Aufrecht Vol.4 「錠前と鍵」
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いつものように前庭の見渡せる縁にくつろいでいると、パタパタと雪駄の鳴る音が聞こえてくる。

 

「これこれ。そっちに行っては行けませんよ。」

 

土間口の方から、子どもを諭すような声がした。口の聞き方が乱暴であったり、形式ばった物の言い方が定着しているだけに、その声は意外なところで安心感をもたらしてくれる。ひょろりと伸びる白い手足が、子どもよりも小さい何かを追いかけて、犬かきをするみたいに宙をさまよっていた。

 

(緊張感のない人もいるんだなぁ)

 

ここのところ、隊士たちの間でさかんに交わされている国政への議論が、熱を帯びているように思う。前の攘夷戦で弱っているところを好機と見る向きもあり、いますぐ追討兵を差し向けるべきだと説く者や、諸藩と足並みをそろえ軍備を十分に整えたうえで進軍すべきだと主張する者もいる。議論には加わらないが、肚の底では長州に同情を寄せている者もいることだろう。禁門の変がもたらした影響というのは、計り知れないものがある。

 

(この人は、今度の戦に思うところがないのかな?)

 

なんとなく浮いた存在に思えて、俄然、彼のことが気になってしまった。

色の白い瓜実顔は素地の良さをうかがわせ、物腰の柔らかさも手伝ってか学者のようにも見える人――たしか彼の名は、尾形さんと言ったはずだ。

私と同じく副長助勤の人だったが、あまり接点もなかったし、言葉を交わした記憶も残っていないから、その印象も薄かった。

彼にまつわるエピソードがないのにも関わらず、なぜこうも気になってしまうのかといえば、戊辰戦争を経験しながらも、新選組のわずかな生き残りとして文献に名を刻んでいるからだった。一見どこにでもいそうなお人好しに思えるのだけど、後方で土方さんを支えた古参として私の好奇心をそそる人でもある。

 

(それにしても、暢気な人だな)

 

こんなに殺伐とした屋敷の中で、稽古もせず、武具の手入れにも食指が動かない人というのは珍しい。普通は周囲に溶け込もうと必死になって、意思とは関係なく足並みを揃えるものだ。それが、組織に下る者のさだめでもあるのだが。

 

(土方さんが買っていた人物だもの)

 

剣の腕はさほどでもないが、学問が優れているために、武で物を言う新選組にとっては希少価値の高い人物といえる。

のほほんとしているようでいて、実は鋭い洞察力を兼ね備えており、冴えた物言いをするのだと土方さんが褒めていた。

土方さんが特定の誰かを名指しで褒めるのも珍しいけれど、それに輪をかけて絶賛しているのが近藤さんだった。

近頃の近藤さんは、学識のある者を眩しいという目で見ていることが多い。

尾形さんもその例に洩れず、近藤さんがやたら重宝がっているうちのひとりだった。

近藤さんにしろ土方さんにしろ、藩人の前に出しても恥ずかしくない公用向きの隊士を求めていたのは事実で、まさしくそれにピタリと当てはまるのが尾形さんだったのだろう。

要するに、言葉は悪いけれど「使える人間」の枠組に目でたく収まっている人物だった。

 

(近藤さんは惚れっぽいから仕方ないにしても、土方さんに気に入られる人間なんて、数えるほどしかいないのにな)

 

今までに土方さんを唸らせた相手といえば、そのほとんどが入隊試験で実力を見せた猛者ばかりだ。

ところが、尾形さんはこれといった武功を立ててはいない。

それなのに、副長のお墨付きをいただくとはたいしたものだとは思わないか。

 

(面を突き合わせて話したことがないからなぁ)

 

この機会に、彼と話をしてみるのもいいかもしれないと思った。

 

(てんでなってないけど…)

 

猫を捕まえることくらい造作もないことなのに、尾形さんは若い娘さんを追い回すような情けない格好になっている。

 

(遊ばれてる…)

 

猫の面構えがどんなだかは知らないが、捕まらないことをいいことに、得意げになっているようだ。

ぽつぽつと点在する草むらを盾に、ピンとそり立つ黒いしっぽが不規則に移動しながらも俊敏な動きを続けていた。なめらかで滞りのない動きは、頭の良さをうかがわせる。まるで、追跡を撹乱しようとしているかのようだ。

 

(私が捕まえた方が早いかも)

 

手を貸すべきかどうか考えあぐねていると、「アズキちゃんだ!」と、長屋門の方から明るい声がこだました。

声の方を辿っていくと、そこには見目も鮮やかな彼女の姿があった。

季節を思わせる小袖には、自在に飛び回る赤とんぼが散らしてある。この時代では子どもっぽいと揶揄されるだろうけど、彼女が身につけるととてもそんなふうには見えなかった。何より、とんぼというのは験を担ぐ意味でも縁起がいい。ひょっとすると、彼女は意図的に選んだのかもしれないとも思った。

 

「星さん?」

 

待つのも惜しくて声をかけると、草履を打ち鳴らす小気味よい音が、パタパタとこちらへ近づいてくる。

 

「こんにちは。沖田さん。」

 

声をかけられて一瞬立ち止まったはいいけれど、彼女の足はどういうわけか尾形さんの方へ向いている。

 

(私より猫を選んだんですね…)

 

がっくりと肩を落としかけて、それでもまあ仕方ないかと思い直し、沓脱石に揃えてある下駄を手を取った。鼻緒をつまみながら、彼女の姿を目だけで追う。

お気に入りのものを見つけたみたいにはしゃぐ彼女は、いつになく天真爛漫で、その素顔に驚いた尾形さんは手も足もだらりとして立ちすくんでいる。それすらも眼中にないのか、彼女はしゃがみ込んで猫に夢中だ。

その様子を微笑ましく見つめていた私も、遅ればせながら高下駄に指を通し、ようやく庭へと降りて行った。

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(知ってる猫なのかな?)

 

長着のまんま彼らに近づいていった私は、そこで初めて猫の面構えを確認し、後ろ背を蹴飛ばされたような感覚になった。

へつらうように地面へ伏せていたのが、黒猫だったからだ。

 

(なんだか嫌な予感がする…)

 

死を迎えるときも、火事で意識を失うときも、私の近くには決まって黒猫が現れた。どういうわけか、今も目の前にいる。ただの偶然なんだろうか。それとも作為的なことなんだろうか。

 

(確かなことはわからないけど…でも…)

 

その疑問を検証するためには、またどこかの時間へ飛ばされなければならない。でも、どういう条件でそれが起こるのかわからなかったし、このまま何も起きないで過ごすことも考えられる。

 

(飛ばされた原因は、光だと思ってたのに)

 

猫は単なる傍観者で、直接的な原因ではないのだと思っていた。しかし、猫こそが時を操っているとしたらどうだろう。

 

(不用意に近づかないほうがいいのかもしれない)

 

俄然、近づくのが怖くなった。星さんの体を挟んで、猫との距離は約二間。気取られる前に逃げなければ、何かが起こってからでは遅い。

 

「ニャー」

 

「――っ!!」

 

逃げようとする私を引き止めるかのように、黒猫はのそりと起き上がってこちらを見た。

怯んで動けなくなった私を凝視し、追い討ちをかけるようにゆっくりと近づいてくる。

彼女の手前もあり、「来るな」とはさすがに言えなかった。

 

(来るな来るな)

 

心の中で必死に追い払うけれども、猫の歩みは止まらない。私の足もとにまとわりついて、匂いをつけるみたいに額をこすりつけている。私はされるがままになって、直立不動の状態を保っていた。

 

「あはは。どこかかゆいの?」

 

無邪気に笑う彼女をよそに、眩暈のような気持ち悪さが私に襲いかかっていた。その感覚に、既視感のようなものが重なっていく。

 

(これは、火事のときのあれだ)

 

怪我人の救護のため現場を訪れたとき、鎮火した建物の片隅からふらりと現れた猫の幻影。突如として眩暈に襲われ、体の平衡感覚が失われていく感じ。まさしく、あのときの前兆にそっくりだった。

 

「どうかしましたか?」

 

いつの間にか近くに立っていた彼女は、とても不思議そうに首をかしげている。

事情を打ち明けたくてもそれができない状況の中、私の焦りは頂点に達していた。

もし、彼女の目の前ですべてが失くなってしまったら、二度とこの時間はやってこない。そんな怖ろしさが頭の中いっぱいに拡がっていた。

 

「っ…なんでもないんです!…それより、今すぐこいつをどっかにやってください!」

 

金色に浮かび上がる数珠のような瞳が、この世のものではないような気がして怖ろしかった。本性を暴き立てるような、咎を植えつける眼光だ。眩暈はいよいよ激しくなる。

 

(まさかこいつが…?)

 

死の間際にも、火災の時にも、偶然を装ったみたいに黒猫がいた。てっきり、光が私をさらったんだと思っていた。でも、そうじゃない。物理的に、何もない空間が光を生むはずがないんだ。

 

(そうじゃない…こいつの仕業なんだ)

 

黒猫が現れたということは、時間跳躍の合図ということだろうか。もし、そうだとすれば、なぜ今を選んだのだろう。まさしくこれから道を切り拓いて行こうという時であるのに。

 

(私の行いは、何かがまずかったんだろうか?)

 

なんでもいいから理由がほしいと思った。そうでなければ、黒猫が現れた理由を説明できなくなる。望んだわけでもないのに、ここからまたどこかへ飛ばされるのだとしたら、永久に時をさまようことになりかねない。

 

「一体どうしちゃったの? 沖田さんが一番かわいがってたじゃないですか?」

 

(かわいがっていた? 私が?)

 

いくら動物好きの私であっても、この時期にこの屋敷で黒猫と接触したという記憶は残っていなかった。むしろ、自信を持っていえる。そんなことは、一度もない。

 

困惑気味に見上げる彼女は、私の異変に気づいて少しだけ距離をとった。その微妙な隙間を遊ぶように、猫はくるくると周回している。

 

「私が…? そんなのありえませんよ。だって、初めて見た猫です。」

 

そう断言すると、彼女は絶句して黙り込んでしまった。困らせるのは本意ではないけれど、事実なのだから他に言いようもない。

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「お待ちください。差し出がましいようですが、私の記憶するかぎりでは沖田先生もこの猫を気に入っておられたとお見受けします。猫の名前は、お二人でお決めになったのだということも聞いておりますし…」

 

私の発言がよほど聞き捨てられないと思ったのか、彼女の言い分を尾形さんが肯定する形になった。私の知らない情報を彼が知っていることが癪だったけれど、今はそんなことにへそを曲げているときではない。

 

「アズキです。覚えていないんですか?」

 

「覚えているも何も…」

 

(今日初めて知った…)

 

「沖田さんは、餡子とかお餅とかにしようって言ったけど、それだと名前っぽくなくてかわいそうだから、間をとって小豆にしようって話になったでしょう?」

 

(そんなの知らない)

 

懸命に言葉を続ける彼女があまりにもいたいけだったから、せめて誤解だけでも解いておかなければならないと思った。それをするためには、尾形さんが邪魔になる。なんとなく後ろ暗い気持ちになって彼を見つめると、尾形さんはとても心配そうに私を見つめていた。

 

「沖田先生。お顔の色がよろしくありませんが?」

 

「よしてくださいよ、先生は。それよりも、こいつを私に近づけないでもらいたい。今すぐ遠くへやってください。お願いします。」

 

純粋な気持ちで心配してくれたのはありがたいと思ったけど、部外者の尾形さんがこの場にいることは私たちにとって不都合でしなかった。さらに、体のいい理由として、ついでに黒猫を追い払えるならこんな工合のいいことはないと思う。

 

「沖田さんがそうおっしゃるのでしたら、私が…」

 

腰をかがめた尾形さんが、猫を拾い上げようと手を伸ばすと、猫は嫌がるそぶりを見せながら距離をとる。さっきとなんら変わらない光景に、私は呆気にとられていた。

尾形さんに預けた以上は、手こずっているのにも文句は言えない。とにかく、私と彼女はここを離れるべきだった。

 

「行きましょう。大事な話があるんです。」

 

戸惑う彼女を連れながら屋内に避難しようしたけれど、猫は私を逃すまいとまとわりついて離れない。手で追い払う仕草をするけれど、猫はびくともしないのだ。

 

「早く捕まえてくれなけりゃ困ります。」

 

苦言となってしまったことを心苦しいと思いつつも、焦りと緊張でつい語気が鋭くなってしまう。いつになくカリカリとした私に恐れをなしたのか、尾形さんもまた焦りの色を濃くしている。

 

「はい! ただちに捕らえます!」

 

急き立てられたように言って、手を伸ばそうとする尾形さんを見たが最後、私の視界は光の玉に遮られていった。

太陽が膨張したような巨大な光が、なんの前触れもなく目の前に落ちてきて、私の視界をどこまでも白く塗り固めていく。

 

(嘘だろう?)

 

白い闇に呑まれながら、隣にいるはずの彼女を見た。つないだ手の感触はあるのに、姿形がどこにも見当たらない。恐怖に駆られ、名前を呼ぼうとするのに、口からは空気だけが洩れ、音にはならなかった。

 

(星さん…)

 

もう一度名前を呼ぼうとしたとき、頭の中は掻き回した絵の具のように言葉の順序がわからなくなっていた。

自分の体が螺旋のように回転し、やがて感覚すらわからない何かに変わっていった。脱することのできない大きな力に、意識も体も奪われていく。

 

(私は、生きてるんだろうか…)

 

途切れる直前にそんなことを思い、私はすべてを手放した。

説明
艶沖長編です。余裕があれば、あとで書き直します。
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タグ
艶が〜る,沖田総司,尾形俊太郎,タイムリープ,幕末,長編

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