機械仕掛けのカンパネラ Part.3 |
第13話 ただひとりの親友
「拓海っていい名前だね」
まだ肌寒さの残る四月上旬。入学式が終わり教室でホームルームを待つあいだ、決められた席で頬杖をついて窓の外の桜吹雪を眺めていると、ふいに同級生と思われる男子が隣から話しかけてきた。
何だこいつ、と怪訝に思いながら横目で睨むが、彼はニコニコと人なつこい笑顔を崩さない。名前に海が入ってるなんていいね、うらやましいな、などと聞いてもいないのに声をはずませる。
それが坂崎俊輔??後に七海の父親となる男だった。
拓海と俊輔はともに孤児だった。
すこしずつ話をするようになってわかったことだが、二人とも生まれてまもないころに捨てられ、養護施設で育てられていた。いまも各々の養護施設からこの公立高校に通っている。
拓海はこれまで生い立ちのことでからかわれたり、いじめまがいのことをされてきたため、自分からまわりと距離を置くようになっていた。おかげで友達と呼べる存在はひとりもいない。
俊輔の方もやはりからかわれることは少なくなかったらしい。ただ、拓海と違ってまわりに溶け込もうと努力をしていたようだ。実際、この高校にも中学時代の友達が何人かいる。
それでも同じ境遇の存在というのはやはり特別なのだ。生い立ちや施設のことも気兼ねなく話せ、変に憐れみの目を向けられる心配もなく、わかり合える。二人が親しくなるのに時間はかからなかった。
きっかけは境遇だが、もちろんそれだけではない。
気が合わなければ、共感はしても親友にはなれなかっただろう。寡黙で愛想のない拓海と、人なつこくお人好しな俊輔。正反対なのがかえってよかったのかもしれない。歯車が噛み合うように気負わず自然体でいられて、とても心地がよかった。
ただ、二人ともアルバイトをしていたので、いつも一緒というわけにはいかなかった。それでも互いに都合が合うときは、図書館で勉強したり、街を歩いたり、公園で話したりして同じ時間を過ごした。
「なあ、海を見に行かないか?」
ある夏の日、俊輔が何の脈絡もなくそう誘ってきた。拓海自身はそれほど海に興味はなかったが、俊輔が海を好んでいることを知っていたので同意した。彼が喜んでくれるならそれでよかったのだ。
俊輔に連れて来られたのは、海水浴のできるような砂浜ではなく、客船ターミナルもある埠頭の公園だった。特にここが好きなわけではなく、単にいちばん近くて行きやすかったというだけの理由らしい。
全体的な風景としては遠くのビル群と海が調和していて悪くないが、海を覗き込んでみるとゴミが浮いていたりしてあまりきれいとは言いがたい。海が好きだという人間が好むようなところとは思えなかった。
「おまえ、こんな海でもいいのか?」
「海は海だよ」
俊輔は軽く笑ってそう答えると、柵に腕をのせて細波の立つ海原を眺める。
「自然のままのきれいな海はもちろん好きだけど、人の生活の中にある海も好きだよ。南国のエメラルドグリーンの海も、このきれいじゃない淀んだ海も、日本海の冷たく荒れた海も、マグロが捕れる遠洋の海も、どの海も全部ひとつに繋がってるんだって思うと不思議だよね」
やわらかく目を細めて海を見つめる横顔に、潮風が吹いた。茶色がかった柔らかな癖毛が揺れる。じっと見ていると、視線を感じたのか振り向いてニコッと笑った。
「拓海も好きだよ」
「……海扱いか」
あきれたような様子を見せながらも口もとが緩む。単なる冗談であることはわかっているが、彼が好きだという海の一部に挙げられたことは、特別な存在だと認められているようで嬉しかった。
結局、拓海には海の良さが今ひとつ理解できなかったが、それでも彼と海を見ることは素直に楽しいと思えた。海というより、それを眺めている彼を見るのが好きだったのかもしれない。
それからは、拓海の方からもたびたび海に誘うようになった。時間的な問題で同じ埠頭に行くことが多かったが、たまに遠出をして別の埠頭へ行ってみたり、砂浜の海岸に出かけたりもした。
二人にとって、海は特別な場所となっていた。
「真壁拓海君だね」
高校三年生の梅雨入り間近のある日、アルバイトを終えて施設へ帰る途中の路地で、スーツを着た見知らぬ男に呼び止められた。穏やかな表情に見えるが、底知れぬ威圧感のようなものを感じてゾクリとする。
「すこしだけ時間をもらえるかな」
「どうして俺の名前を……」
「君のことは調べさせてもらった」
「あなたは誰なんですか?」
怪訝に問いかけると、彼は思わせぶりにニッと口の端を上げた。
頭の中で警鐘が鳴り響く。しかし有無を言わさぬ雰囲気で肩を抱かれてしまい、すぐにでも逃げ出したかったがそうする勇気もなく、促されるまま足を踏み出すしかなくなっていた。
連れて行かれた先にあったのは黒いセダンだった。車には詳しくないが、確かそれなりに高級な国産車ではないだろうか。運転席には、やはりスーツの若い青年が座っているのが見える。
「さあ座ってくれ。中で話をしよう」
「話なら他の場所でもできますよね」
「人目を避けたいのだよ」
こんな得体の知れない男の車に乗るなど危険すぎる。だからといって逃げ切れるとも思えない。おそらく名前だけでなく高校も住所も把握されている。たとえここで振り切ったとしても、待ち伏せされて強硬手段に出られたとしたら。
二進も三進もいかず立ちつくしているうちに、男に扉を開けられ、半ば強引に後部座席へ押し込まれてしまった。隣には男が座る。
行ってくれと重量感のある低い声で男が命じると、運転席の青年がエンジンをかけて車を走らせ始めた。車の中で話をするだけではなかったのか。拓海は顔からうっすらと血の気が引くのを感じた。
「どこへ行くんですか?」
「ドライブだよ」
「ふざけてるんですか」
「話が終わったら送ろう」
男は愉快そうに微笑を浮かべながら軽く受け流し、警戒する拓海の隣でゆったりとシートに身を預け、本題に入った。
警察庁の楠??街を走行する車の中でそう名乗ったこの男は、国のために働く気はないかと真面目な顔で尋ねてきた。公安部で潜入捜査や国家機密に関わる仕事をさせたいらしい。
拓海に目をつけたのは、成績や適性など様々な要因を考慮した結果らしいが、前提としてあるのは孤児という身の上のようだ。天涯孤独であれば使い捨てにしやすい。楠の口ぶりからそういうことなのだろうと理解した。
正直なところ国のためといわれても心は動かなかった。愛国心などない。ただ、将来の夢や希望といったものもないので、求められるところへ行くのもいいかもしれない。たとえ捨て駒だとしても。
考えさせてください。
このときはそう答えて持ち帰らせてもらったが、他言無用ということなのでひとりで考えるしかなかった。なかなか気持ちは固まらない。一か月後、再び接触してきた楠に流されるような形で了承の返事をした。
俊輔にはそういう打診は来ていないようだった。彼本人にそのことを尋ねたわけではないし、素振りがないだけで来ている可能性もあるが、たとえそうだとしても断っているだろう。
なぜなら、彼は高校卒業後に結婚するのだから。
相手は同じ養護施設で育った同年齢の子だと聞いている。紹介したいと言われているものの、あれこれ理由をつけてずるずると機会を延ばしていた。どういう子なのか知りたい気持ちはあるが、会いたくはなかった。
写真は何枚か見せてもらったことがある。目がくりっとした元気の良さそうな子だった。写真の中で俊輔も彼女もいい笑顔を見せていて、きっとお似合いなのだろうと素直に思えた。
拓海が公安で働くことが内々に決まったころ、俊輔が就職活動を始めた。できれば海に関係する仕事がしたいと、民間の海洋調査会社の求人を見つけて願書を出し、採用試験を経て秋頃に内定をもらっていた。
結婚して二人で生活していくには、きちんと就職して働かないとね、などと幸せそうにはにかむ姿は、夢も希望もない拓海とは対照的である。友人として彼を祝福しながら、同時に一抹の寂しさを感じていた。
卒業式は、ちらちらと雪の舞う薄曇りの日だった。
ありきたりな形ばかりの式が終わると、教室で担任から卒業証書を受け取って解散する。名残惜しそうに校内にとどまる生徒が多い中、拓海と俊輔はすぐに高校をあとにした。
「雪降ってるけど行くよね?」
「ああ」
卒業式が終わったら海を見に行こうと約束していた。拓海としては吹雪だろうと豪雨だろうと行くつもりだった。幸い、傘が必要なほどでもないので問題はないだろう。俊輔もやめるつもりはさらさらないようだった。
雪のせいか埠頭の公園にはほとんど人影がなかった。まるで貸し切りのようだ。柵にもたれて愛おしげに海を眺める俊輔の横顔を見ながら、この季節外れの寒さと雪にひそかに感謝した。
「ありがとう、拓海」
「…………?」
俊輔の口から白い吐息まじりに紡がれた言葉を聞いて、怪訝に眉をひそめる。なぜ礼を言われたのかわからない。そんな疑問に答えるように、彼は横目を流したままくすりと笑って言葉を継いだ。
「おかげで高校生活が楽しかったから」
「それなら礼を言うのは俺の方だ」
「あ、最初に声をかけたのは僕だっけ」
「覚えてるのか?」
「うん、拓海の名前にも感謝しなきゃ」
俊輔は懐かしそうに目を細める。
つられるように、拓海の脳裏にこの三年間の出来事が次々とよみがえった。長かったようで短かったような三年。もっと早く出会えていればよかったのに、などと詮無いことを考えてしまう。
「僕さ」
その声で我にかえると、彼は顔ごと柵にもたれて微笑んでいた。
「子供が生まれたら名前に海を入れようと思うんだ。里奈に言ったら気が早すぎるって笑われたけど、賛成してくれた」
「おまえらしいよ」
里奈というのは結婚相手の名前だ。二人で幸せな未来について話している姿が目に浮かぶ。彼女のことは知らないが、俊輔にはそんなあたたかい幸せがよく似合うし、彼ならば間違いなく築いていけるだろうと思う。
「そういえば、住むところはまだ決まらない?」
「ああ……いま上司になる人が探してくれてる」
本当はすでに用意されているにもかかわらず、嘘をついた。慣れないことに表情が硬くなったのが自分でわかる。しかし、幸いにも俊輔はまったく気付かなかったようだ。
「じゃあ、僕の住所を教えとくよ」
そう声をはずませると、生徒手帳にさらさらと書き付けてそのページを破いた。
「きのう新居のアパートを決めてきたところなんだ。電話番号はまだ決まってないから住所だけなんだけど……拓海の連絡先が決まったら絶対に教えに来てよ。また一緒にどこか行ったり話したりしたいし、里奈も紹介したいし」
「わかった」
押しつけられた紙切れに目を落とす。そこには、彼らしいのびやかな字で隣県の住所が書いてあった。アパート名から察するに昔ながらの古びたところのようだ。高卒の会社勤めではさほど給料も良くないのだから、仕方がないだろう。
「あと、これもらって」
「…………?」
今度は茶無地の紙袋が差し出された。もちろん紙袋だけでなく、中には何か重量感のあるものが入っているようだ。卒業式なのにやけに大荷物だなとは思っていたが??怪訝な顔をしていると、彼はくすりと小さく笑って付言する。
「オルゴールだよ。このまえ拓海が物欲しそうに見てたやつ」
拓海はハッと目を見張る。
俊輔と街中を歩いていたとき、どこかの店頭で鳴らしていたオルゴールに惹かれて足を止めたことがあった。深みのある音色でなめらかに奏でられるその旋律に、いつになく心が昂ぶっていく。オルゴールなんておもちゃという認識しかなかったので、とても驚いたのを覚えている。
物欲はない方だが、そのオルゴールはめずらしく手に入れたいと思った。しかし値札を見た瞬間にあきらめた。そして数週間後に来たときには店頭から消えていた。そのあたりのことは心に秘めたまま誰にも言っていない。ただ、一緒にいた俊輔なら察していても不思議ではないが??。
「いや、だからってどうしてこんな……」
「拓海が何かに興味を示すって結構めずらしいからさ。卒業したら毎日は会えなくなるし、何か形に残るものをあげたかったっていうか……まあ僕のわがままだよ。もう買っちゃったんだからもらってくれないと困るけど」
俊輔はいたずらっぽく肩をすくめた。
「……大切にする」
拓海は目を伏せて静かに答える。自分自身にしかわからないくらいだが、声がかすかに震えていた。受け取った荷物の重みを感じながら、紙袋の紐を握る手にゆっくりと力をこめた。
「ごめん、じゃあまたね」
しばらく埠頭で過ごしたあと、俊輔は転居の準備があるからと申し訳なさそうに帰っていった。いつもなら一緒に帰るのだが、拓海はもうすこしここにいたかったので残ることにしたのだ。
気のせいか、俊輔がいなくなってから鉛色の雲が厚くなり、冷え込みが厳しくなった気がする。風も幾分か強くなったのではないか。頬の熱がみるみる奪われていくのを感じながら、白い息をついた。
ずっと手に持ったままだった小さな紙を見下ろす。あまり見つめていると住所を覚えてしまいそうで、くしゃりと握りしめる。できることなら卒業してもずっと親友でいたかった。けれど。
ビリビリ、ビリビリ??。
無表情のまま、手の中の小さな紙をひたすら細かく破いていく。判読できなくなったその紙片を両手にのせて掲げると、風に煽られて空に舞い上がり、やがて細雪とともに海に消えていった。
拓海は柵の上に顔を伏せ、ひとり静かに涙をにじませた。
第14話 二度目のさよなら
高校を卒業してから約九年。
拓海は公安に所属して仕事を続けていた。危険な仕事でも、陰惨な仕事でも、地味な仕事でも、与えられるまま淡々とこなしていく。仕事以外は食事をして寝るだけの無味乾燥な日々。恋人どころか友人のひとりもいない。
鏡の向こうの自分はひどく澱んだ目をしている。しかし、それを嘆くことさえできないほど心は摩耗していた。どうせ夢も希望も何もない。使い捨てにされて一生を終えるのがお似合いだとやさぐれる。
それでも、この世に生まれたことは後悔していない。
俊輔と過ごした高校時代の三年間には一生分の価値があった。まぶしいくらい鮮やかに色づいたその記憶と、彼からのプレゼントであるオルゴールだけが、心の拠り所となっていた。
霜が降りるほど冷え込んだある日、緊急指令が下された。
それはとある白人風の男を秘密裏に確保することである。不審な潜水艇を捕らえようとして半壊させたが、操縦者と思われるその男が海に逃れてしまい、行方がわからなくなったという。
長くはない鮮やかな金の髪、サファイアのような青い瞳、二メートル近くある長身、ブルゾンに濃い色のパンツ??男に関する情報はそれくらいで、名前どころか顔さえもわからないらしい。
詳しくは知らされていないが、その男は存在自体が秘匿されなければならない最重要機密ということで、なるべく一般市民の目に触れないよう、そして都道府県警察には先を越されないよう厳命されていた。
もし事情を知らない都道府県警察がこの男を確保すれば、かなり面倒なことになる。最悪でも記者発表だけは阻止しなければならない。マスコミに目をつけられると情報漏洩の危険性が高くなるのだ。
しかし、捜索の手は圧倒的に不足している。
公安部の動ける人員は全投入しているものの、そもそもが多くない。あとは自衛隊の少数精鋭が海上を捜索しているくらいだ。最重要機密ゆえ闇雲に動員するわけにはいかないのだろう。
ザザーン??。
波音を聞きながら、拓海は双眼鏡片手に割り当てられた砂浜を捜索する。潮の流れなどを考えると、漂着するならこのあたりではないかと推測し、公安は周辺一帯を厳重警戒していた。
真冬の海に何の装備もなく飛び込んだとなれば、海で力尽きる可能性が高い。それでもまずは生きて泳ぎ着くことを想定する必要がある。もちろん死んでいても遺体は回収しなければならない。
そろそろ着いてもおかしくない時間だ。
街に逃げ込まれては発見が困難になるため、文字通り水際で止めるしかない。幸い真冬ということもあり砂浜にはほとんど人影がなく、不審な金髪碧眼の男がいればすぐにわかるだろう。
あれは……。
双眼鏡を覗いていると、遠方の波打ち際に何かが横たわっているのが目についた。倍率を上げて確認する。それは全身ずぶ濡れでうつぶせに倒れている金髪の男だった。長身かどうかはわからないが小柄ではなさそうだ。
間違いない。そう確信して、足元の悪い砂浜を全力で走り出す。
だが拓海がたどり着くより早く、作業着にブルゾンを羽織った男性があたふたと駆け寄っていった。声をかけながら肩を揺さぶったり頬を叩いたりしているが、反応はないようだ。
やがてズボンのポケットから携帯電話を取り出して操作を始める。救急車を呼ぶつもりなのだろう。意識のない人間を発見したときの行動としては正しいが、この男が対象の人物なら非常にまずい。
「動くな、警察だ!!」
鋭い声でそう叫び、素早く懐から銃を取り出して作業着の男性に向ける。彼は反射的に振り向くと銃口を見て青ざめたが、目が合った瞬間、二人ともその目を見開いて息を飲んだ。
「拓海?!」
作業着の男性はかつての親友、坂崎俊輔だった。
そういえば彼の就職先はこのあたりだったと思い出す。高校生のときより幾分か男性らしさが増しているものの、あまり変化はない。男性にしては高めのやわらかい声も当時のままだ。
懐かしさが胸に押し寄せる。連絡を絶ったのは拓海自身であり、この再会もやっかいな事態ではあるが、それでも心はずっと俊輔を求めていたのだろう。だが、今はその感情に流されている場合ではない。
「個人的な話はあとだ。その男を引き渡せ」
「でも、意識がないし救急車を呼ばないと」
「処置はこちらでする」
「……わかった」
警察の言葉には逆らえないと思ったのか、あるいは旧友として信用してくれたのか、どちらにしても完全に納得したわけではなさそうだが、俊輔は携帯電話を畳んでポケットにしまってくれた。
「ここで見たことは他言無用だ」
そう彼に警告し、倒れた男に銃を突きつけて警戒しながら、懐から取り出した手錠を後ろ手に掛ける。遠くからではわからなかったがかなりの長身だ。二メートル近くあるだろう。まぶたを開いてみると瞳は青色だった。
心臓は動いており、息もあるので、心臓マッサージ等の応急処置は必要なさそうだ。しかし顔にはまるで血の気がなく、体も冷え切っている。効果のほどはわからないが自分のコートを男に掛けた。
電話で本部に報告すると、近くに待機しているワゴン車が男を収容することになった。そこには医療の心得のあるものも同行しているという。また、第一発見者を聴取するので留めておくよう命じられた。
「拓海……僕、ずっと心配してた」
電話を切ると、隣にいた俊輔がおずおずと声を掛けてきた。
「あのあと何か月待っても来ないから、心配になって拓海のいた施設に行ってみたけど、そこで教えてもらった転居先にもいなくてさ。警察で尋ねても教えられないって言われるし、もうお手上げで……僕のこと迷惑だった?」
彼は寂しげな微笑を浮かべ、肩をすくめる。
まさかそこまで必死に探してくれるなんて思いもしなかった。迷惑だから連絡を絶ったと誤解されるなんて考えもしなかった。こんなことなら手紙だけでも出しておけばよかったと、いまさらながら後悔する。
「悪い、職務上の都合で住所を教えられなかった」
「え、職務って……警察に就職したんじゃないの?」
「そうだが、一般の警察官でも警察職員でもない」
「どういうこと?」
「悪いがこれ以上は話せない」
それが拓海の見せられる精一杯の誠意だった。俊輔なら言いまわしから何となく察してくれるだろう。言えないような裏の仕事をしているのだと。実際、彼の眉間にはうっすらとしわが寄っていた。
「いまも連絡先は教えられない?」
「ああ」
その答えを聞き、彼はすぐに作業着のポケットから自分の名刺を出し、裏の余白にボールペンを走らせて拓海に差し出した。目を落とすと、そこには住所と携帯電話の番号が書かれていた。
「拓海から連絡するのは禁止されてないよね? せっかく再会できたのに、このままさよならなんてしたくない。聞くなっていうことは聞かないようにする。ただ昔みたいに仲良くしたいだけなんだ。待ってるから今度こそ絶対に連絡して……絶対だよ」
怖いくらいの真顔で押しつけられて、思わず受け取ってしまう。
しかし彼と会うことはやはりもうないだろう。禁止されているわけではないが、いまの自分は彼と付き合うに値しない人間である。万が一、彼に危害が及ぶようなことになれば死んでも死にきれない。
「じゃあ、そろそろ昼休み終わるから」
「待て、第一発見者として聴取がある」
「そうなの? うわ、まいったな……」
まもなく午後一時になる腕時計を見て、急いで帰ろうとしていた俊輔は、困り顔で頭をかいた。
「会社に遅れるって連絡していい?」
「ああ、警察に協力するとだけ言え」
「わかった」
彼はその場で上司に電話して遅れることを平謝りしていた。どうやら重要な会議があったらしい。申し訳なく思うが、こちらとしても国家機密に関係する以上、独断で融通をきかせるわけにはいかなかった。
ザザーン??。
静かになると波の音が耳につく。
こうやって俊輔と並んで海を見るのは高校生のとき以来だ。隣に目を向けると、彼はあのころと同じようにじっと海原を見つめていた。いまでも海が大好きで、休憩時間などに飽きもせず眺めに来ているのだろう。
懐かしい波の音、懐かしい潮の香り、そして懐かしい親友。
意識すればするほど胸が詰まる。何か話をしなければと思うのに、何も言葉が出てこない。何を話せばいいのかわからない。早くしなければこの時間が終わってしまうというのに??。
「オルゴール、大切にしている」
ようやく絞り出したひとことに、彼は驚いたような顔をして振り向いたが、すぐによかったと屈託のない笑みを見せた。その一瞬で、高校生のころに引き戻されたように感じた。
直後、慌ただしいエンジン音が聞こえて振り向くと、ちょうどワゴン車二台が到着したところだった。ようやく話を始めたばかりなのにと苦々しく思うが、仕方がない。車から降りてきた職員たちに手を上げて合図を送る。
「その男が対象者だ」
「了解した」
「彼が第一発見者だ」
「こちらへ」
俊輔が二人の職員に挟まれてワゴン車に連れて行かれる。不安そうにちらりと振り向いた彼に、拓海は大丈夫だという気持ちをこめて頷いた。
これで、さよならだ??。
遠ざかる後ろ姿を見送りながら、胸の内でつぶやく。
いくら彼が会いたがっても、こちらから連絡をしなければ会えはしない。もともともう永遠に会うつもりはなかったのだ。この奇跡のようなひとときだけで十分である。思い残すことは何もない。
彼の連絡先が書かれた名刺に手を掛けた。
その指がかすかに震えているのが自分でわかる。なかなか踏ん切りがつかずしばらくそのままでいたが、やがて意を決して細かく破ると、くすんだ灰色の空に掲げて冷たい潮風にさらわせた。
第15話 不本意な命令
「坂崎俊輔を引き抜いてこい」
「……は?」
拓海は絶句し、口を半開きにしたまま硬直する。
上司である楠の命令に、こんな間の抜けた返事をしたのは初めてだった。表情を取り繕う余裕さえない。楠はふっと鼻先で笑い、執務机の上でゆったりと手を組み合わせて言葉を継ぐ。
「公安に転職させろということだよ」
「いったい、なぜ……」
「君の高校時代の友人なのだろう?」
彼の顔にニヤリと人の悪い笑みが浮かんだ。
誰にも話していなかったのに??おそらく俊輔のことは一通り調査済みなのだろう。考えてみれば身元調査をするのは当然だ。偶然とはいえ、最重要機密にひとりで接触してしまったのだから。
しかし、通常であれば動向に注意しておく程度で、引き抜くという話にはならない。第一発見者がたまたま拓海の親友だった、ということに、何か疑惑を持っているのかもしれない。それゆえ目の届くところで管理しようというのだろう。
あるいは拓海に対しての人質ではないかとも考えられる。俊輔が公安に所属しているかぎり、拓海は裏切ることも、辞めることも、歯向かうこともできない。たとえどんな扱いを受けようとも従順でいるしかないのだ。
彼をきな臭い世界に関わらせたくなくて繋がりを絶ったのに、最悪だ。
こんなことなら本部に連絡する前に逃がしておけばよかった。あの浜辺には防犯カメラが設置されていないので、逃がしても露見することはなかったはずだ。職務をこなすことしか頭になかったあのときの自分が恨めしい。
「そんな顔をするな」
笑いを含んだ面白がるような声。
本心を悟られないよう無表情を装ったつもりだが、隠せていなかったらしい。いや、楠が並はずれて鋭いだけかもしれない。それでも素知らぬふりをして受け流しながら、藁にもすがる思いで進言する。
「坂崎にこの仕事は務まりません」
「心配はいらん。何も危険な仕事をさせようというわけではない。例の男を監視する要員が不足していてな。増員を検討していたのでちょうどよかった。彼にとっても悪い話ではないと思うが」
そう言い、楠は黒色のファイルを差し出してきた。
怪訝に思いながら受け取り、ページを繰りながらざっと目を通していく。そこには俊輔に関する情報が事細かに記載されていた。拓海の知らなかった事実も少なくない。おかげで、さきほどの言葉の意味も否応なく理解させられた。
「よろしく頼んだぞ」
有無を言わさない威圧的な口調。
拓海は無言のまま一礼し、黒いファイルを抱えて楠の執務室をあとにする。その薄いはずのファイルがやけに重く感じられて、静かに奥歯を噛みしめた。
「来てくれて嬉しいよ」
古びた二階建てアパートの一階に、俊輔は住んでいた。
約束の時間ちょうどに訪ねると、彼は明るく声をはずませて迎え入れてくれた。建物はかなり老朽化しているし、狭い台所は生活感にあふれているが、掃除は行き届いているように見える。
奥へ促そうとした俊輔のところへ、小さな女の子がトタトタと走ってきた。俊輔のズボンにしがみついてその陰に隠れながら、ひょっこりと顔を出し、くりっとした大きな目でじいっと拓海を見上げる。
「この子が娘の七海」
俊輔はそう言い、優しく慈しむように小さな頭に手をのせる。
「七つの海、って書いて七海だよ」
「本当に名前に海を入れたんだな」
「その話、覚えていてくれたんだ」
「ああ……いい名前だな」
「ありがとう」
俊輔は照れたようにはにかんだ。
彼はずっと男手ひとつで七海を育てている。妻は出産直後に出血性ショックで亡くなったのだ。すべて楠から渡された調査書で知ったことだが、その後、俊輔本人からも電話で打ち明けられていた。
「七海、この人はお父さんの親友の真壁拓海さん。七海と同じ海の入った名前だよ」
俊輔は嬉しそうに説明するが、こんな小さな子供に漢字の話をしても理解できないだろう。ただ、父親の友人ということは何となくわかったようで、大きな目をぱちくりとさせて拓海を見上げる。
「おとうさんと、なかよし?」
「ああ、そうだ……よろしく」
「うん!」
目の前にしゃがんで挨拶すると、彼女は元気よく頷いた。
調査書の写真を見たときは妻の方に似ていると思ったが、動いているところを見ると俊輔に似ているようにも感じる。本当に彼の娘なのだと実感し、何ともいえない不思議で複雑な気持ちになった。
「たいしたおもてなしはできないけど」
丸い座卓の向かいに腰を下ろした俊輔は、緑茶の入った湯飲みを差し出しながら、申し訳なさそうに言った。しかし、知人の家に招かれた経験すらない拓海には、そもそも何が普通なのかもわからない。
七海はすぐそばで積み木遊びをしていた。まだこんなに幼いのに邪魔をしないよう静かにしている。それでもときどき父親の様子をちらちらと覗っているので、やはり構ってほしい気持ちはあるのだろう。
「拓海は結婚してないの?」
「ああ……ずっとひとりだ」
いきなりそんな話題が来るとは思いもしなかった。一瞬ドクリと心臓が跳ねたが、どうにか動揺を見せずにすんだ……はずだ。
「彼女は?」
「いない」
「そっか」
俊輔は曖昧に微笑み、湯飲みに指先を添えて目を落とした。
「仕事が忙しい?」
「そうだな」
仕事が忙しいのは本当だ。
しかし、彼女や友人がいないのは多忙だからというわけではない。この仕事をしているかぎり誰とも親しくしないと決めている。禁止されているわけではないが、不器用な自分には秘密を抱えながらの付き合いは難しい。相手に危害が及ぶかもしれないという懸念もある。
もっとも望んだところで手に入らないこともわかっている。自分はつまらないとしかいいようのない空虚な人間だ。中身だけでなく愛想すらない。親しくしたいと思ってくれる人などいないだろう。ただひとり俊輔を除いては。
「そっちはどうなんだ」
「そんな気はないよ」
俊輔はうっすらと微笑を浮かべた。
現在、彼女も友人もいないことは調査書でわかっていた。持ち前の人当たりのよさで良好な人間関係を築いているが、いずれもその場だけの付き合いで、個人的に遊びに行ったり家に招いたりすることはないらしい。
彼の発言から察するに、亡くなった妻への想いがまだ薄れていないのだろう。娘が幼いのでそれどころではないというのもありそうだ。けれど拓海だけはこうやって娘と暮らすアパートに招いてくれた。
俊輔の友人は自分ひとりだけ??そう思うと仄暗い喜びが胸にせり上がってくる。それがいかに身勝手な感情であるかは理解している。だから絶対に悟られないようにしなければならない。
「仕事は忙しいのか」
「昔は毎日のように残業してて忙しかったけど、今は七海がいるから配慮してもらってる。その分、他の人に負担をかけて申し訳ないっていうか、ちょっと気まずいんだけど……ってごめん、なんか愚痴っちゃって」
気恥ずかしそうに肩をすくめる俊輔に、構わないと告げる。職場に不満があるなら拓海としては都合がいい。これなら??。
「俊輔、おまえ転職する気はないか?」
「えっ?」
若干緊張しながら切り出すと、俊輔は一瞬きょとんとしたあと、すぐに我にかえって苦笑する。
「高卒で技能もない僕じゃ転職なんて上手くいきっこないよ。ちょっと愚痴ったけど、こんなに配慮してくれるところなんて他にそうないと思うし、十分すぎるくらい恵まれてるってことはわかってるんだ。心配させてごめん」
チクリと胸が痛む。友人として心配する気持ちはもちろんあるが、それと転職を切り出したこととは無関係なのだ。拓海にとっては上司に命じられた任務である。そしてそれを蔑ろにすることはできない。
「高卒可で条件のいい転職先があればどうだ」
「んー……でも、転職先を探す余裕はないから」
「探さなくてもあるといったら、どうする?」
「どういう意味?」
思わせぶりに続けられる転職の話に、俊輔の眉が寄る。
できれば転職したいという言質を取りたかったが、探り探り進めていくのはいいかげん限界のようだ。そう判断すると、小さく息を吐いてすっと背筋を伸ばし、真摯に彼を見つめながら告げる。
「俺は、おまえを引き抜くためにここへ来た」
「えっ……引き抜くって、その、警察に?」
「ああ、警察といっても公安警察だけどな。心配するな。おまえに与えられるのは危険な仕事じゃないし、朝九時から夜六時までの勤務で残業もないし、今よりも働きやすいはずだ。それに……」
「ちょっと待って、どういうこと? なんで僕?」
俊輔が当惑するのも無理はない。
納得してもらうには理由を説明するしかなさそうだ。しかしながら拓海自身ほとんど何も聞かされていない。おそらくそうではないかと考える理由はあるが、憶測で話すわけにはいかない。
「上司の命令だ。人手不足を補うためだと聞いている」
「もしかして、僕が見てはいけないものを見たから?」
「……それがきっかけではある」
慎重に事実のみを伝える。
俊輔は目を伏せてじっと考え込んだ。歯切れの悪い言いまわしから何かを察したのだろう。もしかしたら、先日の聴取から不穏なものを感じていたのかもしれない。決して口外しないようにと、丁寧ながらも高圧的に言われただろうことは想像がつく。
「引き抜きってさ……強制?」
「いや、強制はできない」
その答えに、彼は大袈裟なくらいほっと息をついた。
「だったら断るよ。やっぱり今の仕事が好きだから続けたいし、それに公安って何か怖そうで関わりたくないっていうか。拓海がそこで頑張ってるのはすごいと思うんだけど……」
「給料は今の倍以上出せる」
拓海が無表情で告げると、俊輔は息を詰めた。
「海に携わる今の仕事が好きだということはわかるし、公安を怖いと感じる気持ちも十分理解できるが、娘のことを思えば、もうすこし金銭的に余裕があった方がいいだろう」
彼の窮状は調査書で把握している。
妻が生きていたころは共働きだったため幾分か余裕もあったが、父子家庭となってからはかなり生活が厳しくなっていた。娘が小学生になれば、授業料はかからなくても何かと出費がかさむのが現実だ。
俊輔は口を引き結んだ。そして隣で積み木遊びをしていた七海に手を伸ばし、まんまるの目をぱちぱちと瞬かせる小さな彼女を、自分の膝にのせてやわらかく包み込むように抱きしめる。
思案をめぐらせているのか、深くうつむいたまま微動だにしなくなった。表情は窺えない。最初のうちは父親の膝にのせられてニコニコしていた七海も、父親の様子がおかしいことに気付いて不安そうな面持ちになる。
「……わかった」
長い沈黙のあと、俊輔は短くそれだけ答えて顔を上げた。
拓海と目が合うと複雑な笑みを浮かべて肩をすくめる。情けなさとあきらめと恥じる気持ちが綯い交ぜになったような表情だ。しかし、それを感じなければならないのはむしろ拓海の方である。
本当は俊輔をこんな薄暗い世界に近づけたくなかった。なのに楠に逆らえず、弱みにつけ込んで転職を迫るという卑怯なまねをした。たったひとりの親友も守れないどうしようもない男だ。
そう自嘲する一方で、彼と同僚になれることに少なくない喜びを感じていた。これからは秘密を共有できる。もう遠ざける必要はなくなる。あのころのように親友に戻ることができるのだから。
第16話 離れゆく心
俊輔と七海は、拓海が住むマンションの二階に越してきた。
上司の楠が用意した部屋で、間取りは一階の拓海のものとほぼ同じである。これまで住んでいたアパートより格段に広く、きれいで、親子二人で住むにはもったいないくらいだと恐縮していた。
それからは、たびたび彼の部屋に遊びに行くようになった。
遊ぶといってもビールを飲んで何かつまみながら話をするくらいだ。娘の七海が一緒のこともあるが、たいていは寝ているので二人きりである。部外者には言えない仕事の話をすることも少なくなかった。
ただ、拓海の仕事についてはほとんど話していない。最初のうちは俊輔から興味津々にあれやこれやと尋ねられたが、たとえ同僚でも、任務に無関係の人物には情報を与えられないのだ。
必然的に、例の男についての話題が多くなる。
俊輔によると、そもそも監視要員として雇われたはずなのに、勤務初日には意思疎通を図ることも命じられたという。心配する拓海をよそに、彼は嬉しそうにその仕事について語り始めた。
とりあえず男が言葉を話すのは確認したが、未知の言語のようで、何を話しているのかはわからない。ただ英語と独語に類似した部分があるので、そこから理解していけるのではないかと。
それからも会うたびに進捗を話してくれた。もちろん上手くいかないこともあるようだが、それでも決して落ち込むことなく、いきいきと前向きに頑張っている様子が伝わってきた。
彼の好きな仕事を奪ってしまったことに罪悪感があったが、なんだかんだでこの仕事にもやりがいを感じてくれている。そのことに、拓海は少なからず救われた気持ちになっていた。
「アンソニー、日本語だいぶ上達したよ」
俊輔はビール片手にポテトチップスをつまみながら、声をはずませた。
アンソニーというのは例の男の名前である。フルネームはアンソニー=ウィル=ラグランジェ。本人がそう名乗ったらしい。公安内ではATLAS-0129というコードネームで識別しているが、俊輔だけは名前で呼ぶようになった。
アンソニーに日本語を教えるというのは上の決定だ。彼にずば抜けた学習能力があることがわかり、彼の言語を理解するよりも早いと判断されたためである。俊輔の適性も考慮したうえでのことだろう。
最初のうちは意思疎通もままならないので大変だったが、きっかけを掴むと順調に進んだ。懇切丁寧に教えたのは基礎となることくらいで、あとは段階に応じて書籍や映像などを与えていけば、彼が自分で学習していくのだという。
もちろん教材だけ与えて放置しているわけではない。邪魔にならない程度に彼と会話するようにしていた。俊輔自身もそれを楽しみにしているらしく、七海が喋り始めたころを思い出すなどと言っていた。
それから数か月。
俊輔の言ったとおり、アンソニーの日本語は驚くほど上達していた。ときどき不自然な言い方をしているし、知らない言葉もそれなりにあるようだが、会話は十分に成立する。そのことをどうして拓海が知っているかというと??。
「俺もこのまえあいつと話してきた」
「え、そうなの?」
拓海は冷えたビールを一口流し込む。
俊輔と再会するまでほとんどアルコールを飲むことはなかったが、いまは彼に付き合ってときどきビールを飲むようになった。せいぜいグラス二杯程度だが、酔ったと自覚したことはないので弱くはないのだろう。
「アンソニーとどんな話をしたの?」
「命の恩人だと嫌味を言われた」
「それ、素直な気持ちじゃないかな」
俊輔はそう笑うが、話しているときの口調や表情を見ていれば、感謝しているわけでないことは嫌でもわかる。もっとも言い争うつもりはないので反論はしない。
「日本語は確かに上手くなってたな」
「だろう?」
俊輔は得意気にそう言い、再びポテトチップスに手を伸ばす。
「アンソニーはああ見えて素直だし真面目なんだ。それでいて話しやすいからすごく楽しいよ。年齢も僕と同じくらいだから、こんな出会い方じゃなければ、いい友達になれたと思うんだけどね」
「…………」
無邪気に声をはずませながら語り、そしてほんのり眉尻を下げる彼に、拓海は苦々しい気持ちが湧き上がる。あの男に情を移すことは俊輔のためにならない。だが、いまとなってはどうすればいいのかわからない。
公安がアンソニーに日本語を教えることにしたのは、おそらく彼から情報を引き出すためだ。拷問に掛けてでも口を割らせるつもりだろう。言葉が通じるようになればこそ可能なことである。
そのことを俊輔が知れば、片棒を担いでしまった自分自身を責めるに違いない。アンソニーがどこでどうなろうと構わないし、むしろいなくなればいいとさえ思っているが、俊輔には知られないよう配慮してもらえないだろうか??。
「どうしたの、難しい顔して」
「考えごとをしていただけだ」
「もしかしてヤキモチ?」
「……そんなわけないだろう」
一瞬、ドクリと心臓が収縮して息が止まった。
思案をめぐらせていたのはそのことではなかった。なのにこれほど動揺したのは、そういう気持ちも心のどこかにあったからだろう。一応否定したが、俊輔はどういうわけか信じなかったようだ。
「安心して、これからも拓海がいちばんの親友だから」
テーブルに頬杖をついてにっこりと笑う。
奥底の不安を見透かされたようできまりが悪い。無表情を装いつつ、グラスに半分ほど残っていたビールを一気に呷る。顔が熱くなっているのはアルコールのせいだ、そう自分に言い聞かせた。
「姪御さんのためにも彼を解放してあげたいんだ。拓海から頼めない?」
あの日以来、事態はますます良くない方へ傾いた。
俊輔がすっかりアンソニーの味方になってしまったのだ。この国に来たのは誘拐された姪を探すためだ、きっとまだどこかで生きているはず、一刻も早く助けに行きたい、という彼の話を素直に信じているらしい。
そして、その姪が七海と同じくらいの年頃ということで、なおさら同情的になっているのだろう。もし彼と同じ境遇に置かれたとしたら、もし七海を助けに行けなかったなら、などと想像してしまうようだ。
アンソニーの話が本当だという根拠は何ひとつない。たとえ本当だとしても、だからといって解放してやれるほど簡単な話ではない。存在自体が秘匿されるべき最重要機密なのだ。自由にするなどありえない。
あの牢獄には常に二人以上の監視役がいて、監視カメラもついている。つまり俊輔とアンソニーの会話は筒抜けである。拓海が話すまでもなく、上司の楠は報告を受けて承知しているだろう。
いまは俊輔を利用してアンソニーの話を引き出そうとしているのかもしれない。しかし、ここまでアンソニーに傾倒しているとわかればそれも終わる。俊輔は用済みになるのだ。
どうすれば状況をわかってもらえるのか。どう言えばあの男から引き離せるのか。拓海はダイニングテーブルに腕を置いてうつむき、視界の端でビールの泡がはじけるのを見ながら、ゆっくりと口を開く。
「あいつは国家機密だ。俺が意見したところでどうにもならない」
「でもさ、拓海はお偉いさんのお気に入りだって聞いたんだけど」
「……手駒として重宝されているだけだ」
まわりから楠のお気に入りだと思われていることは承知しているし、実際にマンションや射撃場など別格ともいえる待遇を受けているが、だからといって拓海のお願いを何でも聞いてくれるわけではない。
俊輔はなぜあの男が機密扱いなのかを知らないのだろうが、機密という時点で簡単に解放できないことは察しがつきそうなものだ。たとえ公安という組織をよく知らなかったとしても。なのに。
「とりあえず、頼むだけ頼んでみてよ」
藁にもすがる思いなのか、理解すらしていないのか、こちらの事情など顧みもせずに押しつけてくる。そんなにまであの男のことが大事なのか??拓海はうっすらと眉を寄せる。
「俊輔、おまえの仕事はあいつと仲良くすることじゃない。深入りするな。詳しい事情は別の人間が聞くことになるだろう」
「それ、拷問するってこと?」
ひどく冷ややかな声音でそう問われて、思わず息を詰めた。まるで責められているかのように感じる。いや、実際に彼は責めているのかもしれない。
「やっぱりそうなんだね」
「俺は何も聞いていない」
「でもそう思うんだよね」
「…………」
いつになく鋭い追及に何も答えられなくなる。逃げるようにグラスに手を伸ばして、心持ちぬるくなったビールを煽り、小さく息をつく。
「なあ、あいつが本当のことを言っているとは限らないだろう。おまえの同情をひくために嘘をついているかもしれない。あまり肩入れすると、あとで裏切られてつらい思いをすることになるぞ」
「彼が嘘を言っているとは思えない」
俊輔の目は曇りなくまっすぐ前を見据えていた。自分の言葉が、心が、彼に届かないことがもどかしくてたまらない。空になったグラスを持つ手にグッと力がこもる。
「おまえはお人好しすぎるんだ」
「……そうかもな」
彼はわずかに眉を寄せたあと、ふっと笑う。
拓海はなぜだか無性に胸がざわつくのを感じた。
「悪いけど、もうお開きにしていい?」
「ああ、遅くまで悪かった」
掛け時計に目をやると、まもなく午前零時になろうとしていた。もうすこし遅くまでいることもあるが、そろそろ帰るべき時間なのは確かだ。なのに、拒絶されたように感じてしまうのは気のせいだろうか。
だからといって真意を尋ねるような勇気はない。空のグラスや食べかけのスナック菓子を放置して玄関に向かい、靴を履くと、見送りに来ていた背後の俊輔にちらりと振り返った。
「俺は、いまでもおまえのいちばんの親友なのか?」
「……そのつもりだけど」
俊輔は曖昧に微笑んで肩をすくめる。
拓海は何も言えず、背を向けたまま軽く片手を上げて部屋を出た。その扉が閉まるやいなやガチャリと鍵がかけられる。思わず白い息を吐くと、無機質に響く靴音を聞きながら階段を下りていった。
第17話 片思い
「脱走……?!」
俊輔と言い合いになってから数日後の夜。
別件で警察庁を訪れていた拓海は、上司の楠から例の男が脱走したという話を聞き、大きく息を飲んだ。まず頭をよぎったのは俊輔のことだ。嫌な予感にドクドクと鼓動が速くなるのを感じる。
「監視役はどうしたんですか」
「監視役二名と警備役三名はみな気絶させられていた。不意を衝かれて声も上げられなかったらしい。相当な手練れだな、あの男は。おかげで脱走に気付くのが遅れてしまった。いま捜索のために招集をかけているところだ」
楠は執務机で手を組み合わせながら、淡々と答えた。
拓海も常に冷静でいられるよう心がけてはいるものの、なかなか彼のようにはいかない。現にさきほどから心臓が早鐘のように打ち続けており、じわじわと嫌な汗までにじんできた。
「鍵やセキュリティは?」
「牢の鍵は壊されることなく開けられていた。各種セキュリティはなぜか切られていた。牢の監視カメラは今日の夕方に故障していた。いずれもあの男ひとりではできないことだ。内部に協力者がいたとしか考えられない」
俊輔にここまでできるだろうか。
そんな疑問が頭をもたげたものの、必要な情報さえ得られればそう難しくないかもしれない。持ち前の人なつこさで他の職員とも親しくなっていたので、警備について聞き出すことも可能なはずだ。
本来ならこのような背信行為に及ぶ人間ではないが、浅はかにもこれが正義だと思い込んでいるのなら、そして事の重大さを正しく理解していないのなら、実行することも十分にありうる。
「心当たりがあるのだな?」
「……確信はありませんが」
そうごまかしたものの、楠にはその心当たりが何なのか見当がついているのだろう。いつも拓海の思考など簡単に見透かしてしまうのだ。だからこそ、もはやこの事案から目をそむけるわけにはいかない。
「私に任せてもらえませんか」
「いいだろう」
楠は隙のないまなざしで見つめ返した。
「いまさら言わずともわかっているだろうが、この事案は、国家に対する反逆行為と見なされる。たとえ誰であろうと決して許されない。誰であろうとな……君は、私を失望させるなよ」
それは忠告であり、警告だ。
わかってはいたが、もう逃げ道がないのだとあらためて思い知らされた。背筋が凍りつくのを感じる。それでも表情を動かすことなく丁寧に一礼すると、無言で執務室をあとにした。
「その件なら聞いたよ」
俊輔の部屋を訪れ、例の男が脱走したことを告げると、彼は顔色も変えずに平然とそう応じた。いつものようにスリッパを出して拓海を招き入れ、リビングに向かいながら話を続ける。
「一時間ほどまえに電話が来てさ、彼が脱走したから緊急招集って言われたけど、七海をひとりにできないから断ったんだ。それで疑われたのか、すこし前に職員がふたり来てこの部屋を調べていったよ。もちろん誰も匿ってなんかいないけどね」
彼は饒舌だった。
おかげでおおよその状況は把握できた。公安は彼だけでなく関係者全員を調べているはずだ。階下にある拓海の部屋もすでに調べられているだろう。脱走した男を確保することが最優先なので、まずは匿っていないかだけを確認したのだ。犯人捜しはおそらく一段落してからになる。そうなれば??。
「ビール飲む?」
「いや、仕事中だ」
勧められたダイニングテーブルには向かわずに、リビングの中央で足を止めた。そしてゆっくりと体ごと振り向いて、こころなしか表情を硬くした俊輔に、真剣なまなざしを送る。
「おまえが、脱走に手を貸したのか?」
「……だったらどうする?」
彼はぎこちない微笑を浮かべた。
瞬間、全身の血が一気に逆流したように感じた。何の相談もなしにこんなことをしでかしたあげく、まるで敵対するように挑発的な態度を取るなんて。俺はおまえの親友じゃなかったのか??。
「アンソニーは世間に公表できない存在なんだろう? だとすれば、僕を逮捕して裁判に掛けるわけにはいかない。せいぜいひっそりとクビにするのが関の山じゃないか?」
「おまえは、何もわかっていない」
静かに握ったこぶしが震える。
一般常識の通用しない世界であることは理解していても、実情は知らなかったのだろう。それゆえ見立ては甘い。失職という重大な覚悟を決めたつもりかもしれないが、その程度ではすまないのだ。
??彼を解放してあげたいんだ。拓海から頼めない?
そう持ちかけられた数日前のことが頭をよぎる。いま思えば、あのときにはすでに脱走計画を立てていたのだろう。それでも実行するにはためらいがあり、どうにか回避したくて別の方法にすがってみたのではないか。
それに気付いてさえいれば、思いとどまらせることは難しくなかったはずだ。裏切り者の末路がどうなるかを教えるだけでいい。信念があったとしても命まで懸けられはしない。彼には幼い娘がいるのだから。
あのとき、どうしてもっと真剣に彼と向き合わなかったのだろう。どうして議論を尽くさず曖昧なまま放置していたのだろう。おかげで気付けたはずの機会をみすみす逃してしまった。いまとなっては後悔するよりほかにない。
正面の俊輔は、反抗的なまなざしで拓海を見据えている。
もはや親友とは思われていないのかもしれない。アンソニーの方が大事なのかもしれない。それどころか敵と見なされているのかもしれない。それでも拓海にとってはただひとりの親友なのだ。
無表情のまま、俊輔から目をそらすことなく静かに距離を詰める。そして自分と背丈の変わらない身体を左手で抱き寄せると、その肩に顎をのせてもたれかかった。衣服越しに彼のほのかな体温を感じて吐息を落とす。
「拓海?」
俊輔の声はあきらかに戸惑っていた。
当然だろう。こんなふうに抱き合うことなんて一度もなかったのだから。それどころかふざけてじゃれ合うようなことさえなかった。せいぜい何かの拍子にぶつかったり触れたりするくらいだ。
ドクドクドクドク??心臓がいまにも破裂しそうなくらい激しく暴れている。意識的にゆっくりと呼吸をしても鎮まる気配がない。彼にもこの激しい動悸が伝わっているかもしれない。
「どうしたんだ、気分でも悪いのか?」
「もうすこしこのままでいさせてくれ」
「いいけど……」
自分の右手がかすかに震えているのがわかる。それでも引き下がるわけにはいかない。袖に忍ばせたナイフをひそかに手に取ると、そっと狙いを定めて奥歯を食いしばり??力いっぱい振り下ろす。
「っ……ぐぁ……」
首筋に突き立てたナイフから、肉と骨の生々しい感触が伝わってきた。確実に動脈を切るようにグッと前後に動かし、一気に引き抜く。傷口から生温かい鮮血がドクドクとあふれ出した。
言葉にならない苦しげな呻き声は次第に弱まっていく。それとともに体からも徐々に力が抜けていくのがわかり、抱く手に力をこめる。二人の足元にはみるみる血溜まりが広がっていった。
やがてだらりと動かなくなった彼をそこに横たえると、瞼を閉じさせた。その手で頬に触れる。もうすっかり血の気が失せているようで白く見えるが、まだほんのりとぬくもりが感じられた。
俺は、おまえが好きだった??。
融けそうなほど目が熱くなり視界が歪む。やがてこらえきれずにあふれた涙が頬を伝い、俊輔の目元にぽたりと落ちる。しかし、彼はもうピクリとも動かなくなっていた。
第18話 身勝手な復讐劇
「まったく、面倒なことになったな」
上司の楠は椅子の背もたれに身を預けながら、正面に立つ拓海を見る。
その溜息まじりの声からも、じとりとした視線からも、失態に対する呆れがはっきりと感じ取れた。拓海はこれ以上ないほど深々と頭を下げて謝罪する。
「本当に申し訳ありませんでした」
「まあいい。あとは任せておけ」
楠が問題視したのは、俊輔を殺したことではなく、その後の対処を怠ったことだ。
本来、事を起こしたあとはすぐに楠の指示を仰がなければならない。しかしながら親友を手に掛けたことで平静を失ってしまい、連絡も忘れ、自分の部屋でぼんやりとシャワーを浴びていたのである。
どうやらその間にアンソニーが俊輔の部屋を訪れたようだ。脱走してまもないこのときに、なぜ協力者に接触するという危険を冒したのかはわからない。ただ、彼が俊輔の遺体を発見して110番通報したのは確からしい。
それゆえ殺人事件として捜査が始まってしまったのである。幸か不幸か、娘の七海がアンソニーを目撃していて、彼が重要参考人として手配されている。拓海はいまのところ捜査線上にも上がっていない。
楠はその事件ごと警察庁で引き取ろうというのだろう。俊輔は公安の所属なので、任務上の機密事項に抵触するなど理由はこじつけられる。納得はさせられなくても、それなりに筋が通ってさえすればいいのだ。
「連絡するまで自宅で待機していろ」
楠は事務的な口調でそう告げて、執務机に置かれた電話に手を伸ばすが、拓海はそれを遮るように声を上げる。
「お願いがあります」
「何だ」
隙のない視線で促され、緊張でじわりと汗がにじむのを感じた。それでも言わないという選択肢はない。ごくりと唾を飲み込んで口を開く。
「坂崎の娘も死んだことにしていただきたい」
「どういうつもりだ」
「私があの子を、坂崎七海を引き取ります」
「何も死んだことにする必要はないと思うが」
「…………」
何も答えられず硬い面持ちで視線を落とす。さすがに本当のことを話す勇気はない。あきらめるしかないと思ったそのとき??彼はわずかに口もとを上げて、挑むようなまなざしを投げかけてきた。
「高くつくぞ」
「承知しています」
拓海は姿勢を正して真摯に答える。
自分にまだ十分利用価値があることも、それなりに気に入られていることも、すべて計算の上で願い出ているのだ。何を求められたとしてもいまさら驚きはしない。これまでも、さんざん非道なことを命じられてきたのだから。
自宅マンションに戻るとすぐに、楠から電話がかかってきた。
七海を迎えに行けと言われて所轄の警察署に向かう。身寄りがないため警察署で保護されていた彼女を、ひとまず父親の友人として拓海が預かれるよう、楠が手配してくれたのだ。
「あちらです」
若い女性警察官に案内された先に、七海がいた。
彼女はおとなしく窓際のソファでジュースを飲んでいた。いつもよりぼんやりとはしているが、父親の惨殺現場を目にしたとは思えないほど落ち着いている。幼さゆえにまだ状況が理解できていないのかもしれない。
女性警察官に聞いたところ、通報を受けて駆けつけたときには意識を失くして倒れていたらしい。それも血溜まりの上に。そのせいで七海自身も衣服も血みどろになっていたため、署で身体を拭いて着替えさせたという。
目を覚ましたときは喋ることさえままならない状態だったが、着替えてから平静を取り戻したそうだ。職員の聴取に応じて目撃情報を話したというので、記憶はなくしていないのだろう。
「七海、大丈夫か?」
「おじさん?」
拓海の姿を認めると、七海はほっと安堵の息をついて表情を緩ませた。落ち着いたとはいえやはり心細さはあったようだ。事情もわからないまま、知らない大人たちに知らないところへ連れてこられたのだから無理もない。
拓海はローテーブルを挟んだ正面に腰を下ろし、前屈みで彼女を覗き込む。
「七海、これからは俺と暮らそう」
「お父さんが死んじゃったから?」
「……そうだ」
七海はいまにも泣きそうな顔になりながら、こくりと頷いた。くりくりとした大きな目いっぱいに涙をためているが、口をきゅっと引き結び、こぼさないよう必死にこらえている。
父親の死を理解していないのかと思ったが、そうではなさそうだ。
おそらくいつもどおり良い子でいようとしているのだろう。他人の邪魔にならないように過ごし、尋ねられたことには素直に答え、気に入らないことでも我慢する。彼女にそういう節があることは以前から気付いていた。
その頭に手を伸ばして、ぽんとのせる。
瞬間、堰を切ったようにぽろぽろと涙の粒をこぼし、顔をゆがめて息苦しげにしゃくり上げ始めた。泣きたいだけ泣け??拓海は無表情でそう告げると、彼女の涙がおさまるまでじっと待ち続けた。
「七海、お父さんの敵を取ろう」
冷たい蛍光灯の下、拓海はやわらかい小さな手を握って言う。
ストレッチャーに寝かされた俊輔の遺体には布が掛けられ、顔だけしか見えない。血がきれいに拭き取られているためか、寝ているだけのようにも見えるが、首筋から覗く傷が惨劇を物語っている。
遺体安置所まで案内してくれた若い女性警察官は、気をきかせて外で待っている。それでも声が届いてしまう可能性はあるのだから、こんな話をするべきではないが、気持ちが昂ぶってどうしても抑えられなかった。
「かたき?」
「お父さんを殺した男を殺すんだ、七海のこの手で」
俊輔の遺体を見つめたまま、つないだ手にそっと力をこめながらそう言うと、彼女はこくりと頷き、そのやわらかい小さな手で健気に握り返してきた。彼女にはもう拓海の手しか頼るものがなかったのだ。
こうして、拓海は何も知らない幼い彼女を、身勝手な復讐劇に巻き込んでいった。
七海は素直だった。
日々、ラ・カンパネラのオルゴールを鳴らしながら、お父さんの敵を取ろうと言い聞かせるが、嫌がったことはただの一度もない。殺すという物騒なことも当然のように受け入れている。
拳銃の扱いを教えても素直なだけに飲み込みが早い。もちろん理解はしていても思うようにできないこともあるが、努力を惜しまず、できるようになるまで繰り返し練習を続けていた。
学校にも行けない境遇を嘆きもせず、わがままも言わず、言いつけをよく守り、ひたむきに努力し、目的に向かってまっしぐらに進んでいく。彼女のまっすぐな心には疑念など一切なかった。
一方、拓海の気持ちは次第に揺らぐようになった。
七海を復讐に利用することがいかに道理に反しているか、初めからわかっていたつもりだった。わかったうえで決意したつもりだった。けれど、その無垢なまなざしを向けられるたびに罪悪感に苛まれた。
本来なら拳銃など一度も手にすることなく、学校に通い、友達と遊び、子供らしく楽しい日常を送っているはずなのに。いまならまだ間に合う。取り返しがつかなくなる前に社会に戻すべきではないか。
しかし、復讐を完遂するにはやはり俊輔の娘が必要なのだ。簡単にあきらめられるくらいなら初めから巻き込んでいない。七海にしても、いまさらやめろと言われたところで納得はできないだろう。
そんな結論の出ない自問自答をするようになったころ、突然、あの男の似顔絵がテレビに映し出された。ごまかす間もなく七海は確信の声を上げる。いくらなんでもまだ早い??ひそかに動揺する拓海を置き去りにして、復讐の歯車は回り始めた。
どこで間違った。何を間違った??。
重く垂れ込めた鉛色の空から、ぽつぽつと雨が降り始める。
拓海は後頭部を殴られて倒れていたが、顔に冷たい雨粒が落ちるのを感じてうっすらと目を開く。最初に視界に映ったのは俊輔の墓石だった。何となく彼が泣いている気がして奥歯を噛みしめる。
体をよじると、わずかに動いた足先に何か硬いものが当たった。見なくても拳銃だとわかった。去りぎわにあの男が投げつけていったのを覚えている。死にたければ勝手に死ね、と??。
そうだ、最初からそうすれば良かったんだ。
拓海は重たい体を起こして拳銃を拾うと、自らのこめかみに銃口を当て、引き金にゆっくりと人差し指をかける。誰よりも死ななければならないのは自分だ。あの男はともかく、七海を復讐劇に巻き込むべきではなかったのだ。
きっと、俊輔は許してくれないだろうな。
急に雨が強くなった。顔や首筋を幾筋もの雨水が伝い落ちていくのを感じながら、墓石を見上げて薄い自嘲の笑みを浮かべる。目を閉じ、気持ちを落ち着けるように小さく呼吸をすると、引き金にかけた指にゆっくりと力をこめる。
「ダメ!!!」
その声にビクリとして振り向くと、七海が雨を蹴散らしながら飛びかかってきた。拳銃を両手で掴み、思いきり引き上げて銃口を空に向けさせると、指をちぎらんばかりの勢いでもぎ取った。
彼女は降りしきる雨に打たれながら仁王立ちし、怒ったような泣きそうな顔で口を引き結び、唖然とする拓海を睨みつけていた。奪い取った拳銃を震えるほど強く握りしめ、口を開く。
「家族が死ぬのはもう嫌だ」
「……俺は、家族じゃない」
「パパって呼ばせたくせに」
彼女はいまにも泣き出しそうな顔で笑いながら、揶揄するように言った。声はすこし震えている。もしかしたらすでに泣いているのかもしれない。目が潤んでいるのは雨のせいではないだろう。
ザー……。
沈黙を覆い隠すように雨音が大きくなる。
二人とも髪から衣服まで全身ずぶ濡れになっていた。それでも時が止まったかのように動かない。夢か現実かも曖昧になる中で、打ちつける雨だけがかろうじて現実を伝えていた。
やがて、彼女は詰めていた息を吐いて背を向けた。拳銃を持っていない方の手を体の横でゆっくりと握り、ほんのすこしだけ俊輔の墓石の方に顔を向け、戸惑いがちにうつむく。
「お父さんならわかってくれると思う。拓海が苦しんだこと」
「…………」
雨に掻き消されそうな弱い声だったが、拓海の耳には届いた。
彼女はこぶしに力をこめると、振り返ることなくぴしゃぴしゃと水たまりを踏んで走り去っていく。その向かう先にうっすらと見える人影はあの男だろう。次第に小さくなり霞んでいく彼女の後ろ姿が、俊輔に重なって見えた。
土砂降りの雨の中、拓海は地面に突っ伏して慟哭した。