フィリピン人はやたらと混血をしている。フィリピンの英雄ホセ・リサールも例外ではなく、父方は中国人、マレー人の混血だし、母方は日本人とスペイン人の血が混ざっていたそうだ。フィリピン人には語学に堪能な者が多く、EF英語能力指数(EF EPI)によると、フィリピンの英語力は”アジアの中では”シンガポールに次ぐ第2位(世界ランキングの1位はオランダ 2位はノルウェー 3位はシンガポール 〜 日本は92位)になり、フィリピンはアメリカ、イギリスに次ぐ3番目に英語が使われている国と言われているらしい。 革命の英雄ホセ・リサールはスペインの植民地で、8歳にしてタガログ語(フィリピンの標準語)とスペイン語を身に付け、1879年にスペイン語による詩のコンテストで最優秀賞を獲得している。1882年に大学医学部を修了した後、ヨーロッパへ留学し、国立マドリード大学の医学部と哲文学部の両学部に入学した。26歳までにスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語などの諸言語を習得し、中国語、日本語、タガログ語(マニラの標準語)、ビサヤ語(ミンダナオの方言)、イロカノ語(ルソン島北部の方言)を研究していたそうだ。マドリード大学卒業後、1885年7月から翌1月まではパリ大学でフランス語と眼科学を学び、1886年2月から1887年5月までドイツ帝国の3つの大学で学び、ドイツ語で書いた社会学の論文が評価されている。1887年7月3日に26歳でヨーロッパを離れ、同年8月5日にフィリピンに戻った。フィリピン帰国後は医者として働いていたが、出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』(「私に触らないでください」復活したイエス・キリストがマグダラのマリアに言ったとされる言葉)が反植民地的だとスペイン側から問題視されてしまい、身の危険を感じたリサールは、27歳で再び海外留学へと旅立つ。目的地は再度ヨーロッパだったが、今度は日本とアメリカ合衆国を経由して向かった。リサールは1888年2月に横浜に到着し、2か月間滞在した。本来は2日間の滞在予定だったが、貿易商の娘「おせいさん」こと臼井勢似子と親しくなり延長している。リサールは英語とフランス語がある程度話せた勢似子と二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留して、日本の文化と言葉を学びながら長期滞在したという。リサールの没後に遺品を整理した際、勢似子の写真とリサールの日記が発見されており、「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていたそうだ。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子の墓があるが、毎年リサールの誕生日である6月19日にはフィリピン大使館から花が供えられているそうだ。1888年4月にリサールはサンフランシスコ行きの船に乗り、船中で末広鉄腸と懇意になった。英語が話せなかった末広は「親切なフィリピン人青年が船で助けてくれた」と書き残している。リサールと意気投合したためにサンフランシスコ到着後も、ロンドンで5月に別れるまで共に行動している。リサールはその後歴史の研究を進め、スペイン人による植民地支配以前の歴史を研究している。マドリードに滞在していたフィリピン出身者と共に、半月刊のスペイン語新聞『ラ・ソリダリダッド』(団結)の創刊に加わり、「プロパガンダ運動」を行っている。1891年9月にベルギーで2作目の小説『エル・フィリブステリスモ(反逆・暴力・革命)』を出版した。1892年にフィリピンに帰国したリサールは ” 7月2日 ” にラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)を結成したが、数日で逮捕されてしまった。ラ・リガ・フィリピナの思想は 急進的な革命を望むものではなく、スペイン統治下のまま 暴力を用いず穏健な改革を望むものであったのだが、この方針でさえ危険視されて植民地政府に逮捕されてしまう。そして7月7日にミンダナオ島へ流刑され、医者、教師として住民に接したり、ヨーロッパの学者からの依頼に応じてミンダナオ島の地質、昆虫、動物についての研究を残している。すでにリサールは20数言語を習得していたという。1896年7月に流刑を終えた後、軍医志望が許可されたため、スペイン海軍の巡洋艦に乗り込み、キューバへと向かうが、船が地中海に入ったところで秘密結社カティプナン( フィリピン独立運動の中心となった秘密結社で、1896年8月に武装蜂起した)が独立闘争を開始したため、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、12月26日に銃殺刑が宣告されると マニラで12月30日にリサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳で銃殺された。リサールは英雄扱いされているから、勇敢な戦士のイメージが強いが、実は武闘派ではなく、ただのインテリで 魔法の使えない賢者であった。 |