横浜のメリーさんがお亡くなりになられていたなんて、すごいショック!・・・。について
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横浜のメリーさんがお亡くなりになられていたなんて、すごいショック!・・・。について書きます。

 

横浜のメリーさんがお亡くなりになられていたなんて、すごいショック!・・・。について書きます。

 

昔若い時、横浜F町近辺で暮らしていた時期は、あちこちでよく彼女と遭遇しました。よく館内のセンタービルの前とか夜に歩いていたと思いました。貧乏だとかろくな物食べていないとかいう噂もあったようですが、実際は自分が横浜で見かけた時はよくデパートの買い物袋を手に持っていて中には何か買い物した物がいつも入っている感じだったから噂ほど貧乏というイメージは当時はあまりありませんでした。

 

また、いつもすごく高そうな値段の瀟洒なドレスを着込んでいて厚化粧で真っ白な顔で強烈な印象を周囲に撒き散らしていました。挨拶も何度かしたことがありました。声をかけるといつもニコッとしていましたけど、とても無口な方だったと思いました。

 

以下は参考資料の抜粋文章です。

 

メリーさんは1960年頃に横浜へ来て以来、74歳まで街頭に立ち続けた“伝説の娼婦”です。

1995年に横浜から姿を消し、2005年岡山の老人ホームで死去されました。

 

“舞台化粧のような白塗り&全身白いドレス姿“が彼女のトレードマークでした。通称、「ハマメリー」と呼ばれていました。自慢じゃないけど傍によって挨拶をしたことも何度もありました。

 

何となくマリー・アントワネットの生まれ変わりなんじゃないかと思う風情もすごく溢れていましたね。

 

(メリーさん情報サイト@⇒https://hamarepo.com/story.php?story_id=2097)

 

音楽がコモエスタ八重樫の『ヨコハマメリー』という映画は彼女のことについての映画です。

 

※そういえばコモエスタ赤坂って歌をよくメリーさんがよく出没する地区の接客店で働いていた頃、そこの近所のカラオケボックスで歌ったことがありました。―とても懐かしいです―

 

『横浜の伝説の老娼婦だ

 

メリーさんがモデルになった歌や芝居もたくさんあり大和田伸也の妻で女優の五大路子は「港の女横浜ローザ」を一人芝居でライフワークにしている

又晩年をドキュメンタリー映画にもなった女性だ

 

今日はメリーさんの話を書こう

 

メリーさんは

小柄でフリフリの白いドレスを着て顔に真白い白粉の化粧をして横浜の繁華街、福富町、伊勢佐木町に現れていた

 

その姿は異様だから目立ち

数々の噂が流れた

メリーさんは進駐軍相手の娼婦で

今は痴呆症になり

まだ自分が現役だと思い夜な夜な現れては客を取っている

 

とか

 

今は子供も大きく立派になっているが

痴呆症の母が夜な夜な街角に立つこと黙認して

夜遅くに車で迎えに来て連れ帰っている

 

など臆測の噂が流れ都市伝説になった

 

でも実際は 痴呆症でもなく家族もいない

 

メリーさんの数奇な運命は謎だが

 

無口な本人や、兄弟、友人の話から断片的に伝え聞こえてきた

 

岡山県出身で一度は地元で結婚したが自殺未遂などしてすぐに別れ

 

大阪に出て 進駐軍相手の慰安所で働いた

 

そこで米軍の将校と付き合い

 

将校の転勤で横須賀に付いていた

 

朝鮮戦争が起こり将校は「必ず帰って迎いにくる」の言葉を残し戦地へ

メリーさんは横須賀で米軍の相手の娼婦になり

 

将校の帰りを待っていたが

 

戦争が終わっても帰って来なかった

(一説に寄ると戦争が終わり帰国したらしい)

 

メリーさんは

 

外国船が寄港する横浜に流れ

 

毎日横浜港のメリケン波止場に

白いドレスと日傘を持って

将校の言葉を信じて

二度と帰ってこない将校を迎えに行ったそうだ

 

横浜でも米軍の相手の娼婦を続けながら

将校との結婚を夢見ていたのだろう

いつしか歳を取りいつかは帰ってくるであろう将校の為に顔のシワを隠すように化粧も厚くなり最後は真っ白になってしまった

歳を取ってからは住む場所も無かったらしく飲み屋の入っているビルの踊り場で寝ていたらしい

その姿から不気味がられ

毎日セットに行った美容院も客からの苦情が来て何時しか断られ

お茶を飲みに行けば入店を断られるようになった

 

それでも古からメリーさんを知っている喫茶店などは客がメリーさんが使ったカップで飲むの嫌だと苦情が来たときは

 

メリーさん専用のカップを作り

メリーさんが好きな紅茶を出したそうだ

 

メリーさんの振舞いは無口で大人しく上品で

紅茶を出されると小さな声で

「センキュー」と言ったそうだ

 

元パンパンと

職業的差別も有ったのだろうが

 

それでもメリーさんを差別しない横浜の人達もいた

街角に立ちその姿から客を取れなくなった

メリーさんに

 

地元の地回りの人間やその親分衆達、遊び人、夜の住民達が

メリーさんを見かけると

小遣いを渡すようになり

 

女一人一日食べるには充分な金額になったそうだ 』

 

(メリーさんブログ⇒https://ameblo.jp/dondon-0730/entry-11819895495.htmlメリーさん情報サイト⇒http://yokohamamerry.jugem.jp/?eid=174)

 

動画『横浜メリー 予告編』⇒https://www.youtube.com/watch?v=IK2mNOktA94◎ニッポンの美・俗 Vol.65 横浜メリー (もれぇる博士/朝日楼)⇒https://www.youtube.com/watch?v=0tt21RfbrIA

戦後横浜の繁華街に出没した白塗りの老婆メリーさん。その正体はけっこう切ない。⇒https://www.youtube.com/watch?v=f6NYC8cKB_U

その他メリーさん動画特集⇒https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC+%E8%8B%A5%E3%81%84%E9%A0%83

メリーさん

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%95%E3%82%93

2005年この年にメリーさんがお亡くなりになられたけどこの年に自分は実家に戻ったんですよ。奇遇ですね。―本名が非公開だからメリーさんが亡くなっただけで本名の人は生きていたりして・・・とふと思ったりです―老人ホームの中では厚塗りの白いお化粧無理でしょうから―

東京にもあるいはもしかしたら現在の土地にもメリーさんみたいな人がいるとある意味助かりますよね・・・。―でもうちの母親ってことは絶対無いですよ。だって時々実家に電話をしたけどまず母親がいないってこと無かったから、だけど、そういう風に見せたがっていた何者か達の陰謀は絶対にありそうですけどね―まったく似ても似つかないってことも無いですけどね・・・そのように感じたり見えてしまうのは単なる偶然ではないでしょうか?!―

 

※昔の横浜のF町の接客店のフロント係りをやっていた時、お店で知り合ったコロンビア人の女性のシンディーの顔は、“桜井りあ”に似ている、と書きましたが、厳密に言うと映画キルビルの“ユマサーマン”にも似ていました。いわゆるこの二人の顔のブレンド顔のようでした。

 

※老人ホーム内で撮影したらしいメリーさんのすっぴん顔の写真が見れます⇒https://deskgram.net/explore/tags/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%95%E3%82%93

説明
横浜のメリーさんがお亡くなりになられていたなんて、すごいショック!・・・。について書きました。

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