連理の契りを君と知る episode5「花の過去」
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 誠一郎がいつものように椿月に会うため劇場を訪ねたとき。出演者楽屋などが並ぶ関係者通路一帯はやけに人の出入りが多く、慌しかった。

 

 各所から「あったか?!」「書類庫も全部開けて探して! 衣装室も!」などと、焦りに追い立てられている声がする。

 

 一応は館長に許可を得てここまで来たものの、これだけの取り込み中なのであれば出直したほうがいいだろうか、と思ったのだが。

 

「誠一郎さん?」

 

 立ち尽くしていた誠一郎に声をかけたのは、劇場での姿をした椿月だった。

 

 首筋が露(あら)わになる長さで切り揃えられた栗色の舞台用かつらを身につけ、化粧に彩られて素顔を忘れさせるほど大人びた顔。

 

 今日は舞台用のドレスではないが、優美さを感じさせるサテン地のワンピースに身を包んでいる。むき出しの細い肩を寒さからかばうように、厚手のガウンが羽織られていた。

 

 椿月は本当の姿を劇場関係者にもほとんど明らかにしていないため、たとえ出演出番がない時でも、劇場では普段からこの姿でいることが多い。

 

 誠一郎は挨拶代わりに会釈してから、

 

「何かあったんですか?」

 

 と尋ねる。

 

 周囲の慌てぶりとは対照的に椿月は落ち着いていて、彼女はこの騒動とは無関係なのだろうとは察せられた。

 

「劇場で保管していたある台本が、数頁(ページ)失くなっちゃったんですって。多分、持ち運んだり作業したりしてるときに、知らぬ間に抜け落ちてしまったんじゃないかと思うんだけど」

 

 それだけでこんなに大勢が慌てふためくものだろうか、と誠一郎が疑問に思っていると、椿月が言葉を続ける。

 

「実はそれ、今度ほかの劇場と合同でやる舞台のものなんだけど、今日が台本をお渡しする日なのよね。しかも、わざわざあちらの看板役者さんが、挨拶がてらここまで受け取りにいらしてくださるらしいの」

 

 そこまで聞いて、ようやく劇場関係者らの慌てぶりが理解できた。

 

「でも、台本の原本はあるんですよね? それを急いで書き写せば良いのでは?」

 

 至極当然の疑問に、椿月は首を横に振る。

 

「それがね、原本が英語の洋書なのよ。前に翻訳家の方に頼んで日本語にしてもらったそうなんだけど、それごと失くなってしまったみたいで」

 

 そう言って彼女は、真っ赤な唇を憂鬱そうにとがらせる。

 

 なるほど、たしかにそれは人手を総動員して死に物狂いで探すしかないだろう。誠一郎はそう思った。

 

 だが同時に、もう一つの救える手立てを自分が提示できることも分かった。

 

「あの。数頁ならここでやりますよ」

 

 その唐突な言葉の意味が分からなくて、椿月は彼の顔を見上げて小首をかしげる。

 

「辞書と、部屋を貸してもらえるなら、その失くなった頁の分だけ訳します。間に合うかは分かりませんが」

 

「あなた、そんなことできるの?」

 

 まばたきで長いまつげを何度も揺らしながら、見つめる視線の先の彼に尋ねる。

 

「話せませんし、聞き取れませんけど、読み書きなら多少は」

 

 誠一郎の申し出に、椿月はすぐに周りの劇場関係者に声をかけた。

 

 周りは渡りに船とばかりに彼の提案を歓迎し、あれよあれよという間に形が整い、それから誠一郎は数時間がっつりと劇場の一室に缶詰になることになった。

 

 休憩をはさむことなく作業しつづけたが、結局仕上がったのは期限時刻直前のことで、周りの人間たちはずいぶん肝を冷やされたようだった。

 

 誠一郎も、職業柄、机に向かって一つのことを作業し続けるのは苦手ではないが、それでも扉の外から感じる重圧にはかなり神経をすり減らされた。

 

 結局この日は、この騒動に大半の時間を割かれ、椿月とはほとんど話すことができないまま帰ることになった。

 

 久々に会うことができたというのに残念ではあったが、それでも、椿月の活躍する大事な劇場の助けになれたし、何より彼女に「ありがとう。とても助かったわ」と感謝してもらえたのでそれはそれで良かったのだが。

 

 

 

 

 

 

 その日の暮れ。

 

 所用で劇場を出ていた神矢が、誠一郎と入れ替わるように戻ってきた。

 

 神矢は控え室で今日の騒動の話を椿月から聞くと、驚いて目を見開いた。

 

「え。じゃあこれ全部、先生が訳してくれたのか?」

 

 机の上に広げられた何枚かの紙を拾い上げ、神矢はまじまじと見つめる。

 

「『読み書きなら多少はできます』って言ってたわ」

 

 傍に座る椿月が何の気なしに、言われた言葉をそのまま答えるも、神矢は「いやいや」と言葉を挟む。

 

「こんなの“多少”で出来るものじゃないだろ」

 

 パラパラと紙をめくりながら、神矢はつぶやく。

 

「うわ。センセーって、めちゃくちゃ達筆なんだな……。書道でもやってたのかな」

 

 紙には誠一郎が書いた文字が数多く羅列してあるが、悩みながら文章を組み立て、時間に追われてもいたというのに、急ぎながらも確かにその文字は形が整っている。

 

 神矢の言葉に椿月も改めて横から覗き込んでみる。椿月は正直、どういう字が上手くてどういう字が上手くないのかという違いはあまりよく分からないのだが、そんな彼女でも、周りの人や自分のそれと比べて、彼の筆遣いが達者であることは何となく感じられた。

 

 神矢は紙の束を机上に戻すと、腕を組んで首をかしげる。

 

「深沢センセーってさ、何もないようでいて意外と謎が多いよな。外国語も書道も独学じゃ限界があると思うけど、暮らしぶりを見てると、そんなに裕福とかってわけでもなさそうだし」

 

 ウウムと目を伏せて考え込む神矢だったが、椿月はその疑問に乗るつもりはないようだった。思案するようにに少しだけ眉をひそめてみせたが、それでも穏やかな表情のまま、こう語る。

 

「うーん……。そうね、そうなのかもしれない。でも、私はね、全部をさらけ出すことだけがすべてじゃないと思うの」

 

 彼女の言葉に、神矢は閉じていた目を薄く開く。

 

 思い出すのは、椿月と初めて出会った頃のこと。木々が色づき、木枯らしが吹く、ちょうど今くらいの季節。

 

 あの頃の、彼女は。

 

「……まあ、そうだな」

 

 懐かしい昔の一場面を想起した神矢の口から、自然と同意の言葉が出てくる。

 

「私も、思い出したくないことや言いにくいことはあるし。それでも、誠一郎さんといる時間が……好きだし……」

 

 最後の方は、自分でも言っていて恥ずかしくなったのか、ごにょごにょと聞き取れないような小声になる。

 

 誠一郎と椿月の双方から本音を聞いている神矢としては、内心で「俺じゃなくて本人に言えばいいのに」と呆れていた。

 

 椿月は、癖のように手の中でもてあそんでいたベロア地の小さな巾着を、両手で抱くようにそっと握りしめる。布越しに硬い手応えがする。

 

 袋の存在に気づいた神矢が、空気を変えようと話題をそちらに逸らす。

 

「それのお返し、するんだろ?」

 

 椿月はほんのり耳と頬を赤くさせると、「うん」と控えめにうなずく。大人の色香漂う女優の姿に似つかわしくない、本当の彼女が顔を出す。

 

 おもむろに巾着の中から取り出したのは、美しいとんぼ玉が飾られたかんざし。中には金箔やら何やらが贅沢にあしらわれている。

 

「何度見ても高そうなかんざしだな……」

 

 神矢がそう言うのももっともなことで、たしかにこれは相当に高価な品だ。駆け出しの作家に過ぎない誠一郎が自分の財力で贈れるような品物ではない。

 

 これは、色々な縁があり、椿月のもとに誠一郎からの贈り物としてもたらされたものだ。厳密に言うと直接的に彼が贈ったわけではないのだが、それでも結果としては彼がくれたものということに代わりはない。

 

 誠一郎は事情を詳しくは語らなかったが、椿月としてはこれは、彼が何かをした代償として自分のもとにやってきた物だと確信している。

 

 彼からもらった大事な贈り物を、なるべく傍に置いておきたくて。かんざしを挿すことができない劇場内でも、こうして小袋に入れて衣服の下に隠したりしてこっそり携帯している。人に知られたら気恥ずかしいので隠していたのだが、ずっと巾着を持ち歩き、何度もそれを眺めたり触ったていたため、神矢にはすぐ気づかれた。

 

「ねえ。男の人への贈り物って何がいいのかしら? 私、今までこういうことしたことないから、全然分からなくて」

 

 事情を知る唯一の人、しかも誠一郎と同年代の男性として、椿月としては神矢の意見を頼りにしたいところなのだが。

 

「だから、俺が前から言ってるように、自分を丸ごとってのが一番――」

 

「もう、辰巳のバカ」

 

 大人びた顔を少女のように赤く染め、彼の軽口をたしなめるしかない。

 

 そんな恥じらう彼女を見つめながら、ずいぶん元気になったものだと、神矢は彼女の過去の姿を重ねながら思った。

 

 

 

 

 

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 劇場での一件から数日後のこと。

 

 誠一郎は雑居ビルの一室を訪れていた。ここには彼が世話になっている出版社が入っていて、頼んでおいた小説用資料の受け取りがてら、打ち合わせを行うためだ。

 

 すりガラスの間仕切りの奥に通され、担当の編集者と相対する。その編集者は誠一郎と同年代の男性で、誠一郎の以前の師匠の一件の後、うちで小説を書いてみないかと声をかけてくれた人だった。

 

 応接机の上に資料をばらばらと広げられ、これで十分か確認を求められる。誠一郎がそれらに目を通してしばらくすると、編集者は唐突にこう切り出してきた。

 

「……深沢先生の作品は、デビュー作こそあまり華々しい評価ではありませんでしたが、最近は徐々に人気が出てるんじゃないかと私は思うんですよ。先生の原稿が載る号は、先生だけが要因とは言い切れませんが、普段より売れ行きも良いですし」

 

 突然の褒め言葉に、一体この言葉のあとに何が続くのだろうと、誠一郎は反射的に身構える。だが。

 

「そこで、ですね。別紙でもう一本ばかし連載を持ってみませんか?」

 

 その後に続いたのは、思わぬ良い話だった。二つ返事で引き受ける。

 

「おお、良かった。ちょうど一枠空きが出来そうで、私としては先生を推したいと思っていたんです。読者層的には、前の『恋情語り』みたいな感じで……。どうでしょう、いけますかね?」

 

 「恋情語り」は恋に悩む男性の心情をえがいた小説で、男性からの共感よりも女性からの反響が大きかったそうだ。

 

 自分が何を書けるのか、書きたいのか迷走していた時期の作品だったので、これによって今後の執筆の方針が少しは定められたように思う。

 

 誠一郎は少し思案したのち、「はい」と返事をした。幸いにも、そういうことに関して書きたいと思う内容は、以前よりも蓄積されている。

 

 まだ作家の卵にもなりきれていなかった頃の自分は、まさか将来自分が恋愛に関わる小説を書いているとは思いもしないだろうけれど。これもきっと、彼女との出会いが自分を変えた結果なのだと、感慨深く思う。

 

 そんなことを考えながら、ふと視線を机の隅にやると。資料の紙の束の間に小さな紙が挟まっていることに気がついた。

 

 気になってそれを取り出してみる。

 

「あっ、すいません! それ、前の来客者の名刺です。資料とは関係ないです」

 

 編集者が言うより早く、誠一郎はその名刺の名を読んだ。

 

 見たことも聞いたこともない男の名前だったが、肩書きからどこかの会社の社長と言うことが分かった。出版社にはおよそ縁のなさそうな業種だが。

 

 記載されている会社の所在地は、ここからだいぶ遠い。

 

「置きっ放しにしてたみたいで……。いや、その方はですね、私が対応したんですけれど、人探しをしてるとかで突然訪ねてこられたんですよ」

 

「人探しで、出版社に来たんですか?」

 

 当然の疑問に、編集者も困ったように眉根を寄せる。

 

「そうなんですよねぇ。聞くところによると、興信所にも依頼してるそうなんですが、自分でも聞き込みをしたりして探しているみたいで。『事件などでこの名前が報じられたりしていたら、教えてほしい』と言われて……。うちは新聞社じゃないっていうのに」

 

 そうぼやいてから、彼は誠一郎にも一応尋ねておく。

 

「探しているのは『ミヤマ』という名の男だそうなんですが、先生は聞いたことありませんか?」

 

 ただでさえ交友関係が狭く、知人友人も少ない、おまけに人の顔や情報を覚えるのが苦手な誠一郎に心当たりがあるはずもなく。「残念ながら」と、首を横に振るしかない。

 

「ですよねぇ。まぁ、もし万が一名前を聞いたりしたら、良かったら一応ご連絡ください。御中の“御”に、“山”と書いて、御山(ミヤマ)だそうです。この都市にいることは確かみたいなんですが……。ああ、それから、娘が一人いるとか。分かってるのはこのくらいだそうです」

 

 この都市にはあまりに人が多いので、それだけの情報で一人の男を見つけ出すのはかなり難しいだろう。手当たり次第に毎日百人に尋ねたとしても、目的の人物にたどり着けるかどうか。

 

「わざわざそのために上京してきているみたいで。なんだか必死こいて探してるみたいですよ」

 あまりに途方もない人探しなので、とりあえず心に留めておこうと誠一郎は思った。

 

 

 

 

 

 一方その頃。

 

 椿月は一人で繁華街を訪れていた。

 

 休みの日を利用して、もう幾度目かの誠一郎への贈り物探しだ。

 

 せっかくの男性の知り合いなのに神矢の意見は参考にならないし、昔からずっと劇場にいるため、相談ができそうな同年代の女の子の友達などもいない。

 

 だからこうしてたまの休みや稽古の合間に一人で街に出向いては、ガラス張りの飾り棚を見つめ、店先を覗き、あれにしようかこれにしようか、いややっぱり考え直そう、を繰り返しているのだった。

 

 でも、すごく頭を悩ませてはいるのだけれど、嫌な気持ちというわけではなくて。どちらかというと、不思議なことだが幸せを感じる。贈り物を選ぶときというのは、贈る相手のことをずっと考えていられるからかもしれない。

 

 そして今日もこうして、ある雑貨屋にて陳列棚と見つめ合っていると。

 

「……ふふっ、すごく悩んでるわね」

 

 ふいに声をかけられた。

 

 椿月が視線を上げると、店員の娘が満面の笑みを浮かべている。その笑顔は商売用のそれというだけではなさそうだった。

 

 動きやすいよう髪を一本に束ね、たすき掛けで着物の袖をまとめ、帆前掛けを腰でキュッと締めた活発そうな娘。そばかす顔が人懐っこさを感じさせる。

 

 椿月より一つ、二つほど年嵩であろうその彼女は、突然話しかけたことを詫びてから、

 

「大事な人への贈り物ですか?」

 

 と、店員らしくにこやかに尋ねた。

 

 椿月は反射的に頬を赤く染め、「ええ」と小さく首肯する。

 

「やっぱり! ずっと見ていて、何となくそうじゃないかって思ってたの」

 

 そういう性質(たち)なのか、それとも椿月が歳の近い娘だから気を許しているのか、彼女は気を抜くとすぐに砕けた口調になってしまうようだ。

 

 感情表現豊かな娘は、祈るように両手を組んで語ってみせる。

 

「うらやましいわぁ。あたしも恋愛とかしてみたいんだけど、周りに全然男の人がいないのよね〜」

 

 椿月は彼女の熱に少々気圧されながらも、同年代の女の子とこんな風に話せる機会などなかなかないので、貴重な会話の機会を嬉しく思った。早速訊いてみる。

 

「贈り物をもらってね、そのお返しがしたいの。どういうものがいいのかしら」

 

「そうねぇ……。彼が好きなものとか、彼の役に立ちそうなものを考えてみたら?」

 

 彼女の意見を受けて、椿月が黙って考えこんでいると。

 

 じいっと椿月を見つめていた娘が、急にこんなことを言ってきた。

 

「あなた、ちゃんと顔を見てみたらすっごく可愛いじゃない! お人形さんみたいってよく言われない?」

 

 またまた彼女の勢いに圧倒されつつ、椿月は「い、いいえ」と首と手をプルプルと横に振る。謙遜ではなく、本当に言われたことはないのだ。理由は明確で、普段はもっぱらこの姿で過ごしていないからなのだが。

 

「ウソォ?! 周りは何をやってるのよ……。どこかのお嬢様とかでもないの?」

 

 「お嬢様だなんてとんでもないわ」と椿月は苦笑いを浮かべるしかない。

 

「それで、そんな可愛らしいあなたが慕っている殿方は、一体どんな方なの?」

 

 身を乗り出すようにしてワクワク尋ねてくる彼女。

 

 人とこんなことを話すのは初めてのことで、椿月は少しどぎまぎしつつ、気恥ずかしいけれど、それでもこんな話ができることが嬉しくて。

 

 同性で同年代の気安さも手伝って、ぽろぽろと言葉が出てくる。

 

「ええと……。見た目はね、その、背丈はこのくらい大きいかな。眼鏡をかけてて、本が好きで、物静かな人で……」

 

 他に何を説明したらいいかしら、と迷ってふと窓の外に視線を向けると。

 

「……あら?」

 

 ちょうどこんな話をしている最中だったので、一瞬見間違いかとも思ったが、店の向かいの往来を、たしかに見覚えのある男性が歩いている。袴姿に防寒用の羽織りを合わせ、片腕に書類鞄を提げている。

 

「誠一郎さん?」

 

 椿月の口からこぼれた言葉に、店員の娘はまさかの偶然を察して窓にへばりつく。

 

「うそうそっ!? あっ、もしかしてあの御方? やだ、格好良いじゃない〜。スーツ姿が洗練されていて素敵だわ」

 

「あ、そっちじゃなくて、その向こうの着物姿の……」

 

 椿月が正しい方を指し示すと。

 

「……うーん。あの方にあなたはちょっともったいなくない?」

 

 彼女の言葉の温度の下がり具合から察するに、それは本音だし、世間の率直な意見であるのだろう。でも椿月は今までそんなこと考えもしなかったので、正直面食らった。

 

 そうこうしているうちに、誠一郎は視界から消えようとしている。椿月は娘に相談に乗ってくれたことの礼を言い、店を飛び出した。

 

 

 

 

 

 一人で歩いている時の彼の歩調はかなり早い。椿月は小走りで彼の背中を追いかけ、彼の名を呼んだ。

 

「誠一郎さん」

 

 振り返った彼の目が、驚きで見開かれる。

 

「奇遇ね。さっきお店にいたら、あなたらしき人が通りかかったから、追いかけてきちゃった。人違いじゃなくてよかった」

 

 そう言って、息を整えた椿月がほほえむと、誠一郎は「そうでしたか」と嬉しさを押し殺して返事をした。

 

「お買い物ですか?」

 

 そう尋ねられて、椿月は一瞬動揺しながらも、「ええ、まあね」とごまかした。誠一郎への贈り物を探していたと気づかれるわけにはいかない。すぐに話を逸らす。

 

「誠一郎さんは何をしていたの?」

 

「出版社に打ち合わせに行って、帰るところです」

 

 それを聞いて、椿月がこう提案する。

 

「ねえ。もしこのあと時間があるなら、せっかく会えたんだし、少し歩かない? 近くのイチョウ並木が今の時期ちょうどきれいなんだって、館長が教えてくれたの」

 

 誠一郎は一も二もなくその誘いを快諾する。このあと本当に用事はなかったのだが、もしあったとしても勢いですっぽかしてしまっていたかもしれない。

 

 誠一郎は歩みの速度を先ほどまでよりかなり緩め、彼女の隣を歩く。

 

 椿月がお喋りする話を聞きながら、誠一郎はこの僥倖(ぎょうこう)をかみしめていた。見下ろす彼女の髪には、見覚えのあるかんざしがキラリと光っている。

 

 世間のほとんどが労働に精を出す真昼間ともなると、街の外れをふらふらとしている人も少ない。秋の静けさが場を満たし、色づいた葉たちが風でこすれ合い、寄せては返すさざなみのような音を奏でている。

 

 背の高い木々に見下ろされるようにしながら、二人は落ち葉の敷き詰められた通りに足を踏み入れた。

 

「わあ。館長が言ってたとおりだわ。本当に見事な紅葉ね。一面真っ黄色」

 

 椿月が感嘆の声を上げる気持ちもよく分かる。誠一郎は「そうですね」と同意した。

 

 本当ならもっと、自分も感動の言葉を並べたほうが良いのかもしれない。でも、紙の上ならともかく、自分の口をついて出させるとなるとなかなか難しくて。

 

 それでも、椿月は満足げにほほえみを返してくれる。

 

 彼女が笑いかけてくれると、それだけで不思議と心が満たされる。

 

 ゆっくりとこの空間を楽しみながら、並木道を進む。秋の澄んで冷たい空気が、鼻から抜けて肺に満ちる。

 

 二人はしばらく歩いたあと、傍にあった長椅子に腰掛けた。視界には池が目に入り、鏡面世界のようにイチョウ並木を逆さまに映し出している。人気のなさも手伝って、どこか幻想的な空気がかもし出されていた。

 

 池には列をなした鴨が音も立てずにすいすいと泳いでいたりして、椿月が「誠一郎さん、見て。かわいい」と楽しそうに声をあげる。さっきと一言半句違わないが、「そうですね」と答えた。こっそりいだいている「そう言う椿月さんのほうが……」という言葉は、心の奥底に押し込まれて絶対に口からは出てきそうにない。

 

 その時。はらはらと天からイチョウの落ち葉が降ってきた。ちょうど、椿月の長い下ろし髪に着地する。

 

 気づいていない彼女に代わって、誠一郎が手を伸ばしてそれを取ってやる。

 

 一瞬だけビクッとした椿月だったが、すぐ事態を理解しておとなしく目を瞑った。

 

「取れました」

 

 誠一郎が除けたイチョウの葉を見せると、椿月はそれよりも気になるあることに目がくぎづけになる。

 

「……それは、ペンだこ?」

 

 誠一郎の右手の中指、第一関節付近の左側がぼこりと膨らんでいて、指全体で見るとまるで折れたように曲がって見える。

 

 これまで彼の手をまじまじと見ることなどなかったので知らなかったが。

 

「不恰好なので」

 

 そう言って誠一郎が隠そうとしたところを、椿月の手が先にとらえる。

 

 あまり見て欲しくないので本当は強引にでも引き戻したいところだが、椿月の手を振り払うことなどできるわけもなく。誠一郎の骨張った右手に、椿月の白くほっそりとした両手が添えられる。

 

 たしかに、お世辞にも見栄えが良いとは言えない。腫れて折れ曲がったような大きなペンだこの出来た指は、彼自身もいびつだと思っているし、乾燥によるものか手触りもガサガサとしていて、部分的に赤らみ、皮膚が硬い。なにぶん男一人で暮らしているので、水仕事だって避けられない。

 

「すごいのね……。痛くないの?」

 

 柔らかな指先が、彼の大きな手をいたわるように優しく撫でる。

 

「昔からなので、慣れました」

 

 彼女に触れられていると、上質な羽ぼうきでそっと払われるような心地よさを感じる。

 

「そうなの……。誠一郎さんは、どのくらい前から小説を書いているの?」

 

 そう尋ねられて、そういえばこんなささいなことでも、話していないことは結構あるものだなと実感する。

 

「もともと幼い頃から本を読むことは好きでしたが、自分でちゃんと書き出したのはそんなに昔のことではないです」

 

「そう。それでもこんな風になるのね……」

 

 さすられる手の感触に幸福を感じながら、誠一郎は思う。過去を振り返ってみるとこのペンだこは執筆活動のせいだけではないのだが、話がややこしくなると思ったので黙っておくことにした。

 

 しばらくして、椿月の手が誠一郎の手から離れていく。誠一郎はとても名残惜しく思った。

 

 ふと、椿月がポツリと尋ねる。

 

「ねえ……誠一郎さんって、好きなものとかってあるの?」

 

 いい機会なので、自然を装って探りを入れてみたのだ。

 

 誠一郎は「好きなものですか……」と考え込んでから、

 

「本ですかね」

 

 と答えた。

 

「うーん。じゃあ、欲しいものとかは?」

 

「それも、本ですかね」

 

 ついこの間、自分も同じような質問を彼女にして探ろうとしていたというのに何も感づかない誠一郎も、なかなかに鈍感な男である。

 

 あまり踏み込んだことを聞いて察せられても困るので、椿月は渋々ながらこの辺りで引くことにした。話題を変える。

 

「最近、小説の調子はどうなの?」

 

 彼女の問いかけに、誠一郎は先ほどの出版社でのやりとりを思い出した。

 

「……悪くはないと思います。手前味噌ですが。それに、椿月さんのおかげで、書ける幅も広がったような気がするんです」

 

「私の?」

 

 目をぱちくりさせる椿月に、誠一郎は「ええ」とうなずいてみせる。

 

 これまで椿月は、誠一郎からの頼みで一度も彼の著作を読んだことがない。だから、細かいことはよく分からない。それでも、優しげな笑顔を浮かべる。

 

「そう。良かった」

 

 そして、

 

「いつか、読ませてね」

 

 と言葉を足す。

 

 誠一郎は「はい」と答えた。

 

 抜けるような秋晴れに映える黄色を、二人はずっと眺めていた。

 

 

 

 

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「よう、センセー」

 

 ある日の昼間。予告なく誠一郎の家を訪ねたのは、初めて見る和服姿に身を包んだ神矢だった。

 

「どうしたんですか?」

 

 神矢の手には数冊の本があり、いつものように深沢家を貸本屋のように利用するつもりだということは分かった。誠一郎の問いかけは、神矢の見慣れぬ服装に対してだ。

 

「これか? 今度演じる役が久々の和服姿でな。慣れようと思って最近普段から着てるんだ」

 

 そう言って口元だけで涼しく笑ってみせる。垂れ目に吊り眉の神矢の端整な顔立ちは、和服でも映える。何気なく前髪を払うだけで、同性から見ても様になっている。

 

 ここにたどり着くまでにも、おそらく相当数の婦女子の心をわしづかみにして来たのだろう。

 

 和服に外套を羽織り、手元には本。

 

 身長や体格、年齢だってそう変わらない。構成している物は大して違わないはずなのに、誠一郎とは何もかもが圧倒的に違う。

 

 以前から分かっていたことではあるが、やはり何を身につけているかうんぬんの問題ではないのだな、と誠一郎は改めて思う。

 

「っていうか……センセー、なんだかボロボロじゃないか?」

 

 いぶかしげに神矢がそう問うのも当然のこと。

 

 玄関に現れた誠一郎は、眼鏡の奥の目の下にうっすら隈が出来ているし、目つきも一層険しい。衣服もよれているし、髪も乱れている。

 

「小説の追い込みです」

 

 誠一郎は執筆に集中すると、本人も自覚していることだが、その他のことが本当におろそかになる。

 

 起きている間は書き続け、疲れたらその場で寝る。食べるものも、空腹を満たせれば何でもいいというくらい適当になる。

 

 神矢がやって来た時、誠一郎はちょうど仮眠をとっているところだった。もちろん布団の上ではなく、畳の上で。服装も、寝巻きではなくこの普段着姿のままで。

 

 神矢が家に上がって中を見てみると、誠一郎の書斎はすごいことになっていた。

 

 資料用の本が塔のように積みあがり、それが倒壊して畳を埋め尽くすように雪崩を起こしていたりする。その隙間に、書き散らかした原稿が哀れに挟まれていたりした。誠一郎が横になれる分だけ、畳の上に隙間ができている。

 

 文机の傍らには、食べきった後であろう米粒一つない椀が積み上げられていた。

 

 見苦しい部屋への視線を遮断するように、誠一郎はふすまをピシャリと閉める。

 

「時間がないのか? だったら出直すぜ」

 

「いえ、そういうわけでは。一度執筆に集中してしまうと、そればかりになってしまうというだけで、時間的余裕がないわけではないんです」

 

 神矢からするとよく分からない理屈だが、誠一郎がそう言うのならそのまま用を済まさせてもらうことにする。

 

 誠一郎は目覚ましがてら顔を洗いに行き、神矢はいつものように本ばかりが山ほど詰め込まれた部屋に向かった。

 

 上背のある神矢のよりも背の高い本棚が、人が一人通れるくらいの隙間を残して、迷路を作ろうとしているかのようにみっちり詰め込まれている。板張りの廊下のきしみ具合からすると、この部屋の床の方が先に崩落するのではないか、とすら思えるくらいだ。

 

 神矢は何の気なしに、いつもは見ない奥の方の本棚も目を通してみる。

 

「うお……なんだこれ?」

 

 そこには、市井の普通の本屋ではなかなかお目にかかれないような、凝った装丁の洋書がずらりと並んでいる。布地に金糸で刺繍されているような表紙のものまである。しかも。

 

「これ、何語だ?」

 

 取り出した本に首をかしげていると。

 

「それはドイツの本ですね」

 

 背後から急に声をかけられて驚いた。

 

「な、なんだ。センセー戻ってきたのか」

 

 驚かれたことに驚いた誠一郎が、とりあえず「すみません」と口にする。

 

「この辺は全部洋書なのか?」

 

「そうですね。かつての師匠から譲り受けたものだったり、人からいただいたり」

 

 ふうん、と生返事をしつつ、神矢は頭の中では色々なことを考えていた。

 

「そういや……この間は劇場の台本のことで世話になったみたいだな。劇場の連中が、あの時はバタバタしてたから今度改めてお礼がしたいって言ってた」

 

「いえ。大したことは」

 

 そう遠慮する誠一郎に、神矢はもう一歩踏み込む。

 

「……センセーって、英語分かるんだな」

 

「読むだけならなんとか」

 

「この本みたいな、ドイツ語も?」

 

「はい」

 

 神矢はその分厚い洋書を棚に戻すと、会話を終え、いつも自分が物色する棚で本を選ぶことにした。この大量の本の持ち主に生じた、いくつかの疑問を持ちながら。

 

 借りていく本を数冊選び終えると、ちょうど誠一郎が放置していた食器を片付けているところだった。

 

「……そういやセンセーって、一人で暮らしてて飯とかどうしてるんだ?」

 

 ふとした問いかけに、誠一郎が声だけで返事をよこす。

 

「近くに、この家の大家にあたる老夫婦の方が住んでいて、時々気にかけてくれます。あとはもっぱら近所の食堂なんかですかね」

 

 書斎に積みあがっていた椀は、その気にかけてくれた結果なのだろう。

 

 以前に誠一郎は、この家は大家夫妻と自分の親戚の伝手(つて)で安く借りられてると言っていた。

 

 片づけを簡単に終えて誠一郎が居間に戻ってくると、神矢は早々と帰り支度をしている。作業の邪魔をしたら悪いと、彼なりに思っているのだろう。

 

 見送りに玄関先まで出てきた誠一郎に、神矢は「そういえば」と唐突にこんな情報をもたらす。

 

「椿月、センセーからもらった贈り物とやら、劇場でも肌身離さずずーっと持ち歩いてるんだぜ」

 

 自分では知りえない話に、「そうですか」と冷静に答えながらも、視線がふっと逸らされる。

 

 誠一郎が努めて動揺を隠そうとするのをからかうのが面白いらしく、神矢はこうしてたまに彼をからかう。

 

「髪に飾っては何回も、館長に『似合う?』って聞いてた」

 

 その話を聞くだけで、人の良い館長が優しげにほほえんでいる姿が容易に想像できる。

 

 そんなことを何度も尋ねている彼女も可愛らしいな、と思い、つい表情が緩みそうになる。

 

 それを振り払うように事務的な咳払いをして、強引に話をすり替えた。

 

「あの……。……あっ、神矢さんは知り合いの方が多そうなので、ぜひ伺いたいことがあるんですが」

 

 意図がバレバレの話題転換だったが、神矢はしょうがなく付き合ってやることにする。

 

「何だよ? 別に、言うほど多いわけじゃないぜ。芸能関係に偏ってるし」

 

 それはそれですごいことだと思うのだが。誠一郎はそう思ったが口には出さなかった。

 

「周りで人探しをしている人がいて。ミヤマという名の男性を知りませんか? 御の字に、山と書いて、娘が一人いる方だそうです」

 

 誠一郎の疑問に、「何を言ってるんだ?」という呆れ顔をする神矢。

 

「そんなの、館長のことじゃないのか?」

 

「え」

 

 神矢の言葉に、誠一郎の思考が止まる。

 

「御の字に山って書く御山なんだろ? そんな珍しい苗字で、娘が一人ってなると、この街でもかなり少ないと思うぞ。館長くらいじゃないか」

 

 これまで館長のことは、自分も周りも「館長」としか呼んでおらず、本名など全く知らなかった。普通の人なら疑問に思ってさりげなく周りに聞いたりするのだろうけれど、これまで筋金入りの他人への関心の無さを貫いてきた誠一郎は、何も思わずここまで来てしまった。

 

 誠一郎の停止っぷりで事情を察した神矢が、黙って肩をすくめる。

 

「……ということは、館長には娘さんがいらっしゃったんですね……」

 

 何とか思考機能が復旧した誠一郎がそうつぶやくと、今度は神矢が、

 

「え」

 

 と間抜けな声を出した。

 

 信じられないとばかりに眉間にシワを寄せる。

 

「娘さんがいらっしゃったんですねって……何言ってるんだ? 椿月だよ。館長の娘」

 

「え」

 

 次はまた誠一郎が驚く番だった。

 

 たしかに、これまで劇場で見る限り、館長と椿月は父娘のようだと思ったことは何度もある。だがそれはあくまで劇場内においての、親子のような信頼関係なのだと思っていた。

 

 それに椿月が館長の娘となると、年齢的に少し近すぎるのではないだろうか。一体、館長がいくつのときに授かった子どもになるのだろう。少し無理のある年齢になるのではないだろうか。

 

 誠一郎の混乱を見透かして、神矢が説明を足す。

 

「養子縁組だから、血は繋がってないけどな」

 

 ここまで椿月に近い誠一郎がまさかそれを知らなかったとは思わず、今さらながら言ってはいけないことだったのかもしれないと思い、なんとなく神矢もばつが悪くなる。

 

 何事か考えこんでいる誠一郎に、神矢が問う。

 

「それで、なんで館長が探されてるんだ?」

 

「いや、ちょっと……」

 

 答える誠一郎の歯切れも悪くなる。

 

 探されていたのが館長となると、どうして探されていたのか俄然気になってくる。しかも、捜索するための数少ない材料として、「娘が一人いる」という情報を与えられているのだ。

 

 もしかしたら、館長を通り越して、椿月に関係のある話なのかもしれない。

 

 しかも、ただの親子でなく養子縁組ということは、椿月にもきっとかなりの事情があるのだろう。

 

 彼女に交際を申し込みたいと思うくらい想いを寄せていながら、こんな重要なことも知らなかったのだ。浮かれていた過去の自分を殴りに行きたい気持ちに駆られる。

 

 ただならぬ顔色で黙りこんだ誠一郎を心配したのか、神矢が声をかける。

 

「センセー、大丈夫か?」

 

 思考の世界から現実に引き戻された誠一郎は、なんとか「大丈夫です」と言葉を返す。

 

 それから、

 

「このことは、館長と椿月さんには言わないでもらえますか」

 

 と、念押しする。

 

 神矢が承諾すると、誠一郎は帰路につく神矢に途中までついて行き、別れてからすぐ公衆電話に駆け込んだ。

 

 すぐに出版社に電話して、あの話を聞いた担当編集者を出してもらう。そして開口一番に尋ねる。

 

「例の人探しなんですが、御山という人は見つかりましたか?」

 

 焦っている様子は悟られないようにしているつもりなのだが、どうしても口調が早くなる。

 

 対照的に、編集者の声色は非常に能天気なものだった。

 

「え? いや、知りませんよ。全然。すっかり忘れてましたし。もしかして深沢先生、見つけられたんですか?」

 

「いや、そういうわけではないんですが……何となく気になって……」

 

 つたないながらに取り繕う。喋りで巧みにどうこうするというようなことは、本当に不得手なのだ。

 

「それで……その方って、どうして御山さんを探されていたんでしょうか?」

 

 急に色々なことを尋ねてくる誠一郎を奇妙に思いながらも、編集者はすらすらと答えてくれる。

 

「御山という名の男というより、その娘を探してるみたいですよ。というのも、今は御山家の養女になってるそうですが、元は探し主の方の娘さんだそうで。芸者か何かとの間の不義の子だったようです。手切れ金を受け取った相手の女はそのまま行方をくらませて、その後、女も幼い娘をどこかに預けていなくなってしまったとか。探し主の方が調べたところ、成長した娘がこの街にたどり着き、なんやかやあって御山という男に引き取られたというところまでは情報を得たそうなんです」

 

 あまりの情報に、誠一郎は何も返せない。編集者は見ず知らずの人の話をしているからこんなに軽い調子で、物語を朗読するくらいの温度で話すことが出来ているのだろうけれど。誠一郎としては、相手のことをよく知っているし、もっと知りたいと思っている相手だ。

 

「その探し主の方は、ここから北にある小都市で会社をやってる社長さんみたいで。はじめは『せっかくの自分の子だから故郷に連れて帰ってやりたい』とか言ってましたけど、ちょっと突いてみたら、妙齢の娘だったら縁故を広げるための縁談に使えて便利だろうと思ったからみたいですよ。まあ、一応は社長さんですしね」

 

 そう話を終えるも、いつまでも反応を返さない誠一郎に、

 

「これだけのために、わざわざお電話を?」

 

 と、不審そうに編集者が尋ねてくる。

 

 絶句していた誠一郎も、なんとか言葉をしぼり出す。

 

「あ……いえ……ええと、締め切りの確認で。いつもどおり今月末、でしたよね」

 

「そうですよ。いつものが今月末、新しいのが来月十五日ですからね。くれぐれもお間違えのないようにお願いしますよ!」

 

 消え入るような返事を残して、誠一郎は電話を終えた。しばらくそのまま公衆電話の中で動けなくなる。

 

 今後、どんな顔で椿月に会ったらいいのか。今の誠一郎に見当もつかなかった。

 

 

 

 

-4ページ-

 

 

 数晩悩んだ誠一郎は、意を決して館長のもとに行くことに決めた。椿月の稽古時間を考慮し、彼女と遭遇しない時間帯を狙って。

 

 多忙な館長がつかまるかどうか心配だったが、館長室を訪ねた誠一郎のただならぬ面持ちに、館長はすぐに時間を作ってくれた。

 

 館長室内の応接間に通され、館長と向かい合う。いつものようにライオンのたてがみを連想させるような髪型に、タキシードを身にまとった大柄な体。でも、その表情は、いつもの穏やかさに戸惑いの色がにじんでいる。

 

 これまで何度も椿月とこの劇場を助けた誠一郎に全幅の信頼を置いている館長だったが、突然「大事なお話があります。二人だけで話せませんか」と言われたら、緊張もするだろう。

 

 誠一郎は先にこう前置きした。

 

「今から僕は、かなり不躾なことを言ってしまうと思うので、先に謝っておきます」

 

「……構わないよ。君がここに来るまでとても悩んだのであろうことは、顔を見ていたら分かるから」

 

 そう言って、館長自身も緊張で強張りながらも、誠一郎を温かく勇気付けてくれる。

 

 誠一郎は彼の、彼ら親子の心に土足で踏み込んでしまうような気がして、自然と眉間にしわがきざまれた。

 

 でも、言わなくてはならない。

 

「ある伝手(つて)で知ったのですが、椿月さんの本当の父親が、この街で椿月さんのことを探しているそうです」

 

 その一言で館長は、誠一郎が色々なことを知ったのだと理解した。自分と椿月が親子であること、それと、本当の親子ではないこと。

 

「養子縁組のことは、椿月から聞いたのかな?」

 

「神矢さんからです。椿月さんとは、このことに関して話したことはありません」

 

 館長の口ぶりからするに、椿月は意図的に誠一郎に養子のことを言ってなかったように思われる。それもそうだろう。養子ということは、今の親は本当の親ではないということで、どうしたって過去にあったことに触れなければならない。

 

「……隠そうとしていたわけではないし、いずれは椿月も君に話すつもりだったことだろうから、知ったことに対してそんなに自分を責めなくていいんだよ。……ただ、君のことがどうでもいいから話さなかったのではなくて、どうでもよくなさすぎたから気軽には話せなかった、ということだけは分かってあげてくれないか」

 

 椿月を気遣う館長の訴えに、誠一郎は目を見て「はい」とうなずく。

 

 その反応に館長は少しほっとしたようで、目元が優しげに細められる。そして、昔話を始めた。

 

「……私は父からこの劇場の館長の座を受け継いでね。それまでは全く別の仕事をしていたから、館長職に就いたばかりの頃は、従業員たちの仕事を理解しようと思って、朝の門の掃除と夜の戸締りなんかは私がやっていたんだ。

 

 そんなある日の早朝、ちょうど今くらいの肌寒い時期。私が朝の掃除に出ると、門の前に、風呂敷包み一つ抱えてちょこんと座っている女の子がいた。出てきた私を見るなり、『この劇場の方ですか? 舞台の経験があるんですが、ここで雇ってもらえませんか? 裏方でも何でも構いません』と言ってきた。年齢にそぐわない、とてもしっかりした口調でね。着たきりの古びた薄手の着物で、瞳の光も弱々しくて、表情の変化も乏しいし、そのまま壊れてしまいそうなくらい、儚げだった。でも、今と変わらないくらい美しい女の子だった。

 

 『過去と、今までいた場所は捨ててきました。頼るところはありません』なんて言うし、あまりに可哀想だったから、私の判断で雇うことにしたんだ。実際、彼女の演技力はすばらしいものがあったしね。ただ、『住むところはお金を貯めてから決める』なんて言っていて。『昨日までどこに泊まっていたんだい?』と訊いたら、『夜は人目につかないところで座ってました』なんて言うから驚いてね。みんなには秘密で、鍵のかかる劇場の一室を寝泊り用にこっそり貸してあげていたんだ。

 

 彼女にはこの街とこの劇場が合っていたのか、次第に明るく、元気になっていってね。今のように、よく笑う子になってくれた。でも、身元が不明瞭ということで、何かと不便することもあったりして。これも何かの縁だと思って、彼女と相談して、私の養子にすることにしたんだ。妻とはだいぶ前に死別していて、子どももいないし、妻以外の人ともう一度結婚する気もないし、本当の家族と思って彼女を迎え入れようと思ってね。だから彼女は今、私の家の昔の妻の部屋で暮らしているんだ」

 

 館長の語る過去に聞き入っていた誠一郎は、話がひと段落すると「そうだったんですね」とかみしめるようにつぶやいた。

 

 それと、館長は「彼女にはこの街とこの劇場が合っていたから」と言っていたが、館長の本当の父のような大らかな愛情があってこそ、椿月は安心して本来の明るい自分になれたのだろうと、誠一郎は思った。

 

 そして館長はポツリとこぼす。

 

「数年とはいえ、もう椿月は私の大切な娘だから。勝手に連れて行かせるようなことはさせないよ。椿月自身が本当の父親のもとに行きたいというのなら、仕方がないけれど……」

 

 そう言って沈んだ空気をまとう館長に、誠一郎は根拠もないけれど言いたくなる。椿月もきっと館長の娘でいたいはず、ここを離れたくはないはずだ、と。今まで短い間ではあるが、間近で椿月と館長を見てきて、二人は本当の父娘のようだと思えるから。

 

 編集者が言っていた、縁故を広げるために利用できるかもという椿月の本当の父親の意図など、館長に話せるわけもなかった。

 

 誠一郎が何も言えないでいると、館長がふと、空気を変えようとしたのかこんなことを訊いてきた。

 

「そうだ。イチョウ並木はきれいだったかい?」

 

 誠一郎は反射的に、なぜそれを、と思ってからすぐに、ああそうか、と納得する。そもそも館長が、今の時期はイチョウ並木がきれいだよと椿月に教えてくれたのだ。

 

「椿月が、君と見に行ったと楽しそうに話していたからね」

 

 そう穏やかにほほえむ顔は、完全に父親のそれだと誠一郎は思った。

 

 誠一郎は考える。

 

 たしかに御山というのは珍しい苗字だし、館長の職業柄、このまま出版社などを当たっていけば、椿月までたどり着く可能性は低くはないだろう。しかも、聞くところによると興信所にも依頼しているそうだ。となると、時間の問題ではないだろうか。

 

「……この事は、館長から椿月さんにお話ししていただいた方がいいと思います。僕は部外者ですし、椿月さんが僕に話していないということは、今はまだ知られたくないことなのでしょう。僕の口からは言わないほうがいいと思います」

 

 館長は誠一郎の提案を、「分かった」と受け入れた。そして、「言いづらかったろうに、報せてくれてありがとう」とも感謝した。

 

 ここから先は館長親子の領域であり、自分が踏み込んでいい問題ではない。椿月や館長が傷つかないことを願いつつ、誠一郎は館長室を後にした。

 

 

 

 

 

 ところが。そんな彼の思いとは裏腹に、事態はすぐそこまで進行してきていた。

 

 誠一郎が劇場の建物の外に出ると、鈍色の曇天に小雨がぱらついていた。ギリギリ、傘を差さずとも行けるくらいだろうか。掌を差し出し、天を仰いでそんなことを考えていると。

 

 遠目に見える裏門の方に、見覚えのある姿が。

 

 花柄の着物に海老茶色の袴を合わせ、厚手の肩掛けを羽織り、長い下ろし髪をいつものように上だけ結った彼女。不本意ながら、今日は会わないようにしなければならない相手、椿月だった。

 

 降り始めたばかりの雨が、傘を持たない彼女の足を劇場へと速めさせている。

 

 誠一郎はとっさに、柱の影に身を引っ込めた。今日館長に会ったことは、なるべく彼女に知られないようにしたい。二人で何を話していたのか訊かれたら、うまく言い逃れられる自信はない。

 

 だが。気になることがあった。

 

 小走りの椿月の後ろのほうに、もう一つ影が見える。

 

 上手に気配を消して近付いているのか、椿月は気づいていないようだが。

 

 不審に思って誠一郎が物陰から凝視していると。

 

 その人物は椿月に声をかけた。

 

 履きつぶされた靴に、着古されてくたっとしたスーツ。ハンチング帽でよく目元が見えないが、誠一郎の知る人ではなさそうだ。服装や体格からして、中年くらいの男性だろうか。

 

 裏口付近は人通りが少なく、男の声がよく聞こえた。

 

「ちょいとすいません、そこのお嬢さん」

 

 振り返った椿月も、やはり相手に心当たりがなかったのか、警戒するように両肩をすくめる。

 

 椿月はその仕事上、以前も行き過ぎた熱心なファンにつきまとわれることなどもあった。

 

 向かったほうがいいだろうか、と踏み出した誠一郎の足が、一歩目で止まる。

 

「御山 ハナさん、だよね? 怪しい者じゃないんだ。話を聞いてもらえないかな」

 

 男の放った言葉に、椿月は目を見開いて隠しきれない動揺を見せてはいるものの、誠一郎が聞いたこともないその名を否定する様子はない。

 

「ハナちゃんの本当のお父さんが、君を探してるんだ。自分は君の捜索を依頼された者なんだけどね。君の本当のお父さんが、一人娘をぜひ引き取りたいと言ってるんだ。ここから少し北のほうにある都市で、会社をやってる社長さんだよ。絶対に今より悪い暮らしにはならない。だから、おハナちゃん。一緒に来てもらえないかな?」

 

 彼女がどう答えるのかと、誠一郎が固唾を呑んで見守っていると。

 

「……あの、何のことでしょう? 私の名前は御山 椿月です。父とは今も一緒に暮らしています。人違いではありませんか?」

 

 誠一郎はいつか見たような、椿月が気持ちの切り替えをする音が聞こえたような気がした。

 

 椿月は完璧に、「人違いをされて戸惑っている人」を演じていた。

 

 しかし、それで引き下がってくれるような相手ではないだろう。案の定、男は食い下がる。

 

「いやいや、しらばっくれないでよ。その名前は、君が勝手に名乗っているだけでしょ? こっちはちゃんと、君の過去を全部調べてるからね」

 

 見透かされている。

 

 それも仕方ないことだ。いくら椿月の演技が上手とはいえ、世間的にはただの小娘だ。倍以上の時間を生きてきた大人に、小手先の嘘が通じるわけもなく。

 

「それで、どうするの? 一緒に来てくれるよね? いずれにせよ、とりあえず一度顔を見せに連れて来るように言われてるんだよ。こっちも仕事でやってるからさ。ほら、行くよ」

 

 有無を言わせぬよう、わざといらだちを含ませた男の声に、椿月の表情に脅えの色がさす。

 

 今出て行くと、きっと、椿月が話さないでおきたかったことを知ってしまったことが分かってしまうだろう。

 

 でも、それでも。体は勝手に動く。

 

「……椿月さん、お待たせしてすみません。行きましょう」

 

 さっとその場に現れた誠一郎は、まるで待ち合わせでもしていたかのように装う。視線を遮断させるように、椿月と男の間に体をすべりこませた。

 

 突然の彼の登場に、訳がわからないとばかりに目をパチパチさせている彼女に、不器用ながらできる限り、優しく見えるような表情を作ってみせる。こんなことで安心してもらえるのかは分からないけれど。

 

 誠一郎は、今までそんなことなどしたこともないが、彼女の肩を抱き寄せるようにして、男から彼女の姿を隠すように、遠ざけるように彼女を劇場内へ導く。

 

「ちょ……待ってって。誰だよアンタ、邪魔しないでくれ。おハナちゃん! ちょっと!」

 

 追いすがる男に、誠一郎は少しだけ振り返り、一瞥をくれる。

 

 その眼鏡の奥の眼光は、いつかの椿月を傷つける者に静かに怒るように冷たく鋭く、男の追及を撥ね付ける。

 

 一緒に行くことを拒絶するように、劇場の扉がしっかりと閉められたとき。雨脚は一層強まっていた。

 

 

 

 

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 二人が劇場内に入ったとき。裏口から繋がっている入り口は関係者専用通路に通じており、今日は公演が休みということもあり、そこは無人だった。ざあっという外の雨の音がはっきり聞こえるくらい、静かな空間だった。

 

 誠一郎がそっと、彼女の肩から手を外す。

 

 椿月は彼の顔を、何か聞きたげに、遠慮がちな上目遣いで見つめている。雨粒で湿った髪を拭うこともなく。

 

 彼女の視線に背中を押されて、言いづらそうにではあるが、誠一郎が先に口を開く。

 

「すみません……。一部始終を聞いてしまいました」

 

 申し訳なさそうにそう告げる誠一郎がさほど混乱していない様子を不思議に思い、椿月が尋ねる。

 

「誠一郎さん、もしかして、館長と私の関係を知っていたの?」

 

「……本当に偶然なのですが、実はつい先程、館長から聞きました。椿月さんが話してくれるまでは触れないでいようと思っていたのですが」

 

 椿月は、「そう……」とつぶやき、何かを考えるように視線を床に落とした。

 

「別に、誠一郎さんに隠すようなことじゃないから、大丈夫よ。気にしないで。びっくりしたけど、平気」

 

 ゆっくりと、落ち着けるような言葉を重ね、なんとかほほ笑みを作ってみせる。

 

 これまで何度も椿月の笑顔を間近で見てきた誠一郎からすると、それが無理をしたものであることは一目瞭然だった。

 

「そうだわ。ちょっと、ついてきてくれる?」

 

 そう言うと、椿月は彼を連れて劇場二階に向かった。

 

 劇場は広い。ロビーから続くホールがあり、観客たちが立ち入ることのできる領域の他に、楽屋や衣装室、道具倉庫などが並ぶ関係者専用の領域も多分にある。

 

 その、関係者しか入れない領域の二階。

 

 ホールを中心とした建物自体の複雑な設計ゆえ通路は折れ曲がりながら、館長室や、応接室など、どちらかというと事務的な目的の部屋が続く。

 

 椿月が足を止めたのは、とある一室の前。

 

「私、昔この部屋に住んでいたの」

 

 部屋を覗く限り本当に普通の劇場の一室で。とてもこの中で人が寝泊りしていたとは思えなかった。

 

「私がここにきたばかりの頃、行くところも頼れるところもなくて、館長が内緒で住ませてくれたの。それは聞いた?」

 

「はい。そのあと、身寄りのなかった椿月さんを、館長が養女として引き取ってくれたんですよね」

 

 椿月はうなずく。それから、ささやくような小声でつぶやく。

 

「まさか、今さら本当の親が出てくるなんて思いもしなかった……」

 

 また少し考え込んでから顔を上げると、誠一郎に、

 

「さっきはありがとう。かばってくれたのよね」

 

 と、努めて笑顔を作ってみせる。

 

 誠一郎は静かに首を横に振った。

 

 そして、「これは、館長にも話してないこともなんだけどね……」と前置きして、彼女は過去を語り始めた。

 

「……私、物心ついた頃にはもう奉公先に預けられていて。そこから前の記憶はほとんどないの。薮入りの時に私だけ行くところがなかったから、たぶん捨てられてここに拾ってもらったんだろうなとは、幼心にうっすら気がついてたんだけどね。その奉公先のお屋敷の、使用人のそのまたお手伝いみたいなことを、住み込みでさせてもらっていたの。

 

 ある日、偶然が重なって、お屋敷の方の付き人として、演劇の舞台を見させていただいたの。そこで演劇の世界に魅了されちゃって。それから色々あって、運よく劇場関係の仕事から端役につけるようになったんだけど……」

 

 よどみなく話していた椿月の歯切れが悪くなる。

 

「そこで……応援してくれていたはずの人と、色々すれ違いがあってね……」

 

 慎重に言葉を選んで、そう説明する。

 

 誠一郎は、椿月と出会ったばかりの頃のことを思い出した。彼女がどうしても、彼女自身としてやりたいと熱望していた舞台。その劇の内容と重なる部分がある。

 

 本来の彼女とは乖離(かいり)した役柄で評価されるようになった椿月は、徐々に本当の自分が何なのか分からなくなってしまった。かつて、使用人手伝いから女優になりたいというあまりに無謀な夢を後押ししてくれた、椿月が慕っていたという男性は、その時の彼女と彼女の気持ちをにべもなく突っぱねたという。

 

「その時は、もうそこには一秒もいられないと思うくらい、つらくて。そこでの全部を捨てて、まっさらな私になりたくて、この都市に出てきたの。でも結局、私にはやっぱり演劇しかなくて。今もこうやって舞台に立たせてもらってるんだけどね」

 

 自嘲的に、呆れたように苦笑してみせる。

 

「さっきの、『ハナ』って名前はね。私の名前っていうか、以前の奉公先で気づいたら呼ばれていたってだけで、本当の名前なのかもよく分からないの。『つばき』っていうのは、前にいた劇場で名乗っていた名前なんだけど。役者を目指しだした頃の私にとって、思い出の花でもあってね……」

 

 そう言って大事な記憶を愛でるように、椿月は目を細めた。

 

「……それから、つばきに『椿』と『月』の漢字を当ててくれたのは館長なの。養女になるとき戸籍が新しく作られるってことになって、本当の名前かも分からない『ハナ』よりも、『つばき』の方が私は愛着があったし、自分の名前っていう感じがしたから、こっちにしてもらったのよ。……館長と、自分自身で決めたことだからかな。椿月って名前を呼んでもらえると、すごく嬉しいの」

 

 そこまで話し終えると、椿月は満足そうにほほえんだ。

 

 誠一郎は、彼女が今目の前に立っているここまでの道のりに対し、なんと感想を言ったらいいか分からなかった。彼女が館長にも秘密にしていたようなことを含め、すべてを話してくれたことはとても嬉しく思っているのだけれど。

 

「……大変な、人生だったんですね」

 

 あまりにありきたりで単純かもしれないが、それしか言葉が出てこなかった。

 

 誠一郎の心配そうな眼差しに対し、椿月は首を横に振る。

 

「みんな、多かれ少なかれ大変だもの。私だけじゃないわ」

 

 そう語る彼女の表情はあまりに穏やかで、すっきりしていて、美しくて。誠一郎は吸い込まれるように彼女の顔を見つめていた。

 

「そういう道をたどってきたからこそ、今こうして、ここに来られたんだもの。それだけで良かったって、今なら思えるわ。本当のお父さんみたいな館長にもめぐり会えたし、すばらしい劇場で、大好きな演劇をさせてもらえてる。素敵な名前も得られた」

 

 そう言うと一拍おいて、少し恥ずかしそうに、誠一郎の目を見てこう言う。

 

「それに、あなたとも会えた。あの忘れたいくらいの経験がなかったら、この街にも飛び出して来てなかったし。この街に来てなかったらきっと、あなたとは会えなかったから」

 

 誠一郎は心の奥底から何かが湧き上がってくる感じがして、気づけば彼女をきつく胸に抱きしめていた。

 

「あっ……ど、どうしたの」

 

「すみません。何となく、こうしたくなって……」

 

 彼女をひどく愛おしいと思う気持ちや、彼女のことを何からも守りたい気持ちが入り混じり、自分でも訳がわからなくなって、体が勝手に動いた。

 

「誠一郎さん……」

 

 椿月の両手も、戸惑いながらも彼の服をつかむ。

 

 その時。

 

「おーい、椿月ー。いるかー?」

 

 曲がり角から突然姿を現したのは、神矢だった。

 

 慌てて距離を取った、赤面した二人。

 

 神矢は目の前の光景に、やってしまった、と反射的に顔をしかめる。

 

「あー……悪い。完全に間が悪かったみたいだな」

 

「し、失礼しました……」

 

 赤くなった誠一郎は消え入るような声で、なんとかその一言だけ搾り出す。

 

「う、ううん……」

 

 同じく真っ赤になっている椿月は首を横に振りつつ、心の中で、「辰巳のバカッ! バカッ! バカッ!」と言い続けていた。

 

 神矢は気まずさをごまかすように苦笑いを浮かべるしかない。

 

 そんな散らかった状況だったが、辰巳が椿月に用件を告げる。

 

「椿月、館長が呼んでる」

 

 その一言で、館長のもとに興信所の人間がたどりついたこと、館長が椿月の意思確認をしようといているのだということを、椿月と誠一郎は理解した。

 

「分かったわ。館長室よね? 行ってくる」

 

 椿月は意思を固めるように衣服や髪の乱れを手でささっと整えると、館長室に向かった。

 

 煌々と灯る室内灯で気づかなかったが、気づけば窓の外はすっかり夕闇が支配している。夜の黒の向こうで、今にも押しつぶされそうな紫と赤の夕焼けが最後の抵抗を見せていた。

 

 椿月の後姿を見送ってしまうと、神矢も誠一郎もなんとなく間が持たなくなり。

 

「……一服するか?」

 

 神矢がポケットから紙煙草を出して、誘ってみせる。

 

 断る理由もないので、誠一郎は神矢に続いた。

 

 

 

 

 

 一階の関係者通路に沿って作られた外回廊で、二人の男が紫煙をくゆらせていた。

 

 振り出した雨は止むことなく、勢いを強めているようにすら見える。秋の雨は一雨ごとに気温を下げ、冬を呼び寄せる。羽織り越しに肌寒さを感じながら、二人は闇に落ちた眼前の景色にぼんやりと視線を遣っていた。

 

「椿月は絶対どこにも行かないから、安心しなよ。センセー」

 

 闇を見つめる誠一郎がどことなく不機嫌そうに見えたのか、神矢が声をかける。

 

 誠一郎は雨に向かって煙を吐いた。

 

「……ここに来たばかりの頃の椿月は、そりゃあもう暗くて、冗談にも乗ってくれないし、演技以外ではほとんど喜怒哀楽を見せない子だったよ。でも、地味な格好をしていてもはっきり分かるくらい、顔はずば抜けて可愛かった。だからまぁ、挨拶代わりに軽く口説いたりしてたんだけどさ」

 

 さらりと語られた神矢のとんでもない発言に、遠くを見つめていた誠一郎の視線が即座に神矢に向けられる。

 

「そしたら、『私、そういうのはもういいの』って、疲れた顔で弱々しく言ってた」

 

 椿月はその時、本当にそう思っていたのだろう。応援してくれたはずの、慕っていた男性に冷たくあしらわれたことは、彼女を大いに絶望に追いやったに違いない。

 

「きっと椿月は、本当にここが気に入ってるんだよ。館長のこともだし、劇場のことも。どんどん明るくなってさ、今や俺と他愛ない冗談言ったりしてるくらいなんだから」

 

 彼女が本来の明るさを取り戻せたことは本当に良かった。誠一郎がそう思っていると。

 

「あと、隠れてセンセーと何かコソコソしてたりするみたいだからな」

 

 そのさらっと述べられる冷やかしの言葉に、誠一郎は微動だにできず固まってしまう。

 

 しばらくしてから、神矢の「灰、落ちるぞ」という一言で、なんとか自分を取り戻す。

 

「ま、俺の知ってる椿月の過去はこんなもんかな」

 

 そう軽い調子で言って、また煙草を一口吸ってから、神矢は少し声の調子を落とした。

 

「……んでさ」

 

 また何か冷やかされるのかと思い、誠一郎が「はい?」と尋ね返すと。

 

「単刀直入に訊くけど、センセーって、本当は一体どんな人なの?」

 

 予想もしなかった神矢の眼光と、視線がぶつかる。いつもの余裕ある薄笑いはそのままなのだけれど、それゆえに逆に、下手な言い訳では逃がしてはもらえないような迫力があった。

 

「数ヶ国語を自然に読み書きできるような高等教育を受けてて。一部はもらい物とはいっても、高価な洋書含め大量の本を持っている。ボロい借家とはいえ、街の近くの一軒家に一人で住んで。そのくせ、見てる限り金持ちってわけでもない」

 

 神矢の言及はすべて的を射ている。

 

 神矢はその眼差しを、今、何を考えているのか全く分からない誠一郎の横顔に注ぐ。

 

「あんた一体、何者なの?」

 

 くわえた煙草を指先で支えながら、眼前に広がる漆黒の闇を瞳に映したまま、誠一郎は何も答えない。

 

 勢いを増す雨が、二人の会話を夜に埋めていく。

 

 

 

 

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「あ、辰巳。ここにいたの? 誠一郎さんは?」

 

 一階の外の回廊で椿月はやっと彼の姿を見つけられた。館長と話を終えて元いた場所に戻るも二人の姿がなく、あちこち探し回っていたのだった。

 

 降り続いていた雨は止み、夜の静けさが満ちている。冷たい夜風が木々を揺らし、乾いた音を立てる。

 

「センセーは帰ったよ。原稿やらなくちゃならないんだってさ」

 

 そう言われて、椿月は残念そうに「そうなの」とつぶやく。

 

 神矢はそんな分かりやすい彼女を見てほんの少しだけ笑ってから、

 

「で、椿月はどうするんだ?」

 

 と尋ねた。

 

「私のお父さんは、後にも先にも館長だけよ。『引き取りたい』って正式に言われても、私は行かないって伝えてって言っておいた」

 

 椿月の丸い瞳が、まっすぐ神矢を見つめてそう告げる。

 

「そうか。そうだよな」

 

 彼にとっては思っていた通りの結論だったが、それでもやはりホッとした。

 

 椿月は「当たり前でしょ」と笑って、肌寒いからなのか、用はもう無いからなのか、屋内に戻っていった。

 

 離れていく椿月の背を見送りながら、神矢は少し前の時間のことを回想する。

 

 神矢が誠一郎を問い詰めると、しばらくして誠一郎は口を開いた。

 

 「今の僕がこの僕であることは間違いないです。自分のことに関して、何の嘘もついていません。……それでは駄目ですか?」と、能面のような感情の読めない横顔で。

 

 誠一郎を見つめていた神矢は、煙草の火をもみ消すと、「いいよ、別に。センセーの言うとおりだ」といつもの調子に戻って、言った。

 

 神矢が「野暮なことを訊いて悪かったな」と付け足した時に見た誠一郎の横顔が少しだけ寂しそうに見えたのは、彼の気のせいだったのかもしれない。

 

 夜の闇に、劇場の外壁に設置された外灯の明かりが映える。暖色のそれは、天を仰ぐ神矢を静かに照らしていた。

 

 

 

 

 

 後日。

 

 椿月はまた、あのにぎやかな店員の娘がいる雑貨屋にいた。

 

 今回は贈り物を探すためではなく、予め頼んでおいたあるものを引き取りに来たのだ。

 

「こんにちは。例のもの、届いてるかしら?」

 

 椿月が店の奥に声をかけると、店員の娘がすぐに飛び出してきた。

 

「いらっしゃい! もちろん届いてるわよ〜。あなたのために気合を入れて包装しちゃった」

 

 そう言うと、戸棚に大事にしまっていた小さな袋を取り出した。

 

「それにしても、殿方への贈り物としてはかなり不思議なものを選んだわね」

 

 さらっと述べられる何の気ない所感に、椿月はちょっぴり自信を失くす。

 

「や、やっぱりおかしいかしら……?」

 

「やだ、そんな不安にならないでよ。あなたがこれがいいと思ったんでしょう?」

 

 自分で不安をあおるようなことを言っておきながら、店員の娘はケラケラと笑う。

 

「これからもっと寒くなるし、お仕事的にも手は大事だと思うから……。本人は平気って言うんだけど、私からすると痛そうに見えてね。なんだかいたわりたくなっちゃうの」

 

 椿月がこれを選んだ理由を説明すると、娘は「あら、どんなお仕事をしてる方なの?」と尋ねた。

 

 椿月は遠慮がちに答える。

 

「ええと、作家さん、かな」

 

「えっ、そうなの?! すごいじゃない! なんていうお名前なの? あたしでも知ってるかしら」

 

 身を乗り出すようにそう訊かれて、椿月が控えめにぽつりと彼の名前を口にすると。

 

「ええ?! 私、読んでるわよ! まあ〜あの方が深沢先生だったのね。もっとちゃんと見ておけば良かったわ〜。たしか、また新しい連載をされるでしょう?」

 

 猛烈な勢いで喋り出した彼女に気圧されながら、椿月は苦笑いを浮かべる。

 

「私、作家としてのあの人のことはあまり知らないのよ。まだ読んだこともないし……」

 

「ええ? そうなの? もったいない……」

 

 本当にもったいなさそうに眉をひそめる店員の娘。

 

 椿月は以前に誠一郎から言われた「椿月さんに読ませる自信がある作品が書けるまで、読まないでほしい」という約束を、律儀に守り続けている。どんなことであれ、人と一度交わした約束を勝手に、隠れてであろうと、違えるような人間ではないのだ。

 

「ねえ。これ、あなたが彼にしてあげたらいいわよ」

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべ、娘が提案してくる。

 

「そっ、そんなことできないわ。一体どうしたのかと思われちゃうわ」

 

 赤面する椿月の懸念を、娘は笑い飛ばす。

 

「馬鹿ねぇ。あなたにしてもらって嬉しくない男がこの世にいるわけないでしょ」

 

「もう、冗談ばっかり」

 

 恥ずかしそうに小さく口を尖らす椿月に、

 

「ま、頑張って。またお店にも遊びに来てよね」

 

 と、娘は笑顔で手を振る。

 

「ありがとう。また寄らせてもらうわ」

 

「お買い上げありがとうございました〜」

 

 椿月が店の外に出るとそこには、頼んで店の前で待ってもらっていた誠一郎が立っている。

 

 今日は久しぶりに予定を合わせての二人の外出だったのだが、彼への贈り物なので、用意するところを見られるわけにはいかなかったのだ。

 

「一人で待たせちゃってごめんなさい。寒くない?」

 

 出てきてすぐに謝った椿月に、誠一郎は「大丈夫ですよ」と口にする。

 

 もうそろそろ季節は秋から冬に変わろうかという頃。往来の人々にもちらほらと、手袋や首巻が目立つようになってきた。

 

「椿月さんこそ、寒くありませんか」

 

 そう尋ねる誠一郎に、椿月は「ううん」と首を横に振る。

 

「寒いかなと思って防寒しすぎちゃって、むしろ暑いくらいよ」

 

 そう言って笑ってみせる椿月に、誠一郎は優しい眼差しを注ぐ。出会ったばかりの頃と比べると、いまだ不器用ながらも、誠一郎はずいぶん情緒が豊かになった。

 

 その情景を窓越しにこっそり見つめていた店員の娘は、椿月の安心したような、楽しそうな笑顔と、誠一郎の穏やかに見守るような眼差しを見て、二人が互いに惹かれあっていることをすぐに理解した。同時に、もどかしくも思う。

 

「あの子、深沢先生の小説読んでないのかぁ〜。もったいないなぁ。取り立てて良いところもない、平凡で冴えない青年が、身の程知らずともいえるような美少女に恋をしてしまうって話なのに……。現実は小説のようにはいかないって本当よねえ〜」

 

 そうつぶやいてから、盛大にため息を一つこぼした。

 

 それから。椿月と誠一郎は、再びあのイチョウ並木のもとを訪れた。以前よりも舞い落ちる葉が目に付くようになったが、まだその光景を保ってはいる。

 

 また同じように並木道を歩き、適度なところで長椅子で休憩する。

 

 すると、ここで渡そうと決めていたのか、椿月がおもむろに先程の小包を取り出した。

 

「誠一郎さん、これ」

 

 思わぬ展開にまばたきをするしかない誠一郎に、椿月は説明を足す。

 

「あのね……私もあなたに何か贈りたくて。お返しっていうよりも、『いつもありがとう』のお礼だと思ってね? は、はい」

 

 どぎまぎしながらそう喋り終えると、ぐいと差し出す。

 

 対する誠一郎も同じくらい動揺しながら、「ありがとうございます」と、差し出されたそれを手に取る。「開けても良いですか?」と許可を取ってから、それを開封した。

 

 アール・ヌーヴォー調の柄が描かれた小さな四角い紙箱を開けると、掌に乗るくらいの小瓶が出てくる。

 

「これは……?」

 

 それは、誠一郎がこれまでの人生でほとんど見ることのなかったものだった。

 

 やっぱり男の人にあげる贈り物じゃなかったかしら、と頬を赤く染めつつ、椿月が説明する。

 

「あの、それね、手に塗るクリームなの。もっぱら婦人用なんだけど……乾燥してるときとか、水仕事のあととかに」

 

 まだよく分かっていない様子の誠一郎に、椿月はその蓋を実際に開けてみせた。そして、指先をすべらせて少し手に伸ばすと、誠一郎の手を借りて、両手で包み込む。そして優しくさすってやる。

 

「こうしたら少しは手が楽になるかなって思ったんだけど、要らなかったかしら……」

 

 誠一郎がとっさに何も言えなかったのは、ただ突然の接触にビックリしたからなのだが。

 

 その手は離れることなく、重なり合っている。

 

「とんでもないです。……ありがとうございます」

 

 本当に嬉しかったのだけれど、驚きのほうが勝ってしまっていたのと、この気持ちをどう口にしていいのかがすぐには分からなくて、つい淡白な返事になってしまう。

 

 結局、雑貨屋の店員の娘が言っていたように、椿月が塗ってあげてしまった。あまりに積極的な行動をしてしまい、椿月は無性に恥ずかしくなる。

 

 するとその時、誠一郎がふと気づく。

 

「いい香りがしますね」

 

 控えめながら凛とした華やかさがあり、清楚で、上品な香り。

 

「あ、これ、椿の香りなの。なかなか椿の香りって見つからなくて、さっきのお店で取り寄せてもらったのよ」

 

 香りのことに触れてもらったことを嬉しそうに話す椿月。

 

「私の好きな花だから。せっかく誠一郎さんに贈るなら、と思って」

 

 彼女にとって自分の名にするくらいの思い出の花なのだと、色々知ることが出来た今だからこそ分かる。

 

 いたわってくれる彼女の指先は秋風にさらされたせいか、温もりを失いつつある。

 

 だから、誠一郎はその細い指先を包むように握り返した。

 

「わ、あったかい」

 

「椿月さんよりも、体温が高いのかもしれません」

 

 誠一郎は上手にほほえむことができない代わりに目を細めた。

 

 どのくらいそうしていただろうか。

 

 二人の手はそのまま自然と互いを求めて、指が絡み合う。

 

 イチョウの葉ははらりはらりと舞い落ち、その身を風に躍らせる。

 

 冬の気配が、二人を近づける。

 

「……また来年も、二人で見に来られるといいわね」

 

 朱の差した頬で椿月が彼に言う。

 

「はい」

 

 誠一郎はそう返事をして、また手を握った。

 

 自分の手の中にすっかり収まってしまう椿月の手の感触を感じながら、誠一郎は思う。

 

 

 

 いつか、自分のすべてのことも、彼女に話せる日が来るだろうか。

 

 

 

 

 

説明
※この作品は『連理の契りを君と知る』 episode4 「思いは時を越えて」(http://www.tinami.com/view/994642)の続きにあたるお話です。

開国から半世紀ほど経ち、この国にもすっかり西洋の文化が染み渡り始めた頃のお話。

贈り物をもらった椿月は、誠一郎に何かお返しがしたいと考えていた。
一方、誠一郎は打ち合わせで訪れていた出版社で人探しの話を耳にする。
偶然にもその人物を見つけ出してしまった誠一郎だったが、それを報せることができない事情があった。
そしてさらに、神矢があることに疑問を持ちはじめ、”ある人”を問い詰める――
各々の思惑が交錯し、知られざる彼女の過去があばかれる。



(2018年執筆作品・完結済み・他小説投稿サイト&自ブログにも掲載しております)

⇒続く
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