クッカドゥードゥル・クッキング
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 私はニワトリを飼っている。ただのニワトリではない。私が卵から孵して育てた可愛い雌鶏だ。

 毎朝きちんと卵を産み、私が散歩に出かけるときはちょこちょこと後ろを付いて歩く。

 彼女の名前はピースケ。はじめはオスかメスか判らなかったもんで、鋭いくちばし突きと、小屋代わりにしていた柵も飛び越える脚力から、てっきりオスだと思っていた。

 冠のように可愛らしいトサカが生えて、メスだとわかった今でも、ピースケのくちばし突きは鋭い。私の頼もしい相棒だ。

 私とピースケが出会ったときのことは今でも忘れない。

 小学生の頃、『ニワトリは卵から生まれる』ということを聞いて、冷蔵庫から取り出した卵を温めた。

 真夏に毛糸のセーターを着込んで、クーラーもつけずに温めた。ある朝目が覚めたときに、布団の中で卵の殻を頭に乗せたピースケがいたときは感動したものだ。私に向かってピーピー鳴く姿を飽きもせずに、一日中ずっと見つめた。

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 あれから五年が経っていた。

立派な雌鳥になったピースケは、今日も私の後を付いてあぜ道を歩いていた。日課の早朝散歩だ。ハトが遠くで鳴いている声を聴きながら、早朝の涼しい風に当たる。気の早いセミがどこかで鳴いている。もうすぐ夏が来ようとしていた。

 散歩から戻ってくると、私は自分の住む松田家ではなく、私の家の裏手にある井上家へ足を向けた。ピースケもちょこちょこと後を追ってくる。

「おはようございまーす」

 井上家の前で草を啄ばんでいるピースケを置いて、勝手知ったるなんとやらでインターホンも鳴らさず、玄関を開けて入っていった。玄関からまっすぐ伸びた廊下を歩いて、突き当たりにあるキッチンに入ると、おいしそうな匂いがする。

 キッチンには大きなダイニングテーブルがあって、男の子がガスコンロの前で卵焼き器を握っている。私が「おはよう」と話しかけると、こちらを振り返らずに机の上を指差した。

「皿と箸、味噌汁、鍋」

 乱暴に単語だけを言うとまた料理に没頭する。解読するとこうだ。『皿と箸を用意して鍋から味噌汁を注いでおけ』

「はいはい」

 私は言われたとおりに、テーブルを圧迫するように置かれた食器棚から二組ずつ、皿と箸を取り出して、お椀に味噌汁を注いだ。一つは多めに、一つは少なめに。

 彼は井上吉彦。井上家の長男坊で私と同じ高校に通っている。

 どうして私がこの井上家にやってきたのかというと、私は井上家でご飯を食べるのが習慣なのだ。両親が共働きで、一人で食事をとっていた私を見かねて、井上のおばさんが面倒を見てくれるようになった。それから私は毎朝ちょっと早めに起きて散歩し、井上家で朝ご飯を食べるようになった。最初はおばさんがご飯を作っていたのだけれど、ときどき吉彦が手伝うようになって、最近ではほとんど毎日彼が作るようになっていた。

井上家は農家さんだ。私が今住んでいる辺りも農家があって、畑がたくさんあったらしいが、今は開発されて住宅地になっている。井上家はその住宅地に隣接するように建っている、この辺では数少ない農家の一つだ。

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 吉彦が卵焼きを皿に盛って置くと、朝食が全部そろった。彼が台所と食器棚に挟まれるようにして置かれたテーブルのすき間から、椅子を引き出して座った。ご飯の開始合図だ。

「いただきます」

「いただきます」

 今日のメニューは、大根のお味噌汁と卵焼き、ほうれん草のおひたしと焼き鮭に、ご飯だ。吉彦が作ると必ず主食、副食、汁物と家庭科の教科書みたいにそろっている。

 右横で吉彦がお味噌汁を啜る音が聞こえる。私はどれから箸を付けようか時間をかけて悩む。これがいつもの風景だ。

「実幸、はよう食べんと遅刻するで」

「わかっとるよ」

ようやく、私は卵焼きから箸を付けることにした。吉彦の卵焼きは絶品だ。私も自分で作るようにはなったけど、ここまで塩加減も焼き加減もちょうどいいのはなかなか作れない。箸で掴むと、ふんわりとした弾力があってふにゃっとしたり崩れたりしない。

 最初のひと口を食べきると、後は悩まなくてもあれを食べたい、こっちはどうだろうとぐいぐいと箸が進んでいく。

私が食べ終わる頃には、吉彦は制服を着て学校の準備をしていた。

「ほうら、遅刻や」

「大丈夫やもん、まだ45分もあるし!」

「無理や無理や、お前着替えるの遅いが」

「うるさい!」

 行きとは正反対にドスドス廊下を歩いて玄関まで行くと、ピースケが何事かとこちらを見ていた。

 案の定、腹立たしいことに、私は遅刻してしまった。

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 居心地の悪いホームルームを終えて、午前中はそのままの気分でお昼休みを迎えた。

 友達が購買にお昼を買いに行っている間に、お弁当箱の蓋を開けた。私が散歩へ出かける前に自分で作ったお弁当だ。すると背後からにゅっと手が伸びてきて、詰めてあった卵焼きを持っていかれた。

「あっ、なにするんよ!」

「塩味が濃い」

 しかめ面で吉彦がもぐもぐやっている。そりゃあそうだ、あんたのほうが料理上手やしね!とは言わずに、またつまみ食いされないようにお弁当箱を彼から遠ざけた。教室のみんなは吉彦の暴挙に気付かずに、さざ波のような会話を続けている。

「人のやなくて、自分の食べればええやろ」

「今日は持ってきとらん」

「購買行ってきまい」

「行かんでもええんや」

 話をきちんと順序だてて話そうとしない。吉彦の悪い癖だ。私をしばらくじっと見て、その後気まずそうにそっぽを向いて頬を掻いている。何がしたいのかまったく分からない。

「マネージャーが持ってきてくれるらしい」

「野球部の?ふうん。仕事熱心な人なんやね」

 吉彦はちょっとむっとしたようだった。的外れなことを言っただろうか。野球部のマネージャーは色々仕事がありそうだったけど、一部員の吉彦にお弁当を作るまで仕事があるとは思っていなかった。

「井上くん、いますかぁ?」

 突然、教室の中を通り抜ける高い声が響いた。ドアの前にすらっとした女の子が立っている。髪はセミロングの黒髪で、くるんとした瞳が印象的だ。

 吉彦が私のほうに顔を向けた。彼女のほうに行かないのか不思議で顔を上げると、あからさまに目を逸らされた。

 吉彦はゆっくりと彼女の方へ歩いていって、二言三言、何か話していた。

彼女が口元を手で隠しながら笑う。軽やかな笑い声だった。

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 学校から帰る途中、グラウンド横の通りを歩いていると、ガチャンと真横で大きな音がした。野球部のユニフォーム姿をした吉彦だ。部活中の彼がフェンスに指をかけてこっちを見ている。そんなことはないのに、何となくケンカをした後のような気分だった。

「おい」

「なんよ、吉彦か」

「今日の晩飯、オムライス」

「ほんまに!?」

 私が思わず大きな声で聞くと、吉彦がちょっと笑った。きっと顔に出ていたんだろう。わかりやすい奴だと思ったに違いない。

「作ってやるけん、ピースケの玉子持ってこい」

「わかった」

 ピースケの玉子は美味しい。自分が可愛がっていたペットなだけに、最初はもちろん抵抗があった。

ある日、いつもお世話になっているおばさんたちに何かお礼をしたいと思って、ピースケの玉子を持っていったのがきっかけだ。井上家でもニワトリを飼っていたけれど、おばさんはとても喜んでくれて、ピースケの玉子で野菜がたっぷり入ったオムレツを作ってくれた。結局あまり恩返しにはならなかったけれど、美味しいご飯をみんなと食べるのはとても嬉しいことだった。それ以来私は、ピースケが生んだ玉子を井上家に持っていくようになった。

学校の課題をひと通り済ませたころ、裏で引き戸が開く音が聞こえてきた。吉彦だ。ピースケの玉子を持って家を出る。玄関口のニワトリ小屋で、ピースケがいってらっしゃいと言うようにコケーッと鳴いた。

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「おかえり!」

 玄関で靴を脱いでいる吉彦にそう言うと、彼はこっちをチラッと見て目線を外した。ぐっと口の端を引き結んだ表情が、不機嫌そうだった。もしかしたら気が変わったのかもしれない。不安になって尋ねた。

「オムライス、作ってくれんの?(作ってくれないの?)」

「作るよ」

 はーっと長く息を吐き出して、無愛想に答えた吉彦が少し怖かった。彼は私に背を向けて二階への階段を上がっていく。その足音も、ちょっと不機嫌だった。

 台所に立つと、本人の性格がわかる気がする。私の母はすばやさ重視で、菜箸が近くに無かったらナイロンしゃもじを使うような人だ。野菜もあらかじめ切っておくときとそうじゃないときがあって、後になって慌てて指を切っているのをよく目にする。

吉彦はその逆だった。あらかじめ野菜や調味料を準備しておいて火を使う。ブルーのエプロンをかけた後姿を目で追いながら、私はそんなことを考えていた。

「見てばっかりやけど、実幸は作らんのか?」

「作るけど、美味しくないけんね」

 吉彦のほうが料理は上手だし、誰かと一緒に食べるほうが美味しいに決まっている。井上さんちにはすごくお世話になっている。おかげで私は独りで淋しい思いをした記憶が無い。

 やっと口を開いてくれたのに、吉彦はまだ不機嫌そうな顔でチキンライスを炒めている。最初は怖かったけど、段々腹が立ってきた。何で私が吉彦の顔色を窺わなければならないのか。

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「何か怒っとるん?」

「怒っとらん」

「それやったらなんで眉が寄っとるんよ」

「もともとこういう顔やで」

吉彦はそう言ったけれど、とてもそうは見えない。もうちょっと問い詰めようとしたところで、おばさんたちが帰ってきた。ガラガラッと引き戸の開く音と、玄関先で「あー疲れた」という声が聞こえてくる。

「あーこんばんは、実幸ちゃん!」

「こんばんは!」

「おかえり」

 無口で無愛想な吉彦とは反対に、おばさんは表情豊かで明るい。とんとんと腰を叩きながら、台所を覗き込んだ。

「お腹すいたわあ、今日のご飯何な?」

「オムライス」

「ええなあ」

 チキンライスをフライパンから皿の上によけて、あとは玉子で包むだけだった。

 そこで、だれかの携帯が鳴った。井上家ではみんな携帯を持っているけど、あまり使っているところを見ない。本当に連絡用にしか使っていないようだった。だからまず自分の携帯が鳴ったのかと思ったのに、違っていた。

「俺のや」

 吉彦が慌ててズボンのポケットから携帯を取り出した。携帯の着信音は早く出ろと大声で叫んでいるようで、妙に耳に障った。

「珍しい。だれから?」

 おばさんは好奇心たっぷりで尋ねた。吉彦は嫌そうな顔で折りたたみの携帯を開く。

「うちの部のマネージャー」

「女の子か」

「そうやけど」

「もしかして、彼女やったりするんちゃうな?」

 私はその言葉にびっくりした。なぜびっくりしたのかもわからないけど、たぶんそんなこと考えもしなかったからだろう。彼女。そういえばもう私たちは高校生だ。吉彦に彼女がいたっておかしくないのだ。

 いつもは逆立ちしたってそんなことしない吉彦が、舌打ちした。なぜかこっちを気にしながら、

「ちゃうよ。告白はされたけど」

 これにはびっくりするどころの話ではなかった。あの吉彦が?告白?ピースケは実はメスだったんだとかいう告白じゃなくて、あなたが好きですとかいう、あの告白?彼女以上に私には現実感がなくて、思わず口をぽかんと開いた。今ならピースケの玉子も口に詰められただろう。

「あらー!隅に置けんねえ」

「その言い方、気持ち悪いわ」

 ひじで突くようなジェスチャーをするおばさんから逃げるように、吉彦は廊下へ出て行った。

 私の頭の中は単語でいっぱいだった。吉彦、マネージャー、彼女、告白……どこの青春ドラマだろう。ぐるぐると脳内で巡る言葉は私の中ではとても分析できなかった。

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 翌朝、目を覚ますと、短針が一番真上にきていた。十二時。布団の中で頭を抱えながら、もう今日は休んでしまおうと決意した。お父さんお母さん、ごめんなさい。手を合わせて心の中で謝った。

 家に忍び込んだ泥棒のような気分で、リビングに降りる。窓からは夏の日差しが差し込んでいた。ダイニングキッチンにまわって、水を飲もうと冷蔵庫を開ける。真っ赤なトマトが冷蔵庫のライトに照らされてつやつやと光っていた。

 突然お腹が空いてきた。何か作ろうか。私はあらためて冷蔵庫の中を見渡した。ピースケの玉子とさっきのトマト、ジャガイモとピーマン。

 トマトをさいの目に切って、ジャガイモ、ピーマンは薄切りに。それを炒めて溶き玉子を流し込んだ。じゅうっという心地よい音が聞こえてくる。塩をふりかけて蓋をすると、あとは焦らず騒がず片面が焼けるのを待つだけ。即席のスパニッシュオムレツだ。

ぼんやりと、昨日のことを思い返した。夕食のあとは、しばらくおばさんと話をして戻ってきたような気がする。でも薄い膜がかかったように思い出せない。まるで吉彦のオムライスだ。薄焼き玉子でチキンライスを包んでいる。大好きなオムライスの味でさえ思い出せなかった。

 はっと我に返ってフライパンから蓋を外した。フライ返しで慎重にひっくり返すと、案の定黒い焦げが出来上がっていた。気を抜くとすぐこれだ。

 何とか焼きあがったオムレツを皿に盛ってダイニングのテーブルに置いた。後片付けをして、フォークと牛乳、トーストを並べる。何とかそれらしいブランチだ。

「いただきます」

 静かに響いた声は壁に飲み込まれていった。フォークを分厚いオムレツの中に沈み込ませる。焦げたオムレツはフォークのことを拒むように、なかなか上手く切れなかった。

 自分一人だけの食卓はなんとも味気ない。久しぶりに作ったオムレツは、塩を振りすぎていて、しょっぱかった。

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 遅い昼食を終えて、テレビを観たり、雑誌を読んで時間をつぶしていた私は、窓の外を見た。暑さもだいぶ薄れてきて、もうすぐ夕方になるだろう。この時期、ピースケと散歩をするときはいつもこの時間帯だった。

「散歩行こうか、ピースケ」

玄関口で靴を履きながら私が声をかけると、いつもは喜んで小屋の中で暴れるピースケが、今日は大人しい。小屋の隅で丸まって、こっこっこっこと喉を鳴らすだけだった。

「ピースケ?」

 どこか病気なのかと怖くなって、扉を開けてピースケに触ろうとした。すると私が伸ばした手の甲を、ピースケが鋭いくちばしで襲ってきた。

「いたっ!」

 コケーッっと今までに聞いたことのない大きな声で鳴く。ピースケが私を突くなんて、今まで一度も無かった。おかしい。ピースケは一体どうしたのだろう。

「ピースケ!」

 ショックで私は怒鳴っていた。今まで大事にしてきた友達に攻撃されて、哀しいのと同時に腹が立った。ピースケは私を警戒して首周りの羽毛を逆立てている。お前は敵だと言っているようだ。

ピースケはどうみても具合が悪そうだった。えさ箱にはえさがそのまま残っていたし、羽毛が小屋の中にいくつも落ちていた。なのに私に心配をさせてくれない。あんなにいつも一緒にいたのに、ピースケは信用してくれていなかったんだろうか。

「知らん、もう知らん!」

 乱暴に小屋の戸を閉めて、玄関から飛び出した。ピースケが興奮して鳴いている声が聞こえてきたけど、私はもう振り返りたくなかった。

 家を出た私は団地からまっすぐに伸びる一本道をひたすら走った。走り続けて、息切れし始めたころ、それでも速足に歩き続けた。喉が痛くて、呼吸をするたびにヒリヒリと痛い。泣きすぎて息ができないときと似ている。そのときにようやく考えた。ピースケが死んだらどうしよう。急に怖くなった。追いかけるように心臓が戻ってきて、ドッドッドッと私の胸を激しくノックしている。戻らないと、戻らなくちゃ。けれど、戻ったときにピースケが死んでいたら。散らばった羽毛の上に力なく横たわったピースケ。そんな恐ろしい想像をすると、振り返ることも怖かった。

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「実幸?」

 そこに吉彦が立っていた。まるで図ったようなタイミングだ。私の胸の中は吉彦に聞いてもらいたいことでいっぱいに溢れた。今すぐ駆け寄って聞いてほしかったけど、必死に走ってきたせいか足が重くて動かなかった。

「お友達?」

 急な甲高い声が私を現実に引き戻した。

 吉彦の隣りには、あの女の子がいた。野球部のマネージャー。吉彦にお弁当を作ってあげた人。

 私の手足は急速に冷たくなった。走ってきたせいでかいた汗が、風にさらされて冷えていく。私の視界の中には、野球部員とそれを世話するマネージャー、似合いのコンビが立っている。二人とも私を不思議そうな顔で見ていた。

 言いたかったことはあっという間に萎んでしまった。代わりに私の胸には、もやもやとした不安とも苛立ちともつかない気持ちが溢れた。

「幼馴染み」

 吉彦は女の子のほうを向いて答えた。女の子は私の顔を見て、にっこりと微笑んだ。まあるい目が半月のようにゆるむ。

「そうなの。初めまして。私、井上くんと同じ野球部のマネージャーで――」

「ピースケが、」

 気がついたら、女の子の言葉を遮っていた。

「ピースケが死ぬかもしれん」

 思わず口にした言葉が考えていたよりも当て付けがましくて、私は後ろめたい気持ちとしてやったという気持ちでぐちゃぐちゃだった。

「どういうことなん」

 吉彦は大真面目だった。私のいやらしい優越感に気づかぬふりをしているように見えて、みぞおちの辺りがヒヤッとした。

「病気かもしれん。……羽が抜けて、えさも食べとらん。でも怖がって、私のこと、突いてくるんや」

「何しとるんや!はよ病院連れて行け!こんなとこおったらいかんやろが!」

 大きな声で、吉彦は目を剥いて怒った。ドスンと胸をナイフで突かれたようだった。

 ピースケは確かに私が育てた。けれど、吉彦もずっと一緒にピースケを見てくれていた。心のどこかで、きっと吉彦ならピースケを助けてくれると思っている自分がいた。

「ごめん」

 私は下を向いた。吉彦は悪くない。私が飼い主なのだから、きちんと面倒を見なければならない。表情を隠さないと泣き出しそうだった。ピースケが死ぬかもしれないと思ったときには涙は出てこなかったのに、目の奥がじんわりと痛んだ。

「実幸……」

「うち、帰ってピースケ病院連れてってくるわ」

「そうか」

 吉彦の声が低く響いた。

 私は小さく頷いて、二人に背を向けた。情けない姿を晒していると思うと、早くここから逃げ出したかった。

 来たときは全速力だったけれど、帰りは足がもつれるように走っていた。地面はグニャグニャと私の足を押し返す。行きは視界に入っていなかった一本道が上下に揺れている。

 やっと沈み始めた夕日が、山間に押しつぶされるようにして鈍く光っていた。

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 ピースケを近所の犬猫病院に連れて行くと、先生は脱水症状です、と言った。夏場のニワトリには良くあることらしい。

 しばらくえさの代わりにスイカやきゅうりなんかをやっていると、だんだんとピースケも元気を取り戻し始めた。小屋の中で私の手を嫌がることもなくなって、散歩に行きたそうにうろうろと歩き始めるようになった。

 あれから一週間が経っていた。一週間。長いようで短くて、あっという間に過ぎてしまった。だけど、私にとっては、吉彦との距離が大きく隔たってしまった一週間だった。自分ひとりでご飯を食べるようになって、井上家の食卓の有難さがよくわかった。でも吉彦と顔を合わせなければいけないと思うと、きっといたたまれない。ピースケのこと、マネージャーの女の子のこと、悔しさや情けなさで溢れてしまいそうになることを考えたら、一人で食事をするほうがまだマシだった。

 このままがいい。もうすぐ夏休みだ。そうすれば、学校で吉彦を視界に入れないように努力する必要もないし、毎日料理していれば上達するかもしれない。これからはこうするほうがきっといい。

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 夏休み前で、午前授業で帰ってきた私はピースケを庭に放してやることにした。狭いながらも、母の休日の趣味で作られた庭は、ピースケにとって格好の遊び場だった。土を突いてミミズを探したり、砂浴びしたりしている。私はスイカを片手にその様子を見守った。軒先にそろそろ風鈴を飾るべきかもしれない。確か去年外してあそこに仕舞ったはず……。

 リビングのテレビ台の引き出しに片付けておいた風鈴を、やっと見つけ出して戻ってくると、砂浴びしていたピースケが見当たらない。観ると白い羽が何枚も散らばっている。

 嫌な予感がした。最近この辺を野良猫がうろついていた。ピースケは凶暴だけど、野良猫だって同じくらい凶暴だ。もしかしたら、ピースケを獲物に狙った野良猫が連れていったのかもしれない。

 時間にして数分だ。砂浴びに飽きて別のことをしているのかもしれない。私は自分を落ち着けてサンダルを履き、ぐるりと庭を一周する。どこにもいない。

「ピースケ!」

 呼んでみる。何も聞こえてこない。

 ピースケが野良猫に食べられるなんてことはない。私は祈るように思いつく限りのところを調べた。家の中、いつもの散歩道、あぜ道の脇の溝、お隣さんの庭、どこにも見当たらないたびに、私の悪い予感はどんどんと大きくなっていた。

 思いつく限りの場所を探したのに見つからない。もしかしたらいつもとは違う場所にいて、戻れなくなっているのかもしれないと探した。でもそんなはずはないことは私が知っている。ピースケはとても賢くて臆病で、自分の知らない道は決して通ろうとはしない。

 このまま見つからないんだろうか。私が目を離したせいで、ピースケは野良猫に食べられてしまった。

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気がついたらいつかの一本道に立っていた。

蝉が私を追い詰めるようにせわしなく鳴いている。視界がじわりとにじんで、溢れそうになった涙を手で拭おうとしたときだった。

「どうしたんや」

 強い力で肩をつかまれた。

 振り返ると、あんなに顔を合わすことが嫌だった吉彦がいる。ぎくりとした。ピースケがいなくなったと言って、一緒に探して欲しかったけど、今の私はこの間のことを思い出してできなかった。

「お前、泣いとんのか」

「泣いとらん」

「何かあったんか」

 話したくなかった。私がそのまま通り過ぎてやろうとしたのを、吉彦が腕を掴んで止めた。

「言うてみい」

「ピースケがおらんくなったんや!あんたには関係ないやろ!」

 思わず叫んでいた。たかがニワトリごときに。確かにそうかもしれない。でも、私にとってピースケは、ニワトリでペットで友達で、家族なのだ。

「関係あるわ」

 吉彦がぎゅっと強く腕を握ってきた。強い声だった。

「今までよう言えんかったけどな、ピースケは、うちのニワトリが産んだヒナや。ちょっとからかってやろうと思うて置いたら、お前が喜んでしもうて言うに言えんようなってしもうたんや」

 ニワトリはパックの卵からは生まれない。

 そんなことは今ではもう知っていた。もしかしたら、そうかもしれないと思っていたのだ。

 けれど言ってしまうとピースケを返さなければいけなくなる。吉彦の悪戯でも、あの小さな友達が出来たことが嬉しかったのだ。

「アホやなあ」

「お前もアホや。気がつきもせんでずっとヒヨコ育ててな」

「そうやな」

「けど、今までずっと育ててきとるんは偉い」

 吉彦があんまり真剣に言うので、なんだか笑ってしまった。嬉しかった。この瞬間、私の胸の中にあったわだかまりは消えていた。あんなに重く苦しかったのに、今では重かった分ずっと身体が軽くなったようだった。

 私が笑い声をあげたのを合図にするように、どこかからコケーッという鳴き声が聞こえてきた。一本道を堂々と花道のように歩いてくるピースケがそこにいた。コーコッココーコッコとその鳴き声は、自分の作戦が成功した悪役のようだった。まさか。いくら頭のいいニワトリとは言ってもそこまでは……

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 何はともあれ、うちの大事なニワトリさまのおかげにしておこう。

私はその日、久しぶりに井上家でご飯を食べた。あさりのおすましに、三つ葉の乗った親子丼。吉彦の料理はやっぱり家庭科の教科書みたいだった。

「俺ばっかり作るんしんどいんや。これからはお前も手伝え」

「うち、焦がすん得意やで」

「練習せえ」

「そうやな、吉彦より上手に作るようなってやるわ」

 私がそう言うと、吉彦はちょっと頼もしそうな顔をした。

 私は井上家のご飯が大好きだ。吉彦はピースケを育てた私を偉いと言ったけれど、人を幸せにする美味しい料理を作れる人は同じくらい偉いと思う。

私だって負けていられない。いつか言わせてみせるのだ、『美味しい』と。

 

説明
少女向けを目指して、なりきらなかった残念作。恥ずかしいノリ
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