機械仕掛けのカンパネラ Part.2
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第7話 積み重なる疑惑

 

「おかえりー」

 ダイニングテーブルに教科書や参考書を広げて勉強していた七海は、玄関の開く音が聞こえて拓海がリビングに入ってくると、待ち構えていたように明るい笑顔を向けて声をかけた。

 ああ、と彼は若干の疲れをにじませて応じると、コンビニの袋をテーブルの端に置いて自室に向かい、ビジネスバッグだけを置いてすぐに戻ってきた。いつもと何ら変わりのない彼の様子にひそかに安堵する。

 

 あのあと武蔵には最寄り駅からふたつ手前の駅まで送ってもらい、そこから電車に乗って帰った。家に着いたのは日が沈みかけるころである。後をつけられていないか何度も周囲を確認したが、そういう気配はなかったので大丈夫だろう。

 できれば、父親の敵に会ったことは内緒にしたい。

 黙っていれば、拓海は外出したことさえ気付かないはずだ。ましてどこで誰と会ったかなどわかりようがない。それでも尋ねられたときのために一応の筋書きは用意した。まるきりの嘘ではないというのがミソである。

 心配なのは愛用の拳銃をとられてしまったことだ。さすがにこればかりは説得力のある言い訳が思いつかない。ただ、拳銃はたくさんあるので、ひとつくらいなくなっても気付かないかもしれない。それに望みをかけるしかないだろう。

 

 七海が勉強道具を片付けているあいだに、拓海は向かいに座り、コンビニの袋から大きめの容器をふたつ取り出した。そのうちのひとつを七海に手渡す。大好物のミートソーススパゲティだ。熱いというほどではないがまだ十分にあたたかい。

「どうした? いつもなら大喜びするのに」

「喜んでるよ!」

 拓海に尋ねられ、七海は慌ててはしゃいでみせる。

 いつもは受け取るなり目を輝かせて大喜びするのだが、今日は武蔵の家で食べたスパゲティのことをふと思い出し、ぼんやりしてしまった。不審に思われて追及なんかされたらまずい。いつもどおりにしなければとあらためて気を引きしめる。

 拓海はジャケットを脱いで椅子の背もたれにかけ、ネクタイを緩めながら、七海がパッケージのビニールを破いて蓋を開けるのをじっと見ていた。まるで不審な様子がないかを探るかのように。しかし七海はあえて無邪気に気付かないふりをした。

「いただきます!」

 使い捨てのプラスチックのフォークで、たっぷりソースを絡めたスパゲティを口に運ぶ。七海の大好物はいつもと変わらない味でおいしかった。けれど??武蔵の作ったものの方が何倍もおいしいと思ってしまった。

 拓海の前でこんなことを考えているとまた訝られてしまう。わかってはいるが、いまさら意識しないようにするのもなかなか難しい。せめて表情には出ないよう、いつも以上にはしゃぎながら笑顔を作ってごまかした。

 

「七海、勉強はちゃんとしているのか?」

「うん、してるよ」

 食事を終えてペットボトルのお茶を飲んでいると、拓海が話を振ってきた。正直、今日は夕方まで外出していたので時間はだいぶ少ないが、一応勉強したので嘘ではない。そう思いつつも内心すこし気まずく感じていた。

 そんな七海を、拓海は片手でペットボトルを持ったままじっと見つめる。

「今度、抜き打ちテストをするからな」

「抜き打ちテスト?」

「点数が悪ければ射撃場出入り禁止だ」

「そんなぁ!」

 七海はガタリと立ち上がり、テーブルに両手をついて勢いよく前のめりになる。

「あの男を殺さなきゃいけないのに!」

「だったら、ちゃんと勉強すればいい」

「勉強してても点数悪いことあるよ!」

「結果が出なければ意味がない」

 返す言葉を見つけられず、七海はギリと奥歯を噛みしめてうつむいた。テーブルについた自分の小さな手を見つめながら、爪が食い込むくらいに握っていく。

 拓海は静かにペットボトルを置いた。

「七海、おまえに勉強させるのは生きていくために必要だからだ。決して意地悪しているわけじゃない。わかるな?」

「うん……」

 いつも言われているので、彼がそういう考えだということはわかっている。そして七海も彼が言うならそうなのだろうと納得している。だから気が進まないなりに勉強してきたつもりだ。

 しかし、今回だけは射撃場を使わせないための方便ではないだろうか。だとしたら抜き打ちテストも卑怯なくらい難しいかもしれない。あの手この手で復讐どころではない状況に追いやられそうな気がする。

 こうなったら、テストの前に終わらせるしかない??。

 あしたにでもさっそく武蔵に連絡をとって会いに行こう。もちろん拳銃を持って。使い慣れたものは橘家で奪われてしまったが、同じ型の拳銃はまだあったはずだ。使用感がすこし違うかもしれないが何とかなるだろう。

「どうした?」

「ん、テスト頑張らなきゃって思ってただけ」

 怪訝な拓海の声に、七海はとっさにニコッと笑ってそうごまかした。

 

「おやすみなさーい」

 シャワーを浴びて歯磨きをしてリビングに戻ってきた七海は、ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいる拓海に軽く挨拶をして、自室に向かう。

「七海」

 その声に足を止めて振り向くと、拓海が無表情でブルゾンとキャップを差し出してきた。帰ってすぐに脱いでラグの上に放置していたものだ。

「脱ぎ散らかすなと言っているだろう」

「ごめんなさい」

 トトトと小走りで受け取りに行ったが、彼は手を放さず、じっと七海の目を見つめて尋ねる。

「今日、どこかに出かけたのか?」

「うん、二駅向こうのコンビニまで」

「何か買うものがあったのか?」

「どら焼きが食べたくなっただけ」

「そうか」

 七海はどきどきして手に汗がにじむのを感じたが、ブルゾンとキャップから彼の手が放れると、信じてもらえたのだとひそかに安堵の息をついた。念のため嘘の筋書きを考えておいて良かったと心から思う。

 筋書きは自然なものだったと自信を持っている。近所の店には行かないよう拓海に言いつけられているので、いつも何駅か離れたところまで出かけているのだ。今日は武蔵にバイクでその駅まで送ってもらったあと、実際にコンビニでどら焼きを買って帰ったのだから矛盾もない。

「じゃあ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 七海は受け取ったブルゾンとキャップを抱きかかえ、自室へ駆けていった。

 

 煌々とした蛍光灯の下。

 ひとりになった拓海は握っていた左手をゆっくりと広げた。手のひらにはボタンよりやや大きいくらいの黒い物体が載っている。七海の脱ぎっぱなしのブルゾンを手にとったとき、偶然内ポケットに貼り付けられたそれに気付いて取っておいたのだ。

 拓海はそれが何なのかを知っている。

 無表情のまま、まだ熱い飲みかけのコーヒーの中にぽちゃんと放り込む。静かに揺らぎながら沈んでいく黒い影を見下ろすと、わずかに眉をひそめ、テーブルに置いた手をゆっくりと握りしめていった。

 

 

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第8話 緩やかな檻

 

「ん……??」

 七海はぼんやりと目を覚ましてすぐに違和感を覚えた。

 怪訝に思いながら眠い目をこすって上体を起こし、そこではっきりと異変に気付く。自分のものとは違うふかふかの布団、広いベッド、格調高そうな家具、見たこともない綺麗な部屋??パジャマこそいつものものだが、ここがどこなのか見当もつかない。確か、拓海におやすみなさいと挨拶をして、自分の部屋の自分の布団で寝たはずなのに。

「七海……起きたのか……?」

 すぐ隣から眠そうな声が聞こえてビクリとする。振り向くと、Tシャツ一枚の拓海が体を起こすところだった。この広いベッドで一緒に寝ていたらしい。

「ここどこ? どういうこと?」

「都内のホテルだ。事情があってしばらくここで暮らさなければならない。きのう七海が寝たあとで急に決まってな。起こすのも可哀想でそのまま連れてきてしまった。すまない」

 ところどころ濁されたようなはっきりとしない説明に、七海は眉をひそめる。

「事情って?」

「すまないが話せない」

「仕事関係ってこと?」

「……まあな」

 仕事に関する事柄はたとえ家族であっても話せない。拓海がそういう職業についていることは心得ている。どんな事情なのかわからないと落ち着かないが、いくら尋ねても無駄なのであきらめるしかないと思う。

「わかった。拓海も一緒なんだよね?」

「ああ、いつもどおり仕事には行くが」

「そっか……」

 知らない場所にひとり残される心細さに思わずしょんぼりするが、拓海は気付いているのかいないのか無表情のまま淡々と畳みかける。

「七海はこの客室から出ないでくれ」

「えっ、なんで?」

「詳しくは言えないが、七海のためだ」

 これもさきほどの事情に関係しているのだろうか。ドラマなどでは危険な仕事をしていると家族まで狙われたりするが、そういうことなのかなと当たりをつける。

「じゃあ、ごはんはどうするの?」

「あれかルームサービスだな」

 拓海が『あれ』と言って指さしたテーブルの上には、クッキーやポテトチップス、バームクーヘンなど日持ちのする菓子類が山盛りになっていた。自宅にあった買い置きの食料をそのまま持ってきたのだろう。もともとそのほとんどが七海のおやつか昼食用である。

「ルームサービスはわかるか?」

「ううん」

 拓海はサイドテーブルの電話とファイルを取り、七海に見せながら説明する。フロントに電話をしてメニューを頼むと持ってきてくれるらしい。夕食も、拓海の帰りが遅いときは自分でルームサービスを頼めと言われた。

「勉強道具はそこの紙袋に入ってるから、ちゃんと勉強しろよ」

「うん」

 拓海は抜かりなかった。勉強があまり好きではないので内心ひそかに落胆する。そういえば抜き打ちテストの前に武蔵に会いに行こうと思っていたが、ここから出られないのでは無理だ。射撃練習もできない。

 まさか、そのために???

 橘の住所を知っていたのに隠していたり、射撃場を出入り禁止にしようとしたり、最近の拓海は復讐を阻もうとしているようにしか思えなかった。同様に、ホテルに連れてきたのも強制的に復讐から遠ざけるためではないだろうか。

 一瞬、そんな疑念が頭をかすめてドキリとしたが、いくらなんでも考えすぎだと思い直す。ホテル暮らしなどいつまでも続けるわけにはいかないのだから、一時しのぎにしかならない。そんなことくらい頭のいい拓海ならわかるはずだ。

「いつまでここで暮らさなきゃいけないの?」

「まだわからない。長引かせないつもりだが」

「うん」

 長引かせないということであれば、やはり仕事絡みの事情と考えていいだろう。

 武蔵に会いに行くのも、射撃練習も、数日のおあずけですむのなら我慢できる。もどかしいが下手に騒ぎ立てても怪しまれるだけだ。自宅に戻れる日がくるのをおとなしく待っていよう??七海はひそかにそう決めて、ひとり小さく頷いた。

 

 朝食は、拓海がルームサービスを頼んだ。

 コンチネンタルブレックファストという聞いたこともないメニューだが、実際に運ばれてきた品々はわりと一般的なものだった。ただ、数が多い。トーストとオレンジジュースの他に、クロワッサンなどの変わったパンも数種あり、またヨーグルトやフルーツ盛り合わせもついている。食後にはホットチョコレートまで出てきた。普段トーストとオレンジジュースだけの七海にとっては、かなり豪勢な朝食だった。

 

 朝食を終えると、拓海はシャワーを浴びて仕事に出かける準備をし、扉付近でスリッパから革靴に履き替える。その後ろで、七海はいつものように履き終えるのを待ち、預かっていたビジネスバッグを手渡した。

「いってらっしゃい、パパ」

 他に聞いている人はいないが、自宅ではないので念のためそう呼んだ方がいいと判断した。彼も賛同してくれたのか軽く頷き、行ってくると控えめな声で言って客室をあとにした。

 

「わぁ……」

 ひとりになると、七海は客室の中を見てまわった。

 寝室、リビングルーム、バスルーム、お手洗いと部屋が分かれていて、そのどれもが自宅よりはるかに広かった。家具も内装もやたらと華やかではあるが、調和がとれているためかうるさくなく上品さが感じられる。まるで豪邸に迷い込んでしまったかのようで落ち着かない。

 リビングルームには、朝食時に使ったダイニングテーブルのほかに、社長室にありそうな重厚感のある執務机もあった。残念ながら勉強するのに不便はなさそうだ。包み込まれるようなやわらかいソファもあるので、疲れたときはここでのんびりお菓子を食べるのもいいだろう。

 バスルームはお風呂とは思えないほど明るく開放的な雰囲気だった。外に面した側がガラス窓になっているためにそう感じるのだろう。洗面台には歯ブラシやヘアブラシ、カミソリ、化粧品などたくさんの小物が用意されている。備え付けのドライヤーは家のものよりずっと立派だった。

 タオルは大きなものから小さなものまで棚に山積みにされていた。どれも厚みがあってふかふかで手触りがとてもやわらかい。薄っぺらくごわごわしたものしか知らなかった七海は、そのタオルに顔をうずめてひとりではしゃいでいた。

「すごっ!」

 窓の外に目を向けると、大都会の壮観な景色がはるか遠くまで広がっていた。驚くくらい地上が遠くてかなりの高層階であることが窺える。外を見ているうちに新鮮な空気に当たりたくなったが、窓には鍵どころか取っ手もないため開け方がわからず、ひとまずはあきらめるしかなかった。

 寝室の隅にはふたつの古びた紙袋が置いてあった。大きな紙袋には七海の着替えが山盛りに詰められていたので、その中からいつものジャージに着替える。隣の小さな紙袋には教科書などの勉強用具一式が入っていたが、一目見てそっと紙袋の口を閉じた。現実から逃げるようにそそくさと寝室をあとにする。

「あ、そっか」

 射撃練習は無理でも体力作りならここでもできる。鏡に映ったジャージ姿の自分を見てそのことに気付き、七海はすぐさま広いリビングルームでランニングを始めた。下は絨毯敷きなので素足でもまったく問題はない。ランニングのあとはいつものトレーニングメニューをこなしていく。

 やっと見つけたんだ??。

 絶対に父親の敵を殺して復讐を果たす。拳銃もオルゴールもイルカのぬいぐるみも手元にないが、そのくらいで意欲が薄らぐほどこれまでの積み重ねは軽くない。むしろ敵の所在を突き止められたことで、これまでにないくらい気持ちが高揚していた。

 

 その日の夜。

 拓海は自宅マンションの扉をそっと開けて、拳銃を片手に中に入る。暗くひっそりとした部屋を、警戒しながらひとつひとつ確認していったが、どうやら誰もひそんではいないようだ。押し入れやクローゼットも調べたので見逃しはないだろう。リビングの蛍光灯をつけてから拳銃をホルスターにしまう。

 お世辞にもきれいとはいえない散らかった部屋。自宅を出る前とほとんど変わらないが、微妙に物の位置や向きが違っている。特に入口付近は。かなり慎重に元に戻そうとした努力が窺えるものの、完璧ではない。

 やはり侵入者がいた。

 脱ぎ散らかしたシャツ、靴下、上着、無造作に散らばった新聞、雑誌??侵入者には単にだらしないだけの部屋に見えていただろうが、すべて拓海が自宅を出る前にあえて置いた物だ。その位置も形状もきっちり記憶していた。

 引き出しや押し入れの中にも動かしたあとがあった。やはりきちんと元に戻そうとしたようだが、それでも揃え方など微妙な違いが見てとれる。ただし無くなっている物はなさそうだ。現金にも預金通帳にも手はつけられていない。

 単なる窃盗犯ならこのわかりやすい現金を見逃すはずはない。何より、動かしたものを元に戻すなど時間の掛かることをするとは思えない。する理由がない。盗むだけ盗んで早々に退散した方が捕まるリスクは低いはずだ。

 拓海の自室と射撃場には入られた形跡がなかった。鍵をかけていたからだろうか。あるいは必要がなかったからだろうか。射撃場への入り口はわかりにくいので、侵入者が見つけられなかった可能性もある。

 相手が誰なのか、目的は何なのか。それがわかるまで警戒が必要だ。

 きのう、七海のブルゾンにGPS発信機が付けられていた。コンビニに行ったと話していたが、様子がおかしかったのでそれだけではない気がする。誰かと接触してそのとき発信機を付けられたのではないだろうか。

 七海が拓海を売るような真似をしたとは考えていない。ただ、本当に隠しごとをしているとすれば何かしらの理由があるはずだ。やみくもに問いただしたところで素直に話すとは限らない。まずは慎重に調べて手がかりだけでも掴む必要がある。

 拓海を狙っているのなら、子供という弱点を利用してくるのは当然と言える。こういう懸念があったので、なるべく七海と一緒に外を歩かないようにしていたのだが、その気になれば同居人がいることくらい突き止められるだろう。

 いや、拓海ではなく七海本人が目当てということもありうる。外界との接点がほとんどないうえ存在自体が秘匿されている彼女を狙うとすれば、犯人はあの男以外に考えられないが??。

 まさか、本当に?

 その場に立ちつくしたまま深く眉根を寄せて考え込む。そして戸棚のオルゴールに目を向けると、誘われるように手を伸ばして木彫りの蓋を開けた。鈍く光る黄金色のドラムがゆっくりとまわり、せつなくも胸を高鳴らせる美しい旋律を奏で始める。

 きっと、永遠に変わりはしない。

 飽きるほど聴いたはずのその音色にじっと耳を傾ける。やがて最後の一音をはじいてオルゴールのドラムが止まり、再び静寂が訪れると、奥歯を噛みしめたままそっと震える瞼を下ろした。

 

 

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第9話 墓石に刻まれた名前

 

 七海はゆっくりとふすまに手をかけて開いていく。

 その向こうに何があるか知っているので止めようとするが、体は言うことをきいてくれない。またしてもあの光景を見なければいけないなんて。イルカのぬいぐるみを掴む手に縋るように力をこめる。

 徐々に明るく開かれていく視界に映るものは、眩いばかりの月明かりに照らされた血溜まりと、その中で血まみれになって横たわる父親と、傍らでべっとりと手を血に染めて立ちつくす男??。

「……だれ?」

 そう尋ねるものの、いまとなってはもう誰だか知っている。

 踏み出した足は血溜まりをぬるりと踏みつけた。まだほんのすこしあたたかい気がする。きっと血が流れてからそれほど時間は経っていない。思考は冷静に働いても、その恐ろしく現実味のある感触に否応なく感情は揺さぶられる。

「おとうさん?」

 呼びかけても反応はない。指先も瞼も唇もピクリとも動かなかったので、このときにはすでに事切れていたと考えるのが自然だろう。漂う生臭さは単に血の匂いというだけではなかったのかもしれない。

 正面では鮮やかな青色の瞳がじっとこちらを見つめている。その瞳の色も顔立ちもまぎれもなく武蔵そのものだ。彼は血溜まりを踏みしめながら近づいてくると、赤黒い血に染まった手のひらを七海の目の前に伸ばし??。

 

「うわああああああ!!」

 七海は絶叫して飛び起きた。頭から、顔から、体から、全身が汗ぐっしょりになっている。心臓はドクドクと痛いくらいに収縮し、体中が脈打っているかのように感じる。自分の血がめぐる音もうるさいくらいに聞こえた。

「どうした、七海?」

「あ……」

 隣の拓海が体を起こしてじっと覗き込んできた。暗がりで表情までははっきりと見えないが、そのまなざしはどことなく心配そうに見える。七海はすこし落ち着きを取り戻した。

「平気、夢を見ただけ」

 あの日から幾度となく繰り返し見ている夢。

 そのうち夢の中で夢だと認識できるまでになった。だから悲しかったりくやしかったりして涙ぐむことはあるが、こんなふうに飛び起きることはなくなっていた。なのに今日はどうしてこうなってしまったのか。

 理由はわかっている。夢の最後がいつもと違って初めて見るものだったからだ。いつもは武蔵がじっとこちらを見ているところで終わる。実際の記憶もなぜかそこでぷっつりと途切れていた。

 しかし、今日の夢には続きがあった。

 それが現実にあったことなのか単なる夢なのかはわからない。もし現実なら、あのとき武蔵に何かされていたということになるが、いくら何でもそんな重大なことを忘れているとは思えない。やはりただの夢でしかないのだろうか。

 あっ??。

 ふいに、ふわりと包み込むように抱きしめられて現実に引き戻された。衣服越しに伝わってくる優しいぬくもりに、こわばった心がほどけていくのを感じる。幼いころに悪夢でうなされたときもよくこうしてくれていた。

「まだ朝まで時間がある。寝よう」

「うん」

 拓海に促されて再びもぞもぞとベッドに横になる。横になってからも彼はゆるく抱いてくれていた。七海の目にじわりと熱い涙がにじみ、ぐすっと小さくすすり上げてつぶやく。

「あいつ、やっぱり殺さなきゃ」

「ああ、殺そう」

 なだめるように背中に大きな手が置かれる。そのあたたかさに安心し、甘えるように彼の胸元に額を付けて眠りにつく。

「すまない……」

 頭上にぽつりと落とされたその言葉は、七海の意識には届かなかった。

 

「ねえ、まだ帰れないの?」

「もうすこし待ってくれ」

 七海はコンチネンタルブレックファストを食べながら、向かいの拓海に問いかけるが、彼の返事はいつもと同じように素気ないものだった。むうっと唇をとがらせながら眉を寄せて睨んでも、彼はまったく意に介さない。

 ホテル暮らしを始めて一週間。

 当初は数日程度だと思っていたのにいまだに帰れていない。ホテルの食事はとてもおいしいし、客室係が隅々まで掃除をしてくれるし、タオルもシーツも毎日替えてくれるし、自宅よりはるかに気持ちよく過ごせるが、七海には大切な目的がある。いつまでもこんなところでのんびりしているわけにはいかないのだ。

 やはり復讐から遠ざけるためにここに閉じ込めているのではないか。そんな疑念が頭をもたげる。橘の住所についてもまだ調べがついていないと嘘を言い続けている。拓海は恩人だし感謝しているが、彼が何を考えているのかわからなくてもやもやする。その不安定な気持ちと焦りがあんな夢を見させたのかもしれない。

「…………」

 七海は無言でクロワッサンをもぐもぐとかじりながら、思案をめぐらせた。

 

「いってらっしゃい、パパ」

「ああ」

 七海はいつもどおりビジネスバッグを手渡し、仕事に向かう拓海をひらひらと手を振りながら見送った。その明るい笑顔の下に、彼には絶対に見せられない本心と決意を押し隠して。

 ごめん、言いつけ破っちゃう??。

 拓海の足音が遠ざかり聞こえなくなったのを扉越しに確認すると、さっそく出かける準備を始めた。Tシャツとデニムのショートパンツに着替え、ブルゾンを羽織り、キャップをかぶる。

 客室を出るなと言われている以上、拓海から軍資金をもらうわけにはいかなかったが、幸いあちこちのポケットに現金が入ったままになっていた。小銭だけでなく千円札や五千円札も何枚かある。

 しかし、残念なことに靴はどこを探しても見つからなかった。七海が寝ているあいだにそのまま連れてきたので忘れていたのだろう。あるいは、ここに閉じ込めるためにあえて持ってこなかった可能性もある。

 だからといってあきらめるつもりはない。スリッパのまま、やたらと天井の高い豪華なロビーを抜けて堂々と外に出る。ときどきホテルの従業員や通行人などが気付いてチラチラと見ていたが、誰も咎めはしなかった。

 武器、どうしようかな??。

 本当は自宅に戻って拳銃を取ってくるつもりだったが、鍵がなかったのだ。靴と同じく自宅に置いてきたのだろうと思う。拳銃などそこらへんで売っているわけがないし、売っていたとしても手持ちで足りるはずがない。

 代わりに近くの百貨店で丈夫そうな果物ナイフを買った。これでも急所を狙えば十分に殺せるのではないかと考えて。ただスリッパ履きで襲いかかるのは難しいと判断し、安いスニーカーを買って履き替えた。

 それから公衆電話を探しまわり、駅構内の隅にひっそりと置かれた緑色のそれを見つけると、手持ちの十円玉をすべて投入して武蔵に電話をかける。携帯番号を書いたメモは手元にないが、もらったときに語呂合わせで記憶していた。

『はい』

 数回の呼び出し音のあと、男性の声で短い応答があった。武蔵の声に似ているが確信は持てない。

「えっと……武蔵?」

『その声は七海か?』

「うん」

 七海がほっとしたのと同時に、電話の向こうの彼も安堵の息をついているようだった。

『連絡がないから心配してたぞ』

「外に出るなって言われてたから」

『……いまは大丈夫なのか?』

「うん」

 もし拓海の仕事関係で狙われているのなら危険かもしれないし、無断でホテルを抜け出してきたことは大丈夫といえないが、そんなことまで話す必要はないだろう。軽く受け流して本題に入る。

「あのさ、一緒に行きたいとこがあるんだけど」

『ん? 父親の敵を取るんじゃなかったのか?』

「その前にそこで話がしたいんだ」

 以前は父親の敵を殺すことしか考えていなかった。けれどその父親の敵である武蔵を知り、父親に良くしてもらったという話を聞いてからは、謝罪させたい、後悔させたい、罪悪感に苛まれてほしいと思うようになった。ただ殺すだけでは気がすまない。

「遠いのか?」

「港区の青山なんだけど、わかる?」

『ああ、じゃあバイクで迎えに行く』

 いまどこにいるのかと問われて駅名を告げると、東口で待つように言われた。

 二時間近くかかるらしいが、特にすることもないし下手をして道に迷っても困るので、防護柵に腰掛けて行き交う人々を眺めながらぼんやりと待つ。空はうっすらと灰白色に曇っている。ふと今日の天気予報は曇りのち雨だったことを思い出し、急に心配になった。

 

「悪い、待たせたな」

 空はだいぶ雲が厚くなってきているが、まだ雨は降っていない。

 武蔵はまっすぐ七海の前にバイクで乗りつけ、フルフェイスのシールドを開けてそう言うと、子供用のヘルメットを投げてよこした。七海はキャップを脱いでポケットに押し込み、代わりにそのヘルメットをかぶると、彼の後ろに跨がって腰に腕をまわす。広い背中はこのまえと同じようにあたたかかった。

「青山方面に向かえばいいんだな?」

「うん、近くなったら道案内する」

 武蔵は多くを訊かずに七海の望むままバイクを走らせる。目的の場所までそれほど時間はかからなかった。バイクを駐車場に止めてそこからは徒歩で向かう。七海は歩きながらキャップを取り出してかぶった。

 武蔵の表情は硬かった。

 駐車場にも途中の道にも看板が出ていたので、どこに向かっているのか、そこに何があるのか、おおよそのことは察しているに違いない。それでも何も言わずに七海とともに歩いている。

 二人並ぶのが難しいくらいの細い階段を上りきると、小高い丘の上に出た。開けた視界の先には様々な墓標が壮観なまでに並び、遠くにはうっすらと霞んだ海も見え、ほんのすこし潮の匂いが漂っているように感じる。

 七海は整然と並んだ墓のあいだを迷いなく進んでいった。そして、ひとつの墓石の前で足を止めてそれと向かい合う。キャップの下で長めの前髪が風に吹かれて揺れた。武蔵も隣に並んで同じ墓石を見つめていたが、そこに刻まれた名前に気付くとハッと目を見開いた。

「七海って、えっ、おまえ……?」

「そうだ、お父さんと僕のお墓だ」

「どういうことだ?」

 俊輔の墓であることはここに来るまでに察していただろうが、七海の名前まで刻まれているとは思わなかったのだろう。ひどく混乱している様子が見てとれる。それを横目で見ながら、七海は体の横でグッとこぶしを握りしめていく。

「あのときお父さんを殺した犯人をはっきりと目撃したから、僕も殺されるかもしれないって、お父さんの親友が僕を守るために死んだことにしてくれた。それからずっと学校にも行かないで隠れて暮らしてきたんだ」

 その声はいつしか涙まじりになっていた。

 隠れて暮らすといっても、家の中にいるかぎりは自由に過ごすことができたし、買い物に出ることも条件付きで許可されていた。父親の敵を取るという目的に向かって、拓海の援助を受けつつ充実した生活を送ってきたと思う。

 それでも決して寂しくなかったわけではない。拓海が仕事に行っているあいだはひとりぼっちだ。学校に通うという当たり前のことが許されず、友達を作ることもできない。何より大好きな父親はもうどこにもいない。

 ザッ、とコンクリートの地面を蹴って武蔵と間合いを取ると、ショートパンツの背中側に挟んでおいた果物ナイフを取って鞘を抜き去り、あらわになった刃先をまっすぐ腕を伸ばして彼に向ける。

「おまえはお父さんを殺した! そして僕も殺した!!」

 そう叫ぶと、堪えていた涙が大粒の雫となり頬を伝い落ちた。一瞬、視界が霞んだが正面の彼からは決して目を離さない。ナイフを持つ手が震え出し、それを抑えようともう片方の手を添えてしっかりと両手で握る。

 武蔵は顔を曇らせながらも逃げようとせず、じっと七海を見据えた。

「七海、おまえの父親を刺したのは俺じゃない」

「いつまでそうやって言い逃れるつもりなんだ!!」

「事実だ。それだけは信じてくれ」

「お父さんの前で無実だって胸張って言えるか?!」

 そう問い詰めると、彼はひどく気まずそうな面持ちになり、困惑を露わにしながら視線を落とした。

「ある意味、俺が殺したようなものかもしれないが」

「ある意味って何だよ!!」

 七海の中でブチッと何かが切れた。

「要するにおまえが殺したってことだろ! なんで素直に認めないんだよ! 反省させたかったけどもういい殺してやる! 僕のこの手で殺さなきゃいけないんだ! おまえを殺さないかぎり終わらないんだ!」

 ワアアアアアアッ!!!

 ぶわっと涙をあふれさせて泣きじゃくりながら、ナイフを振り上げて大きく踏み込み、彼の心臓めがけてあらん限りの力で振り下ろす。

 ズッ??。

 鈍い感触がしたが、すんでのところで胸には刺さっていない。彼が素手のまま刃を掴んで止めたのだ。曇りのない新品の刃が手のひらに深く食い込み、赤い鮮血が止めどなく滴り落ちている。

 七海はハッと我にかえり、はじかれたようにナイフから手を放して後ずさった。三歩もいかないうちに小石に足を取られてバランスを崩し、コンクリートに尻もちをつく。

 カラン、と正面に血まみれの果物ナイフが落ちた。

 ごくりと唾を飲み、座りこんだままおそるおそる視線を上げていく。そこには手を真っ赤に染めた武蔵がゆらりと立っていた。薄曇りの中、青の瞳が不自然なほど鮮やかに色づき異様な輝きを放っている。まるであの冬の日のように。

 ゾクリと背筋が震えて総毛立つ。

 逃げたいのにまるで腰を抜かしたように動けない。開いた足のあいだにぼたぼたと血が滴り、ほのかに血なまぐさい匂いを感じると同時に、赤くぬらりと濡れた手が目の前に伸びてきて??。

「ひっ……!」

 七海は喉を引きつらせて意識を手放した。

 

 

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第10話 揺らぐ真実

 

 七海はぼんやりと目を開いた。

 そこは常夜灯のみのともる薄暗い部屋だった。それでも見覚えのない部屋だということはわかる。拓海と暮らしているマンションでもなければ、拓海と泊まっていたホテルの客室でもない。

 どうやら七海はベッドに寝かされているようだ。もぞりと体を起こして一通り部屋を見まわしてみる。ベッドの他にはソファとローテーブルくらいしかない。そのローテーブルには七海が着ていたブルゾンとキャップが置かれていた。

 あっ??。

 それを見てようやく何があったのかを思い出した。武蔵を父親の墓に連れて行き、果物ナイフで刺し殺そうとしたが、逆にそのナイフを奪われてしまった。そして血濡れの真っ赤な手で迫られて??それからの記憶がない。

 布団をまくって自分の体を確認する。衣服や肌のところどころに血がついているが、どこも怪我はしていないようだ。脚がついているので幽霊というわけでもない。おそらく血は武蔵のものではないかと思う。

 ベッドから降りると靴下のまま扉の方へ歩いていき、ドアノブに手をかける。そのとき扉の向こうからうっすらと声が聞こえてきた。音を立てないようそっと顔を寄せて耳をすます。

「それでは、お大事にしてください」

「ありがとうございました」

 ここではないどこかの扉がパタンと閉まり、足音が遠ざかる。

 ひとつは聞き覚えのない声だが、話の内容からすると医者ではないかと思う。礼を述べたのは橘家にいた遥とかいう若い男のようだ。ふう、と小さく溜息をつくのが聞こえた。

「あんまりバカなことしないでよね」

「ッ!!! おい、怪我してんだぞ!」

「自業自得」

 遥と話をしているのは武蔵だ。七海のナイフを掴んで手のひらが切れたので、医者を呼んで治療してもらったのだろう。思ったよりも元気そうで、残念なような安心したような複雑な気持ちになる。

「なんでわざわざ素手でナイフの刃を掴んだわけ? 相手が手練れならともかくただの子供だよ? 攻撃をよけてナイフを叩き落とすとか、鳩尾に一撃入れて気絶させるとか、背後にまわって羽交い締めにするとか、武蔵なら他にいくらでもやりようがあったよね」

「…………」

 沈黙が落ち、七海もそのまま体をこわばらせて息を詰めた。すこしでも物音を立てれば盗み聞きしていることが知られてしまう。息苦しくなってきたころ、ギュッとかすかな音がして遥の声が続いた。

「まさか、殺されてあげようとか考えてたわけじゃないよね?」

「そうはっきりと思ったわけじゃないが……すこし迷った」

「バカじゃない? そんなので罪滅ぼしになると思ったわけ?」

「自己満足だってことはわかってる」

 呆れたような遥の声と、疲れたような武蔵の声。

 刺してはいないが自分が殺したようなもの??墓の前で聞いた武蔵の言い分を思い出す。やはり俊輔を殺したという自覚は持っているのだろう。だが、刺していないという話は信じていいのかわからない。

「だいたい武蔵のせいだなんて確証はないよね」

「でもあのタイミングじゃ、他に考えられない」

 武蔵はそう反論して吐息を落とす。

「俺を逃がした直後だぜ。組織なのか個人なのかはわからないが、公安の人間が犯人と考えるのが自然だろう。国家に対する裏切り行為になるなら、秘密裏に始末されたとしても不思議じゃない」

 七海は眉を寄せる。

 武蔵を逃がしたから国家に対する裏切り行為? 始末された? 急に話が難しくなり頭がこんがらかってきた。武蔵は悪いことをして警察に捕まっていたのだろうか。それを警察に勤めていた父親が逃がしたのだろうか。

 七海の知るかぎり、父親は決して悪事に荷担するような人間ではない。犯罪者の脱走に手を貸すだなんて絶対にありえない。だから、武蔵が勝手なことを言っているだけで事実ではないはずだ。

「あの子のこと、すこし調べたんだけど」

「……何でそんな勝手なことするんだよ」

「橘にも無関係じゃないからね」

 遥が口にした『あの子』とはおそらく七海のことだろう。扉に耳を寄せたまま、ドクドクと鼓動が速くなるのを感じつつ息をひそめる。

「あの子がいま一緒に暮らしてるのは公安の人だよ」

「何だって?」

「それも国家機密に関わる仕事をしてるみたいだね」

「そうか、そいつが俊輔を殺したんだとしたら……」

「拓海はそんなことしない!!」

 頭の血管がぶちぎれそうなほどの激情に駆られて、気付けばバタンと扉を叩きつけるようにして飛び出していた。革張りのソファに並んで座っていたふたりを全力で睨み、こぶしを握り、喉に痛みを感じながらも声のかぎり訴える。

「拓海はお父さんのたったひとりの親友だった! お父さんが殺されてひとりになった僕を引き取って、犯人から守ってくれた! わざわざ僕を死んだことにまでしてくれて!」

「それがおかしいんだよ」

 遥は冷ややかに七海を一瞥し、ゆったりと背もたれに身を預けながら腕を組む。

「たとえば武蔵が犯人だとして、鉢合わせたその場で君の口を封じるならわかるけど、いったん逃げたあとで君の命を狙うのは無意味だ。捕まる危険を冒してまですることじゃない。普通に考えれば、犯人の目撃情報はすでに警察に話しているだろうからね」

 そう言われれば??。

 あのあと警察で犯人のことを聞かれた覚えがある。何を話したかは記憶にないが、聞かれるまま素直に答えたのではないだろうか。当然、犯人の容姿についても話しているはずだ。

「そのくらい公安の人間ならわからないはずがないのに、どうして君を死んだことにする必要があったんだろうね。人ひとりを死んだことにするって相当大変なことだよ。おかしいと思わない?」

「それは、拓海が慎重だから……」

「その慎重な人が、当時と同じマンションに君を住まわせておくのはどういう了見? 本当に狙われてるなら引っ越した方がいいと思わない? いくら戸籍を改竄して死亡したことにしても、同じマンションに出入りしていたら簡単に見つけられるよ」

「そんなの……わからないし……」

 次第に声が小さくなる。

 事件当時、七海たち親子は拓海と同じマンションに住んでいた。七海たちは二階で拓海は一階である。つまり、部屋は二階から一階に移ったものの、事件後も同じマンションに住み続けているのだ。

 彼がどのように考えているのかは知らない。彼なりの考えがあって同じマンションに住み続けたのかもしれないし、あるいは七海と同じように疑問を感じていなかっただけかもしれない。

 けれど??。

 最近、拓海が復讐を妨害するような行動をとっていたことを思い出す。七海が誤解しているだけかもしれない。でもそうでなかったとしたら。そして七海を引き取ったことに何か別の目的があるのだとしたら。

 そんなことはない。

 そんなはずはない。

 自分の思考を打ち消すようにふるふると首を振る。そもそも父親の敵を取ろうと七海に言ったのは拓海なのだ。銃の扱いだって教えてくれた。偽装のためにそこまで面倒なことをするとは思えない。

「真壁拓海が君のお父さんと同じ仕事をしていたのなら、武蔵とも面識あるかもね」

 遥はそう言うとどこからか一枚の写真を取り出した。写っているのは拓海なのだろう。それを無言でぴらりと隣の武蔵に掲げて見せる。

「あ、こいつ俺を捕まえたやつだ」

 見た瞬間、彼は迷いなくそう言い切った。

 遥は写真をガラスのローテーブルに置き、すっと七海の方に差し出す。案の定そこには拓海の姿があった。スーツを身につけているので、通勤中か仕事中に隠し撮りされたものと思われる。

「真壁拓海が武蔵を捕まえたということなら、当然、彼は武蔵のことを知っていたはずだけど、君はそういう話を聞いていた?」

「…………」

 拓海は武蔵の似顔絵を見ても知っている素振りはみせなかった。けれど、それは仕事上のことだから言えなかっただけかもしれない。そう、仕事に関することは家族にも話せないと父親も言っていた。何もおかしなことじゃないと必死に自分に言い聞かせる。

 そんな七海をじっと見つめながら、遥は言葉を継ぐ。

「真壁拓海は君のお父さんと親友で同僚だったんだよね。それならなおさら気付いたとしてもおかしくないよね。君のお父さんが武蔵を逃がしたことに」

「お父さんが犯罪者を逃がしたりするもんか!」

 七海はカッとして言い返した。いくら順序立てて説明されても信じない。そんな頑なな気持ちで遥を睨みつけるが、彼は冷静に受け止めて訂正する。

「武蔵は犯罪者じゃないよ」

「悪いことをしたから捕まったんだろう?」

「この国にとって都合が悪かったってだけ」

「都合が悪いってどういうことだ?」

「存在自体が国家機密みたいなものかな」

「意味がわからないんだけど」

 七海が怪訝に眉をひそめると、遥は説明を重ねる。

「小笠原近くの海底の国で、僕たちとは別の進化をたどったもうひとつの人類ってところ。その詳細についてはまだほとんど把握していないし、脅威でもあるから、扱いについては慎重になっているんだと思う。今のところ存在を公表する気はないみたいだね」

「…………」

 何か余計にわからなくなった気がする。

 そもそも本当のことなのだろうか。あまりに現実離れしていてまるで映画か小説のようだ。煙に巻くつもりではないかという考えが頭をよぎったが、ごまかすのならもうすこし信憑性のある話をするように思う。

「七海」

 それまで黙っていた武蔵が重々しく口を開いて顔を上げた。その左手にはまぶしいくらいにまっしろな包帯が巻かれている。ふとナイフを掴んで血まみれになった手を思い出し、七海はぞわりと身震いした。

「俺はさらわれた姪を捜すためにこの国に来たんだ。他にも神隠しのように消えた子供が何人もいて、調べていくうちに、どうやらこの国の仕業じゃないかとわかってな。俊輔はその話を信じて俺を逃がす手筈を整えてくれた。俊輔がいなかったら何もできないまま犬死にしてた。だからあいつには本当に感謝している」

「……姪は見つかったの?」

「ああ、数か月前に無事保護した。いまはこの橘の家にいる」

 最初に武蔵と会ったとき、俊輔に良くしてもらったと言っていたことを思い出す。もし彼が不当に拘束されていたのなら、そして姪を救うという事情があるのなら、父親が同情して逃がすというのもわかる気がする。

 武蔵たちの話をすべて嘘だと断じることはできないが、だからといって無条件に信じることもできない。武蔵を信じれば拓海を疑うことになってしまう。何が真実で何が嘘なのか考えれば考えるほどわからなくなってきた。

「ねえ、真壁拓海にも話を聞いてみようか?」

 七海が頭を悩ませていると、遥は意味ありげな笑みを浮かべてそう提案した。ゆったりと革張りのソファから立ち上がり、七海の前まで足を進め、じっと奥底まで見透かすように双眸を覗き込む。

「彼が真犯人かどうかはわからないけど、何か隠しているのは確かだと思う。君も気になってることがあるんじゃない? だったらこの際すべてはっきりさせようよ」

「……いいよ、そうしよう」

 七海は静かに答え、挑む思いで強気に見つめ返した。

「僕は、拓海を信じてるから」

 七海の復讐を妨害していたことは事実だとしても、さすがに父親を殺した真犯人だなんてことはありえない。絶対に。揺らぐ不安な気持ちを無理やり奥深くに押し込んで、自らを奮い立たせるようにそう言い聞かせた。

 

 

-5ページ-

第11話 強制狂言誘拐

 

「坂崎七海は預かった。返してほしければ坂崎俊輔の墓の前にひとりで来い」

「ちょっ……?!」

 武蔵が電話の相手にとんでもないことを言い出した。

 ソファに座っていた七海は驚いて突っかかろうとしたが、隣の遥に体ごと抱き込まれてしまう。おまけに口まで塞がれて声も出せない。どうにかして逃れようと足をばたつかせて身をよじるもののびくともしない。この細身のいったいどこにと思うほどの馬鹿力である。

 真壁拓海を呼び出すから連絡先を、と遥に言われて拓海の携帯番号を教えたのだが、まさかこんな脅迫めいた方法をとるとは思わなかった。普通に事情を話して来てもらえばいいだけのことなのに、どうして。

「坂崎俊輔の死について真実を聞かせてもらう。公安のおまえに言うのも何だが、警察に通報なんてするなよ。おまえにとっても都合が悪いことになるだろうしな」

 完全に誘拐だ??。

 自分の軽率な行動のせいで拓海に心配と迷惑をかけてしまった。遥の口車に乗らず、自分ひとりで拓海と向き合って尋ねるべきだったのだ。くやしくて腹立たしくて情けなくて目の奥がじわりと熱くなる。

 誘拐を装うことにしようと言い出したのはおそらく遥だ。電話をかける前、武蔵にこそこそと何か耳打ちしているのを目にしていた。ただ、彼も素直に頷いていたので特に反対はしていなかったのだろう。

「いいだろう」

 武蔵は窓際の壁にもたれて電話を続けていたが、こちらに目を向けてそう言うと、すらりとした長い脚で機敏に歩いてきた。腰を屈め、ソファで拘束されている七海に携帯電話を向ける。

「七海、こいつに声を聞かせてやれ」

「拓海ごめん、僕は」

 口を塞いでいた手が外された途端、可能なかぎりの早口で現状を伝えようとしたが、ほとんど喋れないまま再び口を塞がれてしまった。必死に抗うもののふがふがとなるだけで言葉にならない。

「ああ、じゃあ必ず来いよ」

 武蔵は背を向けながら携帯電話を自分の耳に当てると、そう言って通話を切り、片手で折りたたんでジーンズのポケットにしまう。遥はそれを確認してから七海を拘束していた腕を外した。

「僕は誘拐されたわけじゃない!」

 七海ははじかれたようにソファから飛び退いて遥から距離を取り、キッと睨みながら訴える。彼のそばにいるのは危険だとあらためて思い知らされた。くすぐられたり、口を塞がれたり、何をされるかわかったものじゃない。

 しかし、当の本人は面白がるように薄い唇に笑みをのせた。

「七海を預かっているのは事実だし、嘘は言ってないよ」

「はあ?!」

 誘拐したとは言ってないかもしれないが、人質として話を進めていたくせに、よくもそんなことが言えたものだ。武蔵も同じ考えなのかと、カッと頭に血をのぼらせながら後ろを振り返ると、彼は背を向けたままうつむき加減で立ちつくしていた。

 遥もその何かありげな様子に気付いたようで、怪訝に眉を寄せる。

「武蔵、どうしたの?」

「ああ……あいつ何か落ち着きすぎのような気がしてな。何を言っても驚かないで終始淡々と話を進めてたし。もしかしたら状況を知っていたのかもしれない。つけられてる気配はなかったんだが……」

「どっちにしても来るしかないよ、七海が心配ならね」

 遥の言葉に、七海はドキリとして顔をこわばらせる。もし七海を心配していなければ、助ける価値がないと判断すれば、拓海は来ないかもしれない。そのことに初めて気付かされた。

「もし来なかったら、僕、どうなるの?」

「……二度とあいつのところへ帰さない」

 武蔵は強い意志を感じさせる口調で、静かに断言する。

 これでは本当の本当に誘拐だ。要求どおりにならなかった場合、現実でもドラマでもたいてい人質が始末されている。ときには見せしめのように残酷に。七海もそうするつもりということだろうか。

「七海、そこバスルームだからシャワーを浴びてこい。体にも血がついてる。新しい服も用意してあるからそっちに着替えろ」

「……うん」

 不安は募るが、いまとなっては待ち合わせ場所に向かうしかないし、そのためには血で汚れたままというわけにもいかない。胸にもやもやしたものを抱えつつも素直にバスルームに向かう。

 そこに用意されていた着替えは七海が着ているものとよく似ていた。デニムのショートパンツに長袖Tシャツ、ブルゾン、靴下、それに下着まである。ただ、新しいからか質がいいからか手触りはまったくの別物だった。

 服を脱ぐと体のあちこちに血がついているのがわかった。手や顔などは簡単に拭ってくれていたようだが、体の方には手をつけていなかったのだろう。頭から熱いシャワーを浴びてこすり落としていく。

 これ、武蔵の血なんだ??。

 ザー……シャワーの流れる音をぼんやりと聞きながら、排水溝に流れていく汚れた湯を見つめて眉を寄せる。そのまま動きを止めてじっと立ちつくしていたが、やがて我にかえり、湯の温度を上げて浴びなおしてからシャワーを止めた。

 ホテルのものと同じようなふかふかのバスタオルで体を拭くと、用意された衣服を着てバスルームを出る。そこに遥の姿は見えず、武蔵ひとりがゆったりとソファに身を預けていた。七海に気付くと手招きする。

「ドライヤーなかったのか?」

「さあ、見てないけど」

「ここに座って待ってろ」

 促されるままソファに腰掛けていると、武蔵はバスルームからドライヤーとブラシを取って戻ってきた。隅のコンセントに挿し、強力な温風で七海の濡れたショートヘアを乾かし始める。

「自分でやるよ」

「いいから」

 白い包帯の巻かれた手で、丁寧に七海の髪をとかしながら温風を当てていく。

 その手が鼻先をかすめたときかすかに消毒液の匂いがした。痛そうにはしていないが、あれだけ切れて出血したのだから痛くないはずがない。手当てをしたとはいえ、普通にブラシを握って大丈夫なのかと心配になる。

「よし、乾いたな」

「……ありがと」

 武蔵は満足そうに笑顔で応じて、手にしていたドライヤーとブラシを片付けに行った。バスルームからカタンと小さな物音が聞こえたかと思うと、すぐに戻ってきて隣に腰を下ろす。七海は緊張で表情を硬くしてうつむいた。

「ごめん」

「ん?」

「手……」

 そう言いながら、横目でちらりと包帯の巻かれた左手を見る。ああ、と武蔵は得心したようにその包帯の手を軽く掲げた。

「七海が気にすることじゃない」

「だって僕のせいで怪我したんだし」

「ナイフを握ったのは俺の判断だ」

「僕は武蔵を殺そうとしたんだよ?」

「それ、悪いと思ってるか?」

 自分の中の矛盾を突かれて言葉に詰まり、目を伏せる。

「悪いと思ってないなら謝らなくていいさ」

 武蔵は軽い口調で流すと、包帯の巻かれていない方の手を七海の頭にぽんと置く。彼がどう思っているのかわからず戸惑うものの、置かれた手はあたたかく、七海はそれだけですこし不安がやわらぐのを感じた。

 

「あんまり時間がないから簡単なものだけど」

 遥は大皿のサンドイッチと飲み物を用意して戻ってきた。実際にワゴンで運んできたのは執事の櫻井だ。ソファに座る七海たちの前にサンドイッチを置き、紅茶を淹れる。七海の前にはオレンジジュースを置いた。

 櫻井が下がると、遥と武蔵はさっそくサンドイッチに手を伸ばした。

「七海も食べろよ」

「うん」

 武蔵に促されておずおずと手を伸ばす。しかし、一口食べたら随分と空腹だったことに気付き、警戒も遠慮も忘れて次から次へと頬張っていく。隣で武蔵がくすりと笑っていたことには気付きもしなかった。

 

 約束の時間が近づき、執事の櫻井が運転する車で墓地に向かう。

 助手席には遥が、後部座席には武蔵と七海が並んで座っている。四人とも黙りこくったまま口を開こうとしない。車内は息の詰まりそうな沈黙に包まれていた。隣の武蔵をちらりと見ると、何か思案しているのか難しい顔をして腕を組んでいた。

 

「遥、おまえは櫻井さんとここで待っててくれ」

 駐車場に着くなり、武蔵は後部座席から身を乗り出してそう言った。その表情からは自分で決着をつけるという覚悟が窺える。それゆえ遥も反対できなかったのだろう。不満そうにしながらも、十分に気をつけてとだけ言って送り出した。

 七海は武蔵に同行している。人質として。

 今朝と同じように、石造りの細い階段を上って小高い丘の上に出た。ひんやりとした風が頬をかすめる。灰色の雲の切れ間から覗く水平線は茜色に染まり、そろそろ日が沈もうとしていた。

 整然と並んだ墓石のあいだを武蔵は迷いなく進んでいく。一度来ただけなのに場所を記憶しているようだ。七海はその後ろを歩きながら目的地に目を向ける。そこにはスーツ姿の男性がひとり墓の前で佇んでいた。

「パパっ!」

 来てくれた、見捨てられなかったんだ??七海は歓喜の声を上げて走り出したが、すぐに武蔵に追いつかれた。片腕で肩を押さえつけるように抱き込まれてしまう。必死にじたばた暴れるものの脱出できる気配すらない。

「放せよ!」

「取り引きはまだ終わってない」

 拓海が来たことで人質としての役割は果たしたと思ったのに、まだ利用するなんて。思いきり眉をひそめて背後の武蔵に振り返る。しかし、彼は七海など眼中にないかのように正面を見据えていた。

 視線の先にいるのは拓海だ。彼の方もまた瞬ぎもせずに武蔵を見つめ返している。表情こそいつもと変わらないように見えるが、その瞳はゾッとするほど冷たい。まるで長年の仇敵を前にしているかのように。

「アンソニー=ウィル=ラグランジェ」

「……いまは武蔵だ」

 武蔵が不快そうに顔をゆがめる。

 どうやらアンソニーというのが本当の名前のようだ。この国の人間ではないと言っていたことを思い出す。そして、やはり二人には面識があったと考えるしかない。

「俺とおまえの中間地点に七海を立たせろ」

「いいだろう」

 拓海の指示に、武蔵は迷うことなく同意した。七海の肩を押さえていた腕を外す。

「七海、あの黒い墓石のところまで行け」

 すこし迷ったが、拓海の提案だから従った方がいいのだろう。一歩一歩ゆっくりと足を進め、中間地点と思われる黒い墓石の前で足を止めた。武蔵のそばでも拓海のそばでもないこの状態が、何かとても心細い。

 あらためて拓海の方に目を向ける。彼は仕事に出かけたときと同じスーツのまま、小脇にイルカのぬいぐるみを抱えていた。そして隣には父親の墓があり、拓海が持ってきたと思われる花が供えられていた。

 二人は親友だったと聞いている。

 父親が生きていたころはときどき拓海が遊びに来ていた。あまり笑わない拓海だが、父親と話しているときだけは表情がやわらかくなる。父親も拓海と喋っているときはいつも嬉しそうだった。だから、彼が真犯人だなんてことは絶対にありえない??。

「えっ?」

 ふいにイルカのぬいぐるみが投げてよこされた。コンクリートをはずむように転がり、七海の足にぶつかった。尾から横腹に当たる部分には黒い汚れがついている。七海がずっと大切にしてきたぬいぐるみに間違いない。

 続いて、透明なビニール袋に入ったものが放り投げられた。地面をすこしすべってぬいぐるみの横で止まる。その中にはナイフと服が入っているように見えた。どちらもどす黒いものでひどく汚れている。

 ??血?

 そろりと顔を上げ、答えを求めるように怪訝な視線を送る。

 拓海はじっと無表情のまま見つめ返してきた。嫌な予感に、七海の心臓はうるさいくらいに早鐘を打ち始める。それでも目をそらすことなく正視していると、やがて彼の口から静かに言葉が紡がれた。

 

「七海の父親、坂崎俊輔を殺したのは、俺だ」

 

 

-6ページ-

第12話 銃口は誰に

 

 ??坂崎俊輔を殺したのは、俺だ。

 

 呆然とする七海の脳内で、そのセリフがこだまのように何度もリフレインする。言葉の意味はわかっているはずなのに何も考えられない。だんだんと息苦しくなり、胸元で白いTシャツを掻き寄せるように掴む。

「う……嘘だよね、パパ……」

「もうその呼び方はしなくていい」

 視界に拓海を映しながらどうにか絞り出した問いに、彼は答えない。ただ淡々と突き放すだけである。嫌な予感にじわじわと生ぬるい汗がにじんできた。いろいろと問い詰めたいが、まるで金縛りにでも遭ったかのように声が出ない。

「詳しく話を聞かせてもらおうか」

 七海の背後から苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。振り向くと、武蔵が刺すような鋭いまなざしで拓海を睨めつけていた。それを受けて拓海も不快そうに眉を寄せて睨み返した。二人は七海を挟んだまま話し始める。

「おまえがそそのかしたせいで、俊輔はおまえの逃亡に手を貸して裏切り者になった。裏切り者の末路なんてろくなものじゃない。特に俺たちのような捨て駒はな」

「だから殺したっていうのか」

「俊輔は親友だ。他の誰かに痛めつけられて始末されるくらいなら、いっそこの手で葬ってやりたい。そう思うのはおかしなことじゃないだろう。俺だって本当は殺したくなんかなかった。そうせざるを得ない状況に追いやったのはおまえだ、アンソニー=ウィル=ラグランジェ」

「…………」

 拓海は怒りを押し殺したように言い放ち、武蔵はきまり悪そうに視線を落とす。

 ここに来る前に聞いた話と矛盾がないし、武蔵も言い返さないので、事実関係については間違いないのだろう。つまり、俊輔が殺される原因を作ったのは武蔵で、実際に手を下したのは拓海だと。

「七海を引き取ったのは敵討ちをさせるためだ」

「俺を殺させ、そしておまえも殺させるのか?」

 えっ???

 驚いて拓海に振り向くと、彼は目を細めてうっすらと微笑を浮かべていた。七海はぞわりと総毛立ち、体の芯が冷たくなっていくように感じた。頭は考えることを拒否しているかのように真っ白だ。

「そのナイフは、おまえが俊輔を殺したときのものなんだな?」

「そうだ。鑑定すれば俊輔の血だとわかるはずだ。七海におまえを殺させたあとで真実を話し、俺を殺させる。もともとはそういう筋書きだったからな。信じてもらうための証拠として保存しておいた」

 拓海はそこまで淡々と話したあと、嘆息した。

「本当は、七海がもうすこし大きくなって実力をつけてから、おまえに辿り着けるように手がかりを与えるつもりだった。だが、おまえの似顔絵が大々的に報じられて予定が狂った」

 表情を変えないまま声に忌々しさをにじませて言うと、七海に視線を移し、懐から取り出した黒い何かを投げてよこした。カラカラカラとコンクリートを滑り、七海の足に当たって止まる。それは拳銃だった。

「敵を討て、七海」

 静かに脳内に染み渡る、麻薬のような声。

 足元にあるのは、血で汚れたイルカのぬいぐるみ、血で錆びたナイフ、大量の返り血を浴びた服、そして拳銃??頭の中にラ・カンパネラのオルゴールが鳴り響き始めた。吐き気がするくらいの大音量で。七海は片手で側頭部を押さえながら奥歯を食いしばる。

 殺さなきゃ。

 殺さなきゃ。

 殺さなきゃ。

 お父さんの敵を。

 それは、誰?

 誰を殺すの?

 視界がぐにゃりと歪んで焦点が合わなくなる。脳内ではいまだ打ちつけるようにオルゴールの音色が響き、頭がぐわんぐわん揺れているように感じた。それでも答えを探そうと必死に踏ん張って思考をめぐらせる。

「この距離なら七海の腕でも十分にあてられる。あいつと俺を殺せ。俊輔の亡骸の前で俺たちは約束したはずだ。お父さんを殺した男を七海の手で殺すんだと」

 七海に復讐の道を示し導いてきたのは拓海だった。父親が死んだあの日からずっと。彼の示した道を正しいと信じきっていた。疑いもせずただひたむきに邁進してきた。けれど??。

「七海!!」

「動くな!」

 武蔵が声を上げた瞬間、拓海はもうひとつの拳銃を懐から抜いて彼に向ける。予想していたのか無駄のない流れるような動きだった。駆け出そうとしていた武蔵の足がビクリと止まり、前傾姿勢で拓海を睨む。

「動けば撃つ。できれば七海に撃たせてやりたいからじっとしていろ」

 拓海は銃口を向けたままそう命令すると、七海に視線を移す。

「七海、思い出せ。俊輔が血溜まりに横たわり、物言わぬ骸になっていたあの日のことを。おまえの感じた絶望と恐怖と怒りと悲しみを」

 七海の目からぽろりと涙がこぼれた。

 虚ろなまま操り人形のように地面に転がる拳銃を拾うと、銃口を下にしながら震える両手でグリップを握り、引き金に指をかけ、ゆらりと体を揺らして背後の武蔵に向きなおる。

 七海を捉えていた緊張したまなざしの中に、寂しそうな色、つらそうな色がにじんでいる。彼を狙わなければならないのに銃口が上がらない。上げられない。まるで拒否するかのように手が動かない。

 父親の敵だと自分に言い聞かせても騙せないだろう。本当はもうわかっている。きっと彼には父親を死なせる意思などなかった。殺さなければならないのは父親を殺した男だ。だから??。

 バッ、と身を翻して拓海に銃口を向ける。

 一瞬、拓海は驚いたように目を丸くしたが、すぐさまいつもの冷静な表情に戻った。片手で拳銃を構えたまま、武蔵への警戒を解くことなく七海に視線を送り、空いた方の手で自身の眉間あたりを指さして言う。

「頭を狙え。そう教えただろう」

 そう、射撃場ではいつも頭を狙えと言われて練習してきた。けれど生身の人間を撃ったことは一度もないし、銃口を向けるのも初めてだ。それも恩人として慕っていた相手になんて。

 狙いを定めようとするものの手の震えが止まらない。手だけでなく膝も足もどこもかしこも震えている。それでも撃たなければ終われない。いまだラ・カンパネラのオルゴールは大音量で鳴り響いている。

「やめろ七海、撃つな!」

 背後から聞こえてくる武蔵の切羽詰まった必死な声。それを振り切ろうと、七海はあふれんばかりに潤んだ目をギュッとつむり、ついと一筋の涙が流れ落ちていくのを感じながら、拳銃を持つ手にグッと力をこめる。

「うわあああああああッ!!!」

 ババン??二つの銃声が重なり、七海は反動でコンクリートに尻もちをつく。

 正面の拓海は拳銃を構えたまま身じろぎもせず立っていた。七海の銃弾は外れたらしくかすり傷ひとつ見当たらない。目をつむりながらなど当たるはずがないのだ。けれど、当たらなかったことに心底ほっとしていた。

「うっ……」

 背後からかすかな呻き声が聞こえた。

 振り返ると、武蔵が胸元を押さえながらうつぶせに倒れ込んでいた。拓海の銃弾が命中したのだろう。コンクリートにじわじわと血溜まりが広がっていくのが見えて、反比例するように七海の顔からは血の気が失せていく。

 カツ、という靴音にビクリとして前を向くと、拓海が無表情で歩みを進めてくるのが見えた。背筋に冷たいものが走る。逃げたい衝動に駆られたが、手足が震えて立ち上がることすらできそうにない。

「七海、外れたぞ」

 拓海は自分の拳銃を懐にしまいながらそう言うと、七海の前でしゃがんだ。そして七海の手を拳銃ごと掴み、その銃口を自らの眉間に誘導してピタリと押し当てさせる。

「これなら外しようがないだろう」

「嫌だ……やっぱりできない……」

 七海は弱々しく声を震わせて訴えるが、拓海は聞く耳を持たない。生ぬるい涙があふれて頬を濡らしていく。

「引き金を引け、七海」

 必死に首を横に振る。拳銃から手を放したいが、彼にがっちりと握り込まれているためどうにもならない。引き金にかけた指を外すこともできない。下手に抵抗するとうっかり発砲してしまいそうだ。

「引き金を引けば終わるんだ」

「やだ……こんなのやだ……」

 か細い涙声でうわごとのようにつぶやいても、やはり拓海は許してくれなかった。射るようなまなざしで七海を見据えて尋ねかける。

「俺たちは何のために生きてきた?」

 七海はあふれる涙を止めることもできず、半開きの口を震わせた。父親の敵を取るため、殺すため、それがすべてだったことは理解している。けれどこんな結末を望んでいたわけではない。

「俺を殺さなければ終わらない」

 彼は静かにそう言うと、七海と拳銃を握り込む手にグッと力をこめる。銃口は話のあいだもずっと眉間に押しつけられていた。いや、銃口に眉間を押しつけていたのかもしれない。

「殺せ……殺してくれ!!」

 縋るような悲痛な叫びが七海の鼓膜を震わせる。彼の瞳は見たこともないほど潤んでいた。いつも冷静な彼がこんなにも感情的になるなんて。何もかもが怖くて、ギュッと目をつむり必死に首を横に振り続ける。

 ガンッ??。

 鈍い音がしたかと思うと、七海の手を握り込んでいた大きな手から力が抜け、脚の上にどさりと体ごと倒れ込んできた。驚いて目を開くと、彼は後頭部を押さえながら顔をしかめて呻いていた。

 その背後では、左肩あたりから大量の血を流した武蔵が、血まみれのこぶしを握りしめて立っていた。出血のためか痛みのためか息が荒くて苦しげだ。それでも拓海の後ろ襟を掴むと、七海から引きはがして叩きつけるように地面に転がした。

「七海、大丈夫か」

「うっ……」

 顔がゆがみ、熱い涙が止めどなくあふれて流れ落ちていく。武蔵は小さく微笑み、あまり血がついていない方の手をぽんと七海の頭に置いた。そしてまだ震えがおさまらない七海の手から慎重に拳銃を取ると、倒れた拓海の足元に放り投げる。

「おまえなんか七海が手を汚す価値もない。死にたければ勝手に死ね」

 嫌悪感あらわに言い捨てると、泣きじゃくってしがみついた七海を抱き上げ、イルカのぬいぐるみを掴み、時折ふらつきながら墓地をあとにする。あたりはもうだいぶ薄暗い。空には重々しい鉛色の雲が垂れ込めていて、いまにも雨が降り出しそうだ。

 ゴーン、ゴーン……。

 教会だろうか。遠くで鳴り始めた重厚な鐘の音を、七海は武蔵の首にしがみついて泣きながら、ただぼんやりと聞いていた。頭の中に、ラ・カンパネラのオルゴールはもう響いていなかった。

 

 

-7ページ-

Part.3 に続く

 

 

説明
お父さんを殺した男を殺すんだ、七海のこの手で??。
淡い月明かりに照らされた静謐な夜、父親が惨殺された。
幼い七海は復讐を誓う。
父親の親友で七海の親代わりとなった拓海とともに。
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