うつろぶね 第七幕
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「やぁ、絶景かな、絶景かな」

 カクの声音に芝居掛かり以上の真実の響きが籠もる。

 彼女の感嘆も故無い事では無い。

 少し上り坂になった小暗い松林を抜けた後に、視界一面に広がった青の世界。

 天から海の底まで、碧空から紺青が、一度に感覚を包み込む。

 浮かぶ雲の白さ、波音、潮の匂いを運ぶ、さわやかな、だが、まだ少し夏の熱を残した風。

 快美。

 それ以上の感想が浮かばない程の、圧倒的な天地自然の造形と色彩であった。

「ぜっけーかな、ぜっけーかな」

 カクの隣で、洟垂れも一丁前に、意味も分からずに声を張り上げてから、顔を上げた。

「ぜっけーってなんだ?」

 言葉で言い表せない程に、凄い風景の事だと言いかけて、その説明の中にも、この洟垂れが判らない言葉が混じって居そうなのを感じ、カクは暫し、その言葉を頭の中で転がした。

 仙狸が意図した事かは知らないが、今まで大人を相手に芸をして来た時には、想像もしていなかった、言葉の選択という行為は、カクに色々な事を考えさせてくれているようであった。

「絶景っていうのはなー、ここみたいな、とっても良い場所を見た時に褒める言葉だい」

「そうかー、ここはぜっけーだー!」

「そうだぞー、ここは絶景だー!」

 丈の短い草の上に寝転がり、まだ高い空を見上げながらカクは大声を上げた。

 不可解な事ばかりのこの地ではあるが、それでも、カクはここに来て良かったと、今心底から思えた。

 傍らの子供の事を考えれば、こんな所に居るより、父親を探して歩いた方が良いのかもしれないが……。

 それでも、一時でも。

 この子の周囲の大人たちが忙しく、そこに気が回らないだろう中で、よそ者である自分くらいは、こうして他に気を散らす機会は作ってあげねば……。

「はらへったー」

「だよね、それじゃ座って、その竹筒の水で手を洗って、よしよし、今日はおかかと梅と塩のお結びだい、どれが良いー」

「おかかー!」

「はい、それじゃこいつだ、良いかつお節を贅沢に厚く削って作った奴だからねー、味わって食べるんだぞ」

 そう、カクが言い切る前に、洟垂れは手にした大きなお結びにかぶりついていた。

「うめー」

「そうだろそうだろ」

 自慢げに、こちらは梅お結びにかぶりついたカクだが、これらを用意してくれたのは仙狸である。

 ふんわりとしつつ、しっかりと握られたお結びの中に、少し崩した梅肉の味が馴染んでおり、その丁度いい塩味と酸味が、半日歩き回った体に、じんわりと染み込んでいく。

「うん、美味しい」

「うんめー」

 顔に白米を付けながらかぶりつく子供の顔をちらりと見てから、カクは顔を上げた。

 大きな雲が青い空の中で、天に伸びていく。

 この青空のように、今回の件も、きれいさっぱりと決着が付いてくれるんだろうか。

 いや……そうじゃ無いな。

「もっとくれー」

「あー、後はね、塩結びしか残ってないんだ、だからこいつを、お姉ちゃんと半分こだい」

 ぱかりと割って、真っ白なお結びの半分を渡す。

「おー、はんぶん」

「塩もさっぱりして良い物さ、噛めば噛むほどに良いお味ってなもんだい」

「うんめぇ」

「あはは、この絶景の中で食べてるから美味しいんだぞー」

「おー」

 そう、この子の為にも、今回の一件、綺麗さっぱりと片を付けてやろうじゃないか。

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「……ん、むぅ」

 住職が目を覚ました。

 仄暗い中の目覚めは毎朝の事だが、板敷の間に横たわっているとは、いかなる事か。

 頭には円座を置いてあるのは、自分でした事だろうか……。

「お気が付かれたか?」

 美しい響きの女性の声で目覚めるなど、まだ寺に入る前まで記憶を遡らねばならない。

 ゆっくりと顔をそちらに向けた住職は、彼の顔をゆっくりと団扇で扇いでくれていた仙狸の姿を認めた。

 ああ……そうであったな。

 自分は、何という醜態を晒してしまった事か。

 ふぅ、と長い息を吐きながら、何かを振り払うように頭を振ってから、住職はゆっくりと身を起こした。

「お恥ずかしき姿を」

「わっちは何も見ておらぬよ」

 猫は忘れっぽい物じゃ。

 そう呟きながら、静かにほほ笑む仙狸に、住職は頭を下げた。

「修行の至らぬ事で、汗顔の至り」

「左様な事もありますまい……まして、住職の罪咎でも無き事じゃろう?」

「……そこまでご存知か」

「代々のご住職の日記を拝見した上での推測じゃが、粗方はのう」

 書いてあることだけでは無い、不自然な記述の消失、日付の飛び、筆の乱れ……。

 そういった事は、その時期に、日記に記載できない「何事か」が有った傍証となる。

 そこに、推測と、事実で作った欠片を埋めていった時、仙狸の脳裏には、今回の件の大枠が見えて来ていた。

 だが、まだ細部が足りない。

「話して、頂けるか」

 

 目の前に居る式姫の明敏さを前に、ごまかしは通じないと悟ったか。

 いや、恐らくこの住職は、仙狸がこの寺を訪れ、日記を見たいと言った時から、こうなる予感があったのだろう。

 その上で、仙狸に日記の閲覧を許した。

 過去をこのまま握りつぶすのか、白日の下に晒すのか。

 それを、式姫という神意に委ねるかのような、そんな心持ちで。

「当寺の……いや、拙僧の恥ともなりますが」

「ご住職、恥も栄誉も、煎じ詰めれば人に付く物じゃ」

 その仙狸の言葉に、住職は静かに首を振った。

「他に知る者も無しと思い、この胸一つに納めてしまった時、私もまた同じ罪と恥を負ってしまったのですよ」

 寺の評判が悪しくなれば、寄進も減ろうし、何より、彼の法統に連なる自分が、ここに居られなくなるのでは……。

 ならば、黙っていた方が良いではないか。

 黙っていた方が、誰も不幸にならずに済むなら、これも一種の方便ではないか。

 そう、己も騙してしまった。

「私は、師を……彼と寺の名を汚す事が、出来ませんでした」

 今より語るのは、私自身の懺悔でもあるのです。

「人の情という物じゃ、仕方なき事よ、余り己を責めなさるな」

 幾ら言っても、己自身を責める言葉を他人が和らげる事は出来ない。

 それは知っているが、仙狸はそう口にするしか出来なかった。

 忝い事です。

 そう、深く静かに頭を下げたのは、仙狸に向かってだったのか、それとも、過去に対してだったのか。

 顔を上げた住職は、辛そうだが、どこか長きに渡って担い続けた重荷を下ろした人のような、疲れた笑みを浮かべた。

「どこから、お話ししましょうかな」

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「ありゃ、何だい、あれ」

 お結び三つの昼餉を終えて、食休みをしていたカクがぐるりと巡らせた視界の端に、小さな社が映った。

 そのカクの視線を追った洟垂れが、ずるりと青洟を啜った。

「ああ、あれかー、えべっさんのやしろだぁ」

「えべっさん?」

 誰だ、と一瞬思ったカクであったが、海近くの祠と名前から、すぐに正解に辿り付いた。

「ああ、恵比寿様かい」

「んだぁ、えべっさんだ」

「そうかー、えべっさんかー、カクの仲間だなー」

「そうなのかー?」

「えべっさんはねぇ、カクと同じ、海の向こうから来た神様だい」

 

 子供にはそう語ったが、本当はそれだけでは無い。

 恵比寿は夷であり、戎でもある。

 夷戎(いてき)と呼ばれた存在。

 自分たちと「異なる」集団を、そう呼んで、区別していた、その名残。

 多くは敵として、そして時に、技術や富をもたらす存在として異人を祀った。

 

「それじゃ、お仲間にご挨拶しておこうかな」

 そう口にしながら、カクはひょいと立ち上がった。

 しかし、えべっさんとはまぁ、随分と親しみやすそうな名前になっちまったもんだね。

 僅かに苦笑を浮かべながら、水とは別の竹筒を手にして、カクは歩き出した。

「おまいりするだか?」

 慌てて立ち上がった洟垂れが、カクの後に続く、それに向かってカクは笑いかけた。

「庭先でお弁当使わせて貰ったら、お礼位はするもんだい」

「そんなもんかー」

「そんなもんだい」

 程なくして、手入れの行き届いた社の前に立つ。

 不漁の時期でも、いや、だからこそか、掃除が行き届き、ささやかながら供物も備えてある社。

 格子の間から、丸太に直接刻まれた恵比寿の像が垣間見える。

(まだ、若いかな)

 信仰の力は集まり掛かっているのが見えるが、まだまだ神性を宿すところまでは来ていない、木像に毛が生えたような物。

 とはいえだ……庭先を借りた事には違いない、カクは綺麗な椀に酒を注いで、それを備え、静かに手を合わせた。

 その隣で、洟垂れも殊勝な顔で、手を合わせる。

「ととがけぇってきますように」

(そうだね……祈ると良い、人の子供よ)

 恐らく、この神像よりカクの方が、力もご利益もあるとは思うが。

 

 何かに縋るだけでは無い、この子のように、自ら動きながら神に願う時、願いはその人の力ともなるのだ。

 それは、今のカクの主も同じ。

 彼が願うだけの男なら、式姫は誰も従わない。

 彼が自らを恃むだけの男なら、やはり式姫は誰も手を貸さない。

 自ら動き、その力の限界を知った人が、心から願った時。

 彼女たちは、その大いなる力を、人に貸し与える。

 君は……どうかな。

「さてと、次は隣村まで行ってみようか……歩けるかい?」

「でーじょーぶだー、おら、じょうぶがとりえだって、かかがいってただ」

「そっか、でも疲れたらそう言うんだよ、それじゃ元気に出発だい!」

「おー」

説明
式姫プロジェクトの二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/950284
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カク 仙狸 式姫 

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