式姫の居る日常  〜不死の姫と、異国の紅い美酒を傾ける
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 冴え冴えと輝く月が、吸血姫の白い指の間で揺れる瑠璃杯に光を満たす。

 その光景の、どこか儚い美しさを壊すことを憚るように、男は低い声で嘆声を発した。

「昔の詩の光景そのままだな」

「ふふ、如何なる詩なのじゃ?」

「葡萄の美酒、夜行の杯ってな……唐代に西域で詠まれた詩だそうな」

「なれば、琵琶の音が欲しい所じゃの」

「……知ってるならそう言え」

 男の渋い顔を、くすくす笑いながら見て、吸血姫は男の前にもう一つの杯を置いた。

「脳裏に描く美しい光景を、言の葉を通じて共有できるのは良いことじゃろ」

 瑠璃の輝きは時を重ねて、より深みと美を増すかのようだった。

「この国の米を醸した清き酒も美味で良いが、妾は時折無性に葡萄の酒が恋しくなっての」

「故郷の味って奴か?」

「そんな所じゃ……昔の事はあらかた忘れてしもうたが、この味だけは体が忘れぬらしい」

 そなたの口にも合えば良いが、そう呟いて、吸血姫(ドラキュリア)は男の手にした杯に紅い酒を注いだ。

「余り量は調達できなんだが、楽しむには十分じゃろう」

「こんな不調法者が呑むのも悪い気がするが、ご相伴に与るぜ」

「構わぬさ、野蛮人も好かぬが、気取った輩の相手は尚好かぬでな」

「そのどっちでも無いというと、俺はどういう人間なんだ?」

「ちょうど妾の好み位という所かの」

 吸血姫の真っ直ぐな言葉を受けかねて、男はしばし視線を宙にさまよわせてから、手にした杯を上げ、月明かりを透かし見た。

「……ところで、こんな珍品をどうやって用意した。とは聞かぬが花か?」

 彼らしい下手な話題そらしに、吸血姫は喉の奥だけでくくっと笑いながら自身も盃を手にした。

「何、使っておらぬようじゃでな、ちと借りただけじゃ。明日にも返して置けば気が付きもすまいよ」

 これが死蔵されていそうな蔵か。

 幾つかやんごとない家名が浮かびはしたが、男は特に何も言わずに、瑠璃の杯を手の中で転がした。

「借りただけなら、別に良いか」

 今、このご時世に、先祖伝来の家宝を引っ張り出して宴を開こうなどと思える余裕はどこにもあるまい。

 物の怪が跳梁し、人はそれに立ち向かうどころか、秩序の崩壊を良い事に、各々野心を抱いて群雄割拠している有様では、文雅の香りは遠い世界の話である。

 

「寧ろ感謝して貰いたい物よ。いかな名宝とて、これは杯じゃ。たまさかには紅き酒を注ぎ、手の中で転がして愛でてやらねば、本来の輝きを失ってしまうでな」

「こうして真価を愛でながら使ってやるのも功徳ってもんか」

「そう、物は時折、その本然に立ち返らせてやらぬと、本質が死んでしまう物よ」

「本然に立ち返る、ね」

 そう呟きながら、男は盃を傾けた。

 渋みと共に、何とも言えない良い香りと味わいが口中を満たす。

 清酒の清冽さや豊潤さとは異なる、だが紛れも無い美酒。

 確かに彼の知る猪口や杯で呑むより、この砂漠を超えて、西方よりやってきた盃にこそ相応しいと感じる。

「旨い、何より香りが良いな」

「それは何よりじゃ、機会が有ったら、妾の故郷の葡萄で醸した物も呑んでもらいたいのう」

「吸血姫の口にしてきた酒か」

「そうじゃな、妾の血の中に流れておる酒じゃよ」

 そう言いながら、彼女は艶やかに微笑みながら盃に口を付けた。

 赤い滴が彼女の口の中に流れていく。

 それが、あたかも葡萄の酒ではなく、彼女が本来好む命の滴のように見えてしまって。

「吸血姫は……本然に立ち戻らなくて大丈夫なのか」

 思わず、そう口にしてしまった男に、吸血姫は嫣然と微笑みかけた。

「妾は大丈夫じゃ。お主が自身から、永遠を望むようになるまで待つと決めたでな」

「期待に添えるかは判らんぜ」

「無論良いさ、数多居る美姫とそなたを競う、これは愉快な賭けじゃ。そう最初に仲間になりし折に言うたであろう」

「賭けというなら、負けた時は悔しくないのか?」

「敗北の闇と表裏をなすからこそ、勝利には光輝が宿る」

 そう言って、月に向けた吸血姫の瞳が紅い光を帯びる。

「負けの無い生とは、廃墟に君臨する事じゃ。反逆せぬ部下、尽きぬ財貨、明ける事無き夜宴、全て終わり無き命の上に積み上げる砂遊び……」

 そこで言葉を切った吸血姫が、何かを思い出すように杯を透かし見てから、酒を呷った。

「下らぬ豚の夢じゃ、そうは思わぬか」

 男はそんな吸血姫の顔をちらりと見てから、酒瓶を取り上げた。

「さてなぁ、俺には判らん」

「……で、あろうな」

 元より、須臾の時を生きる人に共感を求められる類の話ではない、彼女は軽く肩を竦めて、酌を求めるように、空になった瑠璃の盃を男に向けた。

 それに応えて、男が手にした酒瓶が、途中で止まった。

 怪訝そうな顔を向ける吸血姫に、男は微苦笑を返した。

「いやな、豚の夢で、折角の美酒を不味くする事もあるまいと思ってな」

 第一、そんな顔じゃ美人も台無しだ。

 そう言いながら、男は最後の酒を注いだ。

「ふふ、お主は全く……」

 自分が捨ててきた沢山のもの、今手にしているささやかなもの。 

 かつては、瑠璃や玻璃の盃を幾つも床に擲ち、その破片が宿した数多の月光の中で、浴びるように美酒を呷った事もある。

 だが、あの無数の輝きより、今この掌中の小さな一つだけの輝きを、なんと愛しく感じる事か。

 長い旅の果てに、ようやく手に入れた宝物。

 光を口に含むように、盃を傾ける。

 この思いと共に呑む酒は、血よりも甘く、心地よく彼女を酔わせてくれる。

「……甘露」

 

説明
式姫にまつわる小話です、イラストは過去絵の使い回しです……というか、アレ描いたイメージでこれ書いてます。
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コメント
(。-`ω-)ンー 飛べない豚はただの豚さ・・・・(thule)
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式姫 式姫の庭 吸血姫 ドラキュリア 

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