宵啼
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「まんず、何もあわねでよがた」

 炭焼き小屋の爺様はしきりにうなずいてみせる。

「こんあたァ山ンは、おっけねバケモンさ、ようわるさしよるけェ。暗ァなったら、まンず助からね」

 先刻来、囲炉裏に薪をくべる、その手には指が四本しかない。

 確かに運がよかったのだろう。

 今年はずいぶんと上つ方の機嫌がうるわしいらしく、山の実りが例年になく豊かだった。茸は肉厚で根深く、果実の彩りは深く潤いに満ちていた。採れども尽きぬ恵みについ血がたぎり、気がつけば日が傾きかけていた。

 ずいぶんと山深くまで足を伸ばしてしまっていて、あわてて下りはじめたものの、暮れるまでに里に戻るのは難しそうに思えた。

 気が急いて普段は使わぬ険しい近道を選んで駆けた。けれども、慣れぬところのうえに誰彼の陰がさしはじめていた。

「くわっ!」

 夢中で足を進めていたところを、遠くから響く五位鷺らしき鳴き声にふと我に返らされてみれば、周囲は見知らぬ藪で、右手から聞こえてこなければならないはずのせせらぎが反対側から耳に入ってきた。

 わかる場所まで戻っていては夜が訪れる、かといって道なき山肌を突っ切るような無茶もできない。にっちもさっちもゆかず途方に暮れかけたところで目に入ったのが、この炭焼き小屋からもれる灯かりだった。

 その途端、もつれる足でたまらず駆け寄り、玄関の戸を壊さんばかりの勢いで飛び込んだ。

 年に何度かこういうことがあるらしく、老人はさして驚きも警戒もせず、避難を受け容れてくれた。

「魔がさしよぅんや。まんず、何もあわんでよがた」

 同じことをくり返し、皺だらけの顔は表情に乏しいものの、こちらを安心させてくれる穏やかさをかもし出していた。

 その日は、そのまま爺様の勧めのままに小屋でひと晩泊まらせてもらうことにした。

 雑炊の相伴にあずかり、お礼に採れたての山の幸を分け合った。爺様も珍しい客に多少は喜んでくれたらしく、作り置きというどぶろくを茶碗についでくれた。時折皺をくしゃくしゃと顔の真ん中にたたみこんでいるのは、どうやら笑っているらしいと知れた頃には、お互いにすっかり酩酊していた。

「けんど爺様、里から離れて、ひとりこンとこァおって寂しィはならんかい」

「ひとりゆうて、冬までンこつャ。なんも寂しくヮね。たまにャおめさまみてな客も来よるしな」

「バケモンさあわねェが?」

「そらしょっちゅうだ。けんど約束さあッがら」

「約束?」

「約束だ」

 爺様はそれ以上取り合わなかったので、その話はそれで打ち切りになった。

 やがてとりとめない話がまばらに、とっちらかしだして、おまけに舌がもつれはじめた。見ると爺様はもうこくりこっくりと舟をこいでいる。

 人のことをいえた義理でもなく、こちらもずいぶんと瞼が重く感じる。横にならしてもらおうと思ったところで、尿意が猛烈に催された。

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 小屋の裏手にある、かがんだ際にひとまず雨がかからぬよう、申し訳程度の板の張り渡された厠で用をたす。

 張り詰めた膀胱を開放する心地よさに空を見上げれば、まんまるに満ちた月があたりで最も高い峰の、その更に上からこうこうと照らしていた。

 いつにも増してやけに大きく見える、その月に向かって、狼の吠えたてる声が聞こえてくる。声は尾を引いて長いがまだかなり遠い。それでもぞわりと総毛立たせるものがある。

 その怖気はふと先ほどの会話を逆なでした。

 爺様は約束といっていたが、それはだれと交わしたどういうものなんだろうか。どうして爺様はこんな山の中でひとり住んでいて化物に襲われもせず暮らせているのだろうか。たまにやって来るという道を違えた客というのはどうなったのだろうか。もしや自分のかわりに化物に客を差し出して……

 嫌な連想は小便が途切れたところで体を震わせて振り払った。

「くわっ。かっ、かっ、かっ」

 途端、夜陰を爆ぜさせる

 あの五位鷺と思しき声がまた聞こえてきた。それも今度はずっと近くで。

 耳をつんざく声に、ついその主の姿を求めて、視線を宙にさまよわせた。

 ひと際背の高いぶなの上にそれはいた。

 山なりに突き立った木の頂のさらに上空に、ぽっかりと浮かんだ黒い塊。星々さえかすませる満月の真白いきらめきを背に受けながら、その濃度を薄まらせることもなく、気まぐれに時折山から吹き下ろす風にもたわませることなく、まるでそこに墨を落としたかのように円を描いている。

 唐突にその黒い円が掻き消えた。齧り取られたように欠けていた月が姿を取り戻したかと思うと、

「きゃはっ。きゃきゃきゃきゃきゃ」

 再びあの声だ。更に距離を詰めてきたから、一層はっきりと聞こえるようになった。そして、その発する主の姿も。

 それは五位鷺なんかではなく少女だった。黒い袖なしの半纏に似た上っ張りの下には筒袖様の薄衣を着て、腰からは同じく黒い袴にも似た、ただし左右を分かたぬ作りのものを通している。首もとには結わえつけた茜の布で飾っている。なんと呼べばいいのかは知らないが、まず滅多にお目にかからない洋装だった。衣服といい、赤いお札で結わえた短いながらも黄金にきらめく髪といい、近在の人間でないのは明らかだった。

 こちらの眼差しなどどこ吹く風と、ひたすらに少女は腹を抱え、身をくねらせて笑っていた。

 いや、訂正しないといけない。このあたりどころか、そもそも人間ではないだろう。なにしろ少女は夜の空に、特別に何の道具も持たず、悠々と浮かんでいたのだから。

 前触れなくまたも闇の球が少女を包み姿を隠した。途端に声がやみ、やまびこが失せて、辺りに静寂が戻ったか思う間際に少女が現れ、そして笑う。

 いったいなにがおかしいのかさっぱりわからないが、鬼気迫るものがひしひしと肌に感じられる。にもかかわらず、その場に釘づけになったようで、一歩どころかにじらすことさえできなかった。

 おそらくずっと前から気づかれていたのだろう。少女はやにわにこちらに目線を向けると、音もなく滑るように近寄ってきた。

「こんばんは」

 両腕を水平に左右へ伸ばし、やや小首を傾げつつこぼれ出た少女の言葉は、驚くほどあどけない口調だった。

 近い。最早二間と離れていない宙空に少女は浮かんでいた。

「おかしいよね。真っ暗なのを消しても外も真っ暗なんだよ。さっきまでそんなことなかったのに」

 見上げながら全身が大きく震えるのを抑えることができなかった。秋とはいえまだ胴震いの起こるほどではない。事実、頭のてっぺんからつま先まで、先ほどから滝のような汗がしとどに流れ出ている。

 なにか口にしないとけないと思うものの、もれるのは空気の断片ばかりで、言葉どころか声にもならないできそこないだった。

 身の丈なら自分の胸ほどしかないだろう少女が、ひどく恐ろしくてしかたなかった。

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 瞳にともる紅の焔がちろちろと輝いているのも、よく見れば月に照らされて輪郭がぽうと白銀に発光しているのも、しゃべるたびに犬歯のあたりから鋭く長い牙がぞろりと揃って顔を出しているのも、どれもこれも恐ろしかったが、いずれもが自分に向かっているらしいことが明白なのがなにより身を竦ませた。

「ねえ」

 猫撫で声が背筋を逆さから通り過ぎていった。

「お兄さんは、食べてもいい人間?」

「駄目だ! 食っちゃいけん!」

 咄嗟に自分でも思った以上に大きな声が出せた。けれども、

「どうして?」

 その問いかけに束の間の虚勢は、勢いすら失ってしまった。

 相手が同じ立ち位置にいれば一蹴してしまえるはずの問いではあった。けれども、人にあらぬものに、どのようにして人間の道理を通せばいいのか、考えてみればまるでその術を知らない。

「答えられないってことは、食べてもいいってことだね」

 いって妖怪はいやらしい笑みを浮かべた。少女らしいあどけなさをたたえた笑い顔であったが、最早、忌まわしくもおぞましいものにしか見えなかった。

「馬鹿なこつゆうな。そん方ァおれのお客様だ。手ェ出すことァまかりなんね」

 月を背にした逆光のなかでも輝く牙が徐々に大きくなるのを、金縛りにあったかのようにただ見るしかない絶望的な状況で、不意にそんな声が背後から投げ掛けられた。

「なんだ爺様か」

 途端体にみなぎっていた緊張が緩まった。弾かれたように振り返ってみれば、小屋の傍らで柱に体をもたせかけて立っているのは爺様だった。まだ酒が残っているらしい赤ら顔はいかにも大儀そうで、目蓋はたるんで目はうつろだった。

 だがそんな爺様が現れたおかげで、少女がこちらから興味を失ったらしいのは事実だった。

「ねえ、やっぱりおかしくない? あれっぽっちで爺様の身内はみんな見逃すだなんてさ」

「なにをぬかす。そもそもおめがいいだした約束じゃろうが。それとも、もう忘れたとでもわっしゃうつもりか」

 爺様は右の手をかざして、決して荒げているわけでなく、しわがれているものの意外とよく通る声でそういった。

 爺様の手の内に残された四本の指を全部握り込み、失われた小指をさも高々と突き立てているようにして。

「うー、そうだけどさあ」

 身にさし迫っていた危機の感覚は失せていた。俺は這う這うの体で、みっともない体勢にも構わず爺様の懐を抜けるようにして、小屋の中に逃げ込んだ。宵闇の妖怪の名残り惜しそうな視線を背に感じつつ。

 

 

説明
爺様は「ジサマ」と読んでいただけると幸いです。
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