようになったというのだ。

つまり、犯人は少なくとも二人以上だということになる。

初期の放火犯と追従する放火犯に接点はなく、二番手が一番手を真似ることで連鎖が始まったというのが、専門家の見解らしいのだが。

 

(何にせよ、早く捕まえてほしい)

 

万が一分析どおりのことが起こったとしても、消防車を出動させて火事を消し止めることしか私たちにはできないだろう。

報道では事実として明確に「放火」だと結論づけている以上、地域住民の不安が解消される方法というのは、犯人の逮捕をおいて他にはなかった。

 

(((星|ひかり))さんは大丈夫かな…)

 

もうすぐ夏休みに入ろうという頃で、こんな時節に火事があることの不可解さは、私の心をますます落ち着かなくさせる。

 

(どうか星さんが無事でありますように…)

 

人目につかぬようにと、引き出しの中にしまってあった蝶を取り出し、願掛けでもするように額へ当てて軽く目を閉じた。労わるように包み込みながら胸に引き寄せる。

 

(どんなときも笑っていてほしい)

 

まだ新造だった頃の彼女を思い、蝶を抱いて眠ることが多くなった。非番と休日の間は、これが日課となっている。

日頃の疲れがたまっているのかすぐに瞼が重くなり、心地よさに私はうとうとし始める。

眠りに落ちるか落ちないかの境目で、瞼の裏いっぱいに京を焼く炎が勢い迫り、轟々と音を速め私に襲いかかった。

 

 

―――― ッ!!

 

 

カッと目を見開くと、天井のパトライトがグルグルと回転し、出動の合図を繰り返し送っているのが見えた。次いで、アナウンスが流れると頭のもやがさっと取り払われていく。

 

「火災発生、火災発生。これは訓練ではない。繰り返す。火災発生。ただちに現場へ急行せよ。」

 

(出動か)

 

ベッドから跳ね起きた私は、その拍子に手の中の違和感に気づいてしまった。

悪夢に慄いて体が硬直していたらしく、無意識に握りしめた手のひらには、よれた蝶が疲弊したようにぐったりと身を縮めている。両端に垂れ下がる鈴のうちのひとつが、どこか行方知れずになっているのに気づいたときには、指先がそれを求めて必死にさまよっていた。

 

(…鈴が!)

 

頭の後ろがさんざめいて、それとは裏腹にすうっと血の気が引いていく。天井はうるさいし、鈴は見つからないしで大混乱に陥っていた私は、もう何をどうしたらいいのかわからなくて手ばかりが焦っていた。手当たり次第に周囲をさらっていると、それは最初からそこにあったかのように枕の隅に転がっている。

単に寝ぼけていただけじゃないかと苦笑いをせずにはいられなかった。

 

(よかった…失くしてない)

 

二度と失くしたりするもんかと慎重に掬い上げ、本体と一緒に机の上へ横たえた。

戻ってきたら修復しようとは思ったけれど、鈴が取れて不完全になった蝶を見つめていると、なんとなく心がざわめくようで落ち着かない気持ちになる。

 

(どれかひとつが欠けても駄目なんだ)

 

鈴だけが切り離されている状態が、ひどく心もとないような気がしてくるのだ。そもそもの違和感は、たぶん切り離されているという状態のことを差しているのだろう。だったら、ひとまとめにして持ち歩くしかない。それが一番安心できる手だてだ。

 

(でも、蝶を丸ごと持ち歩くのもまた不安だ)

 

結城くんがせっかく預けてくれたというのに、失くしてしまったとすれば本末転倒だ。

ここは、やはりとれてしまった鈴だけを持ち歩く方が懸命だろう。万が一失くしたとしても、代用がきく。

私はこの差し迫った状況のなか、思いつくままにハンカチを取り出して鈴を包み、角と角を縒り上げて結び目をつくった。

蝶は元の引き出しにしまい、即興でつくった包みの方をズボンのポケットへと用心深く忍ばせる。

 

「よし。できた。」

 

こうして身支度を終えた私は、一抹の不安を抱えつつ署まで急いだのだった。

 

表に隊列を見つけた私は、相方であるもう一人の救命士の隣に並んだ。

当直と非番の隊員が一堂に会し、場は異様な空気に包まれている。

 

リークされた情報が現実のものとなって、みんなの顔つきがいつも以上に険しいのだ。

 

「木造二階建ての家屋で火災が発生。住人のうち一人は買い物に出ていて、無事が確認されている。もう一人は世帯主で、脚が不自由なため屋内に取り残されているものと見られている。」

 

通報を受けた事務方から、現場の内容が伝えられた。

いつもならここで出動となるが、まだ続きがあった。

 

「地元の消防団が消火を試みようとしたところ、ホースのノズルが盗まれていることが判明し、火災鎮圧には至っていない。以上です。」

 

(ここら一帯もやられたのか)

 

近頃、自治体で管理しているホース格納箱から、ノズルが盗まれるという事件が多発していた。

なぜそんなものを盗むのかというと、真鍮と銅でできているノズルが、金属加工業者に流れ、それで利を得ている者がいるからだった。

放火との因果関係はないと思いたいが、事件が並行して起こっていることもあり、警察、消防ともに煮え湯を飲まされているのが現状だ。

 

(自分の利益のためだったら、他人の命が危うくなっても知らん顔をするつもりなのか)

 

込み上げてくる怒りに臓物が煮えくりかえるが、今はそんな正義感に燃えているときではない。

 

「消防隊、救急隊、ただちに出動!」

 

当直の消防隊が防火服をまとい、呼吸器の簡易チェックをしながら、駆け足で消防車へと乗り込んでいく。備品のチェックや車の点検は、午前中のうちに終わっているため、速やかな行動が現場の状況を左右する。

独特のけたたましいサイレンを鳴らしながら、署を出た消防車が一般道を走る。後続に私たちの救急車が続いた。

 

「現場は◯◯地区。交通には十分気をつけるように。」

 

無線機から流れ出る簡潔な声は、救急車の後ろまでやけに馬鹿でかく聞こえた。

 

午後一番の陽射しが注ぐなか、現場に到着した私たちを待っていたのは、焦りと恐怖を浮かべた人々の顔だった。

悲鳴や怒号をかきわけて、消防隊がきびきびと動き回る。ホースの担当者が先端を火の元へ向けて放水を始めたが、建物の半分以上が炎に包まれていて、黒く焼け焦げた屋内からはもくもくと不気味な黒煙が上がっていた。初夏の澄みきった青空が、たちまち黒い雲に汚されていく。

 

(これはひどい…)

 

わあわあと悲嘆の声が湧く中で、佇む私の腕を強引に掴む者がいた。驚いて振り返ると、とりすがるような貌をしているお年寄りが、半ば崩れそうに私にもたれかかっていた。

 

「どうにかして救い出したんだ! すぐに運んでやってくれ!」

 

その訴えを聴いて、屋内で取り残された人はもういないんだとわかった。

 

「わかりました。案内してもらえますか?」

 

そのお年寄りに突き動かされて怪我人の手当を試みようとするが、そのお年寄りをまじまじと見れば、額やこめかみに薄っすらと血の跡がついているのが見えた。おそらく、窓ガラスを割って救出を試みたのだろう。細かいガラス片が、法被の襟首から肩にかけて光っている。自分のことなどまるで無頓着なその人も、明らかに手当が必要だった。

 

(消防団の人だな)

 

とりあえず、救い出したという怪我人の搬送が先なので、お年寄りの手当ては後回しにさせてもらい、先に家主の容態を確かめることにした。

手招きされた場所へ駆けつけてみると、タオルケットにくるまれたお年寄りが身動きひとつせず地べたに座っていた。瞬きを忘れたように生気を失った顔で、ただ一点だけを見つめているのは見ていてかわいそうになる。きっと怖い思いをしたんだろう。

その隣では、たまたま火事を免れたというもう一人の家人――奥さんだろうか。同じように、燃え落ちていく自宅を、泪に濡れた瞳で見つめている。

救出されたというご主人は、煤で顔が汚れており、裸足の足にはガラス片が刺さっていた。そのままにしておけば、敗血症になるおそれがある。

 

「怪我をしていますね。病院で手当てを受けてください。気分は悪くないですか? 頭がくらくらしたりは?」

 

ご主人のそばにしゃがみ込んで二、三質問をしてみるけれど、残念ながら反応はなかった。

念のために脈をとってみたが、脈拍に異常はみられない。つまり、重篤な症状には至っていない。

 

(精神的なダメージはあるにせよ、怪我の治療だけで済みそうだな)

 

「立てますか?」

 

声がけをして肩に腕を回そうとしたけれど、四肢が脱力しているのか一向に持ち上がらなかった。いったん腕を外し、救急車へ戻って車椅子を持ってこようと思ったら、消防団のおじいさんが発破をかけるように身を乗り出しているのが見えた。

 

「しっかりしろよ! 正臣さんよぉ!」

 

私をここに連れてきたお年寄りは、彼の知人なのか、叱咤激励するように声を荒くしている。

その叫びに反応したのか、ご主人はゆっくりと顔だけを動かし、私の双眼をとらえた。

 

「猫が…」

「なんです?」

「市松がまだ中にいるんだ…助けねえと…」

 

振り絞るような声は震え、語尾がかすれていた。咄嗟に掴まれた腕に、五指の食い込むような力が込められていく。

わずかに残された精神力で、私に助けを求めるご主人をよそに、彼の知人は苦虫を噛み潰したような顔をして、苛立たしげに舌打ちをした。

 

「猫なら逃げてるさ!」

 

ご主人の横で言葉もなく立ち竦んでいた奥さんが、ひどく傷つけられたように顔を覆い隠し、すぐに啜り泣きを始めてしまった。それにつられたのか、ご主人も額を地面にこすりつけて絶望をあらわにしている。

 

「市松は俺の相棒なんだ…11年も連れ添ったんだ…今も家のなかに……ううっ」

 

途切れ途切れにそう呟いて、ご主人はついに嗚咽を上げて泣き出してしまった。

 

(弱ったな…)

 

人間が取り残されているというのならまだしも、猫一匹となると助け出すのは難しい。逃げ後れたのが人間だったなら消防隊も血眼になって捜してくれるだろうけど、助け出そうとしているのが動物だとわかれば途端に匙を投げてしまうだろう。たとえ動物であったとしても、命の重さに区別などはない。平等であるはずだ。でも、人間の命を優先し、いざというときは動物の命が軽んじられてしまう。それが社会を営むうえで人間が導き出した現実だった。

しかし、人間は情の生き物であることもまた事実だ。情で動くことこそが、人間らしさの象徴のような気さえする。

 

「どんな猫なんです? 色は? 特徴的な模様がある?」

 

しゃくりあげる背中をさすりながら、飼い猫の特徴を聞き出そうとした私だったけれど、二人とも泣くばかりで埒があかなかった。見かねてあのお年寄りを振り仰ぐと、その人はフンッと鼻を鳴らしながら不承不承といったふうに口を開く。

 

「真っ黒い猫だよ。赤い首輪に鈴がついてるから、動けばすぐにそれとわかるだろうよ。」

 

いかにも小憎らしいといった口調で言い、それっきりそのお年寄りは喋ることを止めて口をつぐんでしまった。猫なんぞ諦めてしまえ、という顔だ。

 

「わかりました。消防に掛け合ってみます。」

 

確かなことが約束できないかぎり、こういった場合には期待を持たせてはいけないと思う。

だから、私はただ伝言だけを持って、一時その場を離れることにした。

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艶が〜る,沖田総司,結城翔太,現代,長編

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