異形を狩る 一話「同じ顔」
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 かつては神楽泰駿と呼ばれ、今はオラウス・ウォルミスと名乗るその男は今地球にはいなかった。地球ではない別の世界、いや別の星にいた。オラウスのいる場所はセイレム=ヴァドとその星の人々が呼ぶ町であり、その町の廃墟の一室にイロウ=キーグと名乗る魔術師と共にいる。

 部屋の中にはニ、三体の白骨化した死体が転がっており、腐臭と黴の臭いが入り混じっていた。嫌な臭いだと思いながらも、これから向かうところを考えれば我慢が出来る。この星の至る所にいっても死臭が漂っているのだ。オラウスがこの星での行動の仕方にも確かに問題はあるのだが、オラウスのいた地球とこの星では文明のレベルがあまりにも違いすぎる。

 少なく見積もっても二00年から三〇〇年の開きはあるだろう。よってどれだけ大きく文明の発達している街へと行っても汚物の臭いは付き物だったのだ。だが、イロウ=キーグはオラウスを地球の、それも日本へと送り返してくれるという。しかもオラウスのいた時代に、それは願っても無いことだった。

 この星で英雄として死に、邪神の眷属として蘇ってから三〇〇年。既に諦めていたことが唐突に叶おうとしているのだ。オラウスにとってこれほど嬉しいことは無かった。だが、イロウ=キーグによれば幾つか違うところがあるという。それをオラウスは蒼白の仮面を付けているイロウ=キーグに尋ねた。

「パラレルワールドという言葉を君なら知っているだろう? まぁ、この星の連中はそんなことを夢にも思っていないだろうがね。もともと君はこの星の出身じゃなく、もっと文明の発達した地球の人間だ」

「もちろん知ってるよ。サイエンス・フィクションでよく目にした、具体的にどういうものかわかっちゃいないがね」

「そうかそうか」とイロウ=キーグは何度も首を縦に振った。どんな表情をしているのかぜひ見たいと願いはしたが、彼の付けている蒼白の仮面がそれを阻む。イロウ=キーグの表情を気にしたことは今までも何度かあるが、今ほど彼の表情を知りたいと思った時はない。

「パラレルワールドというのはねいわゆる並行世界。もしもの世界、と言っても良いかもしれないね。オラウス、今から君に行ってもらうのは厳密にいえば君のいた地球じゃない」

「俺のいた地球じゃない?」

「そう、神楽泰駿がこの星に飛ばされなかった地球へと君に行ってもらう。それはこことは次元の隔たりがある完全に別の世界。この世界の地球じゃない」

 イロウ=キーグの説明は完全には理解しがたがったが、オラウスの故郷とはまた違う場所に行くということなのだろうか。考えるだけ考えてみるが、持っている知識ではイロウ=キーグがどのような世界にオラウスを送り込もうとしているのかがわからない。

「難しそうな顔をしているな。それほど難しい話でもないと思うが」

「俺にとっては充分難しい」

「そうか」と一言述べたあと、また間を置いて彼は喋り始める。今度の話はやたらと長く、地球にいた頃に学校で習った物理学の授業よりも難しい。実践的なことはこの星で学ぶことが出来たが、理論的なことはとてもではないが学ぶことが出来なかったのだ。

 中には忘れていることも多い、イロウ=キーグの話を理解しろという方が無理な話だ。今、彼のしている話はオラウスにとっては混乱をもたらすものでなく、混乱しないためには理解できるところだけ頭に残し、それ以外は右から左へと聞き流すしかなかった。

 その結果として理解できたことは、今からオラウスが向かう先にはもう一人のオラウス、つまりは神楽泰駿が存在しているということと、どうもオラウスがいた日本ではなく情勢に大きな変化があるということ。この二つだけである。

その情勢の変化というのはオラウスにとって非常に重要なものであった。今からその世界へと向かうのに、その世界に対してなんの予備知識も無いままだと三〇〇年前この星に来たときと同様、右も左もわからないという状況に陥りかねない。

「その情勢の変化というのはどういうものなんだ?」

「わかりやすくいうと、そうだな。君のいた世界に魔物はいたかい?」

「いた。なにせ俺はそれを狩っていたんだ、知っているだろう?」

「そうだったな。その魔物が君の行く地球では門と呼ばれる空間の穴を通じて大量に出現するようになっている。その門から出てきたものはなんであれ魔物と称されることになり、殲滅対象となるそんな世界だ」

「やけに物騒な地球だな、俺の地球は平和だったぞ」

 と、そう言った瞬間にもしかして、という考えが脳裏をよぎった。オラウスがその地球に行くためには次元や空間といったものに穴を開けてそこを通る必要がある。その出口は向こうの人間にも見えるものだろう。

 となればオラウスが出ることになる出口は、門なのではないだろうか。そうなってくると、門から出なければならないオラウスは魔物ということになる。仮にそうだとするのならば、オラウスは地球に戻ると同時に故郷の人間から狙われるということではないのだろうか。

 罅割れた床を眺めながら考えたあと、視線だけをイロウ=キーグへと向ける。相変わらず仮面に阻まれて表情は見えないが、仮面から覗く瞳は笑っているように見えた。オラウスが何を考えたのかはお見通しということなのだろう。

「やれやれ、だな」

「拒否はしないのか?」

 何が面白かったのか、彼の声はどこか笑っているように聞こえた。普通ならば気分を悪くするところだろうが、イロウ=キーグとオラウスの付き合いは三〇〇年にもなっている。既に彼の性格を全て、とは言わないが大方は把握しており何とも思わないようになっていた。

「拒否権が無いことぐらいこの三〇〇年で覚えたよ。俺は向こうに着いた瞬間からもう一つの故郷の人間から狙われることになるわけだ、となると服装が問題だな」

 そう言ってオラウスは自分の服装を見直した。この星のこの地域では標準的な服装をしているが、地球ではとてもではないが標準的ではない。地球の基準でオラウスの服装を見れば、何かのファンタジーに出てくるキャラクターに見えてしまうことは間違いがないだろう。

 しかもオラウスの瞳の色は金色なのである、普通はそんな瞳をもった人間は生まれてこない。見つかればすぐに魔物が出た、ということにされて追われる立場になることは見え透いていた。

 三〇〇年の間、日本語を使っていなかったとはいえ忘れてはいない。発音もだ。服装さえなんとかなれば誤魔化せる可能性はあるかもしれない、と、ここまで考えて日本にはある文化があることを思い出した。

 顔を上げてイロウ=キーグと視線を交わし、唇の片方を釣り上げてにやりと笑ってみせる。いつも全てを見通しているイロウ=キーグではあるが、このオラウスの笑みが何を意味しているのかはわからなかったらしく首を傾げていた。

「向こうにいけば君と同じ力を持った人間がいる、もしかしたらいきなり自分自身と出会うというのかもしれないのに何か考えがあるのか?」

「あぁ、あるとも」

 自信満々に答えてみせる。よくよく考えてみれば服装と瞳の色を除けであるが、オラウスはどこからどう見ても日本人なのだ。だったら魔物と認識させずに済む方法が存在している。日本のサブカルチャーがこんな時に役立つとは思いもしなかった。

「そうか、それでは向こうに繋がる道を生み出すが準備は良いか?」

「もちろん」

 室内に響くように答えた。イロウ=キーグは相変わらずオラウスの真意がわからないらしい。どこか不満そうに両手を広げて、十字架のような姿勢を取って見せた。それから数秒ほど経った頃だろうか。

 イロウ=キーグの両手に緑色の光が発生し、その二つの光はゆっくりとオラウスの前まで近づくと融合し大きな緑色の光の塊へとなった。その塊の向こうからイロウ=キーグの嬉しそうな声が聞こえる。

「さぁ、向こうの世界と繋がったぞ。私も後で行くが、それまでに殺されるな」

「俺が殺されると思ってるのか?」

 笑いながら答えて見せると光を挟んだ向こう側からも笑い声が聞こえ、室内は二人の笑い声で満たされた。そしてオラウスは笑うのを止め、腰を屈めてバネを溜める。

「さよならだな、ネアトリア。こっちはこっちで楽しかったよ」

 そう言ってから光の中へと飛び込んだ。直前に走馬灯のようにしてこの星での記憶が蘇り、鮮明に目の前に広がった気がした。三〇〇年もいた世界だ、離れるのは心苦しいところが無いわけではない。しかし、それ以上に違う世界の地球とはいえ故郷である星に戻れるのは何よりも嬉しかったし、もう一人の自分と出会ってみたいという欲求の方が勝っていた。

 緑の光の中に飛び込んだあと、しばらく回廊のような空間を漂うのだろうと思っていたのだがすぐに違う場所へと飛び出した。これには思わず呆気にとられたが、すぐ横から聞こえた叫び声で我へと帰る。

 声のした方へと目を向ければ、そこにいるのは一〇代後半らしき少年が二人。一人は懐中電灯を手にしており、もう一人はデジタルカメラを手にしている。オラウスにとってこれは僥倖といわざるを得ない。

 できることなら彼らの体格がオラウスと同じだったら尚良かったのだが、残念なことに二人ともオラウスよりも体が小さかった。履いている靴も足のサイズが合いそうにない。二人は完全に恐怖に支配されてしまっており、声を出す余裕すらなさそうだった。

 そのうちにすぐに正気を取り戻すだろうが、その前に目撃者は出来るだけ消しておきたい。だがそれよりも早く、場所を確認するため辺りを眺め渡した。既にオラウスが出てきた門は消え去っており、辺りは暗かったが人ならざるオラウスにそんなことは関係が無い。

 どうやらオラウスが出てきたのはどこかの墓地らしい。イロウ=キーグが場所の選定を誤るはずはないだろうから、人気のない場所ということでここを選んだのだろう。だが墓地というのが不味かった。

 こういう場所には肝試しを行う輩がやってくるのだ。イロウ=キーグはその辺りのことを考慮にいれていなかったのだろう。というよりも、そんなことは知らなかったと考えるのが妥当なところか。

 さて、どうするかと考える間もなくオラウスのやることは決まっていた。この二人になんら罪はないが、逃げられると困る。とはいえ彼らが逃げないとここに魔物が出たという情報も伝わらないだろう。

 だが今後のことを考えると顔を覚えられるわけにはいかない。となってくると、オラウスの取れる行動はたった一つである。真っ直ぐに懐中電灯を持ったまま腰を抜かしている青年の下へと歩み寄り、彼の顔をむんずと掴んだ。

 そのまま魔力を彼の体の中へと流し込むと、青年は一瞬で緑色の炎に包まれた。手を離すと緑の炎は消えたが、それと同時に青年の姿も消えうせる。文字通り、塵すら残っていない。

 デジタルカメラを手にしていたほうはその光景を見て正に失神寸前だった、恐怖のあまり股間を濡らしている。オラウスが歩み寄ると声にならない声を喉の奥から絞り出したが、とてもではないが遠くまで聞こえるような音量ではない。

 彼の手からデジタルカメラを奪い取り、顎を掴んで無理やり視線を合わせる。そしてオラウスは見せた。この世界の裏にあるものを、潜むものを、星辰が揃いし時に復活するものたちのことを。

 それだけで充分だった。彼は正気を失って失神し、その場に倒れ込む。これで一安心だなと思いながらオラウスは奪ったデジタルカメラを腰の巾着袋に押し込み、両腕を思い切り上に伸ばした。

 この墓地はどうも高台に立っているらしく、眼下には市街の人工的な明かりが広がっている。ネアトリアハイムでは決して見られなかった光景だ。市街地の明かりを見るのは実に三〇〇年ぶりのことである。

 なんとも耐え難い感情に駆られてしまい、胸からは悲しみとも嬉しさともとれる気持ちが溢れ出始める。知らないうちに「ただいま」という言葉が口から出ていた。

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 南区の中心部はなんとも不思議な街である。ちょうど南区の中心には高島屋が建っており、その下には地下鉄の駅があるためにそこを中心として様々な通りが走っており古くからの商店街もある。

 古くから、とはいうものの商店街の存在そのものが古いだけであって商店街の中にある店が古いわけではない。むしろ新しく出来たものの方が圧倒的に多数であり、古くから存在するものなどごく少数だろう。

 そんな南区の中心部にある高島屋の出入り口の前に槇岡亮は携帯電話を片手にし、スポーツバッグを肩に掛けて立っていた。視線は携帯電話に向けている。いま、携帯電話にプリセットされている目的地まで案内してくれるアプリを使って神楽探偵事務所の場所を調べていたのだ。

 住所を入力すればGPSを利用して目的地周辺の地図を出してくれるアプリなのだが、住所を入力しても今ひとつ場所がわからない。アプリの地図はある程度の幅がある道ならば表示されるのだが、いわゆる裏道などの類は表示してくれないのだ。そして神楽探偵事務所はかなり入り組んだ場所にあるらしく、携帯のアプリだけではわからない。

 一応、前日にグーグルを使用して大まかな場所は頭の中に入れているのだが場所も駅やバス停から離れたところにあり、どうしてもある程度歩かなければならないところに事務所は存在している。

 ここで地図だけを眺めてみてもしょうがないと、亮はアプリを終了させて携帯電話をポケットの中にしまい、下に向けていた顔を上に上げた。途端に目に入るのは老若男女様々な人々の姿である。

 平日の夕方であるというのに南区の中心部である高島屋周辺にはスーツを着たサラリーマンの姿は少ない。三〇代から四〇代と見られる男性の姿は少なかったが、これから遊びに行くのだろうか、それとも帰りなのかわからないが流行のファッションに身を包んだ一〇代から二〇代と思しき男女の姿は多かった。それと同じ数だけ、高島屋の袋を両手にした中年の女性の姿も多い。

 いつ来ても賑やかなところだな、そんなことを思いながら亮はとりあえず東の方向へと足を向けた。地図を見れば、高島屋から東へ行った方向に探偵事務所があるからだ。だからといって、今現在のところわかっているのはとりあえずの方角だけで詳しい位置はといえばさっぱりなわけだが。

 高島屋から東にいけば千日前商店街という商店街にはいるのだが、この商店街の長さはそれほど長くない。アーケード街になっているのだが、せいぜい二〇〇メートル程度だろうか。それだけの距離を歩くと赤く染まる空が見えた。

 アーケード街の中にはカフェやイタリアンにフレンチなどちょっとしたお洒落な店が並んでいるのだが、そこを過ぎてしまえば居酒屋やバーが多くなり夜の街の風情を漂わせている。ここでは早くもスーツを着たサラリーマンらしき人々が飲む場所を求める姿を見ることが出来た。

 ここで亮は一旦足を止めて、携帯のアプリをもう一度起動し自分の居場所と、事務所との場所を見比べる。最初は駅からかなり離れているように見えたが、携帯電話の画面に表示されている地図では、自分の居場所と事務所の場所はかなり近くなっていた。

 どうやら飲み屋街に入って少し行き、北へと向かうと事務所のすぐ側にたどり着くらしい。近くまで来ていることにちょっとだけ安心しながら携帯電話の地図を頻繁に更新しながら歩く。

 サラリーマンや客引きをする店員の数が多く、加えて携帯電話を見ながらということもあり何度と人とぶつかりそうになってしまう。時々避けきれずにぶつかってしまい、何度か「すいません」という羽目になってしまった。

 進むたびに何だか気が滅入ってきてしまったが、ハンターとしての仕事で行くのだから責任を持って行わなければならない。携帯電話の地図では今、亮のいる場所から北へ向かえばすぐのようだった。

 北へ行く道は無いものかと、とりあえず北へと視線を向けたのだが亮はそちらへ進むことを思わず躊躇ってしまう。運のよいことに、ちょうど亮が立ち止まった場所に北へと通じる道があったものの、女性にはとてもではないが通りづらい道なのだった。

 何せその道にはラブホテルが建っており、それ以外にもキャバクラやショーパブ、さらにはそれらよりも如何わしい店が立ち並んでいたのである。たまたま男女のアベックがホテルへと入っていくところを目撃してしまい、さらに亮の気分は滅入った。

 何を考えて今回の依頼主である神楽探偵事務所の所長はこんな場所に事務所を構える場所にしたのだろうか。南区はほとんど繁華街の様相を呈しているが、場所によっては当然ちゃんとした企業のオフィスが立ち並んでいる区域もある。

 どうせならそういった場所に事務所を構えれば良いのにと思ってしまうのだが、テナント代の問題があったのだろうか。それにしても、こんないかがわしい場所にあるとテナント代が安かったとしても仕事が入ってこないと思うのだが問題はないだろうかと、亮の頭に色々な考えが浮かんでは沈む。

 もっとも、こういったことに考えを巡らせてしまうのはここより北のエッチな街へと入りたくないという意識がそうさせるものであり、亮自身もそのことは良く理解していた。早く行かなければならないことはわかっている。

 だが亮の年齢は一七歳。こういったことには敏感になってしまう年頃なのである。進みたいのだが体はこばみ、やきもきしていると誰かが近づいてくる気配がした。気になって気配のする方に首を向ければ、すぐ側までスーツ姿のオールバックの青年がいる。

「君さっきからここに立ってるけれど、もしかしてうちで仕事したいの? でもうちはちゃんと風営法に従って営業してるから、君みたいな女子高生は雇えないんだよね」

 と、苦笑しながら柔らかな声音で言われてしまった。なんでそんなことを言われなければならないのだと、僅かな怒りを感じたのはほんの僅かな時間だけ。すぐになぜ、そんなことを言われてしまったのか理由が分かった。

 今、亮が立っているところのすぐ側にはキャバクラがあったのだ。しかもホステス募集の張り紙までされている。確かに、お店側からすれば亮が働きたがっていると写ったのかもしれない。だが今、亮の着ている服は学校が指定している制服なのである。店側としてはもしかすると、ではあるが迷惑に感じた可能性もあった。

でなければこんなことを言ってきはしないだろう。

「い、いや違うんです! 実は私ハンターで!」

 言いながらブレザーの胸ポケットからハンター資格を持っていることを示すライセンスを突き出した。それを見たキャバクラで働いていると思われる青年は「え!?」と驚き混じりの声を上げる。

 それに対し思わず亮は驚いてしまう。これは周囲を歩いていた人々も同じようで、一瞬ではあるが足を止めて亮と青年の方へと視線を向けたが、すぐに何もなかったように歩き始めた。

 どうして良いかわからず、様々なところに視線を向けながら亮はあれやこれやと考えるのだが上手い対応の仕方が思いつかない。それよりも青年の方は客商売をしているだけあってか、すぐに平静を取り戻し亮の身長にあわせて身をかがめて、内緒話をするように口元に手を当てたので亮は彼の口にそっと耳を寄せた。

「ここのところこの辺りで魔物が出たっていう話はないんだけど、もしかしてなにかあったの?」

 青年の表情には明らかな不安が浮かんでいる。それも当然のことだ。ESPだったとしても、ハンターにでもならなければ武器の携帯は許されない。それに魔物を発見し、すぐ警察に通報したとしてもやって来るのにはどうしても時間が掛かってしまう。

彼が不安を感じてしまうのは当然のことで、不安を与えたのは亮のせいだ。なんとかして彼の不安を取り去るのが責任のように思えてくる。

「いや、違うんです。私はハンターなんですけどここに魔物が来たから来たわけじゃないんです。実は神楽探偵事務所を探していまして」

 神楽探偵事務所の名前を出すのは躊躇われるところもあったが、彼の不安を取り去るのが第一だ。

 この青年と神楽探偵事務所にどういった関係があるのかわからない。しかし事務所の名前を出した途端に彼の表情が変わる。すぐに姿勢を正して、事情を理解したとでも言いたげに一人で首を揺するようにして縦に振っていた。

「あぁ、なるほど。あそこに用事があるわけだ、もしかして迷ってる?」

「はい、そうなんです……」

 正直に言うと青年は笑顔を見せた。ますます彼と事務所の関係がわからなくなってくる。

「あそこの所長さんもハンターだしね、きっとそれから絡みで君を雇ったのだとは思うけど詮索はしないよ。あそこにはここら一帯の店が世話になってるからね」

「え?」と、小さく声をだしてしまう。別に事情を聞いたわけではなかったし、知りたいとも思わなかったのだが青年は事情を説明し始めた。

「いやね、こういう仕事をしている女の子達には勘違いした客がストーカーになることが多いんだよ。警察に言っても魔物とかの方で忙しいから対応が後手後手になってね、だからみんなあそこの事務所に頼むんだ。仕事は迅速だし、確実だからね。うちもなんだけど、ここら一帯の店の人間はあの事務所に感謝してると思うよ。あの事務所は込み入った場所にあるし、案内してあげても良いんだけど……俺と一緒だと誤解されちゃうなぁ」

 彼は眉間に皺を寄せたが、亮が持っているスポーツバッグに目を付けると「書くものある?」と尋ねてくる。「ありますよ」と返すとそれを貸すように頼まれた、彼が何を考えていたのかすぐに理解できたので、聞くことなくノートとシャーペンを青年に差し出した。

 青年は「ありがとう」と短く言うと、さらさらとシャーペンを走らせて書き終わると亮にノートとシャーペンを返す。そこにはここから神楽探偵事務所までの道が丁寧に書かれていた。

「親切にしていただいてありがとうございます」

「いや、良いんだよ。あそこの事務所にはお世話になってるし、君を助ければあそこの助けにもなるかなと、まぁ自己満足なんだけどそんなことを思ってね」

「本当にありがとうございます」

 一礼してから地図の書かれたノートを片手に北へと続くいかがわしい通りへと入っていった。先ほどまでは抵抗感があったのだが、その抵抗感の理由はこういう場所にはまともな人はいないという先入観によるものである。

 しかし、地図を描いてくれた青年は非常に人柄が良さそうだった。そのことが亮の先入観を払拭してくれたのだ。どこに行ったとしても良い人は居るんだな、そんなことを思いながら道を歩いていると背後から声が聞こえた。

「お仕事がんばってね亮ちゃん! 一八歳になってハンターが嫌になったらいつでもうちにきてよ!」

 慌てて後ろを振り返ると先ほどの青年が笑顔で手を振ってくれていた。またお辞儀すると彼はウインクをして見せてから角に姿を消す。きっと自分の働く店に戻ったのだろう。

 そういえばいつ名前を名乗ったのだろうと思ったのだが、名乗った覚えはない。しかし、ハンターライセンスを見せた。そこには亮のフルネームと生年月日が書かれている、きっとそこで名前を覚えたのだろう。それにしても良い記憶力をしているなと思い、地図を頼りに道を歩く。

 地図によれば北に真っ直ぐ行くと突き当たりに薬局があるT字路があるという。地図のとおり、真っ直ぐ進んでいるとその場所に出た。ここを右に曲がって一〇〇メートルほど行けば、右手にラブホテルがあるらしい。その向かいにあるビルの中に神楽探偵事務所はあるようだ。

 ただ、注意書きがされており「いかがわしいお店がいっぱい入ってるけど、がんばって」と書かれていた。しかもハートマーク付きで。お茶目な人なんだなと先ほどの青年の笑顔を思い出す。

 右手に注意しながら歩いていると、ちょうど一〇〇メートル歩いたところでピンク色の壁をしたラブホテルの前に来た。趣味の悪いホテルだなと思いながら、こんなところを使う人がいるのだろうか、と思っていると今度は中から出てくるカップルを見てしまう。

 使う人は使うのか、もうこの街の空気に慣れてしまったのか先ほどは恥じらいを覚えたものの、今回はもうそんなことはなくすぐにホテルの真向かいにある五階建てのビルへと目を向けた。既に街の空気に慣れた、そう思っていたのだがどうやらそうではなかったらしい。

 神楽探偵事務所の入っているビルには様々な風俗店が入っており、下着姿の女性の写真を使った看板がずらりと並んでいる。そんな光景を見ると同時に思わず視線を逸らしてしまったが、ビルの中に入るにはそういったものを我慢しなくてはならない。

 本当に、事務所の所長は何を考えてこんなビルに事務所を入れたのだろうか。何階に事務所があるのか分からなかったが、ビルの中に入ってみれば分かるだろうと足を踏み入れる。なぜか化粧品の匂いが充満しているように思えた。

 各階の案内をみるが、ヘルスやエステといった文字が並んでおり探偵事務所と書いてある階はどこにもない。但し、三階の部分だけが空白になっていた。地図によるとこのビルで間違いないはずである。

 もう一度書いてもらった地図を見ると、「がんばってハートマーク」の下にこのビルの三階にあるよとちゃんと書いてあった。どうも他の部分に気を取られてしまっていて気づかなかったようである。

 もっと注意力を身につけないとなと思いつつ、エレベーターホールへと向かいボタンを押してエレベーターを呼び、やたらと小さなエレベーターの中に乗り込むと迷うことなく三階のボタンを押した。

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 神楽探偵事務所の所長である神楽泰駿は愛用している拳銃のトリガーガードに指を掛けて、くるくると回して弄びながら壁に掛けている丸時計へと目をやった。時刻は既に五時を回っており、デスクの背後にある窓を振り向いてみる。

 向かい側に立っているラブホテルが夕焼けで照らされ、どことなく哀愁を漂わせているように見えた。頭の中で今回の依頼を受けてくれたハンターのデータを浮かび上がらせる。名前は槇岡亮だったはずだ、確か年齢は一七歳で府立都島高校に通っている。

「都島高校ねぇ……」

 何とはなしに発した呟きではあるが、唯一無二の部下であるクラリモンドに聞かれていやしないかと彼女のデスクに視線を向ける。彼女は自分のデスクに置かれているパソコンでインターネットを使用した調べ物でもしているのか、マウスを頻繁に動かし、時々キーボードで何か入力していた。

 泰駿の呟きに気付いた様子はない。気付かれたからといってどうということはないのだが、泰駿は銃を回すのを止めて手に握り締めた。特にこれといった理由はないが、何か持っていなければ落ち着かないのだ。

 実を言えば泰駿には依頼を受けてくれた人間に対して不安を抱いている。高校生だからという理由だからではなく、都島高校の生徒であるということがその理由だった。ハンター業界では都島高校は有名なのである。

 どういう理由かは知らないが、あの高校はいわゆる進学校であり勉強を本分としている筈なのだが高校生ハンターが多いのだ。ついこの間も、御神翔一という都島の生徒と一緒に仕事をしたのだが、どうもあの学校は風紀に問題があるらしい。

 その御神という生徒は高校生ハンターとしては優秀な部類に入るのだが、行動に問題がある。共に仕事をしたときは制服を着ていたのだが、彼の制服は煙草の臭いが染み付いておりはっきり言ってヤニ臭い。加えて魔物を倒してひと段落するやいなや、持ってきていた鞄の中から缶のビールを取り出して飲み始める始末なのだった。

 泰駿としては仕事さえしてくれればそれで良い、といったところがあるのだが彼のように一〇代でありながら酒や煙草といった大人の嗜好品に手をだすような人間でなければ良いと思う。

 今回出した依頼を受けてくれた都島の生徒は女子ということもあり、品行方正であると信じたい。だが近年のニュースや耳に入ってくる街の話をを耳にしていると、女子高生だからといって清いわけではないということはすぐわかることでもあった。

 泰駿としては亮というその女子生徒が、いかにも女子高生然としているか人間として早熟しているかどちらかを願うばかりである。もう一度壁に掛けている時計に視線を映すと五時も一五分を過ぎようとしていた。

 都島高校に通っているハンターとは何度か仕事をしたことがあるため、あの学校が何時まで授業をやっているか知っている。そして都島区からここ南区まで来る時間は計算するまでもない。本来なら着いていてもおかしくない頃合なのだが、事務所の位置がわからず迷っているのだろうか。

 その可能性は充分にある。なにせこの事務所は看板を出していない上に、ド派手で人目を引きやすい風俗店の看板に囲まれた地域に存在しているのだ。ここいらの店で働いている人間に道を聞けば一発でわかるだろうが、そうでなければ住所を頼りに探したとしても見つけづらいところがあるのは承知している。

 最近は携帯にGPS機能が付いているとはいえ、俯瞰で見る地図と実際に歩いた感覚ではまた違うものだ。少なくとも近くには着ているだろうし、亮の写真は既に入手してある。こちらから探しに行くのも良いだろうと思い、右の腰に吊るしてあるホルダーに拳銃を収めてデスクから立ち上がる。

 ちょうどその時のことだ、泰駿のデスクと直線状に位置している出入り口の扉のノブがゆっくりと回った。取り付けてあるインターホンは鳴らされなかったし、ノックがされることも無かった。

 扉にはインターホンあるいはノックで来訪を告げろ、というプレートを掲げていたはずなのだがそういった行為はない。となると、この事務所に恨みを持っている人間が来たと泰駿は判断し、収めたばかりの拳銃を引き抜きドアへ照準を向けてセーフティーを外してスライドを引いた。

 クラリモンドも同じことを考えたのか、何も合図はしなかったというのに彼女は座ったまま拳銃を取り出しており、やはり扉へと銃口を向けている。BGMとしてU−SENのB−19チャンネルを常に掛けているのだが、音楽は耳に入らず心臓の鼓動だけが聞こえていた。

 ノブが回りきり、重い金属製のドアが開く。指はトリガーに掛かっており、後は引くだけの状況だったのだがその必要はなかった。ドアを開けた人物の姿をみて、泰駿もクラリモンドも同じタイミングで溜息を吐いてから何事もなかったかのように拳銃をホルスターに収める。

 ドアを開けた人物であると同時に、今回共に仕事をすることになる槇岡亮は不可思議な顔をしていたが泰駿は彼女に対してとりあえず今は何も言おうとは思わない。銃を向けた理由はちゃんとあるのだが、今説明するよりも応接室に通してから仕事の話をしながらの方が良いだろう。

「槇岡亮で名前あってる?」

「え、えぇ……私が槇岡亮ですが、これは、そのどういう……?」

 彼女は状況を掴めていない。というよりも事務所に入るやいなや銃を突きつけられた状況を掴める人間はいないだろう。ごく稀にそんな輩がいるとはいえ、そういった連中は入ってくると同時に絶命することになる。

「そ、じゃあ亮ちゃんって呼ばしてもらうけれどOK?」

「構いませんが……その、先ほどの説明をしてもらいたいのですが?」

「とりあえずそれは後回し、応接室に入ってからにしよう。仕事の話をしながらでも良いじゃない」

 泰駿から見て右、亮から見て左にあたる位置にあたる扉を指差した。そこには擦りガラスをはめ込んだ扉があり、そこが応接室となっているのだ。雇ったハンターと仕事の話をする時はもちろん、探偵業としての客が来たときもその部屋で話をすることにしている。

 亮は相変わらず状況を掴めていないのか、それともこういったところに来るのが初めてなのかその場でじっと立ったままで視線は相変わらず泰駿に向けていた。それを見かねたのかクラリモンドがデスクから立ち上がり、応接室への扉を開けて亮を中へ入るよう促す。

 彼女は「ありがとうございます」と小さく礼を述べてから応接室へと入っていった。それからクラリモンドは応接室の扉を閉めて、泰駿へと振り返る。

「やっちゃいましたね」

 と、彼女は溜息混じりに言った。それは泰駿も同じで「まったくだ」と返す。普通の人間ならば扉の横にあるインターホンを押すか、ノックしてから入ってくる。そうするよう促すプレートを扉に掲げているからだ。

 インターホンは潰れている可能性があるが、ノックをしなかったのはどういうことか。単なる常識知らずか、それとも、と思いながら応接室に入る前に事務所の扉を開けて床へと視線を落とした。

 すると案の定、ノックを促すプレートは床に落ちている。なるほど、これならば仕方がない。彼女には申し訳ないことをしたと思いながらプレートを拾って、それをクラリモンドに渡して後で応接室に緑茶を二人分運んでくるよう伝える。彼女は「はい」と切れの良い短い返事で応えてくれた。

 応接室の扉を開けると、部屋の中で亮は立ち尽くしている。部屋には一人掛け用のソファーと二人用のソファーを置いているのだが、どちらに座るべきか考えあぐねているようだ。それとも座ること自体を躊躇っているのか、なんにせよノックせずに入ってはきたものの礼儀は正しいようである。

「そっちの大きい方で良いよ、まぁこれから仕事の話をするのに変な言い方かもしれないけどくつろいじゃってよ」

 泰駿が座るように促すと「失礼します」と言ってから亮は二人掛けのソファーに座った。そして泰駿は机を挟んで向かい側にある一人掛けのソファーに座る。ここでまず亮の服装と所持品を見ることにした。

 学校帰りに来たのだろうか、彼女が今着ているのは制服であり持っているのは学校の名前が入っているスポーツバッグだ。制服は胸のあたりが変に膨らんでいる部分があり、そこに拳銃が収められているのだと察する。スポーツバッグの方はというと限界まで物を詰め込んでいるのか、いまにもはちきれそうだ。

「バッグに何が入っているのか尋ねてもいいかな? もし武器だったら見せてもらえると嬉しいんだけど」

 そう言うと彼女は快く承諾してくれ、机の上にバッグを置いてファスナーを開き中を見えるようにしてくれた。バッグの中には筆記用具を初めとして教科書やノートが入っており、それらに混じってビニール袋に包まれた粘土状の物体が見える。それ以外にも信管と思しきものが入れられていた。

「もしかするとそれ、C−4?」

「そうです。何かの役に立つかもしれないと思い三キロほど持ってきました」

と、亮は即答する。三キロとはこれまた多いなと感じたが、同時にもったいないとも思った。今回の仕事はまず魔物を探すところから始めなければならない。どこかの施設に魔物が立てこもっているというのならば彼女が持ってきたC−4も役に立っただろう。

だが今回は屋外での捜索になる。彼女がC−4を利用した爆弾を作って持ってきてくれていたのならば使い道は多岐に飛んだかもしれないが、C−4単体では使用法が限られてしまう。それに捜索地域は昔からある寺の近辺であり、周囲を破壊してしまうようなものの使用は限られるのだ。

「他に武器は?」

 尋ねると亮は制服のブレザーの中に手をいれた。そこにあるのは例の膨らみだ、予想通り胸の部分にホルスターを取り付けて銃を隠していたらしい。彼女は拳銃を取り出すとちゃんとマガジンを取り外して机の上に置いた。

 彼女の銃は実にオーソドックスなものである。ベレッタM92F、扱いやすさなどが評価されており各国の公的機関でも採用されているものだ。この銃の唯一の欠点といえば、マガジンがダブルカラム式であるためグリップが太く少々握りづらいというところだろう。

 それさえなければ欠点のない良い銃である。それは各国の組織が採用していることが証明していることだ。

「他には?」

 亮は迷わずに首を横に振る。泰駿は「そうか」と一言だけ呟いて彼女の武器を眺めた。ベレッタM92Fは確かに良い銃ではあるが所詮は拳銃であり、威力不足はいなめない。そしてC−4は状況を考えると使うことは出来ないだろう。

 となれば、事務所に置いてあるアサルトライフルを使わせるのがもっとも良いと思うのだが、果たして彼女はアサルトライフルを使用した経験があるのだろうか。泰駿もクラリモンドもアサルトライフルを主な武器として使うわけではないが、念のために東南アジアのガンスミスがコピーした通常よりも性能の良いAK47を一丁だけ置いている。

 彼女のESP能力が何であるかは未だ不明ではあるが、攻撃的な能力であった場合なにかしらの制約が伴っていることが多い。補助的な能力であったとするならば、彼女の持っている武器は間違いなく威力不足だと断定するしかないだろう。

「アサルトライフルを使用した経験は?」

「いえ、ありません」

「だが、今回C−4は使えそうにない。となると君の武器はそのM92Fだけだ。魔物がどんなものであるか分からない以上、9パラじゃあ威力不足のような気がする。幸いにしてうちの事務所にはAK47、いわゆるカラシニコフが置いてあるからそれを君に使わせようかとも考えている」

 彼女の目をじっと見ると、視線を逸らした。だが目が合うのを嫌がって逸らしたというよりも、考え事をするために逸らしたようである。亮は少しだけ顎を上げて天井の辺りを見ていたが、しばらくして泰駿と目を合わせた。

「そう言っていただけるのは嬉しいです。ですけど、私には必要ありません」

「なるほど。生兵法は怪我の元、使い慣れない武器は下手に使わない方が良いかもしれないね。ただ君の言葉を聞く限りでは、どうやら攻撃的な能力を持っていると思うんだが間違っているかな?」

 この質問に対して亮は言葉にして答えなかったが、見開かれた目が全てを物語っていた。詳細はわからないが、彼女の能力は攻撃的なものであることはこれで確定したことになる。

「どんな能力かな? 答えたくないなら答えなくてもいい、俺やクラリモンド。あぁ、クラリモンドってのはさっきいた女のことなんだけどね、同じハンターであったとしても能力を隠したいっていうやつもいる。だから共に君と俺は仕事をするわけだけれど、隠したいなら隠したままでも俺は構わない」

「いえ、隠すほどの必要があるとは思いません。私の能力は簡単に言えば電気を操ることです」

「電気を操る、ねぇ。それってスタンガンみたいなもの、それとも雷を落とせるとかそっち系?」

「スタンガンのようにして使うこともできなくはないと思いますが、後者のほうがより適切かと思います」

「なるほどねぇ」

 いつの間にか前かがみになっていた姿勢を元に戻して、彼女の瞳をじっと見つめる。まだ一〇代ということもあってか、瞳は力強く泰駿を見返していたが僅かに揺れていた。やはり不安があるのだろう。

 実をいえば泰駿も不安だった。というよりも、仕事を行う時に緊張しないハンターなどいやしないだろう。魔物はいつだって遭遇してみるまでどんなものなのかわからないのだし、いつも死がすぐ側でてぐすね引いて待っているようなものなのだ。

「ところで、ひとつお伺いしたいのですが」

 ここで泰駿は思い出した。応接室に入ってすぐに彼女に銃を突きつけてしまった理由を話そうと思っていたのだが、すっかり忘れてしまっている。きっと彼女が聞こうとしていることもそれに違いないと考えて、亮が具体的な質問を言う前に泰駿は答え始めた。

「いや、それに関しては実に申し訳ない。よい話じゃないんだけど、うちの事務所は暴力団から狙われていていきなり襲撃されたりすることがあるんだ。だから、インターホンやノックを鳴らさずに入ってくる人がいると条件反射で銃を構えてしまう。本当に申し訳ない」

 座ったまま泰駿が頭を下げるが、上から「いえ、違うんです」と声がした。

「違う? じゃあ、何を尋ねたいの?」

「お名前をお伺いしたいんです」

 この言葉に思わず泰駿は固まった。頭の中で彼女が事務所に来てからのことを思い返す、話の内容にも名前のことは出ていない。即座に名刺を出そうとワイシャツの胸ポケットに手を入れたのだが、そこに名刺は入っていなかった。

 となると履いているジーンズにでもいれたのだろうかと、そちらのポケットにも入ってはいない。どうやらデスクに名刺を置き忘れてきたようだ、かといって取りに行くのも躊躇われる。

 名前だけ名乗っても構わないのだが、相手がいくら高校生とはいえ共に仕事をする身だ。相手が名刺を持ってなかったとしても、既に社会人として事務所を開いている泰駿が名刺を出さないというのはいささか問題だろう。

 さて、どうしたものかと困っているとクラリモンドが「失礼します」と言いながら丸盆を片手に部屋へと入ってきた。お盆の上には緑茶が入っている湯飲みが二つと、泰駿の名刺そして契約書までもが乗っている。ここでようやく泰駿は契約書の存在も忘れていたことに気が付いた。どうも今日は調子が良くないらしい。

 クラリモンドは音もなく泰駿と亮の前に湯のみを置き、それとなく泰駿の前に契約書と名刺を置くと足音を立てないようにして部屋を出て行った。なかなかどうして、彼女は気が利く女性である。この事務所にはもったいないと思うときがあるのだが、彼女の力がなければこの事務所は成り立たないだろう。

 クラリモンドの持ってきてくれた名刺を片手で持って亮へと差し出した。本来ならば両手で持つべきなのだが、既に失礼をしてしまったわけだしこれ以上塗り重ねたところで恥ずかしくはない。

「かぐら……たいしゅん、さんでよろしいのですか?」

 名刺から視線を逸らさずに彼女は言った。

「呼びづらければタイスンと呼んでもらっても構わない、クラリモンドはそう呼んでるしこの界隈の連中もそう呼んでる」

「いえ、ですが目上の方を下の名前で呼ぶというのは失礼に値しますので神楽さんと呼ばせていただきます」

「そう? 俺は本当にどっちでも良いから、君の呼びたいように呼べばいいよ」

「ありがとうございます」

 大したことでもないのに彼女はわざわざお辞儀までして見せた。家柄が良いのか、それとも親の躾が良かったのか。なんにせよ亮の態度は実に丁寧であり、彼女より大人のはずの泰駿の方が子供のように思えてきた。

 どことなく気恥ずかしさを覚えながらも、契約書を彼女の前に差し出す。書かれている内容は単純なことであり、仕事中に負傷してもそれは自己責任になる、そういうものだ。

「一応、サイトでやりとりしただけで依頼受諾という風に法律ではなってるけれど一応それにサインだけしてくれるかな?」

「えぇ、構いませんが必要なんですかこれ? ハンターの負傷は全て自己責任だと私は思っていたのですが」

「いやハンター法ではそうなってるんだけどね、形としてはうちの事務所が短期アルバイトみたいな感じで君を雇うことになるわけよ。そうなってくるとだ、君はうちの管理下に置かれることになるわけで労働基準法にも関わりかねない。まぁ、ハンター法の方が後からできてるからそっちが優先されるとは思うんだけどね……裁判でもこういったことで争った事例がないからいまいちわからんのよ。労働基準法だと一八歳未満及び高校生は午後一〇時以降の就業は禁止になるわけだけど、ハンターだとそんなの関係なくなるでしょ?」

「えぇ、そうですね」

「けれどハンター法にその点に関する項目とかってなかったりするわけなんだわ。この辺りが俺にとってはグレーゾーンでね。法学者だったら何か考えてるのかもしれないけれど、さすがに論文とか漁ってる時間はないからねぇ……そういうわけで、法的な効力がどこまであるかどうかわからないけれど一応契約書を書いてもらってるわけさ」

「法律に詳しいんですね」

「一応探偵事務所の所長だしね、でも実際はエリートハンターみたいなもんだから警察から直で依頼が来たりすんのよ。だから今回みたいにハンター雇うことも多くてさ、どうしてもそっちの方に詳しくならざるをえないわけさ。あ、そうそう。大事なことなんだけど、明日は土曜日だけど学校は?」

「うちは公立なので土日は休みです」

「そう、なら良かった。学校帰りで疲れてるだろうから、ここでちょっとの間休んでなよ。その間に俺は準備しておくからさ」

 亮は何か言っていたようだが、どうも大したことではなさそうだったため聞く耳も持たず応接室を後にした。放っておけば勝手にくつろぐなりなんなりとするだろう、もしかすると朝まで捜索することになるかもしれないのだ。ゆっくりと今のうちに英気を養っておいて貰いたい。

 オフィスを見渡すとクラリモンドの姿が見当たらなかった。事務所にはオフィス、応接室、そして男女兼用のトイレしかない。トイレにも擦りガラスがはめ込まれているので中に入っていれば誰かわかるのだが、明かりはついていないため誰もいないことがわかる。

 どこにいったのだろうか。もしかすると近くのコンビニに買い物に行ったのかもしれないし、ビルのテナントが共同で使っている給湯室に行っているのかもしれない。さして気に留めることでもないだろうと泰駿は自分のデスクに戻った。

 引き出しを開けて車のキーと弾丸を装填済みのマガジンを一つ取り出す。予備のマガジンは要らないとは思うのだが、念のためだ。それから主武器である刀を取り出すために壁際に置いてあるロッカーへと足を向けて、ロッカーを開くと同時に中からクラリモンドが飛び出してくる。

 突然のことに驚きの声も上げることが出来ず、そして逃げることもまたできずに彼女に抱きつかれてしまった。そして彼女は「女子高生と長話ずるい」などと耳元で囁くのだ。亮が応接室から出てくるとは思わなかったが、出てこないという可能性はない。慌ててクラリモンドを引き剥がすが、彼女は華奢なわりに力が強く引き剥がすのも一苦労だ。

「お前が俺に対して好意を抱いてくれるのは嬉しいが、せめてそのドイツ式はやめてくれないか?」

「あら、ドイツ式なんかじゃなくてこれは私式なんだけど」

 などといって返してくる。クラリモンドはどうも泰駿に対して恋心を抱いているようで、事あるごとにアプローチを仕掛けてくるのだ。もちろん男冥利につきるものではあるのだが、あまりにも大胆すぎると対応に困ってしまう。

「で、俺の刀は?」

 そう尋ねるとクラリモンドは笑顔で刀袋を差し出す。それを受け取ると中から刀を抜き取って、そのままベルトに差した。本当は刀袋にいれて持ち歩くのが良いのだろうが、こうやってベルトに差しているほうがしっくりとくるのだ。

 これで泰駿の準備は終わってしまったわけだが、亮を休ませるためにもうしばらく時間を置こうと刀を腰に差したまま自分のデスクに座ると、なぜか膝の上にクラリモンドが乗りそのまま両手を首に絡めてくる。その仕草はまるで獲物を絡めとる蜘蛛のようだ。

 クラリモンドは綺麗だし、それにスタイルも良いので気持ちが良いといえば気持ちが良いのだが、実はこういったことが毎日行われる。時たまならば嬉しくも思うが、毎日となると却って疲れるものだ。

 こうやってくるということは彼女は仕事を既に終わらせているのだろうし、引き剥がしてもまたくっ付いてくるだけだろうから彼女の好きなようにさせておいた。亮を休ませている分だけ、泰駿が疲れてしまいそうだ。

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 亮が神楽探偵事務所に着いたのは既に五時を回っていた頃だと思うが、時計を見ていなかったので詳しい時間はわからない。ただ、亮が一人応接室に取り残された時に壁に掛かっていた時計を見たのだがその時針はちょうど五時四五分を指していた。

 探偵事務所の所長である泰駿は「休めば良い」と言ってくれたが、亮からすれば本当にそんなことをして良いのか疑問である。亮は学校が終わってすぐにここに来たため、授業での疲労が残っていた。

 そのことを考慮して泰駿は言ってくれたのだろうが、そんな時間は無いように思える。石山区に門が開いたという情報が新聞に乗ったは二日前のことで、魔物が見つからなかったことが新聞に出たのはつい昨日のこと。

 一昨日、昨日と魔物が何もしなかったのは確かだと思う。もし魔物が行動を起したのならばすぐに情報が入ってくるのだ。最近の携帯は便利なもので、放っておいても最新の情報を待ち受け画面に表示してくれるようになっている。

 だからといって今日何も行動を起さないという保障はどこにもない。往々にして魔物は人間や動物を襲う、理由は分からないがとにかく襲ってくるのだ。例外はもちろん幾つか存在しているが、そんなものは世界中で数える程度しか事例がない。だからこそ例外というのだ。

 机の上に出しっぱなしになっていた拳銃を取り、スライドを弾いて銃弾を装填させておいてからマガジンを引き抜く。こうすれば銃のチャンバーに弾が一発装填されているため、マガジンには一発分の空きが出来る。

 その空きに銃弾を込めれば、実際よりも一発だけ多くの弾を込めることが出来るのだ。とはいえこの方法は限界までマガジンに弾を押し込むわけであるから、マガジンのバネにとってはあまり良いとはいえない。

 だが亮にとってマガジンは消耗品である。どこかの組織に属し、支給されている銃ならば丁寧に扱うがこれは自分の金で買ったものだ。目立たない程度ではあるが、トリガープルなどは亮が扱いやすい重さに調整している。

 弾を一発余分に装填したベレッタM92Fを胸のホルスターに収めてから、スポーツバッグのジッパーが開けたままになっていることに気付いた。すぐに閉めたのだが、どうしても中に入れているC−4の姿が目に見える。

 どのあたりを中心に捜索するのかはわからないが、石山区といえば古くからの寺社仏閣が多く、また新興宗教の支部や本部が存在している地域だ。確かにそんなところで爆薬を使うのは躊躇われるところがある。

 持ってきただけ無駄だったのだろうか、そんなことを考えながら背もたれに体を預けるとソファーが意外と柔らかいことに気付いた。話している間は失礼をしてはならないと思い、体を強張らせてしまっていたために背もたれにもたれることはしなかったのだ。

 気持ちが良いなと思うと途端に眠気が襲ってくる、やはり授業の疲れが体に残っている。特に今日は体育の授業があったから尚更だ。ハンターをしているということもあり、体は鍛えているつもりなのだが、体は実に正直である。

 泰駿の準備にどれぐらい掛かるのかわからないが、少しぐらいまどろんだって構わないだろう。彼も休めと言ってくれていたのだ。お言葉に甘えようと思い、瞼を閉じる。

 目が覚めたのは誰かが体を揺らしてくれていたからだった。慌てて起き上がると、泰駿が笑顔で「おはよう」と言ってくる。時計を見ると既に午後六時を回っていた。口元が湿っぽいと思い指で触れてみると、涎が垂れている。ハンカチを出す考えもなく、慌ててブレザーの袖口で涎を拭い去った。

「す、すみません寝てしまってて!」

 頭を下げて謝るが、泰駿は対して気にした風もない。「寝てくれたのならそっちの方が好都合だよ」と言ってくれた。皮肉だろうかと思ったのだが、彼の表情を見る限りそんな感じはまったくしない。本心から言ってくれたようだった。

 そのことに安堵し頭を上げながら、泰駿の格好を眺める。ワイシャツにジーンズ、履いているものは動きやすさを考慮してのことなのかスニーカーだった。持っている武器はといえば左腰に差している日本刀、それと右の腰にはオートマチック式の拳銃がホルスターに吊り下げられている。

 これだけなら準備といっても対した時間はかからなかったことだろう。よく考えれば彼は応接室で話している時も腰に拳銃を吊るしていた。なら準備といってもベルトに刀を差すだけで済んだはずだ。ということはわざわざ亮を休ませるために時間を取ってくれていたのだろう。

 彼の心遣いに内心で感謝していると、泰駿は手にしていたコンビニの袋を差し出した。

「これ亮ちゃんの分ね、俺はもう飯食ったし。移動中に食べると良いよ、あと移動は車だから。中古車だし汚したりとか気にしなくていいからね、どうも君は見てると気を使いすぎてるみたいだから」

 相変わらず柔らかな笑みを浮かべている彼からコンビニの袋を受け取る。中に入っているのはサンドイッチが二つとおにぎりが三つ。それに五〇〇ml入りペットボトルのお茶とコーヒーが入っていた。どう見ても二人分入っている。

「あの、量が多いような気がするんですが……本当に私の分なんですか?」

 取り忘れているかもしれないことを考えて尋ねてみたのだが、帰ってきた答えは「そうだよ」のただ一言だけである。

「俺もクラリモンドももう飯済ませたし、亮ちゃんがパン派か米派かわからなかったから両方入れてあるだけ。食べ切れなかったら残してくれていいし、そしたらそれが俺の明日の朝食か昼食になる。それだけだよ、じゃあいこっか」

 泰駿が背を向けて応接室を後にしたので、彼の後にスポーツバッグを肩に担いで付いていく。事務所の扉を出るとき、背後からクラリモンドが「いってらっしゃい」と声を掛けてくれたので亮は一度振り返ってお辞儀だけをした。泰駿は何か言うのだろうかと思ったが、彼は振り向くことなく片手を上げてひらひらと動かしただけである。

 なんだかてきとうな人だなと思うのだが、まったくのてきとう、ということでないことは既にわかっていた。本当にてきとうな人間なら、わざわざ亮が米食かパン食かなんか気にしたりしないだろうし、休息の時間を与えてくれもしないだろう。

 エレベーターを使って降りるのだろうと思っていたのだが、彼はなぜか非常階段へと歩いていった。非常階段へと続く扉を抜けるとそこは屋外で、ビル風というのだろうか強い風が吹いている。

 ここではじめて気付いたのだが、このビルは建設されてから年数が経っているようで非常階段に施されている塗装はところどころ禿げていた。小気味の良い金属音を鳴らしながら二人で下へと降りていくと、非常階段はビルの裏へと出るようになっていることに気付く。

 ちょうどそこは月極駐車場になっており、そこに数台の車が止まっていた。泰駿は迷うことなく、黒のセダン目指して歩いていったのでその後に付いていく。どうやらそれが彼の愛車らしく、泰駿はリモコンキーで鍵を開けるとトランクを開けてその中に刀を入れる。

「カバンも入れる?」

 と、尋ねられたのでその好意に甘えることにした。学校の授業を受けるために必要な教科書や筆記用具だけならば軽いが、今日はC−4が三キロも入っている上に予備の弾丸も入っているせいで非常に重い。

C−4という危険物が入っているため、自分の目の届くところに置いておきたいという気持ちもあるにはあった。だがプラスチック爆弾なら衝撃で爆発することもなければ、ちょっとやそっとの熱で爆発することもない。

亮のスポーツバッグをトランクに収めると泰駿はトランクを閉めて、運転席へと乗り込んだ。助手席と後部座席、どちらに乗るべきか悩んでいると泰駿が内側から助手席のドアを開けてくれた。こっちに乗れということらしい。

助手席に座り、しっかりとドアを閉めてシートベルトを掛ける。すると、それと同時に泰駿はエンジンをかけて車を発進させた。どう考えても、これは荒い。駐車場から出るときは非常にスムーズだったが、一般道に出てからの運転はこれは酷いものだった。

今しか食べる時間が無いので、渡されたコンビニの袋の中からタマゴサンドを取り出して噛り付きながらどのように運転しているのか見てみる。その光景を見た瞬間、手にしているタマゴサンドを落としそうになってしまった。

彼は左手だけでハンドルを握り、右腕はというと開け放した窓際に肘を掛けている。そのうえ、シートベルトはしていなかった。法律で後部座席もシートベルト着用が義務付けられているというのに、彼は警察に見つかったらどうする気なのだろうか。

亮の視線に気付いたのか、泰駿は瞳だけを亮に向けて一言。

「俺運転上手いから安心してよ」

 まったく安心できない言葉であると同時に、亮が尋ねたいことはそこではない。ただ安心できないと思ったのも束の間、南区の入り組んだ道を片手だけのハンドル操作でそつなく運転しているところを見ると、運転が上手いのは確かなのだろう。

 とはいえ、予想通りといえば予想通りなのだが。法定速度は守っていなかった。ちょうど亮がタマゴサンドを食べ終えた時に、石山区へと通じる国道に出たのだがその瞬間に彼はアクセルを踏み込んで一気に速度を上げた。

 国道の車線は二車線で、時間帯が時間帯だけに何台もの車が通っていたのだがその間を縫うようにして幾台もの車を追い越していく。片手だけのハンドル操作でだ。運転が上手いのはもう認めようのない事実ではあったが、付き合わされる身としてはたまったものではない。

 彼がハンドルを切るたびに強烈なGが掛かって、サンドイッチをなんとか食べるのがやっとだ。喉は渇いていたが、この様子ではコーヒーに手を出す余裕はない。一個目のサンドイッチを食べ終える頃には運転もかなり安定していたのだが、相変わらずスピードが出ており、どこを走っているのか見る余裕は無かった。

 そして二つ目のサンドイッチを食べ終えた頃に急ブレーキが掛かる。シートベルトに胸を締め付けられて、飲み込もうとしていたサンドイッチを吐き出しそうになったが何とか堪えた。

 胸を叩いていると泰駿は鼻歌混じりに「どうしたの?」と尋ねてきたが、亮に答える余裕はない。この泰駿という男性は優しいところも確かにあるようではあるが、基本的に他人のことを考えていないのだろう。

 でなければもう少し安全な運転をするはずだ。なんとかサンドイッチを飲み込み、溜息を吐くと何事も無かったように泰駿は車から降りてトランクへと向かう。それに習うようにして助手席を降りると、自分がどこにいるのかようやく亮にも飲み込めた。

「ここって石頭寺ですよね?」

「あぁ、そうだよ。知ってるの? ここ地元の人でもあんまり来ないような寺だけど」

 トランクから刀と亮のスポーツバッグ、それに無線機を二つ取り出しながら泰駿は言った。

「結構有名ですよ、心霊スポットとして、ですけれど。よくうちの学校の子も肝試しで来たりしてるみたいです、私はそんなこと趣味じゃないので来たのはこれが初めてですけれど」

「そうなんだ。確かに人気が少なくて不気味な場所ではあるけれど、ここに幽霊なんていやしねぇよ。モノホンがいないから肝を試すにはちょうど良いかもしれないけどな」

 言いながら泰駿は亮に近づき、携帯電話よりも少し大きい無線機を手渡した。

「無線機使ったことある?」

「あります」

「そう。じゃあ良かった、収穫はないだろうけれど俺はとりあえず坊主んとこに顔出すわ。このあたりで変わったことがないか聞くためにね。門が出たのは墓地らしいから、とりあえずそこに向かってくれ。C−4は要ると思う?」

「要らないと思います」

「そうか、というわけで俺は先に行くから。何かあったら無線機で連絡頂戴ね」

 それだけ言い残すと泰駿はホルスターから拳銃を抜いて暗闇の中へと消えていった。車が止められたのは街灯の真下だが、このあたりは噂に聞いていた通り街灯の間隔が長いため暗闇が多い。

 加えて人気も無い。おそらくは山の上にあるからなのだろうが、それにしても不気味である。怖いという感情を抱くことはなかったが、もしかしたら魔物が突如として現れるかもしれないという不安はあった。

 無線機をブレザーのポケットにしまって、胸のホルスターから愛用拳銃ベレッタM92Fを取り出してセーフティーを外す。既に撃鉄は事務所にいた時から既に起していたためスライドを引く必要も無い。両手でしっかりとグリップを握り、人差し指はトリガーガードに掛けて銃口をしたに向けながらとりあえず泰駿の消えて行った方向へと足を進めた。

 墓地がどこにあるのか分からなかったが、泰駿の消えていった方向に寺があるのは間違いないだろうから彼の後を追うようにしてゆっくりと歩みを進める。

 暗闇が多いため視力は当てに出来ない。耳に神経を集中させながら歩いていく。車から離れるとすぐに暗闇に包まれた。次の街灯の姿がやけに鮮明に目に映る。ここからは坂道らしく、街灯は亮のいる位置より高いところにあるようだ。

 まずはその街灯を目指すことにした。恐怖はないと思っていたのだが、僅かとはいえ暗闇を恐ろしいと思う気持ちがあるのか、足は一歩進むたびにペースが早くなっていく。まずはあの一つ目の街灯の下にたどり着こう、それまでの間はとにかく神経を集中させていたいにも関わらず、街灯の下に辿りついた時、初めてそこに人が立っていることに気付いた。

 いくら辺りが暗いとはいえ、亮はずっと街灯を視界の中に収めていたのだ。人がいたのならばすぐにわかるし、誰かが不意に暗闇の中から現れたとしても気付かなければおかしい。

 過去には人の形をした魔物が現れたという事例もある。そのことを頭の片隅に留めながら街頭の下に佇む男へと近づいた。彼の服装は黒のシャツに黒いパンツと黒ずくめで、髪型はワックスで整えられている。黒ずくめ、というところが怪しさを出しているがそれ以外に怪しむべきところは無く、彼はじっと夜空を眺めていた。

「何をしているのですか?」

 声を掛けてみたが彼はこちらを振り向く様子も無く、夜空を仰ぎ見たまま「星を見ているのさ」と答える。亮も空を眺めてみたが、ガスが濃く出ているのか見える星の数は少ない。有名な星座がおぼろげになんとかわかる程度だ。

「星の並びが良い。この分だと運命の刻まであともうすぐだろう、といっても俺はある程度星辰を読むことはできるが専門家じゃないしね。具体的にどのぐらいの時間が掛かるのかはわからない。けれど星辰が並びつつあるのは確かだ。その証拠に、各地で門が開き星間宇宙を超えて魔物が現れ、悠久なる彼方に封印されその存在を忘れ去られしものたちの時が再び来る。人類は生命の頂点であることは否定され……いや、もしかすると存在そのものを否定されるかもしれんな。肉体に固執する生命のときは終わり、精神の時が始まる。それは間違いない、その時が来るのは間近でどれだけあがこうとこればかりは避けられない。さて、君はどうするね?」

 問いながら男は亮の方へと振り向いた。その顔を見て言葉を失った。そこにいたのは神楽泰駿その人である。だが泰駿ではない、顔を構成しているパーツは確かに同じだが目の前にいる男の方が精悍であり身だしなみも整えられていた。

 そして何より、金色に輝く瞳が泰駿との一番の相違点である。その金色の瞳を見たとき、亮の背筋に冷たいものが走った。目の前にいるのは果たして人間なのだろうか、先ほどの言動だけではただのオカシナ人で済ませられるのだが、この言い様のない感覚はなんだろうか。

 知らないうちに足は震え始めており、気付かないうちに銃口を泰駿と瓜二つに男に対して向けていた。

「その拳銃は確かイタリアの……ベレッタだったかな? 有名だから俺でも知ってるよ、使用している弾丸は9ミリパラベラム。人を殺すのには充分だろうけれど、魔物を倒すのに、あるいは太古よりこの星に潜みしものたちを倒すのにそれで充分だろうかな? そんなことよりも、さっきの質問に俺は答えてほしいね。その服を見ると君は高校生のようだ、銃器を携帯しているということはハンターだということだろうね。だからこそ君に聞きたい、旧き支配者が再びこの星を支配しようとする時、君はどうする? 戦うか、逃げるか、それとも支配を受け入れるのか」

「仰られている言葉の意味が判りませんが」

 そう言うと彼は金色の瞳を丸くして首を傾げた。そんなことはない、とでも言いたげな様子である。

「おいおい、この星には幾つもの資料があるはずだ。有名なところでいえばネクロノミコン、それにエイボンの書に屍食教典儀。他にも様々な書がある、この星からならば未知なるカダスやレン高原に行くことも可能だし、南極には狂気山脈がある。そこで人類は遥かなる昔から存在していた知的生命とも遭遇しているはずだ、アメリカのミスカトニック大学にその資料は保存されているはずだが……君は知らないのか? それらの存在を門や魔物と結びつけて考えようと思ったことは無いのか? ハンターだろ? 魔物と戦うものがなぜそれを知らない? ミスカトニックの資料は手に入らなくとも、ラヴクラフトやその一派が旧き支配者のことを謳っている。なのになぜ君はわからない?」

 男が一歩近寄ってくる。ただそれだけのことなのに、男の気配に圧されてしまい亮は一歩後ろに下がった。それ見た男はまた一歩歩み寄る、その分だけ亮はまた後ろに下がる。この男は普通じゃない。

 頭がイかれているとかそういう意味ではなく、存在そのものが強大とでもいうべきか。彼から発せられているオーラというか、雰囲気というか、そういったものがあまりにも圧倒的であり近づくことすら恐ろしく感じる。

「どうした? なぜ後ろに下がる? 私を恐がる必要は無い、なぜなら私は君たちの敵ではないよ?」

「じゃあ何者なんですか!?」

 亮は叫びトリガーに指を掛けたが、金色の瞳を持つ泰駿と瓜二つの男はまったく動じない。それどこから笑みすら浮かべていた。

「君達の定義で言うのならば魔物ということになる、門から現れたからね。秘密裏に現れることも出来たが、私には会いたい男がいる。私と同じ顔をした神楽泰駿という男に一度会ってみたくてね、君は知っているかな?」

「本当に魔物なんですか!? 人間じゃないんですか!?」

「人の形をしているから人間とは限らないだろう。人の形をした魔物が現れた事例もあるのだろう?」

 躊躇うことなくトリガーを引いた。目の前にいる男が魔物だからと思ったからではない、純粋に恐ろしかったのだ。もしかするとただの人間かもしれないとトリガーを引いた直後に思ったが、その心配をする必要はなかった。

 男が手を一振りすると空中で金属音がなる。いつの間に取り出したのか、彼の手には淡い緑色の刀身を持った刀が握られていた。狙いは完璧だったにも関わらず、男の体には傷一つない。

 ということは、先ほどの金属音は銃弾を切ったということなのだろうか。マンガやアニメでは度々見るが、現実でそのようなことが可能とは思えない。それをこの男はやってのけたというのか。

「おいおい、そんな拳銃で俺を倒そうなんて思ってくれるなよ。言っておくが君らの定義じゃ魔物になるが、俺は邪神の眷属だ。貴様らの科学が作った武器で倒せると思わないでくれ」

 言葉と共に男は切っ先を亮へと向ける。痛みこそなかったが、それだけで体を貫かれたような気がした。違いすぎる、この男は自分とは違いすぎると思わざるを得ない。そもそも人間のように見えるが本当に人間なのだろうか。

 彼の口ぶりからハンターについても詳しいようであるし、本人は魔物と言っているが果たして本当なのだろうか疑問に思える。だがこの男は危険であると本能が警笛を鳴らしていた、その警笛は危険を伝えると同時に逃げろとも訴えかけていた。

 とはいえ逃げるわけにはいかない。彼がアウトローという可能性もまだ残されているのだし、彼自身が言っていた通り魔物だとしても、どちらだったとしてもハンターとして目の前の男を処分する責務がある。

 C−4があれば攻撃のバリエーションが広がったかもしれないと思うも、全ては後の祭りだった。だからといって勝機が無いわけではない。亮はまだ手の内を見せていないのだ。彼の動体視力と反射神経は人間を遥かに超えているが、果たして肉体の強度はどの程度あるのか。

 幾ら彼の動体視力及び反射神経が優れていたところで、亮の能力の前では無意味である。彼はその場から動く様子は無い。こちらの出方をじっと窺っているようである、笑顔とまではいかないが歪んだ唇と金色に輝く瞳が恐ろしくあったが、気おされるわけにはいかなかった。

 この男が魔物だというのならば、亮は彼を倒さなければならない。銃口を彼に向けたまま呼吸を整える、神経を研ぎ澄まし範囲を確定し徐々に絞り込んでゆく。力を集中させ、彼の頭上に雷を落とした。

 閃光が迸った次の瞬間、轟音が耳を劈き衝撃が体を揺らされる。すんでのところで顔を伏せたため、目が光で焼かれるようなことは無かったが、轟音のために耳鳴りがしていた。相手を仕留めたかどうか確認するため顔を上げたとき、首筋に冷たい感触を感じる。

 まさかと思ったが、いつの間に距離を詰めたというのだろうか。男は目の前に近づいており、亮の首筋に刀の刃を当てていた。彼がちょっとでも手を動かせば亮の首は掻き切られることは間違いない。

「まさか雷を操れるとは思わなかった、直撃してたら少し痛かっただろうな。あんたが妙なタメの動作に入ったからわかったものの、そうじゃなかったらどうなっていたか……何、殺しはしないさ。それにあんたスジそのものは良かった、俺とあんたの決定的な差はなんだかったか教えてやると実戦経験の差、それだけだ」

 男がそう言った直後、腹部に鈍痛が走った。肺の中の空気を思わず吐き出し、前のめりになると今度は後頭部に衝撃が加わえられる。なにかで殴られた、そう思ったときにはもう亮の意識は刈り取られていた。

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 石頭寺の和尚から話を聞き終えて、寺の門を出たところで泰駿は溜息を一つ吐いた。予想していたことではあるが、収穫は何も無かったと思っていたのだが収穫と読んでも良い話が聞けたのである。

 一昨日、つまり墓地で門が開いた日に和尚の下に一人の青年が訪ねてきたという。その青年は和尚曰くおかしな格好だったとのことだ、詳しく聞いても要領を得なかったので絵に描いてもらったところファンタジー小説に出てきそうな格好をしていた。

 ただ、そんな格好をしているにも関わらず腰には刀を差していたという。その青年はデジタルカメラを手にしており、屋外でひとりコスプレを楽しんでいると言ったらしい。その割には、今の社会のことなどを尋ねてくるなどおかしなところもあったが、その時和尚はまだ墓地で門が出現したことを知らなかったため変な青年、程度にしか思わなかったとのことである。

 おそらくはそれが今回の魔物なのだろう。ただ、泰駿がどうしても気になるのは二つあり、一つはその不思議な男が日本語を流暢に操りコミュニケーションを取ることが出来たということだ。

 過去にも人間とコミュニケーションを取った魔物がいることはいるが、それはロシアでのことでその一例だけ。加えてコミュニケーションといっても、身振り手振りなどを交えてのことで今回のことと比べるとコミュニケーションというには程遠いものである。

 もっとも、魔物に対して過去の事例など参考になるものは少ないため気にするほどでもないとは思う。泰駿が気になるのはもう一つの方なのだ。和尚の話によれば、その青年は泰駿にとてもよく似ていたという。

 違うのは瞳の色だけであり、その男は金色の瞳を持っていたらしいのだ。稀にいわゆる突然変異というやつでそういった人間が生まれてくることはあるが、近くで門が発生したことを考えるとやはり和尚の訪ねた青年というのは魔物で間違いがないだろう。

 だが何故、どうして泰駿と姿形が似ているのだろうか。和尚は瞳の色さえ除けば瓜二つとまで言っていた。嘘を吐いたところで得になるようなことはどこにもないから嘘を吐くわけが無い。

 その魔物と泰駿が一度でも接触していたのならば、人の姿を真似る力を持った魔物ということで説明が付けられるのだが、泰駿はしばらく石山区を訪れていないから魔物と接触したとは考えられなかった。では、どういうことなのか。

 考えられるのは一つだけ。仮説にすぎないのだが門というのは並行世界、いわゆるパラレルワードに繋がっているという説がある。それが本当だと仮定するのならば、パラレルワールドの泰駿が門を通じてこの世界に来たということで説明が付く。とはいえ、納得できるわけが無い。

「どういうことなんだかねぇ……」

 考えても答えは出てきそうにない。こうなれば亮と合流して、早くその青年を見つけてしまわないといけないだろう。だが石山区にいるとは考えにくい。日本語を流暢に操り、他者とコミュニケーションが出来るほどの魔物である。

 知能はかなり高いと見てよく、ハンター等の情報も持っていると考えたとしてもおかしくない。そうなれば石山区から離れて、もっと潜伏しやすい場所、都島区や南区に移動していると考えた方が自然だろう。

 これからどう動くに関わらず、まずは亮と連絡を取らなければならない。無線機を手に取り、言葉を発しようとしたそのとき泰駿は雨が降っていないことに気が付いた。空を仰いで見ればガスはでているものの、星の姿は見えている。

 とすると、和尚から話を聞いているときに聞こえた雷鳴の正体はなんだろうか。天気予報でも雷がなるとは微塵もいわれていない。そうなると答えは必然的に亮がESP能力を使ったのだと考えられる。

 舌打ちをしながら無線機に向かって「おい、亮!」と声を叩きつけた。ESP能力を使ったとなれば彼女が魔物と接触したことは確実である。そのことを無線機で伝えてこなかったところを見ると、急に襲われたとみて間違いない。

 雷鳴の後にも連絡が来ていないことを考えると、まだ戦闘が続いているのか、もしくは。最悪の予想を振り払うようにして首を横に振った。無線機からの返答はない。それだけの余裕がないという状況なのだろうか。

 無線機を耳に当てながら墓地に向けて走り出そうとした時、聞きなれない男の声が無線機から流れた。その声は「お前が神楽泰駿か?」と尋ねている。思わず足を止めて「あぁ、そうだ」と答えると楽しそうな笑い声が無線機から聞こえてきた。

「誰だお前は!?」

「誰だとは失礼な、俺はお前だよ。そしてお前は俺だ、言っている意味がわからないと思うが意味を知りたければ車を停めている場所まで来いよ。そうすりゃわかる」

「おい!? どういう意味だ!? 亮はどうした!?」

 再び声を叩きつけたが無線機からの返答はない。ホルスターから拳銃を引き抜いてスライドを引き、いつでも射撃できるようにして走り出す。寺の門から車を停めているところまでは約三〇〇メートル、それだけの距離を全力で走った。

 街頭の下に停めている黒のセダンのボンネットの上には一人の男が腰掛けている。黒のシャツに黒のパンツ、ベルトには刀が差し込まれている。そして金色の瞳。間違いない、こいつこそが和尚に言っていた男だと思うと同時に銃口を向けた。

 その瞬間、男は足元で倒れていた亮の後頭部を片手で掴むと盾のようにしてぶら下げる。男の姿は亮の体で隠れてしまい、撃つに撃てない。舌打ちすると亮の向こう側から楽しそうな笑い声が響いてくる。

「そうか、この世界の俺は銃を使うのか! 俺は拳銃なんて一回も使ったことは無いが、使えるならさぞ強みになるだろうなぁ。とはいえ、神楽流破魔剣術の技を使えば銃なんて必要ないはずだがなぜ銃を使う神楽泰駿よ?」

「なぜ知ってる?」

 尋ねると男は掴んでいた亮の後頭部から手を離した。亮の体は地面に力なく横たわる、それと同時に男の額を狙って銃を撃ち放つ。だが男は既に左手で守りの印を結んでおり、銃口から飛び出した拳銃は目に見えない結界に阻まれ空中で静止し、その後で地面に落ちた。

 男の使った技は泰駿の知っているものである。泰駿が生まれた神楽家に代々伝わる、人でないものを倒すための技、神楽流破魔剣術の技の一つだ。だがこの剣術は神楽家の人間にしか伝えられていないもので、他の人間は名前も知らない。

 だというのになぜこの男がその技を使うのか。確かに男の顔は金の瞳を除けばだが、泰駿と瓜二つである。だからといって同じ人物であるはずが無い、世の中に同じ人間が二人もいるわけがないのだ。

「拳銃なんて役に立たないこと知ってるだろ? えぇ、違うか? それともそんなことすら知らないぐらいこの世界の俺は阿呆なのか?」

 泰駿は無言で銃を捨てて、刀の柄に手を掛けて重心を落として足腰にバネを溜める。その様子を見た金色の瞳を持った男はボンネットから降りて立ち上がり、刀を抜いた。思わず泰駿はその刀に目を奪われる。

 彼の持っている刀は緑色の刀身を持っており、それは泰駿の持っている刀と同じ色なのだ。それだけではない、長さもまったく一緒で意匠すらも同じものであった。こんなおかしなことはない、と泰駿は頭の中で呟く。

 この刀は神楽家に代々伝わるものであり、世界広しといえど同じものは存在しない。たった一振りしか存在しない刀なのである。なぜそれと同じものを目の前の男は持っているのか、本当にこの男は別の世界の神楽泰駿であるというのだろうか。

 得体の知れない恐怖が全身を包み込むが、それに打ち勝たねばならない。魔と出会えば魔を切り、神と会えば神を切る。そのことを覚悟して体に溜めたバネを開放して一気に前方へと飛んだ。

 この刀に力を込めて斬れば世の中に存在する大抵のものは切断できる。男はなんにでも対応できるよう、刀を中段に構えていたが防御されたならその防御ごと叩ききってやるだけだ。

 間合いに入ると足を地に付けて踏み込む、同時に刀を鞘から滑らせるようにして抜刀。そのまま相手の腹部目掛けて刀を薙いだ、敵もそうはさせぬと刀の柄頭を刃の前に差し出してくる。茎の部分で受け止めようということか。だが泰駿の力を込められ、緑色の輝きを発する刃で切れぬものは何も無い。

 神経が鋭敏化しているのか世界がスローモーションになったかのように感じられる。緑の刃が柄頭に触れようとした時、相手の刀もまた泰駿のものと同じように光り輝いた。そして刀が柄頭に接触する。そのまま切り裂けるものと思っていたのだが、かすり傷一つつけることが出来ずに受け止められた。

 即座に距離を開けるため後ろへ飛ぼうとするが、泰駿と同じ顔をした男はすかさず前へ踏み込み空いていた左手で泰駿の首を掴み、締め上げ、そのまま持ち上げる。やけくそで刀を振り回してみるも、同じく刀で絡め取られてしまい身動きが出来ない。

「よく聞くが良い神楽泰駿。この世界の星辰はもうすぐ揃う、その時に何が起こるかお前が俺なら知っているはずだ。しかし、少々残念だったな。経験の差はあるだろうとは思ってはいたが、ここまでの実力差があるとは思わなかった。とてもではないが同じ人物とは思えないよ」

 彼が口にしているのはどう考えてみても落胆の言葉以外に他ならない。だというのに彼の表情は狂喜で満ちていた。あまりの喜びに彼は狂った笑みを見せている。それが恐ろしい。泰駿とそっくりの男が目の前におり、そいつは泰駿の首を掴み持ち上げてそして笑っているのだ。

 頭がどうにかなりそうだった、果たしてこれは現実なのか。もしかすると悪い夢かもしれない。そうでないと自分とまったく同じ顔をした人間がいるとは考えられないし、彼が使用した技術は泰駿のそれとまったく同じものである。

 そうだ、きっとこれは悪い夢なのだ。泰駿がそう信じ込もうとしたとき、首に掛かる圧力が強まりうめき声を漏らす。夢だと信じたいが、この苦痛が夢でないことを証明しようとしていた。

「これは夢じゃないぞ泰駿。俺の名前は神楽泰駿、もちろん別の世界から来た。次元を隔てて幾つも世界は存在する、その世界の一つから俺は来た。目的はあるがこれだけは覚えておけよ、俺はオラウス・ウォルミスあるいはロジャー・ベーコンと名乗ることにしよう。我は黄衣の王に仕える騎士なり、やがて世界は原初へと戻る。その時、人類は足掻くだろう。だが敗北は既に定められている、まだ人間は幼年期の段階だ。いずれ人類は進化し、新たなる人類が生まれるだろう。ESPはその兆候だと私は考える。見せてくれよ、人類の矜持を」

 それだけ言うと彼は左手を離した。地面に着地すると同時に息を吸い込み全身に不足しかけていた酸素を送り込み、顔を正面に向ける。そこにはオラウスと名乗る男がいるはずだったが、人がいた気配は微塵もない。

 アスファルトの上にいまだ気を失っている亮が倒れているだけである。刀を中段に構えてオラウスの名を叫んだが、泰駿の声は暗闇の中に吸い込まれてゆくだけだった。

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