孤剣 一
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 峠の中ほどを越える辺りまで登ってくると、空気が涼気を帯びる。

 左右に張り出す木々の作り出す緑陰と、蝉時雨が空気の爽やかさと相まって、実に心地よい。

 下界の炎暑に晒される埃っぽさに比すると、まさに別天地。

 とはいえ……だ。

「酒も無ければ路銀も無し」

 景気の悪い顔で、童子切はポリポリと糒(ほしいい)を齧っていた口に、水を含んだ。

「命に別状ないばかり」

 恨めしそうに、五合は入りそうな、飴色に艶めく大瓢を指で弾くと、そんな主を笑うように、ポンと妙に大きな音が返る。

「……狸でもあるまいに、まさかあなた、私のお酒を少しくすねてるんじゃ無いでしょうね?」

 その言葉への応えは無かったが、式姫に長く愛用されていれば、妙な魂の一つや二つ宿っても不思議はない。

 麓の寺で贖って来た酒も、峠連なるこの道の半ばで、先夜に尽きた。

 美味なのが悪いんですよ……。

 酒の重みが無いと、腰がふらつく感じがするのは、我ながらどうかと思うが……。

「これも米なんですから、こうして噛んでいれば、口中で酒になってくれませんかねー……」

 古の時代には、酒は一度人が口で噛んだ米から造ったと言うが、さすがに神々の列に連なる式姫と言えど、今噛んでる米を酒に変える法など知る由も無い。

 我ながら太平楽が過ぎる言い種ではある。

「咲耶さんか、かやのひめさんにでも、作り方聞いて置けば良かったですねぇ……」

 そういえば、彼女たちと別れてから、はて、何年経ったのだろう。

 想えば、彼女がこの姿を取った、あの平安の御代も、遠い昔になった物だ。

 そして、最後の戦果てた後、姿を消した彼女の友。

 

 三日月。

 

 貴女は、今、何処に居ますか。

 主を失い、孤剣を携え、貴女もまた、私のように流離っているのでしょうか。

 それとも、既に……。

 

 ふぅ。

 眠っているようだと評される事の多い、切れ長の目を僅かに伏せて、童子切は静かにため息を吐いた。

 しょわしょわしょわしょわしょわ。

 降りしきる蝉の声の中に、そのため息も淡く消え。

「……行きますか」

 ふと、そう口にして、童子切は苦笑した。

 何処に行けば良いのか知りもせぬのに、何と滑稽な事を口にした事か。

 ほろ苦い笑みを口の端に僅かにのせて、童子切は、あての無い旅路を、再び歩き出した。

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「いやはや、それにしても長い峠ですねー」

 木漏れ日が赤く染まっていき、木々の黒さと鮮やかな対比を示しだす。

 あれほど騒がしく鳴いていた蝉の声も、徐々に減っていき、その鳴いている数すら数えられそう。

 夜の気配が濃くなりまさる。

 夜に動く獣や、日の下ではこの世界に居られない類の生き物が、目覚め、動き出す。

 そんな気配。

「ん?」

 何かを感じて、童子切は地を蹴り、手近な大木の太い枝に、音も無くその身を躍らせた。

 式姫である彼女としては、妖だろうが、人の悪党だろうが、何が出ようが別段困る事は無い。

 無いが、避けられる厄介事に首を突っ込む必要も無い。

 樹上で、息を顰め、耳を澄ます。

 森閑とした山道で、幾人かが、かなりせわしなく動く足音。

 近在の村の住人や木こりならば、危険を冒してまで夜に山道を行く事など滅多にない。

 余程の喫緊の用でも生じたか、それとも。

(賊ですかねー)

 だったら良いのだが、などと思いながら、闇に目を凝らす。

 本意ではないが、良民を害する賊を蹴散らし、彼らの蓄えた財貨を頂戴するのも、彼女の旅の糧。

 盗賊の上前を撥ねるなど、あまり褒められた物でも無い行為ではあるが、もとより彼らの手に渡った時点で、返却のあてとて無い財貨である。

 盗賊を肥やすよりは、彼女が酒代として社会に還した方が、幾ばくかはマシであろう。

(世の中な、最善より、ちょっとだけ良い、悪くない、その程度の選択の方が、最終的には良い方に向くもんさ)

 昔々、主が苦笑と共に口にした言葉を思い出す。

 その人とっての最善というのは、往々にして、周囲の何かを沢山犠牲にしている物で、それを人の限られた知では見えていないから「最善」に見えているだけの事が多いのだ……と。

 そして、その歪みは、いずれ何倍にもなって、その人や子孫に返ってくる、とも。

 そして、今までの歩みの中で、童子切は旧主の言が、ある程度正鵠を射ていた事を、身を以て経験してきた。

 最善を積み重ねるのは、実は最善では無いのだと……。

 

 夕日も消えた山道を、幾つかの火影が照らし出す。

 その火影の中に浮かぶ人影の服装や持ち物を見て、童子切は訝しそうに眼を開いた。

(ふむ……賊では無いですね)

 こざっぱりした身なりに、手にしているのは松明や桶。

 そして。

(お酒!)

 数人が、注連を巻いた樽を板に乗せて担いでいる様を見れば、まさかに水でもあるまい。

 してみると、どこかで祭りか寄合でもあるのだろう。

 この機を逃しては、次はいつ、あの霊妙なる液体に出会えるか知れた物では無い。

 祭りなら、上手く潜り込めば、酒の一杯二杯、ありつく事も叶うだろう。

(これも何かのお導きですよねー)

 樹上の彼女に気付く様子も無く、眼下を足早に過ぎる一団を見てから、童子切は音も無く地上に降りた。

 あれだけ火を灯していれば、後を付いていくのはたやすい。

 願わくば、無事酒にありつけますように。

 童子切は密やかに、己の気配を完全に断って、一団の後を追って歩き出した。

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幕間

 

「今はお酒を造ってる所も増えてきましたし、何より銭があれば贖えるから、実にありがたいですよ。昔は本当に、お酒を造っているところが少なくて、手に入れるにも難儀でした」

 まぁ、それだけに辿り付いた時の味も格別でしたが。

「ふむ、昔は酒ってのは、寺や、宮中で使う分を役所で造ってる位だったっけか」

 自身の知識にいまいち自信なさげに呟く主に、童子切は軽く頷き返した。

「美味しいのは代々そうですねー」

 そう言いながら、童子切は大杯を少し傾けた。

 知の湧き出る水という事で、般若湯などと言われながら作られ続けた酒。

 短い人の生の中、知見の伝承が師から弟子へと為される寺社は、酒、味噌、醤油など、経験が物を言う物を造るに、多大な利がある。

「もちろん、村々でも造ってはいましたけど、旅人に分けてくれるほど量も作れませんし、なにより旅の友にするには、質の悪いお酒だと長持ちしなかったんですよ」

 味も一段落ちますし……ね。

 そうぼそっと付け足して、童子切は苦笑した。

「確かにな……」

 自分も世が騒がしくなり、商人がめったに来なくなってから、どぶろくやら山葡萄や猿梨での酒造りをやってみたが、辛うじて呑んで酔える程度の代物が出来ただけ、揚句に直ぐにすっぱくなっちまうし……。

「ご主人様には実感も無いでしょうけど、最近のお酒は劇的に美味しくなったんですよー」

「そんなもんか」

「ええ」

 米を研いでから使う、寒中に仕込む、布で絞って上澄みを使う、最後に湯に入れてやる事で長保ちさせられるようになる……。

 人が、旨い酒を呑みたいという熱意で磨いてきた技術が結実した精華が、いま自分の手の中にある。

 この旨きものを造るために、どれ程の人の力が込められ……そして、この先、更にどれ程磨かれていくか。

「ふふ」

「ん、どうした?」

「いえ、式姫という生も、中々に楽しいと思いまして」

 くっと傾けると、酒の香気と、杉樽の香りが鼻をくすぐり、米の仄かな甘さが喉を優しくなでていく。

 甘露。

「それで」

 童子切の杯に酒を注ぎながら、男が口を開いた。

「で、その一団から、酒にありつけたのか?」

「ありつけた、と言えばありつけたんですが」

 主の猪口に酒を注ぎ返しながら、童子切は微苦笑を浮かべた。

「あれは、高価く付いたお酒でしたねー」

説明
式姫プロジェクトの二次創作小説です。
童子切の昔語り。
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式姫 童子切 

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