Aufrecht Vol.17 過去と未来と
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彼の言葉どおり、軒下には土方さんが立っていた。どこの置屋の子か知らないけれど、すれ違うギリギリまで熱い視線を飛ばし、行き過ぎてからもう一度振り返り彼の立ち姿を見続けている。そういう熱っぽい視線を飽きるほど浴びてきたはずの土方さんでも、うら若い娘さんの視線には居心地の悪い思いをするのだろうか。目線が定まらず、移り気なのだ。

 

「土方さん。お待たせしました。」

 

私の声に一種の安堵を見せた土方さんは、律儀にも見送りに来た藍屋さんに気づき、手にしていた小さな風呂敷包みを突き出した。

 

「断りもなく押しかけてすまなかった。総司が世話になったんで、ほんの心づけだ。…つっても、ただの菓子だが。」

「そりゃおおきに。遠慮のう戴きまひょ。」

 

受けとる藍屋さんがうれしそうに笑みを浮かべると、土方さんは腕をぐいっと引っ張りながら私の頭を上から押しつけてくる。

 

「いたたっ! …っ藍屋さん。突然お邪魔してすみませんでした。いろいろとお気遣いもいただき、ありがとうございます。」

 

弟を叱る兄のような行動に、藍屋さんも目を丸くした後でくすくすと笑い声を立てた。

 

「いんや。そんくらいのこと、わては構しまへん。そやけどなぁ、沖田はん。あん娘ももう太夫やさかい。次こそは、吉野として会うてあげておくれやす。太夫になった自分を一番に見てもらいたいんは、おそらく沖田はんやろしね。」

「ええ。もちろんです。私も吉野太夫に会うのが楽しみだ。では、私たちはこれで失礼します。」

「へぇ。気をつけてお帰りやす。」

 

藍屋さんは、挨拶もそこそこに置屋へと戻っていった。その背中に一礼し、くたっとなりかけて瞼をしごく。その様子を見るなり、土方さんは片眉を吊り上げた。

 

「蒼い顔をしているな。具合が悪いのなら駕籠を呼ぶか?」

「具合が悪いわけじゃないんですよ。ちょっと予想外のことになりましてね。」

 

予想外というよりも、途方もない現実を見せつけられたというのがふさわしい。

 

(だって、せっかく知り合えたはずの結城くんが、赤の他人みたいに戻ってしまったんだもの)

 

私が会いたかった結城くんではなかったことに衝撃を受けはしたものの、ある意味それが早いうちに判って良かったとも思っていた。異なる時間の中に、同一の意識を持った自分だけが放り込まれていることを再確認できたからだ。とはいえ、やっぱり孤独感は拭えない。

 

(本当に私は独りなんだな…)

 

星さんも結城くんも、本来ならこの時代にいるべき人間ではない。望んでここへやってきたわけではないのだから、日々の中で葛藤や戸惑いが生まれるのも当然だった。でも、私は違う。もともとはこの時代に生まれついた人間だ。それなのに、自分がとても異質な存在に思えてくるはなぜなんだろう。慣れ親しんだはずの風景も、時代ならではの町並みや風習も、心に深く沁み込んでいるはずなのに、不思議と居心地の悪いようなもののように感じられて、溶け込めなくなってきているのだ。

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(はぐれ雲のようだな…)

 

そんなことをしみじみと思っていると、どこか見透かすような目つきになり、土方さんは茶化すこともなく静かな声になった。

 

「あの小僧にこてんぱにやられたか。」

「はい…残念ながら。土方さんが呼んでくれたから、本当に助かりましたよ。せっかちなのも、時には役に立つもんですね。」

 

土方さんが心配そうに見つめてくるものだから、最終的には冗談で笑い飛ばしてしまいたくなった。

 

「お前なぁ…感謝されてるって気がしねえよ。」

 

落としどころは結局そこか。彼はそんなふうに呆れていた。でも、それでいいんだと思う。小さなことにいちいち気を揉ませるのは、私が頼りない証拠だからだ。頼りない自分を認識するたびに、軽口を叩いて笑い飛ばす。そうやって深刻にならないように、勘のいい土方さんの心を身軽にしていくしかないのだ。

 

「ところで、急に戻らなければならなくなったなんて、何かあったんですか?」

「いいや? 茶でザブザブになったんで、藍屋さんに頼んで呼び出してもらったまでさ。」

「なぁんだ。そういうことでしたか。」

 

一人で茶屋に入っていって、しきりに水物だけを啜る土方さんというのは、想像しただけで込み上げてくるものがある。しかし、吹き出しそうになる笑いを抑えたのは、何気なく言った藍屋さんの科白だった。

 

(やっぱり藍屋さんの機転だったのか…)

(でも、単に気がきくというよりも、何か別のことに勘づいているというか…)

 

星さんの事情に薄々気づいているのでは…と疑いたくなるような鋭敏さが見え隠れするのだ。単に遊里の楼主と見るには、日頃からも不可解な点が目立つ。さっきのやりとりは特段注目すべきことではないにしろ、藍屋さんという人はどことなくただの主人ではないような気がしてならない。

 

「ねぇ、土方さん。藍屋さんって、一体何者なんでしょうね?」

「さぁな。でも、素人じゃねえってことだけは確かだろう。藍屋さんがどうかしたのか?」

「いえ…別に。他の楼主とは、雰囲気が違うなと思っただけですよ。」

 

(彼が何者だろうと、害がなければそれでいいじゃないか)

 

慶喜公の口添えがあったにせよ、今日まで星さんの生活の面倒を見てくれた人だ。私個人に対しては不利益を要求することもあるだろうけど、彼女にまでその余波が及ぶようなことはないだろう。ひとまずは、そうやって割り切ることにした。

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「それより、一体どんな話をしてやがったんだ? 総司がやり込められるなんざ、相当な手合いじゃねえか。」

 

(ぅう…やっぱり土方さんも気になるんですね…)

 

清水の出来事から、すでに10日は過ぎていた。その間、ゆっくり話をすることもなく今日まで来てしまったのだ。土方さんとしても検証の余地はあったのだろうけど、天と地をひっくり返すほどの内容だったから、落ち着いて整理する時間が必要だったのかもしれない。

今さら隠すこともないだろうと思って、私は素直に打ち明けることにした。

 

「未来の話ですよ。」

 

なんてことないようにさらりと言えば、特に驚きもせずに土方さんは頷いていた。彼が気にしていたのは、話の内容そのものではなく、星さんや結城くんが一体何者なのかということだった。

 

「やはり、あいつらもそうなんだな…どおりで腑に落ちないと思ったんだ。」

「土方さんは千里眼をお持ちですからね。」

「茶化すなよ。これでも真面目に聞いてやってるんだ。」

「すみません。土方さんが信じてくれるなんて思わなくて。でも、このことを誰かに打ち明けるとしたら、最初から土方さんを選んでいたと思うな。」

 

別に機嫌をとりたいわけじゃなかった。事実、そうとしか考えられなかったというだけで。仮に一人で抱えきれなくなって誰かに頼るようなことになれば、真っ先に土方さんを思い浮かべていただろうから。

 

「そうかい。そりゃ光栄だな。だが、俺に打ち明けたからには、他の誰にも喋るんじゃねえぞ?」

 

皮肉めいたことを言いながらも、自らの主張を誇示するように、土方さんはずいっと身を寄せてくる。口止めでもするみたいに、強気な態度だった。でも、それが半分は冗談なんだということくらいわかっていた。

 

「あ。悪いこと企んでる。」

「阿呆。そんな簡単に悪用できるなら、とっくに天下をとってるさ。」

「また大きく出ましたねぇ。やりそうだから怖い。」

「まあな。」

 

私の調子に合わせてなのか、土方さんはにべもなく肯定し、勝ち誇ったような顔になる。この人に越えられない壁なんてあるんだろうか、とそんなことを思わずにはいられなかった。

 

「でも、どうして信じる気になったんです?」

「そりゃあ、お前が剣を捨てちまおうとするからだろうが。総司にとって、剣より尊いものなんてないはずだ。俺にはそれが解せなかった。誰にも明かさずにいるお前が、一体何と戦ってやがるのか、なんとしても暴いてやろうと思ったのさ。」

 

(心配してくれてたんだな…)

 

この時代に戻ってきた私が「同じ轍を踏むものか」と、ひそかに足掻いていたことを、一体どれほどの身内が気づいていただろうか。たぶん、土方さんくらいのものだ。

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「それで、上手く暴いてみせたわけですけど、詳しく聞かないのはまたどうしてです?」

「…話したいのか?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど。いずれは話さなきゃいけないのかなって思ったから。」

「そうだな。いい機会だから、話してみろ。」

 

自分が意図的に誘導したというのもあるだろうけど、ちょうど大門を抜けた辺りで、会話の流れに弾みがついてきた。ぶらぶらと歩きながら喋るのは、堅苦しくなくて気を楽に保てるのだ。

 

「前にお話したように、私は一度死んでいるんです。」

 

話の切り口はそこから始まって、未来へと舞台を移しながら、そこで体験した信じられないような文明の進歩をなるべくわかりやすい表現で伝えていく。それでも、この時代の人間にとっては非現実的で、いくら言葉を尽くして説明しても、頭では描きにくいことだった。

 

「俺には想像もつかねぇ話だ。そんなわけの分からんものに囲まれて、よく生き延びられたな。まるで、異国のようじゃねえかよ。」

「なんとかなるもんですよ。生活をする上ではずっと便利になりますけど、たとえ時代が変わろうとも悪い面というのは絶えず存在するものですね。ここでの暮らしの方が、風情があっていいと思います。」

「それで、なぜ戻ってきたんだ? 刻を跨ぐなんざ神業としか思えねえが。」

 

土方さんは神の御技と表現しているけれど、そういう人智を超えた事象を世間話みたいに流してしまえるからすごいと思う。

 

「私にもハッキリしたことはわからないんですけど、死ぬ間際に激しく後悔したことが原因なんじゃないかと…そう思ってるんです。」

 

後悔と言ったとたん、彼の表情は瞬く間に曇っていた。たぶん、清水で言ったことを思い出したにちがいない。畳の上でしか死ぬことを許されなかった無念。そのことを唯一知るのは、土方さんだけだ。

 

「…そりゃ、戦場に立てなかったことか?」

 

自分こそがその責任のすべてを背負っているーーそんなふうに、表情は暗かった。でも、過ぎたことは仕方がないのだ。それに、たとえ戦場に立てたとしても、そこでまた別の葛藤が生じていたであろうことは容易に想像がつく。立つこともできない私が、どうやって刀を揮うというのだろう。

 

新選組一の遣い手、沖田総司。

 

みんなが誇りに思ってくれたその呼び名に、傷をつけるだけではないのか。新選組のためにかつての武勇を守れるなら、自分の意地なんてちっぽけなものだ。一度死んでからの私は、そう思うようになった。

 

「確かにそれもすごく悔しかったんですけど、もっと自責の念に駆られたのは、彼女を自ら手放してしまったことです。」

「突き放したのか…あいつを…」

 

カッと目を見瞠いた後で、土方さんは気まずそうに目を逸らしていた。直接的ではないにしろ、それが考えの一端を担っていることに私はハッとした。そういう第三者の反応を目の当たりにして、改めて気づかされたのだ。とてつもない過ちを犯したということを。

 

(自分で決断したことだから、絶対に後悔はしないと誓ったのに…)

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傷口をえぐり塩水を注ぎ込むように、私の心は罪の色を飲み干しながら喘いでいた。そして、あの頃と同じように言い訳を並べ立てて、土方さんに裁いてほしいと願う自分がいた。彼の横顔に向かって、私はその是非を問う。

 

「もとの時代に帰してあげたかったんです。だって、私といたら不幸せになってしまうでしょう? 死ぬとわかっている相手と、一緒になることはないんだ。だから、彼女を未来へ帰すことにしたんです。」

「そうか…。だが、俺がお前でもそうしただろうな。」

 

そこでやっと目を合わせてくれた土方さんは、自信がなさそうに小さく笑っていた。私の判断を是でも非でもなく、自分に置き換えることで私の立場を慮ってくれたようだ。

 

「後悔の気持ちを持ち越したまま、未来へと飛ばされました。そこで、星さんと再会したんです。」

「よく分からないが、総司は死んだ後で星を追いかけて未来へ行ったってことか?」

「まぁ、簡単に言うとそんな感じです。でも、彼女には記憶がなかったんです。私のことを覚えていなかった…。」

「ちょっと待ってくれ。過去だの未来だのと言ってるうちに、頭がややこしくなってきたな。普通は、過去があって未来につながるだろう? 過去から未来へは一直線だ。その線でいくと、未来から過去へ戻るってえのは無しじゃねえかよ。」

「仕組みでいったらそうなりますよね。でも、その仕組みに異論を唱えた人がいましてね。未来では直線ではないかもしれないということになってるんです。」

 

(それも、三次元より上位の世界に限定された話ではあるけれど…)

 

だったら、私は三次元を飛び越えたことになるのだろうか。死を通過することによって、人は別の次元へと飛躍するのだろうか。

 

「…とんでもねぇ話だな。まぁ、いい。それで、故郷に戻った星と再会したが、あいつはお前の顔なんざ忘れちまってたと。お前は散々悩んだ挙句に、戻らざるをえなかったわけだな。」

「さすが土方さん。飲み込みが早いですね。でも、自分の意思が働いたから戻って来れた、というわけでもないみたいなんです。」

「そりゃ全体どういうことだよ。」

 

意思のない行動なんて、土方さんの辞書にはあるはずもなかった。もっとも、そういう世界があることを知ったのも、未来が私を呼び寄せたからこそであり、私だって未だに半信半疑のままだった。しかも、その仕掛け人として疑わしいのが、なんの変哲もない黒猫なのだから参ってしまう。

 

(黒猫が…なんて言ったら、土方さんは確実に笑うだろな)

(この際だし、笑われても別にいいや)

 

「笑わないって約束してくれますか?」

 

笑われてもいいと腹を決めたにもかかわらず、いざ打ち明けるとなると、やっぱり予防線を張りたくなってしまう自分がいた。

 

「言い方にもよるな。そんなことは構わねぇで、まずは言ってみろよ。」

 

(こういうとき、確約しないのが土方さんなんだよな)

 

そういうブレない態度をずるいなと思いつつも、自分で言い出したことだからと観念して口を開く。

 

「黒猫が…関わってると思うんです。」

 

反応を窺うため待ち構えていると、突然立ち止まった土方さんは歩くのをやめてしまった。そして、こらえきれずに吹き出したのだ。

 

「…ふっ。」

「あ! 笑いましたね!? 笑わないという約束なのに。」

 

約束なんてしてないのに、町屋の軒下まで土方さんを追い詰めて批難を浴びせる。怒る私をよそに、肩先をゆすらゆすらさせて彼は笑っていた。

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「お前のことを笑ったのではねぇよ。尾形にな、今の話を聞かせてやりてえと思ったのさ。」

「なぜそこで尾形さんの名前が出るんです。」

「忘れたのかよ。総司が倒れた日に、俺の所へ真っ先に飛び込んで来たのは尾形だろうが。しかも、奴は漏らさずそのことを報告していた。」

「黒猫のことを、ですか?」

 

(そういえば、とんと忘れていたけれど…)

(あのとき尾形さんもいたんだっけ)

 

取り乱した私の言動を、逐一副長に報告していたなんて恐れ入る。

 

「ああ。どうにも解せないと首を傾げていたもんだ。かく言う俺も、まったく解明できなかったがな。」

 

報告を受けた土方さんは、なんの関係もなさそうに思える黒猫のことを奇妙に感じていたらしい。ここまで感度がいいと、隠し事なんてするだけ無駄な気がしてくる。

 

「土方さんも尾形さんも、勘が鋭くてまったく嫌になるなぁ。」

「頼もしい、の間違えだろ。で、戻ったお前は一体何を遂げようとしてるんだ? 星とやり直すためだけなら、俺にわざわざ打ち明ける必要もないだろう。」

 

(ほらね。やっぱり土方さんて嫌な人だ)

 

言葉が足りなくても、敏い頭で補完してしまうのが土方さんという人なのだ。事細かに伝えなくても、なんとなく話が通じてしまう。便利なようでいて、実は恐ろしいのだった。

 

「私だって最初はそう思いましたよ。星さんのために、いろんなことに見切りをつけようって。でもね、皆さんに再会したら欲が出てきてしまって…」

「欲? 総司が言うと変な感じがするな。」

 

私の手を軽く振り払い、土方さんは壬生へ向かって歩き出す。建物の中から出てきた人に注意をとられていると、土方さんは柄頭を握る格好でこちらを振り返っていた。喋りつつ駆け寄りながら、その隣へと並ぶ。

 

「そんなことはありませんよ。私だって生身の人間ですから、欲のひとつやふたつあっても不思議じゃない。未来へ移行した後、新選組のことを調べたんです。私たちの歴史をね。だって、悔しいじゃないですか。私が離脱した後に、何があったのかまるで知らないなんて。」

 

明治元年に富士山丸で江戸へ帰還し、今戸の療養所から千駄ヶ谷に移されて以来、仲間たちの動向がわからなくなっていた。人に尋ねてもわからないの一点張りで、この世から切り捨てられたみたいに虚しかったのだ。

唯一耳に入ってきたのは、彰義隊が上野を包囲しているという話で、当然ながらその中に原田さんがいるなんて思いもせず、彼らを新選組に重ね合わせてしまった私は、魂を飛ばすように肉体でないものを戦わせるしかなかったのだ。

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(新選組はどうなってしまったんだろう…)

(近藤さんは? 土方さんは?)

(戦って戦い抜いて、そして汚名を雪ぐことができたんだろうか?)

 

未来へ移行してからの私は、仲間たちの生き様を無我夢中で追い求めた。残されている貴重な資料を追ううちに、無念の死を遂げた近藤さんのこと、最後まで抵抗を続けた土方さんのことを知るに至ったのだった。

そして、泣きに泣いた。憎しみが、悔しさが胸を焼き尽くした。あの頃流した涙は一生分だと思っていたのに、あんなのはまだ序の口だったのだ。何も知らずにそのまま死んでいたら、自分を怨めしく思うだけで済んだのかもしれないが、朝敵と言われながらも抵抗し続けた旧幕軍、新選組のことを知ってしまったら、過去も未来もこの世のすべてが怨めしくなってしまったのだ。

 

「お前はこの先の未来を知っている…そうなんだな?」

 

最終決断を迫るかのように、土方さんは粛然としていた。声に重みがある。

 

「ええ。私一人の力じゃどうにもならないことが多々起こりますが、だからと言って黙って見過ごすわけにはいかなかったんです。」

「山南の件か…」

 

この時代の人間に話してはいけないのだと知りながら、それでも言わずにはいられなかったのは、山南さんを死なせてはいけないんだと思ったからだ。当時もそう考えていた。結果がわかっていたなら、どんな悪どい手段を使ってでも死なせたりはしなかっただろう。あんなことになるなら、先に何がしかの手を打っておくべきだったと。

土方さんだって、そう思ったに違いない。

 

「明里さんを落籍できて本当に良かった。これで山南さんも孤独を感じずに済むでしょうから。」

 

これで、山南さんの苦悩が晴れればいい。そう思うのに、土方さんの反応は思わしくなかった。

 

「……」

「土方さん?」

「そうだな。俺たちはお前が思っている以上に、その存在に感謝してるんだ。未来に由来する助言がなかったとしても、総司がいることで救われる人間はいるだろう。少なくとも、俺はその一人だ。」

 

しばらく考えに耽っていて、彼は思い出したようにそんなことを言った。

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(今の間は一体なんだろう?)

 

そんな疑問が頭をよぎったけれど、もしかしたら本願寺のことで心配事があるのかなと思い、忘れることにした。

 

「なんですか急に。照れくさい。」

「照れるな。こっちまで恥ずかしい。それより、これから忙しくなるぞ。なんたって江戸の奴らが隊に加わるんだからな。これまで以上に、引き締めてやっていかなきゃならねえ。大所帯になれば、それだけ風紀を乱す人間が増えるってこった。」

 

(そうだった!)

(伊東さんたちがいることを忘れてた)

 

土方さんの頭の中は、先を見据えた心配事で埋め尽くされている。せっかく未来から戻ってきても、これじゃあまるで意味をなさない。今しか見えていないのは、私の方だった。

 

「ええ。わかってます。それで、伊東さんのことなんですけどね…」

 

そう前置きをして口を開こうとするのを、土方さんは厳しい声音で差し止めた。

 

「言うな。」

「え?」

 

驚いて聞き返すと、土方さんはいつもの調子に戻っていた。

 

「助言ならともかく、今お前が明かそうとしたことは未来に関することだろう?」

「そうですけど…」

 

(そのために、私は生かされているんだと思ってた)

 

生かされているというのは言いがかりかもしれないけれど、わざわざ尾形さんをつけるくらい私の扱いを厳重にしていた土方さんだ。密命の噂を否定しなかったのもそのせいだと思っていたし、天下を獲るというのが冗談だとしても、彼にはそのくらいの気概があって当然だと思っていたから。

 

「知りたくはないんですか? 未来に起こりうること。」

 

思いきってそう尋ねると、土方さんは拒絶するみたいに瞳を強くした。

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「知って何になる。たとえそれが回避されたとしても、転げ回る達磨みてぇに身動きがとれなくなるだけだろう。逆に手前が追い詰められるだけだ。物事ってえのは、人の考えや行動ってのは、そう単純じゃねえ。日々何かが積み重なって生まれていくもんだ。自分一人の考えで完結するなら、世の中はもっと分かりやすいだろうな。だが、そうはいかない。他人の感情に左右されたりする。たとえ先読みの力があったとしても、有利に事が運ぶなんてことにはねぇのさ。対処はできるだろうが、真の意味で解決にはならねぇよ。それを、山南の件で思い知った。」

 

私や土方さんが山南さんを救おうとしたように、坂本さんの死を阻もうとした結城くんも、人の心がそう簡単に揺るがないことを知り焦りを感じたのだろうか。

 

(追い詰められた結城くんは、坂本さんに話したと言っていた)

 

本人に告げることで一縷の望みを託したのに、その願いは聞き入れられなかったのだという。

 

「私がしようとしていることは、結局のところ無意味なんでしょうか?」

 

他人の心に寄り添った気になっても、空気を掴むように手の内をすり抜けていく。そういう虚しさを何度か味わった。そして、この先もそんなことの連続なのかと思うと、自分のしていることは果たして意味のあることなんだろうかと疑いたくなってしまうのだ。

 

「この世に無意味なことなんざねえよ。善意から生まれた行動が、義によって成り立つ信念が、どうして無意味だと言い切れる? 手前の感じたままに行動してみゃいいじゃねえか。後悔しないって決めたんだろ?」

 

(土方さんの言うとおりだ)

 

自分でこうと決めたことなのに、今さら投げ出すなんてできるわけがないのだ。自分で待てなくなった荷物を土方さんに預け、ただでさえ重要なこの時期に彼を巻き込んでしまったのだから。

 

「後悔はしないと決めました。絶対に。」

「だったら、手前のしていることに自信を持ちやがれ。腐ってる暇はねえんだ。進むぞ。」

「はい。」

 

力強い言葉に頷き前を向くと、見慣れた壬生の風景が視界いっぱいに広がっていた。発芽して冬を待つ水菜の葉っぱが、やわらかく降り注ぐ太陽の下で瑞々しく色づいている。八木家の裏の木戸に、ただ一人ぽつねんと佇む人影。目を凝らさずとも、それが尾形さんであることは一目瞭然だった。

 

「お迎えみたいですね。」

「ああ。ったく、そわそわとしやがって。」

 

私たちの足が屋敷に近づくたびに、尾形さんは駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえ、胸の前で組んだ両手をしきりに揉みしだいている。

 

「ただいま戻りました!」

 

あと四間はあるかと思われる距離で、声を張りながら尾形さんの出迎えに応じる私だった。

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艶が二次小説です。
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艶が〜る,沖田総司

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