橋の下のフローリア 第二幕「放浪」編
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 二人は夜通し歩き、明け方に林の外れで野宿をした。

 

 野宿といっても、火を焚く手段もなかったし、体を覆えるような布もなかった。ただ地面の上に寝転がって眠っただけ。

 

 固い地面で体は痛いし、さえぎるもののない屋外では気が休まらないしで、とても疲れていたというのにフローリアはほとんど眠ることが出来なかった。

 

 だがシュツァーハイトは、どこであろうと身を横たえると、数秒のうちで気を失うように眠り、彼女が起こすまで死んだように動かなかった。

 

 彼は元々口数が少ない方だが、どんどん言葉数が減っていった。彼の意識が混濁しはじめているのが、隣で支えるフローリアにもよく分かった。

 

 王都より東に進み、国を脱出すると、国境沿いの町に一晩の宿を借りた。

 

 途中、国内にも宿のある町や民家はあったのだが、旧体制側も新体制側も革命で混乱しているうちに、国境を突破したかった。だから休む間もなく足を進めた。

 

 それに、ボロボロに負傷している彼の姿を人々に見られたら、命からがら王都から逃げ出してきた元貴族だと感付かれてしまうかもしれない。人目は極力避けたかった。

 

 だから宿を借りた時も、フローリアが一人分の部屋を取り、一階の窓から彼を招き入れた。

 

 隣国であろうと革命の波は確かにここにも届いている。わずかも気を抜くことはできなかった。

 

 国境沿いなのでなるべくすぐに動くつもりだったのだが、彼の具合は日に日に悪くなっていった。

 

 ひどく痛めつけられた体を、ろくにまともな手当てもできないまま酷使し続けたため、彼はひどい高熱を出し、意識が朦朧としていた。

 

 彼はたまに虚ろながら目を覚ましたが、ほぼ丸三日寝たきりだった。

 

 フローリアはその町で、彼を看る合い間にたまに町に出て、情報を集めた。人々の会話に耳をすまし、旅人を装い町人と話す。

 

 王宮の襲撃を指揮した革命組織は、そのまま暫定的な臨時政府となったらしい。

 

 旧勢力のなけなしの抵抗も終わり、新体制に向けて動き出しているという。

 

 臨時政府となった組織を裏切った自分。旧体制の象徴的立場である元貴族の彼。臨時政府から手配書が出、追っ手がかけたれたり他国に捜索を依頼されるのも、そう遠くはない未来の話だと思った。

 

 着の身着のままで逃げてきたフローリアは、自分の服を安いものに買い換えたり、装飾品などを売ったりすることで金を作った。

 

 踊り子をしていた時の小物なんかは、本当はそこそこの値段がしたのだが、事態が事態だ。こちらもすぐに金を工面したくて焦っていたし、はした金で買い叩かれた。

 

 それでも、金を得られないよりはましだった。

 

 宿代を工面し、彼の看病に必要な最低限のものを揃えた。包帯。清潔な布。解熱剤。痛み止め。食事だってとらないといけない。

 

 唯一の救いは、片言ではあったが言葉が通じたことだった。

 

 人々の言葉も、母国の言葉のなまりが強くなったと感じるくらいで、たまに分からない言い回しや言葉もあったけれど、基本的に問題なく聞き取ることができた。

 

 だが、文字はほとんど読めなかった。同じ文字を使っているはずなのに、羅列が異なっていたり、文法の考え方が違ったり。そういう時はひたすら口で尋ねるしかなかった。

 

 夜は宿の部屋の床で寝た。

 

 一人用の部屋なのでベッドは一つしかないし、ソファなんて豪華なものはこの宿にはない。

 

 民家からゴミに出されるところだった使い古されたタオルケットを譲ってもらい、それをかけて寝た。

 

 フローリアは、否が応でも、自分が「橋の下」だった頃のことを思い出させられた。

 

 そして何度も自分に言い聞かせた。

 

 大丈夫。大丈夫。生きていける。

 

 こんなことくらい、耐えられる。

 

 シュツァーハイトは、彼が水以外のものをなんとか口にできるようになった頃、うっすら覚醒した意識の中で、「ここを離れよう」と言った。

 

 フローリアは、大丈夫なの、と訊きそうになったけれど、その問いかけが意味を持たないものであることはすぐに分かったので、やめた。

 

 国境沿いの町に長居するのは危険だ。

 

 できるだけ早く、遠く、母国から距離を取りたかった。

 

 

 

 

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 次の町までは距離があった。

 

 宿などはないし、あったとしてもなけなしの金は底を尽きかけている。二人は何度か、火を焚いて野宿をした。

 

 彼の薬代やら、自分の食事代やら。なるべく金をかけないようにと思っても、どうしても削れないところはある。

 

 前の町で譲り受けたタオルケットがあったので、それを敷いたりかけたりして横になった。

 

 眠るのは交互にしなければならない。二人で寝入ってしまえば人の迫る気配に気づけない。夜盗に襲われてしまうかもしれないし、大して持てるものもないが盗みを働かれるかもしれない。

 

 大怪我を負っている彼はすぐには動けないし、抵抗もできない。だから不穏な気配を少しでも感じたら、夜中であろうと何度も場所を移動した。

 

 フローリアもひどく疲れていたが、彼の体のことを考えると、番を代わってもらうために彼を起こすのはためらわれた。でも、自分だって休まなければ身が持たない。自分まで倒れてしまったら、もうどこにも逃げられなくなる。

 

 別に、彼と「一緒に逃げよう」とか約束したわけではないし、彼に「連れていってくれ」と頼まれたわけでもない。

 

 満足に動けない彼の面倒をみるのは、大変だし金もかかる。

 

 彼を連れる義務などない。自分が逃げそびれてしまうかもしれないし、金も尽きるかもしれない。二人で駄目になるくらいなら、彼を置いていくという選択だって、現実的な判断の一つだ。

 

 でも、そもそも彼は、自分を地下牢から助けたせいでこんな目に遭ったのだ。

 

 具合が悪くてそれどころじゃないだけなのかもしれないけれど、そのことを彼に責められたことは一度もない。

 

 せめて、彼の怪我が治るまでは一緒にいよう。こんなことが代償になるのかは分からないが、せめてものお詫びとして。

 

 それに、この状態で彼を見捨てていけるほど、人でなしではない。

 

 助けられる手段がないのと、助けられる手があって差し伸べないのとは全然違う。

 

 彼の体がまともに動くようになったら。

 

 そのあとは、どうしようか。

 

 明日すらどうなるか分からないというのに、その先のことなど到底考えられなかった。

 

 野外で過ごす長い夜をいつも、フローリアは火を見つめながら、ぼうっとしていた。考えてもどうしようもないことばかりで不安になる。それなのに考えてしまうから、考えないように努力した。傍らの彼は死んだように眠っている。

 

 どれだけ辛くても、不安でも、諦めるという選択肢は選べない。この道をリタイヤする権利すら、自分にはない。

 

 

 

 

 

 ようやく次の町にたどり着き、フローリアはそこで一日働いて、宿に泊まる金を作った。

 

 それなりに活気ある町だったので、流れ者でもその日限りの仕事をちょこちょこ見つけられた。彼女の話す言葉はこの国では片言だったし、文字はほとんど読めなかったけれど、持ち前の愛想と適応力、訓練された人当たりのよさで、なんとか働くことができた。

 

 何がどこで役に立つかなんて分からないな、と彼女は思った。

 

 そして例のごとく宿では一人分の部屋を取り、あとからこっそり彼を中に入れた。

 

 昼間は仕事を見つけて働きに出ていたので、夜にはへとへとになっていた。肉体的な疲労は勿論だが、異国の地の慣れない環境や耳慣れない言葉も、彼女を精神的に疲弊させていた。

 

 彼女がここまで走り通しで、それでも体調を崩さずにいられたのは、ギリギリまで張りつめられた緊張感とプレッシャーゆえだろう。

 

 そんな彼女の様子を察してか、幾分か体調がましになってきたシュツァーハイトは、一つしかないベッドだが、狭いけれど隣に寝たらいいと提案した。

 

 彼はほとんど寝たきりだったのでどいてやることは出来なかったが、疲れきった彼女が毎晩固い床で寝息を立てているのは、いくらなんでも忍びなかった。

 

 男の人と一緒のベッドで寝るなんて、という気持ちなんかよりも、圧倒的な疲労感の方が勝っていた。彼女は遠慮がちに、落ちそうなくらいベッドの端で横になると、彼に背を向け、身を小さくして丸まり、すぐに眠りに落ちた。

 

 彼女とベッドを共有するようになってから、シュツァーハイトは夜中に何度か目が覚めることがあった。

 

 彼は体が大きい方だし、一人用のベッドに大人二人で寝るため、やはり狭い。たまに自由が利く方の片足をベッドの端から落としてやったりしていた。

 

 しばらく経ったある日の真夜中。時間も分からない夜の闇の中で、シュツァーハイトは久しぶりに自力で体を起こした。

 

 ガラスのない窓から差し込む淡い月光が室内を照らしていて、彼は初めて、自分はこういう部屋にいたのかと知った。眠っているか天井を見ているかだったので、ここがどんな所で、どういう土地なのかもほとんど分からなかった。

 

 国を出てから今までのこのしばらくの期間のことを、彼はほとんど覚えていなかった。

 

 ひたすら熱と痛みに苦しみ、先の見えない暗闇の中で、癒されない渇きにうめいていたように思う。

 

 彼は自分の左腕に確かめるように触れ、様子を見ながら少し動かしてみたりした。どうやら変な折れ方はしていないようだ。痛みはするが熱は取れたし、もしかしたらヒビが入っているだけかもしれない。

 

 また、後頭部を強打された傷口は、幸い膿むことなく、今はかさぶたになっているようだ。初めは疼痛がひどく何も考えられぬほどだったが、随分よくなってきている。

 

 全身の打撲や、服の下にまで及ぶ皮膚表面の怪我は、動かすとかなり痛みはするものの、しばらく耐えれば治ってくれそうな様子だ。

 

 ボロボロの体を酷使したことによる発熱も、大分ましになったと思う。

 

 ベッド脇のサイドテーブルに水が入ったコップがあったので、久々に自分一人で水を飲んでみた。物をつかむ力が低下している自覚があったので、ゆっくり行動するように心がけた。だが、水を口にした時、角度と勢いに対応できず、一度ごふっとむせた。

 

 コップを戻してから、口周りを手の甲で拭う。

 

 サイドテーブルの奥にある、解熱剤の袋が目に入った。

 

 あれの値段がいくらするのか、シュツァーハイトには大体分かる。そしてそんな物を買えるほどの金を、あの状態で国を出た彼女が持っているはずがないことも分かっている。

 

 それから、彼女の持ち物や装飾品が次第に減っているのも、ぼんやりとした意識の中ながらなんとなく気がついていた。

 

 こいつはどうして俺を捨てていかないんだろうか。

 

 彼女は自分を助けて、組織を裏切り、国から追われることになった。

 

 もしあのまま組織にいれば、功労者として新しい政府の人間になれたかもしれないのに。

 

 隣に眠る彼女をちらりと見つめた。規則正しい寝息に、肩が小さく上下している。背中を向けられているので顔は見えない。シーツの上に長い髪をたゆたわす彼女はぐっすり眠っていて、日々の疲労と、毎晩橋の下で眠っていたという幼少期の過酷な生活を物語っていた。

 

 牢を逃げ出した直後の草原で、彼女は「あなたを見捨ててのうのうと生きていられるか自問したら、無理だった」と言っていた。

 

 でもそれは、牢を抜け出すまでの話だと思っていた。

 

 もし逆の立場だったら、自分は彼女を置いていったかもしれない。いや、置いていったと思う。

 

 自分がこんな体になったのは、完全なる自業自得。今まで自分がしてきたことの報い。これまでの行為への罰を受けてこうなったのだ。

 

 勝手にこんな重傷を負ったやつに構っていたら、自分が追っ手につかまってしまうかもしれないのに、わざわざ面倒を見るなんて。

 

 シュツァーハイトには、彼女の考えていることが分からなかった。

 

 なぜだろう。もしや、彼女は自分に復讐をしようとして機会をうかがってでもいるのだろうか。

 

 そんなことを考えてから、そんなわけはないな、と思った。そんなことのために今、こんなに苦労するくらいなら、普通は見捨てる道を選ぶだろう。ややこしい復讐など画策せずとも、捨て置けばきっとそのままのたれ死ぬ。

 

 それにいくら彼女が元スパイとはいえ、これまでのことを見ていると、自分相手にそんな器用なことができるとは思えなかった。

 

 彼女の考えていることは分からないが、自分にとってこの状況は好都合であることに変わりはない。彼女が自分の傍にいるうちに、早いところ体を治し、一人で活動できるようにしなければ。

 

 彼は自分の掌を見つめ、握ってみた。力はあまり入らないが、きちんと動く。

 

 顔を上げると、月の光が染み込んだ部屋は青く光っている。

 

 フクロウの鳴く声がする。

 

 カーテンもガラスもない窓。硬くて小さいベッド。しみとひびの多い、薄い壁。黒い変色だらけの木の板が張られた床。細かく傷が入っている角の丸いテーブルと、脚の長さが違うがたつきそうな椅子。部屋に充満する、かびたようなほこりの匂い。

 

 シュツァーハイトは、現実逃避をしたいわけではないけれど、自分が今一体どこにいるのか、分からなくなった。

 

 

 

 

 

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 前の町にはかなり長居してしまったので、二人は母国から距離をとる足を急がせた。

 

 だが、その分落ち着いて休めたおかげか、シュツァーハイトは熱も下がり、腕と体の痛み以外はかなり回復をみせていた。

 

 左腕はいまだ布で吊っていたけれど、一人で歩くことができるようになった。体中にあるあざや傷は、服で覆ってしまえば分からなかった。

 

 しばらく野宿を繰り返し、前の町より大分離れた場所に着いた。

 

 小さな村で、そこには宿屋がなかった。

 

 フローリアは、寂れた小さな売店をその日だけ手伝わせてもらっていたのだが、店主の親切なおばあさんが、彼女が泊まるところがないというのを聞き、うちに泊まったらいいと誘ってくれた。

 

 彼女は少し迷ってこう答えた。

 

「ありがとう。でも、村の外れで待たせてる、連れの男性がいるんです。彼は怪我をしているので、傍にいないわけにはいかないし……」

 

 するとおばあさんは、

 

「その彼も一緒に来たらいいよ。怪我人なんだろう? かわいそうじゃないかい」

 

 と優しくそう言ってくれた。

 

 世の中にはこんなに親切な人もいるんだな、とフローリアはクルデリヒに拾われた時のことを重ねて、ありがたく思った。

 

 家はお世辞にも「広い」という言葉には縁がなかったが、小ぎれいだったし、こぢんまりとしていて温かみがある、いかにも田舎の一軒家という感じだった。

 

 ただで世話になるわけにはいかないので、フローリアは家事を手伝い、料理や掃除などをこなした。おばあさんは「店まで手伝ってもらったのに、悪いねえ」と繰り返していたが、フローリアは「いえ、ご飯までいただいたんだもの。このくらいさせて下さい」とにこやかに返していた。

 

 おばあさんは息子夫婦を亡くしており、忘れ形見の孫息子と二人で細々暮らしているという。

 

 その子供は利発そうな顔つきをしており、数多く揃えられた本を何度も繰り返し読んだりして、簡単な学問の心得もあるようだった。食事を終えた居間で、紙に向かって文字の練習か何かをしている。

 

 おばあさんいわく、

 

「わたしなんて結局、この年になっても文字がまったく読めないからね……。この子には立派になってほしくて、お金を出して勉強の先生に見てもらったりしてるんだよ。いつか大きな学校に入れてあげられたらと思ってねぇ」

 

 とのことだった。

 

 フローリアが食事の片付けなどをこなしている間、シュツァーハイトは少年の勉強を見てやっていた。

 

「お兄ちゃん、トスリナ語も分かる?」

 

「分かるよ」

 

「僕、いつかトスリナ文学の勉強したいんだ。ヴェナビア語訳されたものを読んだんだけど、感動したから、元の言葉でも読んでみたいんだ」

 

「トスリナ語はこの国の言語と文法構造がほとんど変わらないから、すぐに習得できる。語尾に独特の変化がつくくらいだ」

 

 かつて王宮で「冷酷者(ルシュレヒタ)」と呼ばれていたあのシュツァーハイトが、田舎の村の子供相手に勉強を教えているなんて。フローリアは少し驚き、おかしく感じていた。でも、平和で微笑ましいな、とも思っていた。

 

 そして。

 

 おばあさんがフローリアに「狭くて悪いけど、二人でこの部屋を使ってちょうだいね」と案内している間のことだった。

 

 シュツァーハイトの隣で紙に文字を書いていた少年が、おもむろに彼を見上げた。

 

 ん、と思って手元を覗き込むと、そこにはつたないトスリナ語でこう書かれていた。

 

『賢いお兄ちゃん。どうしてこの村にいるのか知らないけれど、あのお姉ちゃんを連れて早くここを出た方がいいよ』

 

 文字を読みきったシュツァーハイトは、顔色一つ変えず、その下にトスリナ語で『なぜ?』と書く。

 

『うちにはたまに、旅をしていたり、事情があったりする、きれいな外国の女の人が泊まりに来るんだ。でもいつも、僕が朝起きた時にはどこにもいないんだ』

 

 そう書くと少年は、パラパラとその下にあるいくつもの紙をめくってみせた。

 

 そこには色んな言語で「早く逃げた方がいいよ」というような言葉が書かれている。

 

 シュツァーハイトは理解した。これは今までここに泊まりに来た女性たちに見せられたメッセージだ。だが、文字を読めない一般女性は少なくはない。

 

 自国の文字を読めるフローリアでさえも、他国の文字は分からないと言っていた。

 

 この紙には、少年の届かなかった声がつづられている。

 

 シュツァーハイトは、フローリアとおばあさんが隣の部屋の前で話しているのをちらりと一瞥する。

 

 恐らく、連れに男がいたとしても、自分のような怪我人ならば問題ないと考えたのだろう。眠った彼女を夜中にひっ捕まえ、人買いに売る。ろくに体の動かない男など、寝込みをそのまま殺してしまえばいいのだ。

 

 いつかの時の己のように、恐ろしいくらい冷静に思考が回る。

 

 シュツァーハイトは『教えてくれてありがとう』と、最後につづった。少年は彼を見上げると、少し寂しそうな笑顔でうなずいた。

 

 少年が眠りについた頃。おばあさんにおやすみを告げ、用意された部屋でシュツァーハイトと二人になったフローリアは言った。

 

「良かったわね、今日は屋根のあるところでゆっくり寝られるわ。優しい人もいるのね」

 

 言葉が終わるのを待って、シュツァーハイトは彼女の腕を取り、部屋の一番奥まで連れて行く。

 

 「な、何?」と戸惑う彼女に、しぃと唇の前に指を立ててみせ、彼女の耳元に口を寄せてささやいた。

 

「早くここを出る準備を。急げ」

 

 フローリアは彼が何を言っているのかさっぱり分からなくて、いぶかしげに小首をかしげてみせる。

 

「あのばあさんは、お前を人買いに売るつもりでこの家に招いたんだ。あの少年が忠告してくれた」

 

 部屋の外で聞き耳を立てられているかもしれない。シュツァーハイトは十分に用心した小声で、彼女に簡潔に説明した。

 

 フローリアは、信じられない、という顔をしていたが、彼がこんな嘘や冗談を言う人間ではないことはよく分かっている。

 

 それに確かに、あの寂れた小さな商店の利益のみで子供に家庭教師をつけたり、あんなに何冊も本や学問書を用意したりはできないだろうなと不思議に思っていたのだ。

 

 動揺する彼女に「だから、早く」とうながす。

 

 数少ない荷物の類は、シュツァーハイトがさりげなくこちらに部屋に運んでおいた。それらを手早くまとめると、極力物音を立てぬようにして窓から逃げ出した。

 

 こんな日に限って夜中に雨が降り出して、フローリアは自分の溶けかけた心が急速に冷え固まっていくのを感じていた。

 

 冷たい雫が肌を打つ。それだけのことなのに、立っていられなくなるくらい痛く感じた。

 

 頬を伝う雨の筋に、涙が混じる。景色がにじむ。

 

 せっかく、いい人だと思ったのに。人の優しさに、家族の暖かさに、触れられたと思ったのに。

 

 思い出せば思い出すほどに、心が辛くて仕方ない。

 

 これまでこらえていたものも重なって、流すつもりなんてなかった涙が止まらなくなる。

 

 石畳が雨に濡れて、わずかな数の村の家屋の明かりや、軒先のランタンが鏡のように地面に映りこみ、道が明るく光っている。

 

 しょうがない、しょうがない。

 

 フローリアは目の前の彼の背中を追いながら、何度も自分に言い聞かせた。

 

 昔はもっと過酷な生活をしていたはずなのに。人に出し抜かれること、裏切られることなんて当たり前だったはずなのに。こんなこと、なんとも思わなかったはずなのに。

 

 フローリアは思った。

 

 人は、心の痛みに慣れたりなんてできないのね。何度も傷ついてそれを学んできたはずなのに、いつも忘れちゃうんだから、不思議ね。

 

 雨音に混じる、背後から聞こえる抑えたすすり泣きの声に、シュツァーハイトは彼女の手首を引いた。泣いてもわめいても、今はここから離れるために歩くしかない。

 

 

 

 

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 二人はまたひたすら歩いた。

 

 あの革命の日から大分経った。早いところ、この隣国を抜けてしまいたかった。

 

 大小いくつもの町を、東に向かい転々とする。

 

 シュツァーハイトの腕は問題なく動かせるほどに回復し、力仕事でなければそれなりに働くこともできた。

 

 たまに仕事のつてやちょっとした縁で、外国語の簡単な翻訳や、正式な書面を作成する依頼をされることがあって、その時は結構な金になった。

 

 周りは、これだけの語学や知識に精通している彼が一体何者なのかと驚いていたが、亡くなった両親が知識階級だったので、とだけ言った。余計なことは話したくなかったし、話せなかった。

 

 そういう依頼をこなすと、よく、金は相応に支払うのでこのままうちで働いてくれないだろうか、と言われることがあった。

 

 彼だって落ち着けるのならそれが一番だと思ったが、ひとところに長く留まることができない、人には言えない理由がある。それに、きちんと仕事としてこういうことをやっては、目立ってしまう危険性もある。

 

 そう言ってもらえて嬉しいけれど、行かなければならない場所があるので、と毎回丁重に誘いを断る。

 

 行かなければならない場所なんてない。むしろ、それがあってくれたならどれだけありがたいことか。

 

 目的地もなく、どこまで行ったらこの当てのない旅が終わるということもなく。働いても働いても、逃げても逃げても、穴のあいた袋に水を入れ続けているような終わりのない疲労感と、自分がすり減らされていくような磨耗感がする。

 

 体はまともに動くようになったが、シュツァーハイトはまだフローリアと、この当てのない旅路を共にしていた。

 

 なけなしの身銭を切り、自分の面倒を見てくれたのは、彼女が勝手にやったこと。だが、それに見合うくらいの返礼をしてから離れてもいいだろう。その方がなんとなく後腐れがないように思えた。

 

 それに彼女も、これからの道中について特に何も言い出さなかった。

 

 

 

 

 

 また早々に旅立った二人は、小さな林の中で、もう何度目か知れない野宿をしていた。

 

 焚いた火を挟んで向かい合う二人は黙っている。安定のない日々に疲れ、少しやつれているようにさえ見える。パチパチ音を立てる焚き火の方がよっぽどお喋りだった。

 

 シュツァーハイトは大怪我から回復するまでに大分体重が落ちたし、元々細いフローリアももう少しやせたようだった。

 

 夜空には無数の星たちがきらめいていたけれど、天を仰ぐ気力のない二人には関係ないこと。林の木々の奥の暗闇が、二人を四方から取り囲んでいる。

 

 長い沈黙のあと、ふと、シュツァーハイトが口を開いた。

 

「お前は、歌はやらなかったのか?」

 

 突然何を言い出すのかと思い、フローリアはきょとんとしてしまう。

 

 そして、ああ、踊り子だった頃の話か、と理解した。

 

「踊りはできたけど、歌はあんまり上手くなかったのよ」

 

 小さな吐息まじりにそう言う。

 

 あれだけ素晴らしい舞いを披露できる彼女が、歌は下手だなんてにわかには信じがたくて、シュツァーハイトは言った。

 

「試しに何か」

 

 フローリアは、「え、えぇ〜」と恥ずかしさをにじませて戸惑っていたが、少しためらったあとに小さく口ずさんだ。

 

『……全てを差し出しても――あなたをなくすことだけが怖いのよ――』

 

 城下で流行っていた、チープな歌詞の恋の歌。

 

 シュツァーハイトはこの曲を知らなかったが、不意に思い出した。

 

 このメロディは、以前聞いたことがある。

 

 王宮にいた頃、宮殿の最上階の執務室で、ホールから流れてくるこの曲を聴いた。窓を開けると、薄暗い部屋に、ゆるやかな夜風と共にこの音楽が入ってきた。

 

 今もその時と同じく夜風が吹いているけれど、感じるものは全く違っていた。

 

 これまで職務中はずっと手袋をしていたが、この放浪生活で手の白さは大分失われたと思う。

 

 文字を読む時、何かを書く時、つい癖でモノクルをはめようとしてしまう。そんな高価なものを今の自分が持っているわけがないのに。

 

 彼女の歌声に耳を澄ます。

 

 別に下手だとは思わなかった。きっと、歌に比べて踊りの腕が秀ですぎていたんだろうな、と察した。

 

 踊りの舞台など、彼女の以外はほとんどまともに見たことはなかったし、彼女の舞台でさえ遠くから少し見た程度だ。でも、彼女の舞いがあれだけ多くの人々の心をとらえるわけはすぐに理解できたし、そういったものの心得がない自分にも、彼女の持つ踊りの才能はよく伝わってきた。

 

 彼女はもう、踊りの類は全てやめたと言っていた。

 

 どうして、と尋ねたら、「舞いを披露すればお金になるかもしれないけど、噂が広まったりしたら逃げてる意味がないでしょう?」と述べた。

 

 彼女の言う通りだった。

 

 踊りたいと思わないんだろうか。あの夜彼女は、舞いはスパイ活動のためだけでなく、こういうのが好きなんだと言っていた。

 

 彼女から一番輝ける場所を、舞台を奪ったのは、組織なのか、国なのか、民衆なのか、それとも、自分なのか。

 

 シュツァーハイトは傍にあった木の枝で、彼女には分からない外国語で地面に「悪くない」と歌の所感を書いてから、すぐに足で消して、先に眠った。

 

 目を閉じると、まぶたの裏に、いつかの彼女の舞台が浮かび上がった。

 

 磨り減っていく体と心の中に、彼女の歌声の響きが残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

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 またしばらくの放浪のあとたどり着いた町は大きかった。ここはこの国の首都である。

 

 町並みはレンガ色の屋根と漆喰の白い壁で統一されていて、訪れる人々はまるで自分たちが絵画の中にいるようだとさえ思えた。

 

 町の小路は蟻の作る巣のように細く曲がりくねり、二十歩以上まっすぐ進めば壁に当たってしまう。

 

 中心地には歴史ある大きな城が建っていて、建物の先の方には数え切れないほど多くの尖塔が、天に向かい伸びている。故郷の建築物とは全く異なる趣向。

 

 人々がたくさん集まる地は、情報も多く、仕事もある。

 

 人が多いのは何かと危険ではあるが、二人はここに宿を借り、しばらくまとまった金を稼ぐことにした。

 

 今までの道中、完全に金が尽きたことはないが、仕事が得られず、金銭面の不安でピリピリして過ごす時期は何度かあった。

 

 この先何があるか分からないし、少しでも金を貯めておきたかった。

 

 一人、仕事を探そうと町を歩いていたシュツァーハイトは、巨大な城をその足元から見上げた。白い雲が泳ぐ濃い青空を突き刺すようにそびえ、先のほうは高すぎてうかがえない。

 

 晴れていて暖かいが空気は乾いていて、彼はしばらく、大きな雲の作る影の中に立っていた。

 

 王宮にいた頃、この国の政府とも色々やりとりをしていたから、何度かこの国に宛てて書簡や文書を作成したことがある。自分がこんな城に手紙を送っていたなんて、自分の書いたものがこの城の中にあるなんて、なんとなく信じられなかった。

 

 ふと、シュツァーハイトは自分に近づく気配に気づき、視線を戻した。

 

 すると目の前には。

 

 腰まであった長い髪を、ばっさり肩まで切ったフローリアがいた。

 

 毛先が肩に触れるくらいで、首を傾けると白い首筋が少し覗いた。

 

 彼女は自分に薄く微笑んでいる。

 

「……切ったのか」

 

 シュツァーハイトがそう一言だけ言うと、フローリアは「うん」と浅くうなずいた。

 

「人が多いところだし、ちょっとでも見た目を変えたほうがいいかなと思って。あと、野宿する時邪魔だしね。前から切りたいと思ってたのよ」

 

 そうペラペラと饒舌に理由を重ねる彼女は、彼に説明をしているというよりも、自分に言い聞かせているように見えた。

 

 シュツァーハイトは「そうか」とだけ言って、二人はまた別れた。

 

 

 

 

 

 フローリアはこの町で過ごすしばらくの期間、ある飲食店の裏方を手伝った。

 

 彼女に仕事を求められた店主は、彼女の顔立ちと愛嬌を評価し、是非給仕として店に出てほしいと頼んだのだが、申し訳ないけれど、とそれは辞退した。

 

 国中から沢山の人々がやってくるこの町の店では、どんな人に顔を覚えられるか分からない。

 

 開店前や閉店後の清掃、食材の仕込みの手伝い、厨房の雑務などをやらせてもらった。飲食店だと残飯や腐りかけの食料を貰えたりするので助かった。

 

 ある昼下がり、来客のピークをようやく越えた頃。

 

 フローリアは空の酒瓶が入った大きな木箱を両手で抱えて、近所の酒店まで運んでいた。

 

 町は朝から晩まで絶えず賑わっていて、こうした昼間なんかは芸人が広場や路上でパフォーマンスを披露していたりもする。

 

 ある大通りに差し掛かった時、そこにある大きな劇場が目に付いた。飾られた看板の文字は読めなかったけれど、恐らく今夜行われる演目のタイトルだろう。

 

 軒先には小さな野外の特設ステージが組まれていて、出演者とおぼしき華やかな女性が、道行く人々を舞台に誘うように歌っていた。

 

 私なんかが誘われているわけじゃない、と分かっていたけれど、その明るい舞台に足が自然と止まった。

 

 歌う女性は長い髪をふわふわと巻き、そこに鮮やかな色の花を飾っている。薄く紅が差された頬。まぶたの上にはキラキラと光る粉が塗られている。長い爪は赤く塗られ、身にまとう衣装にはオーガンジーがあしらわれて、光沢が美しい。

 

 フローリアは胸がきゅっとなった。

 

 音楽は好きだし、人の芸を見るのも好きだったはずなのだけれど、今はあまり見たくない。

 

 自分のみじめな格好と、日の当たらない場所を思う。

 

 あかぎれの多い、皮膚がザラザラして固くなった手と、白くなって欠けやすい爪。国を出てから、持っていたわずかな装飾品を売ったり、服を何度か安いものに買え変えたりした。昔から着ているものもまだあったけれど、厳しい旅路ですっかり古くなり、くたびれている。化粧なんてもうどのくらいの期間していないだろうか。

 

 別に、踊りなんてスパイの技術の一つだったはずなのに。

 

 もっと昔なんて、名前すら持っていなかったのに。

 

 フローリアは思う。

 

 持つものがない時は、持てるものがないことを悲しいと思っていた。

 

 でも、持つものがあると、それが奪われたり汚されたりして悲しいと思ってしまう。

 

 あってもなくても苦しい。

 

 生きることはこんなにも難しい。心は自分の中にあるはずなのに、全然自分の思い通りになんてならない。いつも他人に手を突っ込まれて、心の中を無遠慮にかき回される。

 

 フローリアはステージで歌う女性に、小さく歌声を重ねた。

 

『あなたのゆく先が悪夢だとしても、私を一緒に連れていって――』

 

 昔、好きだった流行りの歌。今は歌うと辛さが増した。

 

 

 

 

 

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 その日、フローリアはなんだか心が寂しくて、夜遅くに仕事を終えると、宿に帰る道を急いでいた。

 

 一人でいると精神的にグラグラしてしまって、落ち着かなかった。なんとなく、誰でもいいから人に会いたかった。人と一緒にいたかった。

 

 足を進める町並みには、この時間帯でもまだ人がいたというのに、彼女の人恋しさは全く紛らわせなかった。

 

 朝から晩まで丸一日の労働でへとへとのはずだったが、早足で宿の部屋に戻る。

 

 だが、部屋に灯りはともされておらず、シュツァーハイトの姿もなかった。

 

 少し、ドキリとした。

 

 最低限の彼の荷は置いてあるし、彼も仕事の終わりがとても遅くなることはままある。

 

 それでも、心臓が跳ねた。息が苦しくなった。

 

 彼がいなくなってしまったのかと思った。

 

 いなくなってしまった?

 

 フローリアは考える。

 

 別に、彼と共に放浪する約束なんてしているわけじゃない。突然いなくなったとしても何らおかしくはない。

 

 そう頭では分かっていても、なんだか落ち着かなくて、ベッドに腰掛けドキドキしながら彼を待っていた。

 

 そして、彼はそのあとすぐに部屋に帰ってきた。

 

 フローリアは戸の開く音にぱっと立ち上がって、「お疲れさま」と彼に伝えに行く。

 

 シュツァーハイトは、自分が部屋に戻っただけなのに、彼女が珍しく駆け寄ってきたので、「何かあったのか?」と警戒した。

 

 フローリアは「特に何もないけど」と返す。本当に、特に何かあったわけではない。

 

「遅かったのね」

 

 と彼女は言う。

 

 しかし彼は、

 

「そうか? いつもとそれほど変わらないと思うけどな」

 

 と首をかしげた。

 

 彼女の様子が何となくおかしい。変なことを言う。

 

 それに、彼女の澄んだ瞳はわずかにかげっている。

 

 今夜の彼女は、まるで風にあおられるか細い蝋燭の火のようだと思った。このまま風に揺らめき、身を削がれて消えてしまいそうにさえ見えた。

 

 何かがあったのかもしれないが、彼女も自分から話さないようだし、何も訊かなかった。

 

 彼女の問題は自分がどうこうできることではないだろうし、必要以上の余計なことに踏み込むような関係でもない。

 

 もし何か大事な事項であれば、自分から言ってくるだろう。

 

 

 

 

 

 彼女が持ってきた飲食店の料理の残りを食べ、寝る。

 

 灯りを落とした部屋。暗闇にすぐ目が慣れる。木材の匂いがする。活気ある町の宿は人が多く利用するためか、少し換気したらかび臭さやほこり臭さは気にならなくなった。

 

 今まで泊まった宿の中では、ましな方だと思う。

 

 それでもシュツァーハイトはなかなか寝付けなかった。それはベッドの硬さや狭さのせいだけではないと分かっていた。

 

 疲れたから、と早めに横になった彼女に視線をやる。

 

 相変わらず二人は、安く済む一人分の部屋を借りていて、夜は小さなベッドで背を向け合って、身を小さくして眠っていた。

 

 一瞬、彼女が呼吸をしていないように見えて、上半身を起こして彼女の寝顔を覗き込む。小さく丸まって寝息を立てている。

 

 何を馬鹿なことを。

 

 人はそんな簡単に、死んだり消えたりなんてしない。

 

 彼はそう自分に言い聞かせたが、さっき確かにドクンと心臓が大きく波打って、全身を不安に包まれた感覚は、なかなか忘れられなかった。

 

 シュツァーハイトは背中をベッドの上に戻したが、今日はなんとなく、彼女の方に体を向けて寝た。別に、反対を向いて寝ろと彼女に言われたわけじゃない。

 

 それに、ずっと同じ方向ばかり向いて寝ていると、首も肩も痛くなる。そう考えながら、彼は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 翌朝、フローリアが鳥の声と共に目覚めた時。いつもより体が温かい、と感じた。

 

 朝方は空気が冷えるので、いつも薄っぺらいデューベイ(羽毛布)を鼻先まで引き上げて耐えていたくらいなのに。

 

 その温かさの正体がなんなのか、寝起きのぼんやりとした頭だったがすぐに分かった。

 

 彼の片腕が、自分に覆うようにかけられている。

 

 一瞬でまどろみも吹き飛ぶほどに驚いた。

 

 この彼が意識的に変なことをしようとするわけはないし、今までこんなことは一度もなかったけれど、寝相なのだろうか。まさか彼が自分相手に血迷ったりするなんてありえないだろうし。

 

 背中を向けているので、彼の顔はうかがえない。でも、耳を澄ますと小さく寝息が聞こえる。腕がここにあるのだから、こちらを向いて眠っているのだろう。

 

 フローリアは考える。

 

 疲れていると寝相が悪くなると聞いたことがあるし、ここ最近二人とも毎日朝から晩まで働いている。自分もすごく疲れているし、きっと彼も疲れているのかもしれない。

 

 すぐに腕をどけるとか、ベッドを抜け出してしまってもよかった。

 

 けれどフローリアはそのままの体勢で、朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気中のごく小さなほこりが金色に浮かび上がらされているのを、じっと見つめていた。

 

 人の体ってこんなに温かいんだ、と思った。それと、私よりこの人の方が体温が高かったりするのかな、とも思った。

 

 そして、男の人の腕ってこんなに重たいんだな、と考えてから、少しだけまた目を伏せた。

 

 

 

 

 

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 歩き続け、ついに二人は更に隣の国へと抜けられた。

 

 建物の作りや人々のまとう衣服、物の意匠や配色にいたるまで、母国とは全く異なる。二人にとってここは「別世界」と言い飾れるほどだった。

 

 この国の更に東部には大きな砂漠があるらしく、そこから渡ってくる風は確かな熱を持っている。暑さがあり、太陽が近いように感じる。だが、乾燥地帯なのでべたべたとした空気はない。

 

 東洋の文化と西洋の文化がモザイクのように混ざり合ったこの都市は、異国情緒に満ちている。赤レンガ造りの家々は、壁面を原色の青や黄色に塗られていた。

 

 よく見ると違和感の多い町並みなのだが、そのごったさがこの都市の魅力でもあった。

 

 母国の隣国を抜けられたことで、二人には少しだが安心感もあった。

 

 シュツァーハイトは現在の母国の情報を集めてみた。人の多い酒場でしばらく聞き耳を立てていれば、あちこちから人々が集まるこの都市で、調べられない情報はなかった。

 

 どうやら母国はあれから、旧臨時政府を中心として新政府が発足し、新しい国づくりに奔走しているそうだ。

 

 あの時捕縛された貴族の多くは牢の中でなぶり殺されたが、生き残った者たちは現在、新政府による公開処刑を待っているという。

 

 また、外国の手を借り国外に逃亡を図った貴族らもいるようだが、新政府は可能な限りその身柄の引渡しを要求し、彼らが国外に持ち出した財産の返還を求めていくらしい。

 

 それらの話を聞いても、シュツァーハイトは何とも思えなかった。

 

 どこか別の世界の話、物語の中の話のようにさえ思えた。

 

 それより、今日をどう生きていくか。明日はどこへ行くのか。そればかりを考えていた。

 

 弱い酒を不純物で更に薄めたようなまずい酒を飲み干して、酒場を出た。

 

 

 

 

 

 フローリアはこの都市で、新しい服を一式得た。

 

 体の締め付けの少ないこの国の服は風通しがよく、それでも皮膚に受ける日差しはきちんとさえぎっている。

 

 踊りを捨て、髪を切り、服装もすっかり変わってしまうと、自分を自分たらしめるものとは一体なんなんだろう、と思う。

 

 今の自分は何を持っているのだろう。

 

 多くの人は、そして自分も、忘れがちなことだけれど、服も、容姿も、金も、ずっと変わらず持てるものではない。いずれ古くなったり、壊れたり、変わっていったり、少なくなったり、どこかへ行ったり。

 

 ずっと変わらず同じものなんて、見た目でさえもそんなことはありえないのに。毎晩夢を見るたびに、意識でさえも途切れるというのに。どうして自分を自分と思えるんだろう。

 

 名前? 職業? 信念?

 

 人々は何をもって、自分をずっと自分だと思えているんだろう。

 

 私は何をもって、自分を自分だと信じ続けられているんだろう。

 

 フローリアは石階段を上り、外れにある小高い丘にのぼった。

 

 巨大な夕日が地平線に溶けている。

 

 この当てのない旅路で、失ったものや手放したものはたくさんある。

 

 でも、一つだけ。別に自分の所有物ではないけれど、ずっと変わらず傍にあるものがあった。

 

 フローリアは自分を呼ぶ声に振り返る。

 

 この場所で落ち合う約束をしていたシュツァーハイトが、こちらに足を進めてくる。同じく異国の服を身にまとい、彼のはおった前開きのローブが、丘からの風を受けてゆったりと空気をはらんでいる。

 

 この人は、いつ、いなくなるんだろう。

 

 彼の怪我が治るまで、と言っているうち、別れる契機を逸し、彼も何も言い出してこない。

 

 気づけば心に抱く疑問は、どうしてずっと一緒にいるんだろう、から、いついなくなってしまうんだろう、に変わっていた。

 

 夕日の強い光を低い位置から受け、自分を見つめる彼の顔半分に濃い影がかかる。

 

 もうずっと昔のことのように感じる、初めて宮殿で出会った時のこと。恐ろしい目をした人だと思った。見つめ返していると魂を取られそうだとさえ思った。

 

 今はそんなこと、欠片も思わない。それは彼が変わったからなのか、自分に変化があったからなのか。

 

 完全に安心できるわけじゃないけれど、もう二つも隣の国に来た。今は、金銭的にもさほど困っているわけではない。

 

 なのに、なぜか不思議と、彼と離れることを想像すると胸がきゅっと苦しくなる。

 

 身勝手な話だ。

 

 彼が大怪我を負い、こんな形で国を追われ、有能だったのにもかかわらず日陰者に身をやつすことになったのは、自分のせいだってあるというのに。

 

 彼は、私と別れたらどこに行くんだろう。

 

 私は、一人になったらどこに行くんだろう。

 

 いつか彼が別離を告げてきた時、どこへでもいいから一緒に連れていって、と頼んだら彼はどう答えるだろう。

 

 目の前に立つ彼は口を開いた。

 

「行こう」

 

 フローリアはうなずく。

 

 本当は、先を行く彼の腕に触れたかったけれど、我慢した。

 

 ギリギリまであふれかけている、気づいてはいけない愚かしい想いに蓋をするように、足を踏み出した。

 

 

 

 

 

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 次の町に着くまでに、丁度いい位置に宿がなく、久々に何度か野宿をした。

 

 この辺りは木々は少なかったが、夜になってもあまり冷えないのが幸いだった。

 

 初めの頃に比べたら、二人とも随分屋外で夜を明かすことに慣れた。

 

 昔は野宿をするたび、みじめで不安な思いをしていたものだ。今は火を囲んで、腰を落ち着けてから交互に眠るまでに、ぽつぽつと色んな話をするようになった。

 

「最初は暗号みたいだと思ったんだ。選ばれた人にしか分からない。だから解読するのが楽しい。謎解きのような感覚だった」

 

 彼が地面に木の枝でガリガリと文字を書きながら話す。それは彼の習得している数多くの言語についての話だった。

 

「それに、近隣国なら言語は完全に違うってわけじゃない。単語なり文法なりが似通ってるんだ」

 

 フローリアは、焚き火を挟んで向かい合う彼をじっと見つめて、話を聴いていた。

 

「多分、大昔はここ一帯に大きな一つの国があったか、もしくは中心になるような高度に発達した国があって、そこの文化が広がって独自に変化したんだろう」

 

 彼は地面に書いていた、フローリアには分からない国の言葉を足で消すと、枝をぽいと脇に投げた。

 

「だから、恒久的な国の区分なんてないと、俺は思う。戦争で殺しあう敵国同士も、憎みあう他国民も、元々一緒の国や集団だったかもしれない。もしかしたらこの先、仲の悪い国同士が一つになる可能性だってあるということだ」

 

 そう喋りきってから、ちらりと、正面に座る彼女に視線をやる。

 

「……お前、興味のない話だと露骨に相槌が軽くなるな」

 

「そう?」

 

 これでも結構聴いてた方なのよ、と苦笑いを交えて言い訳する。

 

 シュツァーハイトは「別に構わないが」と吐息を漏らすと、視線だけで彼女に話のバトンを渡す。

 

 フローリアは、何を話そうかな、と少し視線を宙にさまよわせる。

 

「ええと……私に踊りを教えてくれてた先生が言ってた話なんだけどね」

 

 彼女は語る。

 

 彼女の踊りの先生は、かつて町で敵うものはいないと言われた人気の踊り子だったという。かなり昔に引退して、それからは指導する側に回ったそう。

 

「先生が繰り返し言ってたことなんだけど、『頭で演じようとしてはいけない』んですって。でも、感じるままに動いた方がいい、なんて抽象的で感覚的なものじゃないのよ。そうだとしたら練習の必要自体なくなっちゃうんだから」

 

 フローリアは練習時代のことを思い出すようにふわっと立ち上がり、あの宮殿での舞台と変わらぬバランス感覚で爪先立ちしてみせる。伸ばされた指先はあの時と同じようにしなやかに動く。

 

「勿論、頭を使わずひたすら繰り返して覚えるっていうのは、効率も悪いし、楽しくないし、あんまり賢い方法ではないんだけど」

 

「では、なぜ?」

 

 彼女を見上げて、シュツァーハイトが相槌を打つ。

 

 フローリアは真っすぐ前の暗闇を見すえていて、まるで前に客席がうかびあがって見えているかのようだった。

 

「大舞台で緊張するとどうしても、意識してしっかりやらなきゃ、って思うでしょう? でも、普段練習してる時って、意識しなくても体が勝手に動くのよ」

 

 そう言ってトンッ、とほとんど音を立てずに地面を蹴り、優雅に跳躍してみせる。

 

「それは体が覚えてくれてるからなんですって。いつもは体が自然と、無意識のうちにやってることを、慣れてない頭が意識してやろうとすると、失敗しちゃうのよ」

 

 シュツァーハイトは彼女のゆるやかな腕の動きを目で追う。とろとろと流れる湧き水のようだと思った。

 

「例えば、呼吸をしようと意識すると途端にうまくできなくなっちゃったり、歩こうって意識しすぎると動きがぎこちなくなっちゃうみたいな。だから、練習するだけしたら、あとはもう体が動くままに任せるのよ。余計なことは考えずに」

 

 そう舞いながら話しきったフローリアは、話がひと段落するとしなやかに一礼した。

 

 舞っている時の動きと普段の動きは全然違うんだなと、この近い距離で見てシュツァーハイトは思う。

 

 そして彼は言った。

 

「そうか。だからお前は頭を空っぽにするのが得意なんだな」

 

「どうしてそういう結論になるの」

 

 フローリアは軽く頬を膨らますと、彼の隣に回って、背中を小さな拳で叩いた。

 

 核心をつくような話題や、暗くなるような昔の話は避けた。気まずさを呼ぶし、無意味に辛くなるだけだ。

 

 ここしばらくで、彼女は結構笑うようになった。明るくなったと、シュツァーハイトは思う。彼女が元気になるのなら、この他愛もない会話を繰り返すのも悪くない。

 

 

 自分の背を打った彼女がそのまま隣から動かなかったので、その夜は並んで焚き火を眺めた。

 

 ちょっとした気分の差か、戻るのが面倒だったのか、別に何も考えてはいないのか。

 

 その日は真横から彼女の声が聞こえてきて、なんだか不思議な感覚がした。でも、ちらと横を向いたとき彼女の姿がすぐ近くにあるのも、悪くはないと思った。

 

 だからなんとなく、次に野宿した時も、彼は彼女の隣に座った。

 

 

 

 

 

 そのうち、深い話題に触れることもあった。

 

 ある小さな町の宿で、眠りにつこうと灯りを消した。部屋が一瞬で暗闇に落ち、それから外の夜空の明かりが注ぎ込んで、室内が淡い銀色に浮かび上がる。

 

 その間を二人は無言ですごし、フローリアの体が意識を手放そうとした時。

 

 何の前触れもなく、ぽつりと彼は言った。

 

「今まで俺は、必死に生きている人たちを、どれだけ踏みつけてきたんだろう」

 

 フローリアは薄闇の中でそっとまぶたを開けた。

 

 一つしかない狭いベッドの上で、彼の方に背を向けて動かない。フローリアは彼の声だけを聴いていた。もしかしたら彼は、自分に向けて言っているのではないのかもしれない。彼自身に向けて話しているのかもしれない。そう思って、黙っていた。

 

「……誰のことも押しやらずに生きてきた人などいないと思うし、他にもっと他人を踏みつけている人もいるかもしれない。でも、それを引き合いに出すのは違うと思う」

 

 室内には、彼の搾り出されるような吐露の言葉だけが、男の低い声だけが響いていて、不思議な感じだった。目を閉じると、どこが上でどこか下か分からなくなるような。

 

「それでも、俺も、必死に生きてきた一人なんだ……」

 

 フローリアは慰めの言葉をかけなかった。彼に否定も肯定もしなかった。

 

 でも、心の中では、彼がそのことを深く考え、気にしているのならば、きっと大丈夫と思っていた。口にはしなかったけれど。

 

 シュツァーハイトは暗闇の中で、彼女の気配を探った。

 

 自分の声に動かない彼女は、もしかしたらもう眠ってしまっているのかもしれない。

 

 隣に眠る彼女は今、自分のことをどう思っているんだろう。罪を重ねてきた自分を、人々の生活や人生を蹂躙してきた自分を、許してくれているのだろうか。

 

 こんな風に考えていること自体、調子がよすぎるのかもしれない。

 

 それでも、彼女に否定されることを、拒絶されることを考えると、胸が締め付けられるかのように辛く、何より恐ろしかった。

 

 

 

 

 

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 国境沿いの町から街道を歩いた。

 

 道を行きかう人の多くは、強い日差しに下を向かされている。

 

 砂漠が近づいたのか、空気に熱風を感じる。足元の砂はどれも乾き、粉のようにサラサラしていた。

 

 どこが入り口でどこが出口か分からない、何のために作られたのかも分からない、巨大な石造建築物がごろごろある。ものすごく古い遺跡なんかも、当たり前のようにそこらじゅうにあったりした。

 

 そして二人は、この地域では貴重な、水辺に発達した都市にたどり着いた。

 

 大きな泉を取り囲むように広がる町。黄土色の砂岩でできた建物の一帯は、朝日の光が注ぎ込むと黄金色に輝いて見えた。

 

 太陽を避け、夜に出発するつもりで、日中をその都市で過ごした。

 

 夕刻になると町はにわかに騒がしくなり、今日は年に一度の祭りの日だということを知った。人々の話を聞いてみると、水の神様に感謝を示すための儀式を行うのだという。

 

 日が沈みきり、それでも日中の熱の名残で空気が暖かい宵の口。

 

 都市の真ん中にある泉に祭壇が組まれ、そこに置かれたいくつもの色彩豊かなランプに灯がともされる。水色やピンク色、薄い緑色など様々な灯りが、ゆらめく水面に映り込む。

 

 いつもはわんぱくに走り回っている子供たちも、不思議な力にとりつかれたかのように静かにそれを眺めていた。

 

 丁度発とうとしていた二人だったが、フローリアが「近くで見たい」と言うので少しだけ足を止めた。

 

 自然的なものではなく、人工的に作られたもの。こんなに幻想的で美しいものが人の手で作り出せるなんて。

 

 フローリアの口から、思わず言葉がこぼれる。

 

「きれいね……」

 

 本当は、そんな言葉で表しつくせるようなものではなかったのだけれど、それ以上の表現が分からなかったし、この場で言葉をいくつも重ねることは無粋に思えた。

 

 シュツァーハイトは言う。

 

「最後に見たでかい火が、宮殿が燃えてるところだったからな」

 

「もう、冗談になってないわ。あんなのと一緒にしないで」

 

 フローリアは口をとがらせると、軽く彼の腕をはたいて注意したが、そのあと彼女は黙ってじっと、吸い込まれるように目の前の景色を見つめていた。

 

 勿論、感動の表現が苦手なだけで、思っていることが顔に出にくいだけで、シュツァーハイトもこれはとてもきれいだと思っていた。水の上に火がくべられているという不思議な光景。それが水面に鏡のように映り、黒い夜の泉がまぶしく光っている。

 

 でも。

 

 ふと、視線だけでうかがい見た隣。無数の灯りに照らされた彼女の横顔の方に、気づけばじっと見入ってしまっていた。

 

 彼女の瞳にキラキラと光が溶け込んでいる。

 

 最初に宮殿で出会った時は、大人びた濃い薔薇色の口紅を引いていた。

 

 今の彼女は全く化粧をしていないけれど、淡いピンク色をした素の唇だって、背伸びをしていなくてとても可愛らしいと思った。

 

 と、そう考えてしまってからシュツァーハイトは、自分は何を言っているんだろうと思う。

 

 何となく罪悪感がして、彼女から目を逸らした。とっさに片手が口元を覆う。

 

 別に声に出して何かを言ってしまったわけではないのに、気恥ずかしくなった。

 

 最近、自分はおかしい。変な時がある。

 

 彼女が笑ったり怒ったりするのが見たくて、わざと柄にもない冗談を言ったり。他人に聞かせるようなものでもない、自分の中で完結すべきことを、延々と彼女に話したり。

 

 もう、子供じゃないんだから、分かっている。

 

 自分は彼女が好きだ。

 

 もっと話したい、話を聞きたい、聞いてほしい。どんな反応をするのか知りたい。彼女に自分を受け入れてほしい。彼女の全てを、自分だけに許してほしい。

 

 長い旅路の中で気づいてしまった。もうどうしようもないくらいに、この気持ちがとめられないことを自覚している。

 

 でも。

 

 こんな勝手な想いを、どうして告げることができよう。

 

 彼女が今、こうして姿や立場を昔と全く変えて、自分と共に放浪しているのは、組織を裏切ってまで自分を牢獄から助けたからだ。才能ある、大好きだった踊りができなくなってしまったことも。

 

 表面では笑っていても、内心では自分のことを恨んでいるのではないかと考えると、彼女に伸ばしかけた手を、いつも引っ込めざるを得なかった。

 

 こうやって共にいるのだって、外国の言葉や地理の知識のある自分に利用できる価値があるから、一緒にいるだけなのかもしれない。

 

 自分を利用するなんて器用なことが彼女にできるとは思えなかったけれど、彼女が自分自身などを必要としてくれているなんて、もっと思えなかった。

 

 今は、彼女が自分の傍からいなくなってしまったらと想像するのが、一番怖い。多分、自分が命を落とすことよりも。

 

 馬鹿にしていた安い歌詞の恋歌みたいに、本気でそう思っていた。

 

 彼女がそっと振り返り、彼を見上げて、静かに口を開く。

 

「そろそろ行きましょう」

 

 名残惜しそうな目で、彼女は薄く笑ってみせた。

 

 ゆらめく光が、彼女の柔らかそうな頬を照らす。

 

 彼女がそれで喜ぶのならば、きれいな火くらい、いつまでもゆっくり見させてやりたいと思う。

 

 けれど、今の自分にそんな力はない。

 

 それでも。

 

 彼は彼女に伝えたかった。

 

 

 

 

 

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 流浪を続ける二人は、賑やかな商業都市にいた。

 

 路上には物売りが隙間なくひしめきあい、屋根代わりに布を張った小さな店たちは、狭い間口に所狭しと商品を並べている。

 

 香水の入ったガラス製の小瓶。天然石のあしらわれた指輪。複雑な紋様に染められた布。金色輝く大きなイヤリング。

 

 どれも目にまぶしく、フローリアは、色がうるさい、なんて初めて思った。

 

 人々が集まるところは仕事も多い。

 

 しばらくの時をそこで過ごすことにし、また朝から晩まで働いていた。

 

 ここまで母国から離れると言葉はほとんど分からなかったのだが、話せなくとも意外とどうにかなったし、シュツァーハイトに色々教わったりして少しずつ知識を増やしていった。

 

 夜も深くなると流石に街中も静かで、フローリアがのんびりと宿に戻ってきた時、まだ彼の姿はなかった。

 

 ランプに灯りを入れ、二つあるうちの片方のベッドに腰掛けた。

 

 シュツァーハイトの提案で、最近はちゃんと二つベッドがある部屋を借りている。流石に疲れている時に気を遣いながら寝るのは体に堪えるし、最初より慣れてきたとはいえ、やっぱり男性と一緒のベッドで寝るのは緊張する。

 

 金がなければそんな贅沢なことは言っていられないが、幸い今は旅にも慣れ、やりくりや仕事を見つけるのも上手になった。多くはないがある程度貯蓄もできるようになった。これくらいは必要経費だと、フローリアも思う。

 

 飯屋で働いたのでその余りものなどをもらい、自分の分を食べきってしまうと、物の整理などをしながら彼を待った。

 

 少し遅いな、と思っていると、部屋の扉が開いて彼が戻ってきた。

 

「お疲れさま。どうかした?」

 

 彼を見上げると、なんとなくいつもと雰囲気が違って見えた。

 

 彼は言葉を返すことなく、持っていた最低限の荷をもう一つのベッドに投げると、なぜか彼女の座る隣に腰を下ろした。

 

 わけも分からず、フローリアは彼の顔を見つめ、きょとんとしている。

 

 彼の表情はいつもと変わらぬものだったのだけれど、これまでずっと行動を共にしてきたフローリアには、何か少し緊張しているのかな、と感じられた。

 

 体を彼女の方に向け、シュツァーハイトは口を開く。

 

「髪を除けて」

 

 言われるがままに、首筋にかかる髪を片方に寄せる。

 

 すると彼の手が迫ってきて後ろに回り、鎖骨にヒヤッとした感覚を覚えた。いきなり近づかれて、反射的に顔が赤くなってしまったので、今が昼間でなくて本当に良かったと思う。

 

 そして彼が身を離してから自分の胸元に視線を落とすと、海を閉じ込めたような色をした、綺麗な石のついたネックレスがかかっていた。

 

 装飾品なんて、国を脱出した時に金に換えてしまってそれっきり、長いこと一つも持っていなかった。

 

 もう踊り子をしているわけではないし、着飾る必要もない。それに今は化粧もしていないし、服だって決していいものを着ているわけではない。今の自分は到底着飾るに相応しくないからと、そういうことはずっと諦めてきた。

 

 指先を綺麗な石に触れさせ、ネックレスに見入ってしまっていると、シュツァーハイトが「よく似合う」と口にした。

 

「私に、買ってきてくれたの?」

 

 驚き戸惑いながらも、頬が熱くなる。

 

 彼はうなずく。

 

「……どうして?」

 

 恐る恐る、上目遣いに彼をじっと見上げる。この質問をしてもいいのかな、でも気になるし、と心の中に葛藤があった。

 

 見つめ返す彼の眼差しが、優しく自分に注がれている。

 

 胸は苦しいくらいにドキドキしているのに、不思議と嫌じゃなくて。

 

 心を締め付ける痛みは甘く、心地よく広がる。もっと強くこの痛みを感じたいとさえ思えるくらいに。

 

 彼は言う。

 

「どうしてだと思う?」

 

 けして試すようにではなく。言葉にすることがためらわれるからこそ察してほしい。理由を考えてほしい。そして、受け入れてほしい。

 

 目元だけが少し微笑むように、切なげに細められている。

 

 距離が詰まったわけでもないのに、お互いしか見えなくなるような感覚がした。

 

 フローリアは彼のこの贈り物の意味が分かって、それでも彼を見つめ返す。彼女の瞳の色が切なさを帯びる。

 

 そして。彼の指先がそっと、優しく彼女の右頬を包む。

 

 もうずっと昔のことのように思える宮殿での夜。あの威圧的な暗い目で、強引にあごをつかまれた時の指先とは、全然違う。

 

 嫌だったらこの手を振り払って、と彼の眼差しが語っている。

 

 でも、振り払ったりなんてするわけがなかった。彼女だって、この彼の手を、ずっと欲しがっていたのだから。

 

 彼の体重移動で、一人用の古いベッドはギシリと音を立てる。

 

 所在無げに指先で空を掻いた彼女の左手を、彼の右手が手首ごと包み込む。

 

 鼓動が走り、吐き出す息が震えそうになるのをこらえた。

 

 そして二人はどちらからともなく、唇を重ねた。

 

 最初は許否を問うようにそっと触れ合わせ、それから、互いの唇の柔らかさを確かめ合うように、夢中で。

 

 母国からどれだけ離れたか分からないこの異国の地で。

 

 身を削るような放浪生活で、沢山のものを無くしながら。

 

 それでも今、一つだけ、初めて手にはいったものがある。

 

 絶対に手放したくはない唯一のもの。

 

 自分が自分だと分からせてくれるもの。

 

 

 あなたが傍にいてくれるのなら、きみをつれてどこへだって行ける。

 

 

 夜は更ける。星ははじける。

 

 

 

 

 

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 幾許かの時が過ぎ、二人は遠く離れた地を旅していた。

 

 故郷とは全く異なる服装に身を包み、人々が信じる神もまた違っていた。

 

 フローリアの髪は、元通りとは言わないまでも、また長くのびた。

 

 二人はそこで、母国の新政権が崩壊したことを知った。

 

 もともと反政府組織の連合だった新政権が権力争いで内部抗争を起こしたとも、あの時王宮を脱出できた貴族の生き残りたちが画策したとも、いつまでも安定しない国内情勢に不満を持った新たな反抗分子たちのせいとも、様々言われている。

 

 シュツァーハイトいわく、今まで圧倒的権力で押さえつけてどうにかなっていたものをたった数年で共和制に移行させるなんてことは、とても難しいだろうという。

 

 新政府首脳陣には、身の安全のため姿を暗まさざるをえなくなった者もかなりいたそうだ。

 

 フローリアは少しだけクルデリヒのことを思ったけれど、空中に煙が撒かれるかのように、すぐに頭から消えた。

 

 二人は母国が再度崩壊したことについて、しばらく何も言葉を交わせなかった。

 

 自分たちを追い出してまで行われた革命が、出来上がった新しい政府が、守りたかった国が壊れてしまったこと。

 

 でも、もうずっと長いこと、遠く遠く離れ、正直なところなんとも思っていない自分もいる。

 

 相手はどう思っているんだろう。

 

 互いのことを考えるからこそ、気安く未来を口にはできなかった。

 

 確かなことは、とりあえず、これ以上放浪の旅を続ける必要はないということだ。すぐには実感が湧かなかったけれど、自分たちを追う勢力はなくなったのだから。

 

 そんなある日。

 

 シュツァーハイトは、彼女にふいにこう言った。

 

「ここで暮らそうか」

 

 彼の指先が、フローリアの髪をすく。

 

「住む家を持って、二人の帰る場所を作りたい」

 

 それは、何も持たない、行く当ても帰れるところもなかった二人が、ずっと切望していたものだった。

 

 けれど、瓦解の知らせをうけてすぐだ。もしかしたらまだ何かあるかもしれないし、そうしたらすぐにここも動かなければならない。

 

 それでも、フローリアは微笑んで深くうなずいた。

 

「私たちの、新しいふるさとを作りましょう」

 

 シュツァーハイトは彼女の腰を抱き寄せると、片腕の中に収め、鼻筋を髪にうずめた。

 

 そしてフローリアも、彼の首に強く両腕を回した。

 

 今はまだ、かりそめであってもいい。

 

 途方もなく遠いこの異国の地で。できるだけ長く、平穏が続いてくれることを祈る。二人が一緒にいられる生活を希う。

 

 今は燃え尽きた豪奢な宮殿で出会った、「冷酷者(ルシュレヒタ)」と呼ばれた男と、貧民街で生まれスパイとして育てられた女。

 

 この二人がこんなにも強く愛し合うことを、どうしようもなく互いを必要だと求め合うことを、誰が予想できただろうか。きっと、二人をここまで押し流した時代の波でさえも、考えられなかったことだっただろう。

 

 そして。まだ誰も気がついていないことだが、二人の未来を願う彼女の体には、新しい小さな命が息づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

(終わり)

説明
※本作は、『橋の下のフローリア』 第一幕「王宮」編(http://www.tinami.com/view/989784)
の続きにあたるお話です。

踊り子として王宮に忍び込んだスパイの女、フローリア。
王宮で周囲から「冷酷者」と呼ばれる貴族の男、シュツァーハイト。
やがて民衆たちによって国に革命が起こされ、二人の男女は時代の荒波に押し流される。
はるか遠くの異国の地にて、何の因果か逃避の旅路を共にすることになった二人。
自分という存在は何なのか考えながら。自分の罪と向き合いながら。二人は当てもない流浪の中で惹かれあっていく。


(2015年執筆・完結済み・他小説投稿サイト&自ブログにも掲載しております)
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