【村上義清】
説明
『長野県の英雄。武田信玄を3回もボコボコに。生涯忘れ去ることのできない恐怖心を植えつけた。長野県民からは今なお信州の守護神と崇められている。』(参照;アンサイクロペディア・笑)

◇ ◆ ◇

[Wikipedia]
村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。

信濃埴科郡(はにしなぐん)葛尾(かつらお)城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡(ちいさがたぐん)・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。

◇ ◆ ◇

[朝日日本歴史人物事典の解説]

【村上義清】

没年:天正1.1.1(1573.2.3)
生年:文亀1(1501)

戦国時代の武将。信濃国埴科郡の葛尾城(長野県坂城町)城主顕国の子(頼平の子とする説も有力)。幼名武王丸。左衛門佐,兵部少輔。

川中島地方や佐久・小県地方に勢力を拡大しつつあったころ,武田信玄の信濃侵略が始まった。

天文17(1548)年2月に信玄の軍を上田原(上田市)で破り,勢いに乗って勢力を拡大した。天文19年9月には戸石城で再度武田軍を破るが,翌年5月に同城を真田幸隆に攻め落とされてからは劣勢となる。

天文22年4月武田勢に攻められて葛尾城を脱出し,再起を図ったが成功せず,越後の上杉謙信のもとに走った。これも永禄4(1561)年に起こった川中島合戦の原因のひとつとなっている。

その後も旧領の回復を目指して戦うが果たせず,永禄8年越後頸城郡根知に移り病死した。

信玄と戦ったことで人気が高いが,彼の出した文書はほとんど伝わっておらず,父親などに関して謎の多い人物である。
<参考文献>水出熊雄『名将村上義清』(笹本正治)
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