黒の聖者
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乳白色の世界の中に浮かび上がる、黒衣の葬列。まるで亡霊のように音もなく、一行は慰霊地に向かって歩みを進める。まとわりつく白い霧から身を守るように、全員が黒いローブを深くかぶって息を潜めている。いつもならば「闇」を感じさせるその色に不安を覚えるのだが、今はその色に身を委ねる事で心地良ささえ感じる。

 

サガ……お前もそうなのか?

サガ……今、お前は何を思っている?

 

霧の中で見え隠れする恋人の背を見つめながら、アイオロスは呼吸に重ねて小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 

「黒の聖者」

 

 

 

コロッセオでの指導を終え、アイオロスは人馬宮に帰ってきた。先程までは身体に照りつけていた初夏の日差しが、十二宮を登り始めた頃に急に陰り出し、沸き上がってくる湿気で砂埃が肌に粘り着くように感じる。この時間ではサガはまだ任務から帰っていないだろう。アイオロスは無言のまま宮に入り、身体の汚れを落としてさっぱりしようとそのまま風呂に行こうとした。リビングに入ると奥の寝室でコトコトと音がする。一瞬、アイオロスはためらうように立ち止まったが、すぐに意を決して顔を上げ、いつもと変わらない表情を作って部屋の中をのぞいた。

 

「お帰り、アイオロス。」

 

アイオロスが口を開く前にサガが先に呼びかけた。その視線は直接アイオロスには向けられず、鏡越しの挨拶だった。サガは姿見の前で黒い葬礼用の衣装を身につけて裾を確かめていた。見ると、ベッドの上にもアイオロス用の衣装が広げられている。

 

「ただいま……珍しいな、葬儀があるのか?」

 

「ああ。先ほどシオン教皇から通達があった。明日、全員出席だ。」

 

そう言いながら、サガはようやくアイオロスの方へ振り返った。いつもの笑顔はない。しかし、彼の白い肌と黒い衣のコントラストの美しさに目を奪われ、アイオロスはドキリと胸を高鳴らせた。普段はすぐに賛辞を贈るアイオロスだったが、今日は言葉が出て来ない。そういう雰囲気ではなかった。サガの方も、一瞬アイオロスと視線を合わせただけですぐに衣装へと逸らし、言葉を続けた。

 

「シオン教皇と黄金13名、場所はクレタ島だ。」

 

「誰が亡くなったんだい?」

 

「クレタ島の神官だ。祖先の中に聖闘士がいたという事で、その後も子々孫々に渡って聖域に貢献されてきた方だそうだ。かなりの高齢で、昨日静かに息を引き取ったと教皇に連絡が入った。それで…」

 

「ああ、そうか………」

 

アイオロスはため息にも聞こえるような返事をした。サガはそんな彼の態度にも特に関心を示さず、手早く衣装を脱いで普段着に着替えている。その様子を、アイオロスは戸口に立ったまま黙って眺めていた。クローゼットを閉めると、サガは軽く髪を整えてアイオロスの方へ向き直った。

 

「ちょっと双児宮に行ってくる。滅多に使わないものだから、多分カノンは衣装がどこにあるかわからないと思う。しまってある場所を確認してくる。」

 

「ああ、わかった。いってらっしゃい。」

 

抑揚のない、事務的な声色。お互いがこんな風に話す時が来るなんて、今まで想像もした事がなかった。サガは顔を合わせる事もなく、アイオロスの横をすり抜けるようにして部屋から出ていった。彼がいつも身にまとうコロンの薫りだけが優しくアイオロスの肌を撫でて行く。

 

「こんな気分で葬儀か………」

 

アイオロスの気分を演出するように、外は次第に灰色の雲が広がり始めていた。

 

 

 

3日前。

 

拳闘に励む若者たちで活気づくコロッセオで、予想もしていなかった出来事が起こった。この場に最もふさわしくないと言える人物が現れたのだ。プラチナブロンドの柔らかな髪を可愛らしく結い上げ、目新しい白いキトンに身を包んだ若く美しい女性。彼女の滑らかな両手首には、アテナの杖の刻印が施された金のブレスレットがはめられている。スミレ色の澄んだ大きな瞳が彼女を年齢よりもずっと幼く見せており、女性というよりも少女と言った方がふさわしいほどの愛らしさだった。若者たちは皆、突然コロッセオに舞い降りた天使のような彼女の姿に息を飲んだ。しかし、そんな周囲の反応に物怖じせず、彼女は無邪気な笑顔で一人の男性に走り寄った。

 

「アイオロス、私よ!わかる??」

 

集団の中に飛び込んできた美女はそう叫んだ。突然呼ばれたアイオロスは一瞬きょとんとした顔で彼女を見たが、みるみるうちに呼び起こされた記憶に触発され、今にも彼女を抱きしめんばかりの驚きでこれに答えた。

 

「レウケー!……君、レウケーかい?……驚いたな!どうしてここに??」

 

レウケーと呼ばれた娘は両手を後ろで組み、肩をすくめて笑ってみせた。ほんの数年の間だけだったが、彼女はアイオロス兄弟と同じ村に住んでいたことがあった。アイオロスより5つ年下で、聖闘士としての修行に明け暮れる彼の代わりに小さなアイオリアの面倒を見たり、家族ぐるみで何かと兄弟の事を気にかけてくれていた。その後、引っ越ししてからはまったく会う事がなかったが、まさかここで再会できるとはお互いに考えてもみなかった。二人はただただ懐かしい人との再会に盛り上がっていたが、周囲の男たちは見たことがないほどの美女の出現にざわめき、所々で歓声まで上げている。ギリシャ語で「白」を意味する言葉通り、レウケーは花のように可憐で、無垢で、清らかだった。

 

「教皇様の侍女に選ばれたの。嬉しいわ!アイオロスとまた会えるなんて。」

 

レウケーは紅く火照った頬を両手で包んでにっこりと笑った。彼女の何気ない仕草すべてに若者たちは夢中になった。普段は冷静で滅多に顔色を変えないアイオロスですら、今は美女を前にして高揚しているように見えた。若者たちに囲まれたまま、まるで二人しかこの場にいないような会話がしばらく続いていた。

 

この時、この場にサガはいなかった。しかし、狭い聖域の中で起きる事などどこにいてもすぐに噂は耳に入る。ましてレウケーのような美しい娘は聖域でも稀な存在であり、その相手がアイオロスである事も災いした。アイオロスとサガの関係はすでに聖域内では有名で、それだけでもアイオロスは常日頃から羨望の眼差しで見られている。神の血が流れていると噂されるサガを掌中に収めている上に、今度は幼なじみの美女の出現が加わったのだ。彼女の噂がサガの耳に入る頃には、ありもしない尾ひれがついた話に仕立てられていた。二人それぞれに秘かな想いを寄せる男や女たちの明らかな悪意によるものだった。

 

 

 

その夜、二人は諍いを起こした。アイオロスが何を話しかけても気のない返事を返すサガに珍しく苛立ち、ついキツい言い方で詰め寄ったのが始まりだった。ある程度我慢をしていたサガも、アイオロスの物言いにいつも以上に反応してしまい、二人にとっては初めてと言えるほどの喧嘩になった。

 

「お前が何を聞いたか知らないが、私は彼女と付き合っていたわけじゃないんだ。今だってそうだ。何も起きちゃいない。」

 

「……そんな事を聞きたいわけじゃない。その女性が聖域に勤める事になったのなら、会って話す機会が増えるのは当然じゃないか。そんな事をいちいち気にしてなどいられないだろう。」

 

「それがわかっているのに、何故そんなに機嫌が悪いんだ?」

 

「…………………………………」

 

「彼女はまだ何も知らないんだ。もっとも、私たちの事を知ったって、多分彼女の態度は変わらないだろう。レウケーはそういう人なんだ。」

 

「よく知ってるんだな、その女性の性格を。」

 

サガは自嘲気味に言った。思わず口にしてしまった言葉だった。何としてもレウケーを庇う姿勢を崩さないアイオロスに、胸が締めつけられる。アイオロスを巡って、女性と立場を争う自分の浅ましさに嫌気がさしてくる。しかし、サガの投げやりな言い方にアイオロスは強く反応し、ますます声を荒げるばかりだ。

 

「ああ、知ってるさ。幼なじみだったんだから。お前だって、もし私の立場だったら同じように彼女と接するはずだ。」

 

「…………………………………」

 

「どういう理由があっても、彼女に対して邪険な態度なんてとれないよ。そんな事できるはずもない。」

 

……ああ、違う。そういうことを話したいんじゃない。私は、お前にそういうことを言ってほしいんじゃないんだ……

 

言えば言うほど互いの会話がすれ違っていく気がする。アイオロスの弾丸のように飛んでくる言葉に、サガは喉元につかえる苦痛にあえいだ。アイオロスの言っている事はすべて正論だ。ましてレウケーに非があるわけでもない。すべてが正しい故に、サガには否定する術がない。だからこそ厄介だった。何の落ち度もない完璧な女性に対して沸き上がってくる不安と焦り。「女性」というだけで、サガには絶対的に手の届かない遥か高い位置でアイオロスと深く絆を結ぶ事が出来る存在。認めたくない事実だったが、それはもう嫉妬以外の何物でもなかった。何の迷いもなく正論を叩きつけてくるアイオロスに対して、失望に打ちのめされたサガには返す言葉が見つからなかった。

 

「今後も聖域で彼女に会うんだ。私は変わらず挨拶もするし、話だってするよ。」

 

変わらない、という言葉を聞いた瞬間、サガの中で何かがふっと消えた。一瞬身体を硬直させた後、サガの表情は急に穏やかになり、彼はアイオロスとしっかり視線を合わせた。

 

「アイオロス、お前は正しい……」

 

「え……?」

 

「いつだって、お前の正しさには叶わない。」

 

「どういう意味だ?……正しいと言うくせに、いやに悲しげに私を見るじゃないか。」

 

「…………………………………」

 

アイオロスの言い放つ返事に再び胸が潰れるような苦しさが込み上げてくる。聖域を統べる黄金聖闘士の身でありながら、今の自分はどうしようもなく女々しく、清廉潔白なアイオロスにはふさわしくない醜い存在に感じる。もう終わらせたかった。こんな不毛な会話を。サガはただ静かに、小さな声で答えた。

 

「……私が悪かったアイオロス。お前は、正しい。今までの私の言葉を許してくれ。」

 

その後、サガは必要以上の口をきかなくなった。それでもサガは双児宮には帰らず、今まで通り人馬宮でアイオロスと生活を続けている。双児宮は現在カノンが守護している。聖域にようやく落ち着いて新しい生活を築いているカノンのもとへ、アイオロスと喧嘩になったというだけで安々と帰るのはあまりにも身勝手な行為だ。サガはそう思った。もっとも、サガが帰還したらカノンは温かく兄を迎えるだろう。そういうカノンの優しさが予想出来る故に、サガは自宮へ帰る事を躊躇した。他に部屋を借りる事も出来たのだが、それをやってしまうと本当の決別になりかねない。あえて人馬宮を出ないのは、サガにとって最後の抵抗であり、心の片隅で大切に握りしめている僅かな希望でもあった。

 

今まで温かさに満ちていた二人の会話は、さりげない言葉のやりとりに変わった。笑顔を交わす事はあったが、心からのものではないと互いがはっきりと感じていた。夜、セミダブルのベッドで眠る時も、背中合わせで眠った。ベッドの中でほんの少しも相手に触れる事がなく、もちろん会話もない。月明かりの照らす寝室の中でサガの静かな寝息が聞こえてくると、アイオロスはそっと身体を起こし、目の前に広がる長い青銀の髪をじっと見つめていた。

 

 

 

クレタ島の空も雨雲が広がり、その厚い雲を通して差しこむ太陽のせいで、視界が眩しく感じるほど白い光が立ち込めていた。

 

「数日間、島はとても天気が良かったのですが、このような雨模様になってしまい……遠くからわざわざ来ていただいた皆様にはご不快な思いを……」

 

案内人である若い神官は申し訳なさそうにシオンに言った。

 

「いえ、聖域も同じですよ。ただ、この時期には少し珍しいですね。」

 

いつもは無表情とも言えるほど凛としているシオンだったが、相手がまだ若いというのもあって、柔らかく気を使った話し方をしている。13名の黄金聖闘士は次々と客船から降り、滅多に来ないクレタ島の風景を見回していた。黄金聖闘士の正装は、本来ならば輝かしい黄金聖衣である。しかし今日は聖域以外での葬儀ということで、全員が漆黒の長衣に身を包んでいる。その異様な様子は、彼らの優れた容姿とあいまって、神聖さと妖艶さの入り交じる非現実的な光景を作り出していた。船着き場に居合わせた者たちは、彼らが葬儀で訪れている事をつい忘れてしまうほど、人だかりを作って騒いでいる。ギリシャのキトンというよりもローマのトガに似ている衣装で、それぞれ少しずつ違うデザインで縫製されており、それが個々のイメージに大変よく似合っていた。全員がベールのような布を頭上からかぶっていたが、髪の長い者は特別に黒い布地でリボンのように結んでまとめたり、或いは貴婦人のようにふんわりと布地を巻きつけて包んだりして、髪が広がらないようにしている。島へ上陸するとすぐにアイオロスの視線はサガをとらえた。客船の中では黄道順に並んで座っていたため、顔を合わせる事ができなかったのだ。双子である事を意識してか、サガとカノンの衣装はデザインそのものは同じだが、長いドレパリーがそれぞれ左右逆の肩から足下へ流れている。ベールから僅かに覗くサガの白皙の顔に不謹慎ながらも胸を打たれたアイオロスは、辺りに立ち込める光とは違う眩しさに思わず目を細めた。

 

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一行が神殿に着くと、儀式はすぐに始まった。白亜の神殿内には、クレタ島で厚く信仰されている蛇使いの女神像が何体も立ち並んでいる。窓の外に見える霧の空、灯されたろうそくの淡いオレンジ色の揺らめき。すべてが白の静寂に閉じ込められているような神殿の中で、大勢の黒装束が蠢く幻想的な光景にアイオロスは軽い目眩を覚えた。祭壇の上には神官の棺が置かれている。顔は見えなかったが、その棺の大きさを見る限り、中で永遠の眠りについている老神官がいかに小柄だったかを強く印象づけた。教皇であるシオンは黄金聖闘士たちとは別格で、他国の要人たちと同じく最前列に並んでいる。13名の黄金聖闘士は黄道順に横並びとなり、前列に7名、後列に6名に別れて並んだ。偶然にもアイオロスはサガの斜め後ろへ並ぶ形になった。新しく就任した神官長の祈祷に合わせて参列者たちは死者へ祈りを捧げたが、その間もアイオロスはずっとサガだけを後ろから見つめ続けていた。

 

時折、顔を上げた瞬間にベールの端からサガの横顔が覗く。微かに震えていた長い睫毛がゆっくりと見開かれ、奇跡のような深い碧の瞳が現れる。あの瞳は男が持つべきものではない。黒衣の影が落ちる透き通った白い肌も、淡く色付く唇も。サガが男性として生まれたことも、聖闘士としての宿命を背負ったことも、すべてが不可解に思うほど彼の存在は人知を超えている。まさに、神の誤算。不敬にもそう思わざるを得ないほど、彼はその壮絶な人生に見合わない容貌を持って生まれた。黒をまとっていても、サガの美しさは翳るどころかより一層輝いて見える。ふと、アイオロスの脳裏にレウケーの姿がよぎった。見違えるほど美しく成長した幼なじみ。数日前に突然彼女と再会した時の衝撃は、子供の頃の彼女の記憶と重なり、混ざり合い、やがてアイオロスの中で静かに浄化されていった。今、アイオロスのすべてを占めているのは目の前にいる唯一人の存在だけだった。

 

あれだけこの腕に抱き、愛を囁いていても、些細なことでお前はいとも簡単にこの腕をすり抜けてしまうのか?

お前の安らぐ場所は、この腕の中ではないのか?………

 

その時だった。まるでアイオロスの言葉に答えるかのように、サガの頬を一筋の涙が伝った。アイオロスは驚きに目を見開いた。一体、サガは何に反応したのだろうか。亡くなった神官の親類であるとは聞いていない。それとも、自国のみならず聖域の平和にも尽力を注いでいたという老神官に対する、彼の贖罪の涙なのだろうか………しかしどうあれ、サガは涙を拭うことなく流れるままにして祭壇の方を見つめている。その涙を見るうちに、数日前にサガに対して強く言い放った言葉への後悔がアイオロスの心に重くのしかかった。

 

そして………それ以上に、サガを想う愛しさが、より深さを増してアイオロスの心に沸き上がった。

 

あの時、自分はどうあれば良かったのか。

この世で唯一人、真に大切な人へどういう言葉を伝えれば良かったのか。

 

「サガ…………」

 

ベールに深く隠れ、神官の祈祷に合わせる言葉の代わりに、アイオロスは誰よりも愛しい名前をそっと呟いた。

 

 

天候はより悪くなり、外へ出ると小雨が降っていた。棺を運ぶ神官たちを先頭に、参列者は全員、慰霊地へと向かった。空の色がそのまま地面まで落ちてきたかのような乳白色の世界。その中に浮かび上がる黒衣の葬列。まるで亡霊のように音もなく、一行は慰霊地に向かって歩みを進める。まとわりつく白い霧から身を守るように、全員が黒いローブを深くかぶって息を潜めている。いつもならば、「闇」を感じさせるその色に不安を覚えるのだが、今はその色に身を委ねる事で心地良ささえ感じる。アイオロスは、顔が濡れるのも構わず空を見上げて小さく息をついた。数日間ギリシャ全域で続いた乾燥を癒すはずの涼雨が、今のアイオロスにとっては身も心もさらに冷えさせる氷雨のように感じられる。軽く瞬きをして、再び彼は正面をむいた。ローブの端から小さな滴が頬に落ち、涙のようにゆっくりと伝っていく。ただ虚しかった。何もかもがこの光景のように曖昧で、無気力で。

 

サガ……お前もそうなのか?

サガ……今、お前は何を思っている?

 

霧の中で見え隠れする恋人の背を見つめながら、アイオロスは呼吸に重ねて小さく呟いた。

 

 

埋葬が終わると、14名は神官が用意した部屋に案内され、そこで軽食をとった。ここでの並びも黄道順だったが、シオンを先頭にアイオリアとシャカの間で折り返すようにして七人ずつ食卓についたために、アイオロスとサガは完全な向かい合わせになった。ただ、向かい合わせと言っても食卓が意外と大きく、場所が場所なだけに前に並ぶ者たちと気軽に会話ができる雰囲気ではなかった。黄金聖闘士がこの順番で並んで食事をするなど、アイオロスの記憶でも初めての事である。そのため、サガとカノンの双子がアルデバランとデスマスクに挟まれている姿はアイオロスの目にとても新鮮に映った。意外だがカノンとデスマスクは気が合うらしい。壁のレリーフに描かれた蛇使いの女神に興味を示したデスマスクは、女神の巨大すぎる剥き出しの乳房をあからさまに両手で表現し、カノンに何度もちょっかいを出している。カノンは同じ列の端に座るシオンの様子を伺いながら、「やめろよバーカ」「ガキかお前は」と、悪戯っぽい笑みを浮かべて小声で答えていた。悪童のように何の含みもなくふざける二人の様子に、アイオロスは再び胸のつかえを覚えた。この食事の間、視線が合うと気まずくなると思い、サガの方はあえて見ないように努めていた。しかし、不覚にもアルデバランがサガと話している姿が視界に入ってしまった途端、アイオロスの視線はその方向へ釘付けになった。アルデバランは特別親しくサガに何かしているわけではなく、サガも普段通りに話しているだけだ。だが、この動揺は何なのだろうか。数日前までの自分が何の迷いもなく幸福であった分、今の自分が塵のようにちっぽけな存在に感じる。さっきまで虚しかった気持ちが、今度は得体の知れない苛立ちに変わっていく。

 

あの笑顔は私だけのものだ。

あの瞳は私だけを見て、その温もりは私だけが抱きしめる事ができるのだ……

 

「アイオロス、大丈夫か?」

 

「あぁ??」

 

突然声をかけられ、アイオロスは隣に座るシュラの方へ振り返った。彼は指先でコンコンと軽くテーブルを叩き、口元に笑みを浮かべたままそっとあるものを指差した。

 

「まあ、好みは人それぞれだから仕方ないが……俺は結構いい味に感じたんだけどな。」

 

その言葉を聞いて、アイオロスは自分のパンを無意識に指で捻り潰し、皿の上でボロボロに砕いてしまっていた事に気づいた。

 

食事が終わり、再び外へ出るまでの僅かな時間にアイオロスはシオンを呼び止めた。急な事にシオンは一瞬驚いたが、アイオロスのただならぬ真剣な眼差しを見て、あえて集団から少し離れた場所を選び、彼に向き直った。

 

「どうしたアイオロス。何かあったのか?」

 

「シオン教皇、このような状況でお引きとめして申し訳ありません……実はお願いがあるのです。」

 

 

 

神域であるクレタ島から聖域までは直接テレポートできないため、一行は行きと同じ経路で最も近い小島まで船を使い、そこからテレポートする事になっていた。搭乗口に並ぶ神官たちに一礼しながら、聖闘士たちは次々と客船の中へ入っていく。その中にアイオロスとサガの姿はなかった。

 

次第に離れていく客船を二人は波止場から見送っていた。大袈裟に手をふるデスマスクとアフロディーテに挟まれ、無理矢理腕を組まされているアイオリアは、兄とサガが島へ残る理由がわからず、子供のように困惑した顔で遠ざかっていく二人を見ていた。

 

「……いつ休みをとったんだ?」

 

ため息混じりにサガはアイオロスに聞いた。

 

「食事の後、すぐ。」

 

「こんな事をして……教皇はさぞ驚いただろう。いきなり申し出て3日も休暇を取るなんて。」

 

「う?ん……まあな。でも、すぐオッケーして貰えたぞ。最近、お互い働き詰めだったからな。」

 

「…………宿はどうするんだ?」

 

「街へ行けば何とかなるだろう。」

 

アイオロスの強引さに呆れつつ、それでもサガはあまり彼の方を見なかった。会話が途切れた頃、アイオロスはそっとサガの肩へ手を回した。

 

「さあ、行こう。」

 

船はみるみるうちに海の彼方へと過ぎ去っていく。小さくなっていくその姿を見つめていたサガは、アイオロスの呼びかけに黙って頷いた。

 

昼間の鬱蒼とした天気は日の入りの頃にようやく回復を見せ始め、夜にはいくつかの星が確認できるほどになっていた。小さな集落の中にささやかな宿を見つけた二人は、部屋へ入るなりベッドやソファに別れて座り、しばらくそこで休んだ。会話は相変わらず少なかったが、アイオロスの突発的な思いつきは、意外にもサガの暗く沈んでいた心をいくらか癒したようだ。彼はアイオロスの行動に素直に従い、宿泊する事についても大して抵抗せずに受け入れた。その後、二人は繁華街に繰り出し、島民で賑わう市場のような露店で夕食を済ませ、宿泊に必要な日用品や衣類を調達し、荷物を置きに再び部屋へ戻った。

 

「いい夜だな。風が昼間と全然違う。この島へ来たのは初めてだが気に入ったよ。」

 

「ああ……いいところだな。式も無事に済んで良かった。」

 

サガは椅子に腰掛けたまま窓の外を見ていた。民家の中にある宿のため、観光地に比べたら大した風景ではなかったが、サガは構わず見ていた。アイオロスと視線を合わせないために、そうするしかないと言ってるような仕草だった。しばらく沈黙が続いた後、アイオロスが切り出した。

 

「サガ、海へ行かないか?」

 

「今からか?」

 

「ああ。お前と行きたい。船に乗っている時から思っていた……こんな綺麗な海岸をサガと歩いてみたいって。」

 

サガはゆっくり立ち上がり、先ほど買ったばかりの服を買い物袋から取り出そうとした。その手にアイオロスはそっと自分の手を重ね、優しく声をかけた。

 

「いいよ。このままで。」

 

「黒衣のままで?」

 

「ああ。お前、すごく綺麗だよ。さあ行こう。」

 

アイオロスの静かな声に、サガはそっと頷いて袋から手を離した。

 

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星の瞬く夜の海岸を二人は並んで歩いた。二人の他に人影はなく、街明かりからも少し離れているせいか、波音が砂浜によく響いている。宿を出る時、二人とも衣装の上に巻きつけていた長衣を取り外し、更にサガは髪を柔らかく包んでいた衣も解いていた。穏やかな波風が彼の青真珠の髪を優しくすくように流れている。

 

「美しいな。」

 

アイオロスの言葉にサガは軽く頷いて、足下まで近づいてくる白い泡に視線を落とした。サガはアイオロスの心意に気づいていない。海の事を言っていると思ったようだ。アイオロスはニュアンスを変えて再び言った。

 

「綺麗だな、お前は。黒い衣がよく似合うよ。」

 

「黒の私がいいのか?」

 

彼はアイオロスの方を見ずに言った。しかし、そういうサガの仕草をアイオロスはもう気にしなかった。今、サガと二人でこの場所にいる事に大切な意味を見出だそうとしていた。

 

「ああ、綺麗さ。あの時も……そう思ってた。」

 

サガの歩みが止まる。アイオロスは構わず続けた。

 

「黒く染まるお前も好きだった。たとえその愛に、身を切るような苦しみが伴ったとしても。」

 

無言のまま立ち尽くすサガの横顔に囁く。

 

「その心は今でも変わってない。どんな色に染まろうと、お前への気持ちは変わらない。」

 

ふっとサガは小さく笑った。数日ぶりに見る、明確に笑ったと認識できる表情だった。ただ、夜の闇の中にあるその横顔は、これ以上ないほど悲しげな影をまとっていた。

 

「…………私は醜い。私の心は真っ黒な闇で埋めつくされている。今、こうしている時も。こんな私でも、お前は私の事を好きだと言うのか?」

 

行き先をふさぐように、アイオロスはサガの正面に立った。サガは一瞬身体を硬直させ、俯いたままでいたが、アイオロスはサガを逃がすつもりはなかった。今ここで話さなければ、二人が共に歩む未来が失われるような気がしていた。

 

「サガ……そういうお前が好きなんだ。葛藤して、怒って、憂いて、泣いて……人間らしいお前の姿が、私にはすべて愛しいんだ。過去にお前を苦しめていた黒い闇ですら、お前の真の気高さを際立たせるだけの黒い衣にすぎない。闇が深ければ深いほど、真のお前は白く光輝いて見える……そう、今のようにな。」

 

「アイオロス…………」

 

「だから、私は変わらずお前が好きだった。たとえ黒に支配されようとも、お前の事をずっと愛していた。あの頃からずっと。」

 

「呑気な男だな。その闇のせいで、お前は一度命まで落としたというのに。それでもお前は私を許し、何でも受け入れようとするのだな。」

 

自嘲気味なサガの返事にも動じず、むしろ笑顔を浮かべてアイオロスはきっぱりと言った。

 

「美しいものは美しい。好きなものは好き。私にとって真実であれば、私はその意思を曲げたり消したりしないよ。たとえ命を落としたとしてもだ。自分に嘘はつきたくないんだ。」

 

サガの脳裏にアイオロスの幼なじみの姿が過る。彼女は今後もアイオロスと聖域で会うのだ。たとえサガと仲違いしていても、アイオロスは変わらず笑顔で彼女と会話をするだろう。アイオロスはそういう男だ。常に誠実な眼差しで相手を見つめ、差別を嫌い、すべての者たちに平等に接する。それこそ、サガが愛するアイオロスの真の姿であり、彼の最たる部分でもあるのだ。サガは瞼を閉じ、小さくため息をついた。

 

それなのに、なぜこうも割り切れないのだろうか。

愛する者の知らなかった面をほんの少し知っただけで、なぜこのまま離れていくような気がするのだろう?

愛する者が自分の理想通りである事に、何故こうも苦痛を感じるのだろうか…………?

彼は、何一つ間違っていないのに…………

 

自分だけが、血の通っていない冷たい存在に感じる。自分だけが、人ではない何か別の生き物に感じる。心優しい恋人に対する苛立ちと虚しさ。嫉妬が醜い行為だと知りつつ、そのわだかまりをなかなか消す事ができない。サガはこの葛藤とどう闘っていけばよいのか混乱し始めていた。その時、アイオロスが口を開いた。

 

「お前、誰かの事を思い出してただろう?」

 

「え?」

 

突然振られた言葉に驚いて、サガは真っ直ぐアイオロスと視線を合わせた。瞳の緑が交差する。アイオロスの強い眼差しに捕らえられたサガは、硬直したようにそのまま動けなくなった。

 

「……やっと見てくれた。」

 

「………………………」

 

「数日、その瞳をしっかり見られなかったんだ。寂しかったよ。」

 

「………………………」

 

サガは気恥ずかしさを感じたが、耐えて視線を外さなかった。恋人を見ているとは言い難い、挑むような眼差しだった。

 

「なあ……今、誰かの事、思い出してたんだろ?」

 

「誰かって、誰を?」

 

愚問と知りつつ、サガは分からないふりをしてアイオロスに言葉を投げつける。子供じみた返答に自分自身が馬鹿馬鹿しくなる。彼はとっくに気づいているというのに。

 

「美しいとか、好きとかって私が話した時にさ……もしかして、嫉妬したのか?」

 

「誰に?」

 

「嫉妬したんだろ?」

 

「だから、誰?」

 

絶対に答えようとしないサガだったが、アイオロスはそれに対して必要以上にからかったり、抗議したりしなかった。むしろ、彼にしては珍しく憂いた表情を顔に浮かべてサガを見た。

 

「…………きっと私は、過信していたのかもしれないな。」

 

アイオロスの瞳に小さな光が揺れている。まるで、昼間見たあの神殿のろうそくの明かりのように。サガはその言葉の先にどこか終わりの予感がして、食い入るように彼の顔を見つめていた。アイオロスは静かにサガの両肩に手を置いた。その温かい感触に懐かしさすら覚える。

 

「過信だ。お前を常日頃から愛していると言っていたのに…………肝心な時に、大切なお前へ、一番大事な言葉を伝える事ができなかった。」

 

「アイオロス…………」

 

「サガ、あの時はすまなかった。私は一方的にお前ばかり責めていた。」

 

その瞬間、数日間続いていた呪縛から解放されたかのように、サガの瞳に涙が膨れ上がり頬を滑り落ちた。

 

「ごめんな。」

 

「………………………ッ」

 

「愛しているよ。」

 

不器用なほど真剣な想いのすべてを込めて、不安にうちひしがれる恋人を慰めるように。

 

「愛している……サガ、お前だけを。」

 

アイオロスはその言葉を何度も繰り返し、その度にサガの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。ついさっきまで氷のように固く冷えきっていた心が一気に溶け出し、熱い塊が身体の奥底から込み上げてくる。

 

「お前に一番伝えたいこの言葉を、あの時に言うべきだった。あの瞬間に言えなかった事を、私は本当に後悔しているんだ…………この数日間、ずっと不安だっただろう?」

 

返事の代わりに瞬いたサガの瞳から再び涙がこぼれる。それが合図のように、二人は唇を重ねた。どちらか一方から与えるのではなく、また与えられるのでもなく、同じ距離から同じ想いで行う儀式。愛している、心から愛しいとお互いに胸の内で叫び、抱きしめあい、二人は情熱的な口づけを交わした。この世で唯一人、心から愛する者だけに贈る愛の行為。聖戦後にサガの身長を追い抜いたアイオロスは、彼の白い額に自身の額を少し上から柔らかく押しあて、優しく擦り合わせてその温もりを感じていた。

 

「私たちは愛しあっているんだ……他の誰とでもない、私はお前だけを。」

 

「アイオロス……私も、お前だけを。」

 

サガの頬を涙がいく筋も伝った。

 

「あの時、お前にそう告げるべきだった。ただ、そう一言……」

 

「アイオロス、もうそれは……私だって、素直ではなかったんだ……」

 

苦悶の声で絞り出すように囁くアイオロスに、サガは何度も首を横に振って否定した。

 

「私も……嫉妬していたよ。」

 

「え?……」

 

「お前と一緒にいて、普通にしていられる者たちに。情けない話だが、かなり嫉妬してた。いや、それだけじゃない。自分自身にも嫉妬して苛立っていた。」

 

何の迷いもなくサガを自分の腕に抱いていた幸福な日々への嫉妬。昼間の式典の間、遠くから見ているしかなかった歯痒い自分を思い出し、アイオロスは苦し気に瞼を閉じた。

 

「一日中、お前が恋しくてずっと見ていた。」

 

「気づいていたよ。」

 

サガの言葉に今度はアイオロスが少し驚いたような顔をした。サガはまだ涙を流していたが、いつもの優しい笑みをようやくアイオロスに向けた。

 

「だって……背中に穴が開きそうなくらい視線を感じたから。」

 

「やっぱり?そんなに強い視線だったかい?」

 

「あんな執拗な小宇宙、わからないわけないだろう?」

 

「ははっ……何だか恥ずかしくなってきたな。」

 

アイオロスにつられてサガも微笑んだ。しかし、その目のふちに再び水晶玉のような清らかな膨らみが浮き上がってくる。

 

「だから………あの時も涙が流れた。お前が私を見ていてくれているのがわかったから。嬉しくて……悲しくて……」

 

サガの紅く腫れた瞳から涙が流れる。震えている身体を宝物を包むようにしっかりと抱きしめ、アイオロスはサガの耳元で囁いた。

 

「たとえ神がこの腕からお前を連れ去ろうとしても、私は必ずお前を捕まえていてみせる。必ず。」

 

 

 

真っ白な肢体を惜しみなく晒し、子供のように無防備な姿でサガは眠っている。そしてそれを守るように、アイオロスはシーツの上で波打つ青銀の髪ごとサガを抱きしめて微睡んでいた。

 

あの後、宿に帰った二人はすぐに愛を交わした。風呂に入ろうとしたサガを遮るように抱き止め、二人はもつれるようにしてベッドに沈んだ。アイオロスが初めて見せた強引な行為だったが、サガは彼が求めるすべての要求を拒まなかった。たった数日の虚無感をまるで一生分の想いで穴埋めするかのように、互いを強く抱きしめ、切なくなるほど優しく、息をつく暇も惜しむほど深く愛し合った。重ねられた熱い呼吸の間から、唯一つの真実の言葉が何度も繰り返される。

 

愛してるよ

愛してる

 

夜中囁きあった言葉を、二人は夢の中でも紡ぎあっている。黄金の絆で結ばれた二人が見る夢はいつも同じだ。

 

島は清々しい初夏の朝を迎え、古の美しい街並みの上に光が降り注ぐ。満ち足りた恋人たちが眠る窓の向こうを、鳩の群れが横切っていった。

 

 

 

説明
劇中の風土とか行事とか、ほとんど想像です。長いけど書いてて楽しかったです♪
※pixivに改訂版あります。
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サガ受 ロスサガ 腐向け アイオロス×サガ 

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