蜂の針
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 暗い夜の道に、何本もの蜘蛛の糸が張られていた。糸は人の腕ほどの太さを誇っている。大の字で糸に引っかかっている男が低い呻きをあげた。動けば動くほど男の体は糸に沈んでいき、もう、男は身じろぎすらできなかった。狐のような細い目をした男で、手足は身体と比べて長い。

 宙から、ひとすじの糸が垂れた。深緑色の体毛に、赤い目をつけた蜘蛛が、糸をつたって男のほうへと降りていく。蜘蛛は人二人分は下らぬ巨躯のものだった。

 蜘蛛の牙が、男の身体に刺さっていく。男は、体を貫かれた痛みと、自分の中身が焦がされる熱さを感じた。蜘蛛の毒液が、男の体内を溶かしていく。

 中身のない皮袋となった男の中に、蜘蛛は体を折りたたんで入っていった。

 大きな虫を見なかったか、潮(うしお)と名乗る男にそう話しかけられて三分、知朱(ちず)は無視を決め込んでいた。知朱は携帯電話を巧みに操り、たいして興味のないサイトを眺める。知朱が横目で隣を見ると、潮はまだ隣に立っていた。潮は下を向いて、困ったような顔をしている。知朱には、唇を噛んでいるようにも見えた。

 知朱は、バイクに軽く寄りかかり、兄である和也を待っていた。今朝、今日は飲みに行くから迎えに来てくれ、と研究職の兄は朗らかに頼んできたのだ。昨夜のうちに言うべきではないかと、知朱は少しばかり憤りを感じたが、大事な兄の頼み、己の気持ちをぐっとこらえた。

 知朱が携帯のメールボックスを覗くと、一件の新着メールがあった。差出人は佐藤という女だ。近く、坂口さんと結婚式を開きます、知朱ちゃんもぜひ来て下さい、詳しい内容は後日、手紙で送ります、メールにはそう書いてある。

 知朱は携帯を閉じて、男物のコートのポケットにしまった。空を見上げてはぁと息をつく。ついバイクに体重をかけてしまい、知朱は倒れそうになった。

 惚れた男が他人と結婚する姿など見たくない、知朱は心の中で呟いた。

 潮という男は、狐のような細目に、手足の長い、少々奇怪な男だった。物腰はやわらかく、頭をよく下げるものだから、知朱は潮にへたれた印象を持った。

「あの、すっごく大きな虫なんです。人間よりおっきい感じの。」

 キリストに祈りを捧げるかのように手をあわせ、潮が言った。

「見てない。」

 知朱は答えてから、また構ってしまったと己の手に爪をあてて自虐した。

 知朱が時計を見ると、針は午後一時をさしていた。和也との待ち合わせまでは半刻ほどの余裕がある。

「蜘蛛塚のあたりのことなんです。それから。」

 潮の言葉を聞き終わらないうちに、知朱はバイクのキーを回した。バイクのエンジン音が轟く。知朱はヘルメットをかぶると、バイクに跨った。

 知朱がバイクのアクセルを入れると、あたりに煙臭い騒音が響く。潮は顔をしかめたが、知朱は目を閉じて深く息を吐いた。

 蜘蛛塚という言葉に、知朱は心当たりがある。

 数分もたたないうちに、知朱は人気のない山道にきていた。山道は細うされていて、バイクのはしり心地は良い。

 知朱の前に、一つの石碑が建っている。墓は石で作られており、所々こけが生えていた。石碑には、蜘蛛塚と刻まれている。知朱は夜に散歩をする、危なっかしい趣味があり、その時にこの石碑を見つけたのだ。

 知朱は、蜘蛛塚を見てしわを寄せた。知朱は石碑まで歩くと、ブーツのつま先を土にあてる。ブーツが、地面に柔らかく食い込んでいった。地面は、あまりにも柔らかすぎた。この石碑の下が、少し前に掘り起こされたに違いない。首をつっこんでみるか、知朱はつま先で地面を蹴って、ブーツの汚れを落とした。

 夜、知朱は酔いが醒めた和也と、食事をとっていた。和也は好物である味噌汁をすする。

「兄さん、音たてて飲まないで。」

 知朱が言うと、兄は飲み方を正した。

「それで兄さん。蜘蛛塚って場所のことなんだけど。」

「このあたりの民間伝承だったかな。かなりマイナーだよ。」

 あんまり詳しくは知らないんだよね、と和也は笑う。僕の友人から聞いた話なんだけど、そう前置きをして、和也は蜘蛛塚について話し始めた。

 蜘蛛塚は、江戸末期、人食いの物の怪を封じた場所なのだという。物の怪は人を殺してはその皮を被り、人に化けたそうだ。物の怪は、こういう話にしては珍しく、美しい男を優先的に狙ったのだと。

「兄さん、友達ってだれ?」

「興味あるの?民俗学者さんだよ。」

「連絡先もろもろ教えて。」

 和也は知朱の熱心さに苦笑しながらも、自らの携帯電話を開いた。知朱も、自分がなぜ蜘蛛塚について調べているのかわからない。あの人と佐藤さんの結婚式のことを頭の隅に追いやりたいから、そんな自分の声が聞こえた気がして、知朱は肌に爪を深く食い込ませた。

「最近あってないからさ。よろしく言っておいてよ。」

 携帯電話による赤外線通信が終わる。端末のアドレス帳には、三原潮と書かれていた。

 知朱が、玄関のチャイムを鳴らす。

 三原潮の家は、古典的なお屋敷だった。広い庭や、渡り廊下、この田舎でも滅多に見ない日本仕立てだ。

 知朱がいくら待っても、屋敷からは音一つ帰ってこない。知朱が玄関の戸に触れると、あっさりと開いた。どうやら、鍵がかけられていなかったようである。

 知朱は屋敷へと入っていった。早足で、広い屋敷の部屋を一つ一つ見て確認していく。物事を実行する時間は少なければ少ないほうが成功する、知朱はそう信じ、無駄口一つ叩くことなく動いた。

 知朱は、一つの小さな部屋に辿り着いた。本棚に、机と椅子だけしかない寂しい部屋だ。知朱は、ここは兄の部屋によく似ていると思った。本棚には、歴史の本や地図帳が詰まっている。潮の部屋はここに違いない、知朱は机の引き出しを開けた。

 知朱は、息を止めた。しばらくの間、全く動かない。

 知朱は、窓から、外の様子を伺った。男物のコートを脱いで、机の中にあったものをくるむと、屋敷から出て行く。

 机の中には、しゃれこうべが入っていた。

 夜、知朱は夢を見た。夢のなかで知朱は、一人の女と会っている。着物と蜂のかんざしが特徴的な、芸者風の女だ。女の肩には手の平ほどの蜘蛛が乗っていて、女はそれを撫でていた。知朱は、正座して女の話に相槌をうっていた。女の話は耳をすりぬけていき、知朱には全く話が理解できない。

 知朱はふと、隣を見た。肌色のふやけた袋が置いてある。女の肩に乗っていた蜘蛛が、袋のなかに入っていく。袋がふくらんだかかと思うと、三原潮となった。

 潮は、口をつりあげて微笑む。狐のような目が見開かれた。目のなかに、いくつもの目があった。潮の目が、虫の複眼となっている。

 知朱は正座を崩して、潮から離れた。潮はゆっくりと、手足で地面を這って知朱のほうへ迫る。知朱が立ち上がって逃げようとすると、潮は知朱の四肢をのしかかるようにして押さえた。潮の口からは、蜘蛛の牙が生えている。

 知朱は舌を軽く噛むと、潮の頭めがけて頭突きを放った。潮も頭をあげ、頭突きはあっけなく空を切る。知朱は舌を強く噛んだ。逃れようと暴れるが、うまくいかない。

 ふいに、潮がぐえと低い悲鳴をあげた。知朱が見ると、芸者風の女が、潮にかんざしを突き刺していた。蜂をかたどったかんざしだ。

「この人はね。私のものなんだよ。」

 女は潮を抱き上げ、知朱に語りかける。女の声は底冷えするような、寒々しいものだ。しかし知朱はその声に痺れるような甘さを感じた。知朱の指先が震える。この女とよく似た響きの声を、最近よく聞いていた気がする、そう知朱は思った。

「しゃれこうべを持って蜘蛛塚へいきな。目覚めたらすぐ行くんだ。あたしの気は長くないし、むこうもきっと寂しがってる。」

 知朱は目覚めると、しゃれこうべが入った袋を手にとった。朝ご飯は自分で用意してください、そう書いたメモを居間におき、知朱は家から出て行く。

 知朱の脳裏には、夢の光景が反復していた。夢の女と潮の戯れが、幾度も浮かんでは消えていく。知朱は夢の女に、自分と似た匂いを感じ取っていた。

 アクセルを握りしめて、バイクで駆ける。早朝の道路の人通りは皆無といってよく、知朱のバイクが減速することはない。あっという間に、知朱は蜘蛛塚についた。

 霧が通りすぎる早朝の蜘蛛塚に、一人の男がいた。潮だ。潮はすがるように蜘蛛塚にもたれかかっている。潮は眠っているようだった。

 知朱は蜘蛛塚を蹴って、鈍い打撃音を出した。潮の目が、ぱちと開く。

 知朱が口を開いたが、言葉が発せられるよりも早く、潮が動いた。潮は、知朱が丸くふくらんだ袋を持っているのを見ると、知朱につかみかかる。寝起きとは思えぬ、信じられない早さだった。

「やっぱり、あなたが盗ってたんだ。」

 知朱を引き倒し、潮が言った。倒された拍子に、知朱の手から袋がこぼれ、しゃれこうべが躍り出た。

「何度も何度もこの近くを通ってたから、そうじゃないかって思ってたんですよ。」

 潮は知朱のコートを引っ張って、知朱の首を絞めた。知朱は呼吸をしようと頭をのけぞらせ、潮を何度も蹴る。潮は少しもひるまず、知朱の首を絞め続けた。

 ゆらりと、知朱の影がゆれた。影は長くのび、青白く変色した。潮も知朱も、その変化に気付かない。やがて泡をたてて、影の中から一匹の虫が飛び出した。飛び出したのは、大きな雀蜂(すずめばち)だ。その体長は2mほどだ。

 雀蜂は、潮の体を突き刺して空へと連れて行く。潮の力が緩んだ。知朱は、コートを脱ぎ捨てて潮から逃れた。

 針に貫かれた潮の皮がやぶれ、中から大蜘蛛があらわれた。大蜘蛛は、八本の足をうごめかせて、苦痛にいなないた。しかし、大蜘蛛が針から逃げ出すことはなかった。

 宙に浮いたまま、二匹の虫は溶けるように消える。からんと、蜂のかんざしが知朱の前に落ちた。礼だよ、そう知朱の頭に文字が浮かんだ。その針で刺した相手は死ぬよ、どんな小さな傷だろうと死ぬよ、文字が続く。そして、死んだ相手は、自分のものになるよ。

 知朱は、立ち上がることなく、蜂をかたどったかんざしを見つめる。知朱はかんざしを手に取った。

「死んだ相手は、自分のものになるよ。」

 知朱は笑った。ため息に似た、乾いた笑い声だった。知朱はハンカチでかんざしをくるむと、ポケットにしまった。ハンカチにくるんだまま、知朱はかんざしで自分の指先を突いた。ゆっくりと、しかし段々と強く、知朱はかんざしを指に食い込ませていく。かんざしの腹に力を加えると、かんざしは軋み始めた。かんざしは知朱を突かんとし、知朱の指は、かんざしを砕かんとする。

 知朱は、その様を冷めた目で眺めていた。

説明
墓からはい出た二人の幽霊と、恋に敗れた少女のお話です。
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