夜摩天料理始末 25
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 どこだ……どこだ、あの桜色の天狗。

 空に拡がる雲に意識を向けるが、その内部は勿論、上下のどの空間にも奴は居ない。

 あれだけ挑発していた、あの天狗声も、今は聞こえない。

 やったのか……。

 あの雷球の一撃で消し飛んだか。

 たとい、式姫と言えど、あれを受けては無事では済むまいが……。

 だが、そう信じ込めるほど、彼は能天気では無かった。

 まぁ良い。

 雲間に雷の力を再度集める。

 奴らには私の位置を知る事は叶わないはず。

 この調子で焼き払って居れば……そのうち、音を上げて飛びだしてくるだろう。

 そのうえでなぶり殺しにしてやる。

 私には、この無尽蔵の力があるのだから。

 私を怒らせたこと、後悔させてやる。

 

 雲に、いや、今は彼の手足に等しいそれに意識を更に深く繋ぎ、力を紡ぎ出す。

 雲は雷を宿すが、その本然。

 その上、この煙煙羅の力を宿す雲は、全体に呪力を宿している。

 容易く、彼の力を伝え、その雲間に無数の雷を集める。

(雷!)

 再び空にそれを放つ。

 

 熱。

 木と空の焼ける匂い。

 生き物が滅びる時の悲鳴。

 

 それらが風となって、動かぬ雲の間を通り、彼の元に吹き付ける。

 勝つと判ったうえで行う戦のなんと心地よい事か。

 これだけの力を連続で使って尚、彼には余裕があった。

 いや、使えば使う程、力は滾々と彼の体内から湧き出してくる。

 なんと心地よい。

 力の行使が。

 相手を蹂躙する愉悦が。

 なんと楽しい。

 

 その時、ずきり……と。

 疼きを感じた。

 傷口がざわつく。

 右前脚 −正確には今は無いその場所ー に違和感を感じた。

 失ったはずの手が痒い。

 失った筈の指が痛い。

 足軽時代に、仲間がそんな事を、酒を呑みながら語っていた、そんな事をふと思い出す。

 その時は、何を戯言を……と思ったものだが、今、自分が感じている、これがそうなのか。

 

 幻肢痛。

 

 これは、そう呼ばれる感覚なのか?

 いや……そうでは無い。

 まだ血を流すその傷口が、失った脚を求め、失った脚も、またそれに応える。

 たとえ斬りおとされたそれであろうが、その血と肉は一つに戻ろうと、動く。

 殺生石の力を宿す、この悍ましい血が、さらなる力の為に一つになろうと求めているのだ。

 何とすさまじい力なのか。

 彼の力が増せば増すほどに……その力を受けて、その血は彼の肉体を直していく。

 癒すのではない、治すのでも無い。

 次なる殺戮と破壊を求め、その体をそれに向いた物に。

 あの妖狐の求める姿に。

 元の命の在り様などお構いなしに、作り替えていく。

 だが、彼には、その事に気が付く術は無かった。

 ただ、その身に満ちてくる力に酔いしれていた。

 

 眼を開くと暗闇の中だというのに、眩しさを感じた。

 見える……見えるぞ。

 頭の傷も癒えた。

 左前脚の傷が塞がり、食い込んでいた羅刹の斧が、抜け落ちた。

 後は、右前脚。

 だが、それも、今や、失った脚の気配が身近に迫るのも感じ取れる程。

 来い……早く。

 私は全き体に戻り、手始めに藻も式姫も、あの男のいた庭も、その全てを完膚なきまでに破壊して……。

 私は、この世に君臨するのだ。

 

 だが、この時、自身の姿を見る事が出来たなら、彼はなんと思った事だろう。

 彼の頭の傷は癒えたのではない。

 その、頭自体が作り替えられていた。

 猿を戯画化して、朱を塗りたくった仮面のような真っ赤な顔。

 そこに、浮かぶ、にんまりとした笑み。

 彼の感情になど、この体は頓着しないのだと……。

 そう言わんばかりに、その顔は、虚ろな仮面の笑みを満面に浮かべていた。

 

 その口がかぱりと開く。

「キタ」

 片言だが、確かに明瞭に発せられた言葉は、彼がこの体を我が物にしつつある証明か。

 喜悦に満ちた、その言葉に応えるように、待ち望んでいた衝撃が走る。

 右脚の付け根に、地上から飛来したそれが勢いよくくっ付いた。

 血が、肉が、にちゃりとそれを受け入れる。

 瞬時に、骨が付き、肉が盛り上がり、血が通い、筋が張り、神経が通る。

 我が体として、幻では無く、右前脚に感覚が蘇る。

 その蘇った脚を動かそうと意識を繋いだ時に感じた、最初の感覚。

 

 ……重い?

 

「今何か、失礼な事考えませんでした?」

 あり得ない感覚に加え、今この場では、あり得ない筈の声が至近距離から聞こえた。

 そして、右前脚が軽くなる。

 いや、本来のそれに戻った。

 そして、その重みが、体のあちこちに……

 そう知覚したのと同時だった。

「喰らいやがれっ」

 小山のように盛り上がる背骨が撃砕された。

「足りない……こんなのじゃ」

 毒気を吹き散らし、鞭のように相手を薙ぎ払う大蛇の尾が、半ばから引きちぎられる。

 そして。

「死になさい」

 彼の首筋の最も太い血管を抉り、首元に鋭い刃が差し込まれた。

 

 なんだ……これは。

 何が起きた。

 私の体に取りついたこいつらは、一体なんだ。

 どうやって、この私の位置を探ったかは知らぬが、こやつらは誰の体に乗っていると思っているのだ。

 次代の、この国の支配者の体をなんと心得るか、この虫けらがぁ!

 

 その身に取りついた式姫達を振り払おうと、巨体が暴れる。

 痛みに、空中で身をよじり、体を撥ねさせる。

 無差別に周囲の雲から雷が迸り、三人を襲う。

 背骨に更に一撃加えようと、斧を振りかぶっていた紅葉御前の斧が、その雷撃を受けて手から弾かれる。

 更に大きく体をゆすられて足元が掬われそうになる。

 紅葉は、慌てて身を伏せて、鵺の皮を掴んで体を支えた。

「うぉい、落ちるだろが、ちっとばかり痛いのは我慢しろこの野郎!」

「……無茶言ってるわね」

「まぁ、奴からすれば無理からぬことですよね」

 こちらは、鵺の首に深く刀を差し込んだまま、それに捕まった姿で宙ぶらりんになった童子切が器用に肩を竦める。

 皮肉な事に、鵺の筋肉に支えられているせいで、刀が抜け落ちる心配は無さそうだが、雷撃一つ、体の一揺すり一つで落ちてしまいそうな状況には違いない。

「何を呑気な事言ってやがるんだ、掴まれ、童子切!」 

 早くこっちに、と手を伸ばそうとする紅葉御前に、彼女は首を振ってみせた。

「木の上にでも落ちれば何とかなりますよ、それに、最低限の役目は果たしましたしねー」

「あん?」

「貴女、最初からそのつもりで」

 三人の周囲で、雲が晴れていた。

 いや、三人に襲われ、その巨体を暴れさせた事で、鵺の姿が、僅かに雲から飛び出していた。

 そして、空気を引き裂く、この音。

「……成程、餅は餅屋か」

 空に居るバケモノには空を自在に舞う式姫が。

「本気の音ね、これは」

 この化け物は知る事になるだろう……。

 あの大天狗を怒らせた存在の末路を、その身を以て。

「そういう訳なので、彼女の邪魔をしないようにしませんとね」

 童子切が、平らに差し入れていた刃を、微妙に手の内で捻った。

 刃が縦に。

 甲冑を纏うその体重の全てが、刃に掛かる。

 

 ぎゃぁと、ひときわ高い絶叫が鵺の口から迸り、その音が途中からひゅうと空気の漏れる音に変わる。

 

 大江山の鬼神の首を刎ねたる、名刀、童子切安綱。

 その鋭い刃が、鵺の首の筋や血管、そして気道を存分に切り裂きながら、その首から抜け落ちる。

「それじゃ、お先にですよー」

 それを握ったまま、童子切の体が、眼下の森の中に消えていく。

 深くえぐられた首。

 その傷すら、切り裂かれた後から、直ぐに再生が始まる。

 だが、同時に三か所に激しい攻撃を受けた事が、その再生を常よりも遅い物にしていた。

 傷が塞がるまでの、その僅かの間。

 それで、彼女たちの目的には十分だった。

 血を失い、鵺の意識が一瞬途切れ、体が、空に浮く力を失い、高度を更に下げる。

 夜の闇の中、鵺の焼き払った森の炎が僅かに大地の存在を照らす。

「どうも高い所は好きじゃないね」

「全くね、早く、地に足を付けた生き方を、あの人としたいわ」

「こんな時だってのに、惚気るのだけは忘れねぇんだな……」

 落ちる鵺の体を、土産だと言わんばかりの勢いで蹴って、二人もその体を空に躍らせた。

 その落下する二人の視界の隅に閃く、桜色の炎。

「奴は巣から引っ張り出したわ」

「後は頼むぜー、おつのんよー」

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 色々悩んだ末に、おつのは黒雲を静かに見つめていた。

 再度、雷を集めた、眩い雷球が森と空を焼き払ったが、それでも彼女は雲を見続け、その機を待った。

 動きがあるのを。

 彼女の仲間が、奴を引きずり出すのを。

 機は一瞬。

 奴を雲から引っ張り出すのも。

 天羽々斬から聞いた、殺生石が持つ、異常な再生能力を超える、一撃を与えうるのも。

 ただ、一回だけ。

 外すわけにはいかない。

 

 時は唐突に来た。

 地上から一直線に、何かが矢のように飛んで、雲の中に吸い込まれた。

 あそこだ。

 はっきりした何かが見えた訳では無い。

 それでも、おつのは迷う事無く、身を潜めていた所から一気に飛び出した。

 翼の一打ち一打ちに満身の力を込めて、ぐんぐんと空を切り裂いていく。

 見据える視線の先で黒雲が割れた。

 前に見た時より、更に巨大化した黄色の獣がぬうと姿を現す。

 その巨体から、一人、また一人と落ちる人影。

 一人一人を捕まえる暇はない。

 高度を若干下げ、森の上、すれすれを飛びながら、おつのは羽団扇を一閃させた。

「颶風!」

 地上から上空に、台風も顔色を失う程の強い風が吹き上げ、空から落ちる三人を吹きあげた。

 三人の落下速度を緩めながら、呪力を帯びた風が、更に、上に掛かった雲の一部を吹き散らした。

 ぽかりと空いた、雲の穴。

 そこから差した月明かりが、鵺の姿を金色に浮かび上がらせる。

 自らが起こしたその風に乗って、おつのが更に加速した。

「オン・バサラ・クシャ……」

 低く真言を唱えながら、左手を開く。

「金剛蔵王権現よ」

 静かに、だが赤熱する火炎がその手の中に燃えだす。

「済度しがたき者を、今一度輪廻の輪に還さんがため、炎の剣を借り受けます」 

 

 深くえぐられていた鵺の首が繋がり、再び巡りだした血により、意識が戻る。

 あの一撃から、ほんの一瞬の出来事。

 背骨にも、既に肉が盛り上がり、蛇の尾は、その半ばまでその身を復元していた。

 妖怪としてもあり得ない程の、凄まじいまでの生命力。

 開いた目に、金の光が映る。

 雲から出てしまったか。

 まぁ、良い。

 どの道、この身の傷が癒えるまでの隠れ場所よ。

 この力を見せつけ、絶望の中で皆殺しにしてやるのも悪くない。

 式姫達の位置を探ろうと巡らせた視界の中に、鮮やかな色が躍った。

 淡い薄紅の光を曳くように。

 一打ちごとに空を引き裂き、彼に迫る。

 私を愚弄した天狗。

「羽虫が!」

 確かに速い。

 その点で彼は彼女に遠く及ぶまい。

 だが、虫けらの速さになど、何の意味があるか。

 雲間に蓄えた雷の力に意識を繋ぐ。

 先ずは、貴様だ。その美しい姿、無残な焼き鳥にしてくれる。

 雷の力を集め、解き放つ。

 上空に、おつのを中心にして、これまでとは比較にならない程の、巨大さと熱量を伴う火球が生じた。

 速い敵ならば、その速度で回避しうる範囲の全てを焼き払うのみ。

 無尽蔵の呪力と、いかなる傷も再生するこの体。

 私に勝てる存在など、もうこの世には存在しないのだ。

 

「……阿保ねぇ」

「全くな、おつのが速いだけのおしゃべり天狗だとでも思ってるのかね」

 杉の木にぶら下がりながら、紅葉と鈴鹿は空を見上げて冷やかな笑みを浮かべた。

「無知ってのは怖いですねー」

 あっはっはーと笑いながら、童子切は掴んでいた枝を離して地上に降りた。

 彼女がいかなる存在か知っていれば、あんな攻撃はしますまいにねー。

 

 鵺の眼前で雷を集め発生させた、高熱の火球が渦を巻きだした。

「……な?」

 何が。

 こんな事を、私は意図して居ないぞ。

 一体。

 愕然とする鵺の眼前で、渦を巻く火球が炎の嵐となり、それが徐々に小さくなっていく。

 溜めて置いた水の底を抜いた時のように。

「この身は明王の炎なり」

 炎の中から、おつのの静かな声が不吉に響く。

 普段の陽気で明るい声とは、全く違う声音。

 小さくなる炎の中から、おつのの姿が現れた。

 その身に火傷ひとつ、いや、その熱すら感じても居ないような、蒼白の肌のままで。

 おつのが体の前にかざした、左手の小さな炎の中に、鵺の放った火球が吸収されていく。

「故に、我が身を現世の炎にて焼く事能わず」

 火生三昧耶法。

 修行により、三昧の境地に至り、尊神と一体となる事で、炎を自在に操るを得る、修験道の一つの到達点。

 彼女はおつの。

 修験道の開祖と伝説に語られる、役小角が力の顕現。

「ねぇ、この程度の雷火で、私が焼けるつもりだったのかなー?」

 おつのは再び羽ばたいた。

 左手の炎が剣の如く伸びる。

 ひょーーーー、ひょーーーーーー。

 それは、鵺の鳴き声。

 それとも、人の悲鳴。

 鵺が、おつのを叩き潰そうとしてか、巨大な右前脚を掲げ、鋭く振り下ろす。

「……無理だよ、ツギハギオバケ」

 どこか悲しげに、そう呟きながら、おつのは、それ以上の速度で傍らを飛び抜けるざまに、炎の剣で、鵺の体を一閃した。

 掲げた右前脚を断ち、右の肩口から入った炎が、ちょうど斜めに胴体を両断した。

 前脚が落ちる。

 その傷口から、炎を吹きあげ。

 再生しようとする肉を爛れさせ、血を蒸発させながら。

 前脚が落ち。

 ひょーーーーーーーーー。

 斜めに切られた体が、傷口から炎を吹きあげながら、二つになって空から落ちた。

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