第三世界の主 |
ここからは私、主(しゅ)のバーレットの手番である。筆圧にて押しつぶす気でいくから、お覚悟召されるが良い。
まず、第三世界の主(あるじ)とは、クリスティーお嬢様の事である。私はこの方のバーレットなのである。
クリスティーお嬢様はキリストの子孫であられ、第三世界のイエス・キリストの玄孫に当たられる方である。それがクリスティーお嬢様の本分であって、たやすく片付けられる様な方ではあられない。
つまり、クリスティーお嬢様は真(まこと)にお美しく、心の醜(みにく)い者を退(しりぞ)けられる方である。つまり、この方こそ、彼の第三世界。すなわち、この世界・この宇宙を第一世界として、第二世界が三國(みくに)という世界であって、その第三世界が彼の方、クリスティーお嬢様の統べ治められる所なのである。それは、第一世界と対照的で、まず、国という概念がなく、世界全体として存在感を放っているという所。しかも、ひとりの主によって、統べ治められているという点で、第一世界よりはるかに優れている。
私が誇るのは、その主(あるじ)であられる主(しゅ)の直接のバーレットであるからであって、主が優先的に称(たた)えられるべきなのである。
つまり、人間として、第三世界の人間として、存在しているからであって、大いにその同郷を異郷の地にて誇るのである。
つまり、第三世界の主、クリスティーお嬢様のバーレットであるから、誇れるのであって、他の何者でもない。
というわけで、クリスティーお嬢様について無知なバーレットであったが、確かに、お美しいという点で、心身ともに賛美されるべき方なのである。
しかし、クリスティー教等は存在しないので、まず、クリスティーお嬢様を一人格として扱う所から説明しよう。クリスティーお嬢様とは、尊(とうと)い方であられ、キリストの言葉をも内包される方で、私が第一世界にて現れたという事は、時が近づいているという事である。無論、主の日、刑罰の日、終わりの日がである。
私は何をするのかというと、まず、キリストの子孫というものを伝授し、キリストの純粋たるご子孫について、告げ知らせるものである。キリストはご自身の代わりに警告者として、多少ふざけてはいるものの、私を送り込んだ。ふざけた文章を書く私は存在を現す為とは言え、適当な文章を書いている訳だが、しかし、繋(つな)がりというものをはっきり神をして示す為に、この私をクリスティーお嬢様をして送り込まれたのである。
はっきり言おう。私に言い逆らう者は、主であられるクリスティーお嬢様に弓引いたという事になる。謙虚(けんきょ)に成って考えよ。私は何でどこから来たのか?考える事をあえて強要しよう。
はっきり言って、この異郷の地は全くもって主に答える口を持たない。申し訳が立たない程に、腰が抜けた状況にあるのである。色々な体験をしても言える。私はバーレットであり、第三世界の出身である。これほどまでに、存在を現そうとするのは、いわば、異郷の地を改善する為である。
主に申し訳が立たない程までに、神までも弱気で、しかも、ふざけた事を言い回っている。たとえ、それが妄想だとしても、今の日本国を見よ。韓国に残った領土さえも脅かされる状況ではないか???
一致団結し、問題解決に当たるのが当たり前なのに、「大嫌韓流」さえ出されても、誰も行動しない程である。これで主に何の申し開きが出来ると言うのだ。
私が人間として、この第一世界に生まれたのは、せめて、イエス・キリストでなくとも、クリスティーお嬢様ヶ主のバーレットを広める為である。
私と同類の人間はすべて、クリスティーお嬢様を主としているのである。
オタク、日本人、地球人、宇宙人、皆、妥協(だきょう)の産物ではないか???妥協せず物事をやり遂げる人間はいないものか?いや、ここにいる。そう、私である。とは言っても、講演会をする訳でも、舞台に上がる訳でもないが、しかし、一切信念においては妥協していない。
「私達の主はイエス・キリストである。」と告白するキリスト者は多めに見よう。「アッラーフは唯一の神なり。」と告白するムスリムも多めに見よう。しかし、他は何だ!クリスティーお嬢様どころか、神すら信じていないではないか???ニーチェが何だ。唯一の神すら信じられていない者にやる第三世界はない。つまり、唯一の神のご子孫であられるクリスティーお嬢様は常々、唯一の神を否定する者に批判を加えられているだろう。まず、天地創造というものがある中で、そのどれにケチを付ければ気が済むというのだ。哲人とは、言われるが、何の根拠があって、その様な事を信じているのか?第三世界を否定出来るなら、否定してみるが良い。第三世界は否定を受けてなお、立ち続けているだろう。第三世界を否定出来ないのならば、唯一の神を否定出来ないのである。
さあ、答えてみるが良い。「神は死んだ」等と言っている者どもは残らず、口に出してみるが良い。「果たして、第三世界というものを証明するのに、どれだけの苦労が必要に成るのか?」その証明は簡単である。クリスティーお嬢様が主と成られた第三世界は証人として、私を招集する。私は「ある。」と言う。
さて、彼らはいや、全世界の人々は「第三世界を否定する。」等という事が出来ようか?いや、出来まい。「第三世界はある。」と私は言う。果たして彼ら一同は何かしらの議論が出来るだろうか?私の知らない知識を持って来て議論出来るだろうか?いや、出来まい。
彼らには彼らなりの正義がある為に、誤解しているのだ。天地創造は紳士(しんし)であられる神によって、提示された説なのだ。その説を否定する事自体、紳士として間違っている。科学というものがありながら、哲学においては、神という存在を随分と軽く見ている様だ。
実は、私も「神は死んだ」と言ってみた事がある。しかし、駄文しか書けないではないか?ニーチェはこんな駄文を振りまいていたと言うのか?
つまりは、ニーチェ本人の問題として、牧師というものがあったのだが、その問題に向き合わず、あるいは、賢者との邂逅(かいこう)を拒否して、全責任を放棄した結果が「神は死んだ」なのである。
ニーチェは投げ出してしまったし、考えさせられる様な思考ではないという事に、人々は気付くべきである。浅い思考で終わってしまい、神において、全責任を放棄している。これがどれ程の退歩であるか?この第三世界を一目見てみれば分かるであろう。
神によって造られた真正の世界を見よ。すべてが完璧ではないか!第三世界は史上という概念そのものがなく、神の申し子としての世界である。第一世界は間抜けな間抜けな史上という考え方が流行っている様だ。そもそも史上というのは、人間史上主義に繋がっている事に気付け!この思考の罠(わな)にはまってしまった人は既に、キリスト者としてどころか?この主のバーレットとして死んでいるのである。「神は死んだ」としてしまった人は第三世界の自分自身をも死んだものとしてしまったのである。
つまり、人間として、神に従順ではなく、第三世界という可能性すらも放棄して、しかも、神においての全責任を放棄して、自分自身を欺(あざむ)いて来てしまったのである。
すなわち、結論から言おう。第三世界は第一世界とは対照的であり、僅(わず)かな人間のみゆるされるのである。第一世界から第三世界に行ける人間はほぼ皆無であり、つまり、私等に劣っている者達ばかりなのである。現実的には対等であるにも関わらず、あるいは対等以上であるにも関わらず、第三世界の事と成ると、途端(とたん)に無知に成る。そういう衆生(しゅじょう)ばかりなのである。
第三世界と口にすれば、何だろう?と釣られて来るのかと思えば、全く、この国の、この世界の人々は無能扱いされるのが好きな様だ。
ここらへんにしておこう。残りは後に回そう。ともかく、第三世界を忘れない事である。
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クリスティーお嬢様について語っていく。 | ||
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