サヨナラの日
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「なんで!!なんでなんだ!」

 

いつも穏やかで稲穂のようなお父さんが、空気をも振るわせる大きな声をあげました。

 

「なんできみは、いつも…」

 

ワッと怒鳴った後、恐ろしい顔をくしゅっと崩し、今度はぽろぽろと涙を流します。

そのお父さんの眼下には、お布団に横になったお母さんがいました。

かつて、白い浜木綿を思わせていたお母さんは、痩せてしまい、

今では白より青い鈍色の深海魚を見ているようです。

 

「…なんも、」

「なんもなくないものか、なんも、なんも、なんて、そんなこと」

 

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お母さんは昔から、「なんでもないよ」が口癖でした。

照れくさいとき、焼きもちをやいたとき、寂しいとき、苦しいとき、辛いときも、少し寂しげに微笑んで

 

「なんでもないよ」

 

と言うのでした。

お父さんはそのことをずっとずっと知っていました。

もっと正直になってほしいな、と少し悔しくもありましたが、

それがお母さんなんだと、どこか甘えた気持ちでいました。

でも、もうそんなものに目を瞑っておれなくなったのです。

 

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「君の、本当の気持ちを教えてよ。どこが痛い、苦しい、

辛い、こわいって、ぜんぶぜんぶ教えてよ。ぼくは、わからないよ。

きみ…君に、なにをしてあげたらいいのか分からないよ。

ぼくは、ぼく、なにが…」

 

お父さんは、お母さんの小さくこけた手を、両手で握りしめました。

折れてしまうのではないかと思うくらい、ぎゅうっと強くつよく握りしめました。

 

お母さんは、ちょっとの間お父さんのことをほぅっと眺めていました。

その瞳は眠たげに霞みがかって、ぼんやりとしています。

でも、お父さんのことをしっかり写すと、温かさが宿りました。

そして優しく微笑んで、開いた方の手を、そっとお父さんの頬へと伸ばしまた。

 

「…ぁ」

「なんも、なくなってしまうんよ」

 

お母さんの指先はまるで氷のように冷たく、でも、羽のように柔らかでした。

俯いていたお父さんは、はっと顔をあげて、涙を流しながらお母さんを見つめます。

指が頬を撫でる、ゆっくりとした歩みに合わせて、お母さんは言葉をつづけました。

 

「なんも、…ないことは、ないけど、でも、あなた、それを、知ってるでしょう?」

「…」

 

「それだけ、それだけでいいんよ、なんも、なんもないって、

無かったことに、せんやろう?それだけで、わたし、

うれしいんよ、もうなんも、なくなるんよ」

「そんな、ぼくはいやだ」

 

「…あなたのなかに、わたしのこころ、あるとよ。

なんにもなくなってない。それで、いいの」

「きみはよくても、ぼ、ぼくは、分からないよ!」

 

「わからんでええ、いいっちゃぁ」

「いやだよ、教えてよ。君の、言ってること分かんないよ…」

 

お父さんはぐずぐずと、お母さんの前で肩を丸くして泣きました。

お母さんは笑みを崩さず、単調に、優しく、お父さんの頬を撫でています。

でも、その指先は触れているのかいないのか、分からないところにありました。

 

「…」

「…え?」

 

「だいすきよ」

「ぼ、ぼくだって、ぼくだってきみのことがすきだ、

 

だいすきだ」

 

 

お母さんの返事はありませんでした。

ただただ、しずかに微笑んでいました。

まるで、この晩の空に浮かぶ満月のように、白くしろく清らかなものでした。

 

 

おしまい。

 

 

説明
「ふたりのこと」 (http://www.tinami.com/view/870078)

お母さんがお空にかえった夜のこと

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