チケットの行方
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「ごめんなさい、私には受け取れません」

夕暮れの朱色が窓から差し込み階段に長い影を作る。女は頭を下げながら、一度は手にした紙切れを此方へ突き返してきた。

「だってこのチケット、誰かに渡す為に取っておいたんじゃないですか」

階段から立ち上がり階下に伸びる影と踊りながら降りていく女は、肩に掛かる髪を束ねるリボンを揺らして振り返る。その貌を睨み付けると、「やっぱり」などと宣うて笑った。殆どの生徒が下校した後の教室棟はがらんどうを曝すばかりで、此方の心中を見透かしたつもりの女の声だけが虚ろに響く。

「ライブのことであんなに女の子たちが騒いでいたのに、都合よく一枚だけ余ってるなんておかしいなって思ったんです」

自棄になって押し付けた誤魔化しを此れ以上探り当てられるのは御免だ、ポケットに其れを捩じ込みさっさと階段を降りて立ち去る。すれ違い様に視た女の表情は、腹立たしい程に和やかな笑みを湛えていた。

「八神さんが本当にライブを観て欲しい人に、ちゃんと渡して下さい」

何も知らずにただ指図をくれるだけなのだから楽なものだ。一瞥くれて女よりも低い所へ潜っていく。

「またボタンが取れたら、いつでも言って下さいね」

此方とは別の方向へと立ち去る足音。隠していた本心を言い当てられたことには腹が立った、だが心の何処かで、己の本心を誰かに曝け出せたことに安堵してはいなかっただろうか。

校舎の外へ出たら、用具室の前には運動部の生徒がまだ残っていた。其処には未だ彼の姿があって、気が付いたら傍まで行って彼の肩に手を掛けていた。

 

***

 

「八神先輩……」

無言で肩を叩かれ、部活バッグの肩掛けベルト越しに強く掴まれる。誰かと思って振り返ったら赤い髪の先輩が怖い顔をして立っていたものだから、部活の連中と一緒に固まってしまった。

こんな時間まで学校に残っているなんて珍しい、いや今はそんなことどうでもよくて、この危機的状況を周囲にどう説明してそして回避するかを必死に考える方が先だ。

だけど俺が周りに言い訳をする前に「じゃあ俺ら先帰ってるから!!」「矢吹も気を付けて帰れよ!!気を付けて!!」と我先にと校門へと駆け出していってしまった。ちょっと、置いていくなよ、おれをこんな状況にひとりにしてくれるなよ!!!!

「って、あ、あの……」

俺の願いは叫びどころか声にすらならず、背後の威圧感に掻き消される。部活で流した汗とはまた違う嫌な汗がじっとりと背中に浮かんで気持ちが悪い。八神先輩はまだ怖い顔をしているけれど、肩だって痛いしそもそも何の用なのか聞かねば話が進まない。

「先輩、あの、肩……痛いんで……」

そう言って身を捩ると、先輩は素直に手を離してくれた。多少のわざとらしさを含んで肩を気にしながら先輩の用件を聞こうとすると、先輩はブレザーのポケットから何かを取り出し差し出してきた。

もう辺りは暗かったから用具室前の僅かな照明を頼りにそれの正体を探る。だけどおれはそれを既に見たことがあった。

数日前に、彼がおれに同じように差し出してきたライブのチケット。あの時よりもよれよれで折れ曲がっているけれど、間違いない、八神先輩のバンドが今週末にやるライブのチケットだ。

でも俺は一度誘いを断ってる。急に言われてもこちらの予定というものがあるし、何よりおれみたいな何も知らないやつより本当に行きたいファンの子がいるんじゃないかと思ったからだ。だから断ったし、彼も「そうか」とだけ言ってそれ以上は何も言ってはこなかった。もう、済んだ話だと思っていたのに。

おれはチケットを差し出したまま黙っている先輩に何と答えたものかと頬をかいて、それから出来るだけ穏便に、刺激しないようにじわじわと距離を取りつつ改めてお断りを申し上げる。

「前も言いましたけど、おれこの日予定があるんです、先輩のライブなら他に観たい子なんてたくさんいるじゃないですか、だからその子に」

「貴様に観て欲しい」

胸元に、チケットを握り締めた彼の拳が押し付けられる。くしゃくしゃになったチケットを、それでもおれに、どうにかしておれだけに届けたいとでも言うように、拳はおれに触れたまま彼は長い前髪越しにおれを見つめた。

「これは、貴様の為のチケットだ」

「せ、先輩……」

「もう貴様以外になどくれてやらん」

怖い、何でこんなに切羽詰まってるんだ、何でおれなんだよ……。

……不意打ちのキスを思い出して、鼓動が跳ねる。

おれだからキスをした、って、そう言った先輩の真意は未だに解らないままで、それを聞いてしまったおれ自身の気持ちだって解らないままなんだ。なのに先輩はずっとおれを追い掛けてくる。どこにいてもおれを見つけてこうやって追い込んでくるから怖いし……ずるい。今だっておれの鼓動だけが先輩の拳に伝わっていて、相変わらずおれは先輩のことが何も解らないままだ。

答えが出せず、何も言えないまま立ち竦むおれに、八神先輩は大きく溜息を吐いて拳を広げる。歪んだチケットがひらりと落ちそうになるから、おれは思わずそれを拾い上げてしまった。

ああ、これが彼の思惑通りの行動だったのかなんて聞けやしない。だけど今チケットは確かにおれの手の中にあって、その上から彼の手が包み込むように優しく触れているのも事実だ。

「……来い、とは言わん、ただ」

チケットを握った手を攫い、手の甲に口づけを落とされる。

「貴様が此れを受け取ったという事実があれば、今は其れで構わない……今はな」

まさかこんな人目につく場所でそんなことをされるなんて思わずに、おれは慌てて手を引っ込める。大体そんな言い分勝手じゃないか、おれの気持ちに関わらず受け取った時点で先輩の勝ち、みたいな言い分、到底受け入れられるわけがない。

「またそんな勝手なこと」

「不要なら捨てろ」

「だからそういう言い方が勝手だって言うんです」

チケットの皺を広げて彼に返そうとするけれど、その度に彼の掌に遮られる。どうにもならないやりとりは平行線のまま、ふたりの間には長い沈黙が流れた。

夜風が強くなってきて、おれに握られた行くあての無くなったチケットが所在無く風に吹かれている。今おれが手を離したら、こいつは何処かへ飛んでいってしまうんだろう。いっそそうしてみたらどうだ、と頭の片隅で嫌な自分が囁いてくる。目の前で棄ててやればいくらこの先輩といえども二度と此方に近付いてなどこないはずさ。

結論から言うと、おれは自身の内なる囁きに乗ることは出来なかった。目の前の彼の前髪が風に煽られたら、熱っぽい切なさを持って俺を見つめていたから……胸がちくちく痛んで、そんなこと出来なくなってしまった。

気付いたらおれは先輩の乱れた前髪に指先で触れていた。胸を痛ませる視線から逃れたかったのか、それとも彼を慰めたかったのか……ただ、触れたかったのか。解らないけど、解りたくない気もして、おれから口を開く。

「おれ……この日、部活の記録会なんです、だから行けないと思います」

「ああ、構わん」

返事は意外なくらいにあっさりしていた。おれの手からチケットを取り上げた八神先輩は、ベストの内側へそれを滑り込ませてきたかと思えばそのままワイシャツの胸ポケットに差し込んできた。

「お前が選んだのなら」

笑みを浮かべた口元が、ゆっくり近づいて俺に触れた。

今日は頬を掠めただけだったのに、どうしてか凄く熱くて痛くて堪らなかったから、おれはそれ以上先輩の顔を見られずに走り去った。

校門まで来てからようやく振り返ってみたけれど、用具室の前の照明ももう落とされてしまっていて、彼の赤い髪は何処にも見当たらずにただ、胸元のチケットと頬に残る唇の感触だけが、夜風に薙がれていた。

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