Aufrecht Vol.20 とこしえの花【後】
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【朝顔】

 

この時代に来てから、共同のお風呂を使うことに何の抵抗も感じなくなっていた。まったく抵抗がないかというとそうでもないのだけれど、置屋にお風呂がなかったので馴れるしかなかったのだ。

 

「こないして星はんと一緒に湯に浸かるんは久しぶりな気ィがする。」

 

辛うじて表情がわかる暗がりの中で、ちゃぷんという音が聞こえた。湯気を逃がすためにある明かりとりの窓は、ものすごく高い位置についているから、湯船に先客がいても気づかないことがある。でも、今日は幸いにして貸切状態だから、私と花里ちゃんの二人きりだ。

 

「そうだね。何だか急に忙しくなっちゃって。でも、花里ちゃんが変わらずに接してくれるから、すごくホッとする…ありがとね。」

「そんなんええのに。位が違うても、うちはずうっと友だちや思うとるよ。なぁんも変わらへん。」

 

太夫になってからの私は、以前の生活スタイルとだいぶかけ離れてしまい、忙しさのあまり二度寝してしまうことが多くなっていた。そのせいもあってか、花里ちゃんとおしゃべりをする機会が減ってしまったのだ。

 

(新造の頃は、朝寝坊なんてもってのほかだったんだけどな)

 

太夫に昇格したとたんに部屋持ちとなり、禿や新造もついて、一種の特権階級を得た私。そのためか、よっぽどのことがない限りは秋斉さんも口を挟んだりしてこないし、ありがたいことに割と自由にさせてもらっている。忙しいということを除いては、まさに至れり尽くせりといった感じだ。

今日だって、こうして朝風呂を使わせてもらっているし、各家庭にお風呂がないこの時代の生活様式を考えると、自分の待遇はとても恵まれているのだなぁとつくづく思ったり。そのうえ好きな人ができて、ようやく想いが通じ合ったんだから、こんなにうれしいことはない。むしろ、しあわせすぎて怖いくらいだ。

 

「ところで、えらい念入りにしてはったけど、もしかして…」

 

そこまで言いかけた花里ちゃんの言葉を、私は全力で遮った。

 

「ち、ちがうの!」

「…ちがう?」

「えっと…なんて言ったらいいのかな…その…太夫になると、いろいろ気をつかうというか、手を抜いたらいけないんじゃないかと思って。」

「ふぅん?」

 

その場しのぎの言い訳を並べ立てると、花里ちゃんは納得できないとばかりに片眉をつり上げていた。友だちなんだから、全部白状してしまえというプレッシャーのようなものを感じる。

 

(相談してみたい気もするけど…)

(でも、こんなこと恥ずかしくて言えない…)

 

好きな人と初めて過ごす夜のことを考えると、できる限りの準備をしておきたいと思うのが乙女心だ。心の準備もさることながら、体のお手入れも完璧にしておきたい。一生に一度のことだから、準備を怠けて失敗したり傷ついたりしたくないからだ。

そういう意気込みを友だちと共有するのは、言いづらいことまで明け透けに話さなければならず、やっぱり気恥ずかしさがつきまとう。花里ちゃんのことはすごく信頼しているけど、自分からはとても切り出せなかったのだ。

 

「…全然やましいこととかじゃないんだからね?」

 

沖田さんとの夜を想像しながら、せっせと肌を磨く私は、花里ちゃんの目から見るとすごく単純な子に見えたのかもしれない。とっくに見透かされているのかもしれないけれど、どうしても恥ずかしくて言い出せなかった。

 

「沖田はんのために綺麗にしてはるんやとばかり…そやし、うちも協力したろ思うとったんや。けど、余計な世話やったかもしれへんね。」

 

(ばれてる…)

 

ずばり的を得た彼女の言葉に、さすがの私も動揺を隠せなかった。

 

「…えっ? そんなことないよ?」

「素直に認めたらええのに。うちも応援したるよって。」

「……」

 

沖田さんたちが、まだ壬生浪と呼ばれていた頃のこと――

花里ちゃんは面と向かって、「壬生浪なんて大嫌い」と私に悪態をついたことがある。共感こそしなかったけれど、かつての私もまた、捕らえられて尋問された経験があっただけに、あまりいい印象を持っていなかったのは事実だ。

あれ以来、花里ちゃんの中で、彼らの印象が変わるようなことはなかったと思う。それなのに、私と沖田さんの仲をあたたかく見守ってくれているのは本当にありがたいと思う。

 

(沖田さんのことはすごく好きだし、とても大事だけれど…)

 

花里ちゃんとの友情も、私にとってはかけがえのないものだ。この時代に来て、初めてできた友だちだから。彼女との友情も大切にしていきたいし、ずっと仲良しでいたいと思っている。だから、花里ちゃんの嫌なことはしたくないし、極端に心配をかけたり悲しませたりするのは絶対にしたくはない。何より、彼女のやさしさに甘えて、彼女を傷つけるのだけは絶対に嫌だった。

 

「な? 沖田はんのために、綺麗になりたいんやろ?」

「……はい。」

「よう言うた。ほなら、ちぃと来てみい。」

 

企み顔の花里ちゃんに誘われるまま、私は今夜のための準備に勤しむのだった。

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【牡丹】

 

この娘は、自分から太夫になると啖呵を切っておきながら、いざ太夫として初日を迎える日に泣き腫らした目で俺をはらはらさせた。

今さら登楼できませんだなんて許されるはずもなかったから、俺の手で化粧を施し、作業の合間に藍屋の心得を説きながら彼女を奮起させたのだった。

特に理由はないのだけれど、今も彼女の化粧を見てやっているのはこの俺だ。

 

「わかりやすい子やねぇ。なにやら複雑な心境になってしもうたわ。」

「わたし、そんなに顔に出てますか?」

「そりゃもう呆れるほど。」

 

呆れるでもなく、嘆くのとも違う。どうにも俺は、この娘を前にすると俄然甘やかしたくなるのだ。

 

「ごめんなさい…」

 

理由はないと格好つけてはみたものの、本音を言えば、星のことが気懸りで、俺が勝手にはらはらしているだけなのだ。

 

(いや、もしかしたら…)

 

眩しいものを避けるように、瞼や眉間に皺が寄っている。瞑る瞳は何も見てはいなかったけれど、隠れた俺の本心をはねつけるかのように見え、その拍子に、顎をすくい上げた俺の指先がぶれた。

 

「謝らんでええ。そうやって顔に出るほど素直なんが、あんさんのええとこやさかい。せやけど、わてとしては心中複雑や。娘を嫁にやる男親の気持ち言うんは、こういうことでっしゃろ。」

 

いっそ親にでもなったつもりではぐらかしてしまえ。そうでもしなければ、誰の目にも触れないように、夜が明けるまで星を閉じ込めてしまいそうだった。

 

「別に今夜嫁ぐというわけじゃ…」

「行かせたない。」

「えっ? あの…秋斉さん?」

 

あのままやり過ごすつもりでいたのに、気がつけば星を抱きしめている自分がいた。彼女は腕をだらりとさせ、何が起きているのか理解できないといった様子だ。

 

(俺だって、何が起きてるのか理解できない)

 

悋気だろうか。それすらも飛び越えて、立場にかこつけた独占欲なんだろうか。

 

(何をしてる)

 

頭の中の冷えた領域は自嘲的だった。でも、その隣にあるものは、遠い昔から何かを探し求めて喘いでいた切なさがわだかまっている。

 

「秋斉さん。心配かけてごめんなさい。でも、決めたんです。自分勝手な考えだってわかってるんですけど、どうか許してもらえませんか?」

 

手の置き場所に困る様子もなく、腕をだらりとしたままで彼女は言った。背中が寂しいのを怺え体を引き離すと、向けられた視線はとても清廉としたものだった。しかし、俺の欲は洗い清められず、むしろ頑強になっていくだけだった。それなのに、彼女は意図せず残酷なのだ。

 

「私には、沖田さんが一番大切なんです。きっと、この私の命よりもずっと。」

 

思いを込めるような指先が、あたたかい体温とともに俺の手を包み込んだ。こうされたのでは、とても否定などできそうもない。唯一できることと言えば、彼女が落胆してしまわないように懐の深いところを見せつけることだ。

 

「あんさんが本気なんは、よう分かりましたえ。したいようにすればええ。わては口を挟まんさかい。」

「本当ですか?」

「へえ。ただし、心がしんどいときは、このわてを頼っておくれやす。いつかの昔に言いましたな。親兄弟やと思うて頼っておくれやす、と。わては、いつでもあんさんの味方やさかい。」

 

新選組の沖田を嫌っているわけではないが、所詮彼らは浪士の集まりでしかないし、肥後守預かりであったとしても、藩に属さず士分とも言いがたい。斬り合う道こそが彼の生き様だとすれば、明日をも知れない命を思い、日夜無事を願う星があまりにも哀れではないか。不確かな約束を交わすのは、無防備であり無責任だと思うのだ。

 

(一度でも抱かれると、女は男に夢中になる)

(星もきっとそうなるはずだ)

 

心構えとでも称し、先に手をつけておくべきだったか…と、そんな後ろ暗いことまで考えてしまう。

星に相応しくないのは沖田ではなく、彼の生業だ。いくら気が優しくて誠実であったとしても、移り気な大店の若旦那のほうがよほどましではないだろうか。

 

「ありがとうございます。頼りっぱなしでごめんなさい。でも、これからは自分の足で立派に立ってみせますから。」

 

星が最後に頼るのは、この俺であればいい――。

そんなふうに、心のどこかで高みの見物を決め込もうとしていたのは事実だった。傷ついたこの娘を慰める役目は自分以外にないと思っていた。

でも、もしかしたら、その役目すら根こそぎ沖田に奪われてしまったのかもしれない。

 

「そない気張らんでもええよ。なんのためにわてがおるん。それに、あんさんは今のままでも充分立派や。なぁ、吉野太夫。」

 

太夫の名を口にしたとたん、胴の真中が顫えていることに気づく。幼い頃に覚えた感覚と、抑えつけるために憶えた感覚。それらがせめぎ合うよう同時に俺を責め立てた。

 

「そうでしょうか。まだまだ精進しないと…それでは、行って参ります。」

 

面映ゆい顔を隠すよう三つ指を揃え、菊矢に手を引かれながら星が立ち上がった。俺が仕立てた化粧は、いつになく妖艶に仕上がっている。

 

「気ィ、つけてな…」

 

なぜか気後れしたような声で言うと、言葉もなく振り返った彼女は艶然と微笑んでいた。まるで、男女の別れみたいに「さようなら」と言われているような気分にさせられる。打掛の牡丹が一斉に散り始め、揺れ落ちた香のにほいとともに、俺の一寸手前で消滅していった。

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【柊】

 

「土方さんを退治する方法がありましたよ!」

 

見慣れない格好で朝から動き回っていた総司が、何を見つけてきたのか後ろ手に組んだ腕を隠し、餓鬼そのもののように顔をほころばせている。こんなにも能天気な総司を見るのは、久しぶりだ。

 

「桃太郎かよ。」

「あはは。桃太郎ほど勇猛ではないですがね。効果覿面です!」

 

総司が手にしていたのは、一葉の柊だった。たった一枚の葉っぱなんぞで、何が効果覿面だ。糞の役にも立たないことくらい、餓鬼でもわかりそうなものだが、そこが総司らしいと言えばらしいのである。

 

「手裏剣にもならねぇじゃねえかよ。ふざけんな。」

「おや? ずいぶんと好戦的ですね。しまった。徹底的に退治すればよかったんだ。」

 

柊の軸をつまみながら、総司は意味ありげに微笑んでいた。葉がくるくると回転し、光を打つ棘が異様に尖って見える。

 

「ここは鬼ヶ島かよ。」

「見方によっちゃあそうなんじゃないですか? …うん。きっとそうだ。」

 

さも他人事のように言い、後付で確信めいた頷きをする。遠回しに自己否定でもしているのだろうか。表情の割に、後ろ向きな総司の胸中が読めなかった。

 

「いつになく妙なことを言いやがる。…そうだな、聞いてやらんこともない。」

「なんですか、偉そうに。私はね、ただ単に戦が早く終わってほしいなって思ってるだけですよ。」

 

(また言ってやがる)

(近藤さんが聞いたら、そりゃ泣くだろうよ)

 

今度こそ参戦するのだと鼻息を荒げる近藤さんに、今の総司の言葉など聴かせられるはずもなかった。もとより、言うつもりもないのだが。

 

「さっさと片づけて、それで解散してえってことか? いつぞやも、そんな話があったよな。だが、俺たちの意義がなくなるじゃねえか。」

 

(確実に)

(それは現実になるだろう)

 

俺はそれをずっと恐れていた。この京に着いたあの日から数えて、もう何年目になるだろう。とにもかくにも、今日まで死に物狂いになって追い込んできたのだ。それはもう強迫的に。自分ばかりでなく、周りの人間にまで問答無用で押しつけてきた。

 

(やがて、それすらも終焉を見るのだろうか)

 

終わりを見るのが怖かった。今さら何をしろというのだろう。歴史に残るほどの大戦なしに、このまま引き退がれというのだろうか。

 

「土方さん。私はね、もう十二分に果たしたと思うんですよ。我々のお役目。だって、もともとは将軍警護っていう名目だったわけでしょ? だいたいね、あの人がいけないんだ。」

「清川の野郎か。あすこから何もかも狂っちまったな。…でも、俺たちにとっちゃ、あれが運命だったんだろうよ。」

 

総司と俺とじゃ逆回りだ。互いに考えてることは真逆で、見ている方向が交わることもない。それなのに、俺たちは誰よりも近くにいて、互いを理解しようと努めている。そして、互いをもっとも必要としていた。

だからかもしれないが、総司は妙なことを言う分だけ、後ろ向きな発言が目立つようになっていた。

 

「…運命、って嫌いだな。」

「何を餓鬼みてえなこと…」

 

地面に落ちた総司の視線が、ひどく切なそうに見えたせいで、俺の言葉は続かなかった。おそらく、この先の未来を憂いて身動きがとれなくなっているのだろう。つい最近到着した伊東たちのこともある。誰にでも人懐こいはずの総司が、あからさまに嫌がっているさまは前代未聞だった。

俺たちと伊東との間に一悶着ありそうなことは、総司の態度から見ても火を見るよりも明らかだ。詳細を問わなくても、この先の見通しは立てやすい。

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「でもね、戻ってこられたから、いいこともあるんですよ。」

「変えるんだろ? 未来を。」

「はい。でもね、こればっかりは、相手があって初めて成立することだから、やっぱり不安なんです。」

「だろうな。」

「たいした男じゃなかったと思われたらどうしよう…」

 

(なんだ…星のことかよ)

 

期待していたことを裏切られたかのように、俺の肩先はがっくりとうなだれていた。

近頃の総司と話していると、会話がどこに向かっているのか分からなくなるときがある。たまに思わせぶりで、突然核心をついたりするからだ。俺はそのたびに苛立ちを覚えたり、反対にどきっとさせられたりするのだった。見てくれは総司のまま何も変わっちゃいないが、別人と話しているような気分になることがあり、その奇妙な感覚に正直戸惑いを隠せない。

 

「星さんは血の滲むような努力をして、やっと太夫になったんだ。それなのに、私はいまだに私のまま。何も変わっちゃいない。」

 

(まるで気づいちゃいねぇみてえだ…)

 

本人は自分を相変わらずだと思っているらしいが、自己の認識とはそんなものなのかもしれない。変化は、周りの人間が先に気づくべきものだからだ。その変化に気づいているのは、おそらく俺だけかもしれないが。

そして、変化に気づいていながら、気づかないふりをしなければならないことに、現実としてずれのようなものを感じていた。

 

「変わらないことがいいってこともあるんだ。そうだろう?」

「彼女にとって、相応しい男になりたいんです。誇れるような男に。土方さんが言われるなら分かるけど、私まで鬼呼ばわりされてるなんて、星さんに悪いじゃないですか。」

 

弄んでいた柊の葉が、いつの間にか手のひらで握りつぶされていた。普段からの鍛錬のおかげか血こそ出なかったが、広げた手から落ちた葉は、やはり鋭い棘が突き出していた。

 

「総司が本当はどんな人間か、星さえ分かってりゃそれでいいじゃねえかよ。多くを望みすぎだ。」

「すみませんね。欲張りで。」

「幸せってのは、そりゃあ小さくてささやかだから貴重なんだよ。余所見をしてると、逃げちまうかもしれねえんだ。手前の幸せだろう。落とすんじゃねえぞ。」

「言われなくともそうしますってば。」

 

いつからその格好でいたのかは知らないが、暇を持て余した挙句に袂を汚し、せっかくの一張羅はすでに台無しになっていた。

 

「それじゃあ土方さん。行って参ります。」

 

結局何が言いたかったのだろう。単に弱音を聞いてもらいたかったんだろうか。

ここへ来た時と同じ表情に戻り、総司は猫背をぴんと張りながら門の方へと歩いていく。

 

「そういえば、芹沢さん。あの人、見た目は鬼の親分みたいだったけど、結局はただの人間でしたね。」

「……」

「どうしてかなぁ…たまに会いたくなります。」

 

最後にそれだけを言い残し、総司は島原の方角へと消えていった。

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【帰り花】

 

近くの座敷から、人の話し声が聞こえた。彼女の話では、斜向かいに別のお客がいるらしい。人の気配が絶えないということは、何かの拍子に他人が割り込んで来るかもしれないということだ。

 

(いやだな…どうしよう…)

(とにかく、あらかじめ人払いをさせておこう…)

 

つまらないことに思考を費やすほど、私は繊細でもなかったはずだ。なのに、どうしてこんなにも神経質なんだろうか。

 

「沖田さん? …沖田さんってば!」

「……え? あ…。すみません。ぼーっとしちゃって。」

 

彼女に揺さぶらせて視線を合わせると、困惑気味な表情がすぐそこまで迫っていた。つややかな唇に、玉色の光が反射している。

 

(きれいな色だなぁ)

 

唇を見つめたまま、そこで私はまたもや固まっていたらしい。すると、彼女はたちまち慌てふためいて、恥ずかしそうに顔を背けてしまったのだ。もしかすると、キスされることを期待して待っていたのかもしれない。

 

「…沖田さんってば、熱でもあるんじゃないですか?」

 

恨めしそうに見上げる瞳が、私を責めるみたいに濡れている。私の激しすぎる期待は、彼女の表情や仕草に刺激されっぱなしだった。鼓動はうるさく、脈拍も早い。

 

(おまけに体が熱い気もする)

 

気持ちが昂っているせいか、体の内側に熱がこもっているような気がした。言葉に窮した彼女の言い分も、まったく外れというわけではなかったのだ。

 

「ええ。そうかもしれません。あなたが欲しくてたまらない病に罹ってるんです。だから、熱っぽいのかも。」

「っ!」

 

驚きで振り向いた彼女の顔は、朱を刷いたように色づいていた。膝を詰め、顎をすくい、唇を味わうように啄んでいく。次第に彼女の瞳は理性を崩したようにとろんとし始め、見るからに力が抜けてしまったみたいだった。

 

「…気持ちいいですか?」

 

下唇を食み、舌で輪郭をなぞり、口内で交じり合う。彼女はそれを受け止めながら、私の袖口をぎゅっと握りしめていた。キスだけでこんなにも貪欲な私は、彼女の体を開いたときにどうなってしまうんだろう。彼女を壊してしまわないか心配だった。

 

「隣に…行きましょうか?」

 

接待の場と閨は別になっている。隣室の襖を開け放つと、何重かに積まれた豪華な夜具、左右に分かれた大ぶりの行燈と、大胆に描かれた鳳凰の屏風が設えてあった。私たち二人のためにすべてが整えてあるのだと知り、妙な気持ちの高ぶりを覚えてしまう。高揚感のまま彼女を横抱きにし、上質で柔らかい布団の上に降ろすと、牡丹が乱れ咲く打掛がはらりと落ちていった。

 

「はじめてで…どうしたらいいかわからない…」

 

恥じらって身をよじる彼女は、瞳を濡らしながら私を待ちかねていた。きっと、二度目の夜から相当の期待をかけてしまったに違いない。

 

「私も。はじめてなんです。だから、心配しなくても大丈夫ですよ。」

 

初めてだからといって、別に気負ったりすることはないのだ。相手を失望させないためにどう振る舞えばいいかなんて、本当はどうでもいいことだった。きっと、不器用なくらいがちょうどいい。愛おしく思う気持ちをどれだけ多く伝えられるかの方がよっぽど大事だと思った。ひとつひとつの瞬間が、一生の記憶に残るはずだから。

 

「今夜だけは、私の妻でいてくれますか? もちろん、いずれは妻に迎えるつもりです。それは約束しましょう。だけど、それじゃあ待てないんです。早く私のものにしたい。ちゃんと、証を残しておきたいんです。他の誰にも渡したくない。」

 

愛おしく思う気持ちが高ぶりすぎて、言葉を繋いでいるうちに切なさが加速していった。労咳とはまた別の何かが、胸を圧迫し、震わせている。愛しさとは、こんなにも苦しいものなのか。すべてを吐き出してしまいたい衝動は、雷雨のように激しく荒々しいものだった。胸がつかえて、息が苦しい。

 

「手を伸ばせば、すぐそこにあなたがいる。この歓びは、言葉では言い表せない幸せだ。もう絶対に手放したりするもんか。」

 

次々と言葉は溢れてくるけれど、自分の気持ちが安らかになることはなかった。愛する人と触れ合っているのに、どうしてこんなにも愛を渇望してしまうのだろう。

 

「沖田さん…泣いてる…」

「えっ?」

 

彼女に言われて初めて我に帰り、自分が泣いていることを知った。どうしてなのか、悲しくもないのに涙が出るのだ。激しくなるこの気持ちを止められたなら、涙も自然と止まるのだろうか。

 

「あれ? おかしいな。なんで泣いてるんだろう?」

 

わけもわからずに目をこすっていると、咄嗟にしがみついた彼女の肩が震えているのに気づいた。

 

「…泣いてるんですか?」

「…貰い泣きです。」

「私のせいですね。すみません。」

 

ふるふると頭を揺らす彼女は、泣き顔を見せまいと私の胸にしがみついていた。

崩れ落ちてしまいそうな背中に腕を回し、激しくのぼりつめる感情とは裏腹に優しく抱きとめる。震える息遣いと、微熱を感じる彼女の躰が切なくて愛おしいと思った。

 

「自分でも驚いています。こんな感情、あなたに出会うまで知らなかった。」

「私は、沖田さんの気持ちがうれしかった。今夜だけでも妻にと言ってくれて。だから、あなたの気持ちに応えたいと思うんです。」

 

きっと、この先どこを探したとしても、彼女以上の女性なんて現れることはないだろう。

私たちは時を駆け巡り、ふたたび出逢った宿命の二人だ。必ずいつかは結ばれる。そう信じて終えた魂が、今一度この世に命を吹き返したのだ。

 

(彼女を二度と離さないために)

(今度こそ、全身全霊を懸けて愛するために)

 

「総司さん。私をあなたの妻にしてください。」

 

伸ばしかけた華奢な指先。それらを絡めとり、濡れた目元にキスをした。緩んだ鬢の隙間から、何かの合図みたいに簪が落ちていく。豊かな黒髪が、波打つように光っていた。

 

「愛しています。これからもずっと…」

 

彼女は色づいた躰を小さく震わせながら、大輪の花のごとく咲き続けたのだった。

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艶が二次小説です。
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