うつろぶね 第二十五幕
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 海の上を漂いながら、仙狸は静かに息をひそめていた。

 闇に閉ざされた眼に、徐々に白い靄が掛かってくる。

 式姫の持つ、尋常ならざる回復の力が、彼女の目を再生させていく確かな感触。

 目が、光を感じ始めた。

(もう少しじゃ……もう少し)

 焦ったら負け。

 ああいう、本来は水底に居る生き物は、往々にして鋭い感覚を有している。

 水に落ちた何かの立てる波紋、微かな匂い、僅かな光。

 そんな物を見出し、襲い掛かってくる。

 転じてこちらは、視覚を奪われ、水中では自由も利かない

 せめて、どちらかだけでも回復させねば、勝負も出来ぬ。

 今はとにかく時が欲しい……仙狸は祈る様に息を詰めた。

 わざわざ気配を探ろうとしなくても、何か巨大な代物が、怒りと嘆きの唸りを上げて、空に海にと荒れ狂っている様は、嫌でも判る。

 荒れ狂っているが、その動きを追ってみて、仙狸は若干安堵した。

 奴は姫の姿を求め、この辺りの海域を飛び回っている……この様子なら、逃げた筈の漁師達に危害が及ぶ事はあるまい。

 海中に姫の姿を求め、奴が飛び込んだのか、轟音と共に、海が大きく揺れる。

(奴め、もはや正気では無いか……)

 

 何が有ったかは不明だが、どうやら蜃と、あの先代の住職は、完全に一つの存在になってしまったようだ。

 いや、本来ならば、彼の存在は、あの蜃に食われた数十年前に終わっているべきだったのだ。

 ただ、蛭子珠と、あの僧の修業で得た力と、執念が、蜃に食われながらも、辛うじて自我を保って来ただけ。

 その、彼が辛うじて保って来た自我を……姫への愛とも執念ともつかない感情を、仙狸が打ち砕いてしまった。

 その結果、彼は己を失った。

 そして、彼が持っていた力さら、彼の自我もまた、蜃に取り込まれてしまった。

 今の状況は、その必然の結果というべきか。

(……これで良かったのじゃろうか)

 戦場で抱くべき感情でないのは、百も承知だが、仙狸はそれでも胸が痛かった。

 本来、いかに邪悪な相手であれ、あそこまで人を……人の心を傷つけ、追い詰めるのは、仙狸の本意では無い。

 ただ、慈悲を掛け、相手の尊厳を思いやるには、余りに相手が強大過ぎた。

 正気を失うまで相手の心やよりどころを破壊し、その隙を突くしか……自分たちがあの存在に対抗する術は無かった。

 自身と仲間と漁師たちの命を守る為には、仕方ない事ではあったが。

 それでも、仙狸は自身の行為に対して、安易に己を正当化しようという気にはなれなかった。

 

 ヒメヨ……ヒメヨ……ドコジャ。

 

 龍の吼える声の間に、悲痛な声が混じり、その嘆きに応える様に、海と空が荒れていく。

 嵐すら呼ぶか……。

 それは、この存在が龍としての完成に近づいている証。

 

「……何という事じゃ」

 望んで得る事も出来なかった。

 恐らく、姫は彼の事など何とも思っていなかっただろうに、ただ一方的な想いだけを抱えて……。

 それでも、その僧侶としての修業も、命の終わりですらも、その執着を断つ事は出来ず。

 

 ヒメヨ……コタエテクレ……

 ワシニ……ワライカケテオクレ……

 

 異形と成り果てても、幼子が母を求める様に、彼女を求め続ける。

 人とは……どこまで哀しき生き物なのじゃ。

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「私にとって、あのお御坊様は……敵にしか見えなかった」

 余りにあの人は、その存在も物言いも、力と自信に満ち溢れすぎていた。

 そして、疑問の一つも抱かずに、相手を己に従えようとする。

「だからね、貴方でも思うままに成らない事なんて、実はこの世界には一杯あるんだって……」

 たかが小娘一人自由には出来ない。

 貴方は全知全能でも何でもない、ただその辺の人間の一人でしか無いと。

「人生のどん底に……叩き付けてやりたくなったの」

「……そうだったんだ」

 カクには何も言えなかった。

 それは理不尽な話。

 ただ、その姿が、彼女の敵に重なった見えたというだけで、そこまでされる理由は、彼には無かったろうに。

 

 あの先代の住職は、ただ、この人に一目惚れしてしまっただけ。

 だが、彼女は、彼に一目で憎悪を抱いてしまった。

 何て不幸なめぐり合わせだったんだろう。

 

「それじゃ、蛭子珠を奪って逃げたのは、彼を破滅させる為だったのかい?」

 寺宝中の寺宝を奪われたとなれば、僧侶として……いや人としてすら破滅は必定。

「そうとも言えるけど、違うとも言えるかしら」

「え?」

 それは、どういう?

「あの大きな真珠の中には、私の夢見た世界があったの」

 幼い日に母に聞いた。

 海の向こうにあると聞かされた、毎日市が立っていて、お祭りのような賑やかさがずっと続くという。

「私の大事な世界を、あの人たちには渡したくなかった」

 彼女が視線を転じると、再び二人の周囲に、賑やかな市が現れた。

 子供が駆けまわり、大人も互いに笑い交わし、良い匂いが辺りに満ち、色とりどりの品が目を楽しませる。

「……だから、逃げた?」

 この世界を。

 彼女の心の最後の拠り所を。

 魂が安息を得られる、彼女の聖地を。

「ええ」

 無謀なのは判っていた。

 貴族の姫君として扱われるようになってから、自分の足で出歩くなんて出来なくなったし……第一私は外で一人で生活できる力なんて無かった。

 そんな事、知っていた。

 でも。

「ははさまを踏みにじられ、今また、幼い日の夢まで、交渉材料に使われるなんて……」

 それだけは、私には、許せなかった。

 だから、逃げた。

 これは、元は私の居場所。

 だけど。

 

「わたし……ここに来て、やっとわかったの」

 

 そう口にした、そこに姫君は既に居らず。

 最初にカクに声を掛けて来た、あどけない少女が、にっこりと笑っていた。

「何が……わかったの?」

「おねえちゃんは、このかいしにきた、はじめてのおきゃくさま」

 その笑みが、あんまりにも透明で。

 カクにはその後に続く言葉が何となく判ってしまった。

 いやだよ、私、こんなの嫌だ。

 

 俯いたカクの手がぎゅっと、血が滲むほどにに握られた。

 カクには判った……判ってしまった。

 判りたくなど無かったけど。

 これこそが、自分がここに来た意味なのだと。

「ここに、私が望んだ景色は無かった」

「……うん」

「一緒に歩いて、同じ物食べて、美味しいねって笑いあって、周りの景色を綺麗だねって言える」

 言葉にならず、カクはただ頷いた。

「ははさまが……何処にも居ないの」

「そう……だね」

 ここは閉じた世界。

 貴女の夢を無限に紡ぎ続ける……貴女だけの世界。

 そこに他人(ひと)は居ない。

 貴女が心から憎める人も、心から愛せる人も居ないんだ。

「だから、おねえちゃん」

 この世界に初めて訪れた、客人神よ、蛭子(えびす)の神よ。

 

「この世界を……壊して」

 

 その言葉に、カクは強く頭を振った。

 違うよ、私がしたかったのは、こんな事じゃない。

 私は確かに海市の幕引きを望んださ。

 だけど、こんな悲しいのは。

 こんな、辛いのは……嫌だよ。

 俯いたカクは、いつの間にか自分の手に、真紅の、愛用の棍が握られているのを見た。

 自分の理性は、自分が果たすべき役割を既に悟っている。

 でも、私の感情は。

 一人の、悲しい人生を送った人が夢見た、魂の底で、ずっと大事に守って来た、こんな綺麗な世界を壊すなんて。

 そんなの、私には。

 手が震える。

 そこに、小さな手が添えられた。

「お願い、おねえちゃん」

「……良いの?」

 ここは、貴女が守ろうとした、ほんのささやかな夢の世界じゃないか。

 それを。

 うん、と……小さな頭が振られた。

 綺麗な髪がふわりと拡がる。

 ここは楽しさしかない、私のきらきらした宝物だけど。

 私の一番の場所では無かったの。

 少女は顔を上げてにっこりほほ笑んだ。

 

「私、いっぱい遊んで疲れちゃった」

 だから。

「もう、ははさまの居る、おうちに帰りたいな」

「……そっか、そうだよね」

 帰ろうか……。

 貴女の望んだ、魂の奥津城へ。

 

 涙と共に、真紅の光が、海市を一閃した。

説明
式姫プロジェクトの二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/962044
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コメント
OPAMさん ありがとうございます、仰る通り海市の話はカクが終わらせて終了です、物語自体の千秋楽も近いです。(野良)
海市の謎を探ることから始まった物語もついに真相に到達ですね。(もしかしたら、更に明かされてない謎があるのかもしれないけれど)人々をおびき寄せるための罠となっていた幻の海市が実は少女の大事な想いがつくりだした幻想が元になっていたとわかったときの切なさ。そして、それを理解した主人公がどうやって幕を引くのか・・最後まで目が離せませんね。(OPAM)
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カク 仙狸 式姫 

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