音待レイテンシー
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 声が出ないんだ――と。

 僕はしばらくしてやっと、そんな簡単なことに気がついた。

 だって彼女は、あんなにも楽しそうに歌っているから。目を閉じて、世界中の日差しを一身に浴びて踊るように。残酷なほど清潔で何もない病室、その刃物みたいに冷たい白の中で、時折揺れるふわふわのカーテンに鼻先をくすぐられながら。彼女は世界の素晴らしさを蒼空に向け、柔らかに囁きかける。むせかえるほど濃密な生命の香りが、扉を開けた時からずっと、鮮烈に匂い立っていた。

 きれいだった。彼女が異性であることもそこには関係がなかった。一瞬後には影も残らない、神聖で侵し難いその光景に、ただ僕は見惚れた。

 音がないことに気づいたとき、僕は自然と無声映画を思い浮かべていた。現実感なんてまるで皆無。そして彼女の歌声が、世界中の音という音を消し飛ばしたんだって、根拠もなくそう信じ込んだ。そうでなければ自分の耳がいかれたのだろうと。ああ今思えば、その方がどれだけましだったかわからない。でも真実に気づいてしまったその中で、彼女の歌が聴けないのを僕は、純粋に悲しんだ。

 なにと引き換えにしてもいい。彼女の歌を聴きたいと、僕は願った。

 

 ――それから僕は、彼女のただ一人の聴衆となった。

 

 生来耳が聞こえないのだと。必死になって問い詰めた僕に、医者は蔑むように告げた。

 ……でもそれは違う。僕は理屈ではなくわかっていた。彼女は単に僕らとは違う音の世界に生きているだけなのだ。僕は確信し、羨望し……しかしその決定的な断絶を知って、絶望した。

 どうしても彼女の声が聞きたかった。それだけなのに、その願いは僕の手の届かないところにある。彼女の手には触れられても、彼女の声は遠すぎた。僕の声も、僕の願いも、そして次第に募る僕の想いも、違う世界を生きる彼女には届かない。

 それでも僕は、夕立のように降り来る哀しみに震えながら、決して彼女の傍を離れようとはしなかった。

 

 どうしても手話を覚える気にはならなかった。それは余計に彼女との距離を広げる気がしたから。僕と彼女の会話はいつも筆談で、それもよほどのことでもない限り筆をとらなかった。僕は臆病な意地っ張りで、彼女はこちらの世界に関心自体、希薄だった。

『海』

 紙の上でさえ無口な彼女は、その紙を微笑みながら僕に突きつけた。その頃には僕も彼女も、身体だけはすっかりさっぱり快くなっていて、普通に学校にも通っていた。もちろん別々の学校だけれど、僕は暇があれば彼女を帰り道に待ち伏せた。

そんなある放課後の、唐突な申し出。

『行こう』

 当たり前のように僕は返事をして、彼女の手を引いて歩き出した。海までの道のりは十キロ以上あったけど、僕らはゆっくりゆっくり、本当にゆっくりゆっくりと前に進んだ。

 太陽はいつの間にか沈んでいた。半分よりも少しだけふくらんだ月が、天高く上がってもまだ、僕らは止まることなく歩き続けていた。急ごうなんて気は起こらなくて、次第にかげりはじめる星空の下を、影を引きずるようにして二人で進む。

 とうとう雨が降り出した。あっと思うより先に土砂降りになり、呆然と見上げる僕の顔を容赦なく叩きつける。緞帳を下ろしたみたいに音という音が吸い込まれて、雨音以外に世界から音が消え去った。彼女と初めて会った時のことを思い出させる、限定的な無音の世界。途方にくれて立ち尽くす僕の後ろで、彼女は僕の手を変わらず握ったまま動こうとはしなかった。その重みが急になくなって、僕は滑稽なくらいに慌てふためいた。

 

 そこに、彼女はいた。

 

 僕の手を、握り締めたその手を、雨を迎えるみたいに大きく掲げ。彼女は笑っていた。祈るように、まぶたを閉じ、その口を大きく開けて。彼女は雨の中で歌っているようだった。楽しそうに、これ以上ないくらい、幸せそうに。

 僕は愕然として、残った手で目を覆った。

 

 ……声が、聞こえた――気がした。

 

 もちろんそれは錯覚でしかなくて、

 彼女の声はすぐに遠くかすれて消えてしまったけれど。

 それでも僕は気づいていた。共感には程遠く、理解なんておこがましくても。今、この時だけ僕は、彼女と同じものを感じている。この世界から音なんてものがなくなってしまえば、そこは彼女の世界だったんだ。身体を打つ雨粒のリズムも、頬に絡みつく風の感触も。みんな彼女と共にある。

 僕は確かに彼女の隣にいる。彼女の世界を感じている。たったそれだけのことが、呆れてしまうくらい幸せで、たまらず涙が零れた。相変わらず彼女の歌は聞こえない。でも僕らの世界はちゃんと繋がっている。そのことがたまらなくうれしいと感じた。

 

だから僕は、待つことに決めた。

今はまだ、彼女の歌は僕まで届かないけど。

でもいつか、きっと僕に追いついてくるはずだから。

眠るように穏やかな気分で、僕は今日も耳を傾ける。レイテンシーを、待ちながら。

 

 

レイテンシー(名詞)

 電子楽器等で、発音を指示(打鍵orパッドを叩くなど)してから耳に到達するまでの時間差のこと。生楽器に比べ、データを読み出す作業分だけ実際に音が出るまでに遅延が生じる。

 

説明
一応ボーイミーツガール。ただ、短編なので行間を読ませる部分が多いですね、改めて見ると。
読後感は悪くはないと思いますが、ハッピーエンドではないかも?
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