include_spiral( ); Vol.1 「獏」
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手足が重く、鉛のようだ。

布団に埋もれながら、床を突き抜けて地面へと吸い込まれていく。

地中深くに落ちていくと、重力があるのかもわからなくなった。体の表面がひんやりとしていて、冷たい。

 

(私は今、眠っているのだろうか?)

 

闇の中心に、薄ぼんやりとした光が見えた。隣り合う点と点が触れ合って、光は徐々に明度を上げていく。点のざわめきは領域を広げ、闇を侵食するように光の手をいっぱいに伸ばしていった。

 

(まぶしいな)

 

そう思ったのも束の間に、光は穏やかなものに変わっていった。あたたかくやわらかいのかと思いきや、ただ闇をくり抜いたように白い空間が浮かんでいるだけだ。なんとなく冷たいというか、温度を感じさせない空間がただそこにぽっかりと浮かんでいる。

しばらくして光は動く湖面のように揺れ始めた。まるで、水に映りこんだ月のようだ。もうしばらくすると、光の波打つ様子がぴたりと止んで、ちょうど真ん中に不鮮明な影が現れた。

 

(なんだろう?)

 

不思議に思い目を凝らしていくと、光の中心に人らしきものが浮かびあがっていた。赤子を抱いた若い母親だ。こちらからでは後ろ姿しか見えず、顔はわからない。しかし、背を丸めた様子からは、深い哀しみが滲み出ているような気がした。後ろ姿に陰があるのだ。

 

(何があったんだろう?)

 

母親が無言で立ち尽くしていると、目の前に若い夫婦がやってきた。何か事情があるらしいことは、次の場面ですぐに判明する。

夫婦の登場とともに、母親は嗚咽を洩らすよう肩を小刻みに顫わせていたからだ。見兼ねた女房が背をさすり慰めている様子だったが、次の瞬間、赤子の泣き叫ぶ声が私の頭の中を劈くよう響いていた。まるで眉間の裏側が拡声器にでもなったみたいに、赤子の甲高い声が延々と繰り返される異様きわまる状況だった。

 

(うるさい…頭が割れそうだ)

 

耳を塞ごうとするけれど、私の手はどこにもない。力を入れてみたり、指でたぐりよせてみたりするけれど、肝心の手はどこを探しても見当たらなかった。そればかりではなく、私という実体があるのかないのかもよくわからないままだった。

 

(そんな…)

(夢だからなのかな?)

 

母親の近くまで行って、赤ん坊が泣き止むようにあやしてあげよう。子守なら散々やってきたし、子どもの扱いなら得意だ。そう思うのだけど、体はどこへ行っても行方不明だった。

 

(手も足も出ないや)

 

現実として本当に手も足もないのだから仕方がない。

こうなってしまったのではどうすることもできないので、とりあえず状況を見守ることにした私だったけれど、世知辛いものを見ているような気がしてやっぱり居たたまれない気分だ。おまけに、赤ん坊はいまだ泣き止まないのだから困ってしまう。

 

(早くこの場面が終わってくれないかな)

 

この夢になんの意味があるのかはわからなかったけれど、見てしまった以上は見届けなければならない。顔の見えない母親のことが、なんとなく気がかりだった。

 

(この親子、大丈夫かな…)

 

心配になってしばらく見守っていると、次の瞬間、母親は意を決したように自らの手で赤ん坊を差し出したのだ。

 

(里子に出すのか…)

 

この時代ではよくあることなのに、それでも私はショックを隠しきれなかった。何か事情があるのかもしれないが、嗚咽を我慢してまで手放さなければならなかった母親の気持ちを思うと、なんとかならないものかと心が痛む。

母親の手を離れた赤ん坊は泣き声をもっと激しくさせて、小さいながらも懸命に意思表示をしている。

でも、すでに決意は固いのだろう。赤ん坊は、夫婦のもとに託されたのだった。

 

(元気でがんばるんだよ)

 

思わず別れの言葉を唱えると、何かの拍子に振り返った母親が力のない目でこちらを見つめているではないか。目と目が合ったように錯覚し、私の心臓がドキンと跳ねたその瞬間??

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「ごほっ…ごほごほっ……ひゅぅ……」

 

突然の発作に胸を上下させていると、墨が光を絞り込むようにして視界の隅々にまで拡がっていった。その薄闇色の中をどこからともなく降ってきた血のごとき鮮烈な赤が、ぼたぼたと不気味な音を立てながら塗り込めていく。手足に冷たい汗が浮かび、私は闇をもがくよう手足をばたつかせた。

恐ろしさと息苦しさのあまり手当り次第に宙を掻くけれども、手に触れるものは何ひとつとしてなく、指の間をむなしくすり抜けていく。

そんなとき、冷えて硬直していく私の手を、あたたかいぬくもりが包み込むようやさしく囁いているのがわかった。

 

「大丈夫ですよ。ゆっくり息をしてくださいね。」

 

こくこくと頷きながら、彼女の紡ぎだすリズムに合わせてゆっくりと息継ぎをする。

私の背に回された手は、まるで母のような手つきだった。

 

「うなされてたみたいですね。こういうときはむやみに起こしてはいけないって聞いたから、しばらく様子を見ていたんです。沖田さんが苦しそうなのを知っていたのに、そのままにしておいてごめんなさい。起こした方がよかったのかもしれないですね。」

 

唇から紡ぎ出される言葉のリズムもまた、ゆるやかに流れ心を落ち着かせてくれた。

背中をなでてくれている手も、やさしくつなぎ合わされた手もあたたかい。そのおかげで、私はすっかり落ち着きをとり戻していた。

 

「そんな…気に病む必要なんて……。ちょっと変な夢を見ていただけなんですよ。それが、発作と重なっただけのことです。それより、起きていて大丈夫なのですか?」

 

やっとの思いで呼吸を整えた私は、七転八倒の末、乱れに乱れた夜具を見て今ごろ羞恥に駆られていた。どれほどのとり乱しようだったかが、これを見れば一目瞭然だ。でも、そんなことはどこ吹く風といった様子の彼女は、私を抱きかかえ寄り添いながら愛おしげに見おろしている。

いつの間にか不寝番が油を足しにきたらしく、行灯の火が確かな明るさを持って私たち二人を照らしていた。

 

「髪に櫛を入れていたところです。なんとなく気になっちゃって。私なんかより、沖田さんのほうが心配。お水を用意させたんですけど、よかったら飲みますか?」

 

枕元にある湯桶に手を伸ばし、((星|ひかり))さんは窺うような仕草で首を傾げた。私はただ「いただきます」と言って、茶碗に水が注がれていくのを静かに見守り、八分目まで入ったそれを手渡されると、喉が渇いていたこともあってか「ぐいっ」と一気に飲み干した。ただそれだけなのに、彼女はどうしてかうれしそうだ。

 

「なんだかうれしそうですね。」

 

そんな彼女を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになり自然と微笑みが生じてくる。じゃれ合うように指を絡めると、星さんはいじけた顔をして指先にきゅっと力を込めた。

 

「沖田さん。その質問はどうかと思います。」

「あっ…しまった。こいつは失言でした。」

 

夢見が悪かったせいもあるけれど、ついさっきまで閨房にいたことをとんと忘れてしまっていた私は、自分が彼女に何をしたのかを思い出して顔が赤らむのを感じてしまった。どぎまぎとしつつ湯呑みを戻すと、彼女もまたはにかんだように笑っている。

 

「ふふふ。そういう野暮天なところが、沖田さんらしくていいと思います。」

「えっ!? 星さんは、好いた男がいつまでも野暮天でいたら嫌じゃないんですか?」

「そりゃあイヤですけど…でも、沖田さんだから許します。」

 

しょうがないなとでも言いたげに、困った顔で笑う彼女がとても愛らしい。こんなにかわいらしい人が太夫となり、吉野の名跡を継いだなら、他の男たちも黙ってはいないのだろう。

 

(星さんは私だけのものなんだから)

 

にわかに頭をもたげてくる独占欲。早くもうまくつき合っていける自信がない。

 

「あなたはどうしてそうかわいらしいことを自然な調子で言うのでしょうね。私としては、気が気ではなくなります。」

 

じりじりと膝をつめて彼女に迫ると、少し戸惑ったような瞳が私を待ち受けていた。期待を抱かせるような唇はわずかな隙間をもって、私を誘うかのように色めいている。

 

「キス、してもいいですか?」

「そんなこと…聞かなくてもいいに決まっ…んっ!」

 

最後まできれいに言い終わるのを待っていたら、私の忍耐が爆発しそうだった。やわらかな唇を強引に封じ込めると、勢い余った私の体は彼女を押し潰してもろとも床に倒れ込んでいた。丁寧に梳いていたはずの長い髪が、またしても夜具の上へと無造作に散っていく。体のことを思えば、二度目を挑むという無謀は避けるべきなのだ。それなのに眠っていた劣情は、このときとばかりに頭をもたげて主張をきわめる。割り開かれた裾の間に、私の胴が見事に差し挟まっていることも無視できない状況だ。下腹で疼く膨らみもさることながら、この状況ではさすがに羞恥を覚えた私は彼女の反応をそっと窺い見るけれど、倒されても押しやろうとしない彼女は、困ったように眉尻を下げるだけで抗議の言葉ひとつも口にしない。その頬に赤みが差しているだけなのだ。

これは合意と受けとるべきか。いいや、そんなのはよくない……はず。

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「そういえば、星さん。私と約束したことを忘れていませんか?」

「えっ…と、何でしたっけ?」

「とぼけるのはなしですよ。私たちは((夫婦|、、))なんですからね。」

 

自分の欲望に歯止めが利かなくなる前に、どうにか注意を逸らしたかった。でも、たったそれだけことをするのに強靭な精神力が要るうえに、そうやって焦ってしまう分だけ言い方が意地悪くなってしまうことに我ながら呆れてしまう。自分の度量の足りなさを、これでもかと思い知らされた気がするからだ。もちろん彼女を追いつめようという意図など最初からありはしなかったが、結果的に恥ずかしい思いを押しつけてしまったのはこの私だ。

 

「だって、急に改まって言うと…なんていうか、その…」

「恥ずかしい?」

「はい。恥ずかしいです。もちろんすごくうれしいのは確かなんですけど…」

「私みたいな野暮天と夫婦になるなんてことは、そう簡単に決心がつく話でもない。ということでしょうか?」

 

わざととぼけて見せたのは、恥じらいに染まる彼女がとても魅力的だったから。でも、やりすぎは禁物だ。

彼女の唇がわなわなと震え出し、次の瞬間には耳にしたことがないような迫力ある声が間近に迫っていたのだから。

 

「総 司 さ ん!」

「うん?」

「いじわる!!」

「あはは。ごめんなさい。つい星さんがかわいくって。」

「もう知らないんだから!」

 

こうして閨の中で冗談を言い合って、二人で夜を明かすことがこんなにも満ち足りた幸せを生むだなんて夢にも思わなかった。一度手放したあのときの自分に、これでもかというほど見せつけてやりたい気分だ。

でも、そのときの自分があったからこそ現在の自分があり、胸いっぱいの幸せを見つけることができたのだ。そう考えると、人の辿る道に無意味なことなんて何ひとつとしてないのかもしれない。

 

「そんなつれないこと言わないでくださいよ。」

 

へそを曲げてしまった星さんは、私に愛想が尽きたと言わんばかりに背中を向けようとするのだが、その動作は見ているこちらが心配になるほどぎこちないものだった。きっと私が無理をしたせいかもしれない。たったひとりの愛するこの人を、異性としてもっと労るべきなのだ。

 

「ごめんなさい。痛みますか?」

「大丈夫ですよ。そんな顔しないでください。」

 

彼女の微笑みに苦痛は感じられなかった。無理をしているという雰囲気もなく、ただ安らぎに満ちたやさしい顔をしている。それは、すでに子を持つ母のような面差しで、すべてを許し、包み込んでくれるような大きな愛情が全身に満ちているかのようだった。

もしも私たちに子どもを授かる日が来るとすれば、彼女は私の思う以上に素晴らしい母親になるだろう。山南さんからも勧められたように、私が父になる日もそう遠くはないのかもしれない。いつかはそのときが来るのかと思うと、まだ実現していないことなのに感慨深い思いで胸がふるえてしまいそうだった。

一度は考えた夢。しかし、諦めて手放した夢。この手で叶えてこその夢。

 

「星さんにもうひとつ約束します。」

「なんでしょう?」

「無事に未来へ帰れたら、向こうで結婚式を挙げましょう。」

「けっこん、しき…?」

 

知らない言葉を投げかけられたときのように、彼女は目を丸くし首を傾げていた。自分の夢を諦めるのならまだしも、彼女の夢まで壊し、諦めさせるように仕向けてしまった過去を今こそ幸福の色に塗り替えたい。

半信半疑にこちらを見上げる彼女の手を引いて、その指先のひとつひとつと自分のそれを合わせながら心に強く誓う。

 

「今日、ここに約束します。」

 

まばたきひとつせず懸命に見続ける瞳の奥で、夢に焦がれた光がきらりと揺らめいているのが見えた。夜空に浮かぶ星々が誰かの夢を叶えるため地上へ落ちていくように、想いを乗せた彼女の流星もまた彼女自身の夢を叶え、私の夢さえも叶えてくれるのかもしれないと思った。

 

「二人で未来へ帰りましょう。」

 

彼女とともに歩む未来をこの手で拓くんだ。

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