兄の幽霊の話
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 兄は死んだはずで、おれが突き落としたのだった。断崖絶壁から真っ逆さまに落ちていった。途中、木の枝に引っかかったり、岩にぶつかって軌道を変えたりしていた。落ちていくところは忘れなかった。目の光が、へんに消えなくて空中に軌跡みたいにして引かれていくのを、おれはなんとも奇妙なことだと思いながら見ていた。

 落っこちた兄はまだ見つかっていない。おれと一緒に山登りに行ったことは誰も知らないから、おれは罪には問われていなかった。おれは必死になって兄を探すふりをしていたから、だれもおれが兄を突き落としたのだということに気づかなかった。おれは人殺しにしてはごくごく平穏な人生を送っていると言えるようだった。

 秋が来て、兄がやって来た。ぼろぼろになってしまったけどなんとか帰ってこれたよと言った。首が九十度傾いたままなので、おれは兄は幽霊になってしまったんだなと思った。帰ってくれと言うのも不自然なので、おれは兄を部屋の中へ上げた。線香を焚いても、いやがる様子もなく平然とした顔でいるのだった。線香をいやがる幽霊は、きっと自分が死んでいるのだと気がついている幽霊に限るのだろう。兄は平気そうな顔をしていた。おれはなんとか兄を追い出そうと思った。

 お坊さんを呼んで家の中で読経を上げてもらった。けれども兄は平然としていた。どこかで、他人事のように思っているのかも知れなかった。御札を買ってきて、そこいらじゅうにべたべた貼ってみたけれども、だめだった。効き目が薄いのかもしれなかった。それとも、兄は幽霊ではないのかも知れなかった。みんなおれの幻や錯覚なのかもしれなかった。でも、兄は九十度傾いた顔で、おれに向かって笑いかけたりしているのだった。このままでいけばおれはじきに気が狂ってしまうだろう、と思ったが、手の打ちようはなかった。おれはだんだん心が削られていくような気持ちがしていた。

 ある日のこと。おれは兄の死体を探しに行こうと思った。そして、死体を見つけて手厚く弔ってやったら良いというようなことを思った。そうすれば、ここにいる兄の幽霊も、消えてなくなるのではないかと思った。それとなく兄にそのことを説明すると、兄は、良いんじゃないかな、とやはりまた他人事のように言って、首を傾けた。兄は骨に障るような笑い方をした。おれはその笑い声を聞くのもいやだった。

 山へ入って、兄の落ちたあたりを探した。どこかの骨が三つ、頭蓋骨が一つ見つかった。それ以外の骨はどこにもなかった。たぶん野生動物が持って行ってしまったのかも知れない。おれはそれらをまとめて、土を掘り返して、その中に埋めた。お線香を立ててお祈りをした。お経の本を買ってきて、たどたどしくお経をあげた。みんな兄のためだったが、お経をなんべんあげても兄はおれの横に立ったままで九十度に傾いた頭を、うんとこしょ、と持ち上げて、気が済んだかい、と言った。おれは「そうだね」と言った。

 おれは精神科に通うようになった。本当のところは隠して、おれが小さい頃に遊びの途中で突き飛ばしてしまった兄の不可抗力の幽霊に悩まされているのだと言って。でも、精神科医はあんまりおれの話を聞かないで、疲れているからそういうものを見るんですとかなんとか言って、ろくな薬を処方してはくれなかった。薬を飲んでも兄の幽霊は相変わらず隣に立ち続けて居た。おれは薬はみんな捨ててしまった。

 ある夏の日に兄に聞いた。おれはあんたを殺したことを正直に白状して、警察に言えばあんたはもういなくなるんだろうか。兄は一言、分からないと言った。そうすればいなくなるかもしれないし、そうしてもいなくならないかもしれない、幽霊が何のためにいるのかは幽霊にも実は分からないんだ。そうしてみんな人には言えないけれどもそんな幽霊をたくさん抱えているのに違いない。見えたり聞こえたりしているのは、たまたま君が僕を殺したからに過ぎないんだと。

 困ったことになったとおれは思った。けれどおれは、あんまり定かでない原因のためにこれから罪を告白したりおれも兄の後を追って自殺するようなことはできそうにないと思われた。なんとかこの幽霊の居ることを日常の生活の範囲内のことだと無理に思い込むことにして、それでやっていくしかないのではないかと思われた。

 ある日、おれは兄の遺影をずたずたにしてゴミ箱に捨ててしまった。それを見ながら兄はなんとも言えない薄ら笑いを浮かべていた。おれは頭を抱えて音楽などを聴きながら、目を閉じて兄の声が聞こえてこないように、静かに自分の呼吸をくり返していた。

 なるようになるさ、と耳元で兄がいい、おれはイヤホンを引っこ抜いて兄の方へ投げつけた。もちろん、透過して、壁に当たっただけだ。

説明
兄の幽霊の話です
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