狗張子 サガシモノ
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 デートの帰り、まんまと泰田をホテルに連れ込む事に成功した。

 初めてのラブホテル、薄暗い廊下、丸くて大きなベット、妙な物を売っている販売機にドキドキして大人への階段をまた一歩昇った気がした。握りあった手がべとべとするのは泰田の汗なのか僕の汗なのか。

 ベットに押し込んでシャワー浴びるーとか言っている口を無理矢理唇で塞いで、僕の手はスカートに潜り込む。

 やだやだとか言っていたが、なんですか、パンツが新品じゃないですか、このアマとか思ったが、口にはださない。

 ワクワクドキドキ。

 

 で、肝心な時に僕のモノは勃起しなかった。

 

 ベットに顔を伏せて凹む。

「いや、てっちゃん、その、気にする事無いって」

 ギリシャの哲人風にシーツをくるくると裸身にまとわせた泰田が僕の背中を撫でながら慰めてくれるけど、声になんか軽蔑の色を感じるのは僕の考えすぎなんだろうか。

 泰田がカムインとなってるときに僕のモノはふにゃふにゃで、何とも嘆かわしく悲しい。

 僕は服を高速で身にまとい、泰田の哀れみの目から逃げた。ラブホから走って逃げた。

 

 

 その後、気まずいので学校で泰田を無視しまくっていたら、いつの間にかあのアマは新しい彼氏を作り、一緒に下校したりしていた。

 僕は哀れなインポ野郎なので、そっと教室の窓から楽しそうな二人を目で追いかける事しかできなかった。

 すごく落ち込んだ。

 泰田はまあ、普通の顔でほんの少しだけ可愛いのだけど、一番の魅力は明るくて面倒見が良いことで、勉強が多少出来るけど陰気な僕にも色々と声を掛けてくれていて、ああ、僕には過ぎた彼女だなあと思っていたんだけど、いまでは彼女でも何でもない他人様になり、他の野郎の恋人になってしまい。やりきれなくて切なくて、じっと手を見たり地面を見たり空を見たりした。

 しかたがない、僕は哀れで救いようのない勃起不全男なんだから。

 

3

 

 河童山の天神様で七夕祭りがあるんだけど、今年は浴衣の泰田と一緒に行って射的したり金魚すくいしたり輪投げしたり花火を見たり出来るんだなあと思っていた矢先のインポ事件だったので、七月七日は部屋でどろろんと転がっていた。

 遠く、とんとーんと花火の音が聞こえてきたとき、玄関で呼び鈴がピンポンと鳴った。

 戸を開けるとヒマワリの柄の浴衣を着込んだ泰田がはにかんで立っていた。

「……なんだよ」

「お祭りに行こうよ」

「彼氏といけよ」

「てっちゃんと行きたいんだよ」

 うるせえ、と言って、硝子戸をしめた。

「てっちゃんっ!」

 泰田が怒鳴って硝子戸を開けた。

 戸が勢いよく走ってがしゃんと大きな音を立てて止まった。

 泰田は手に持った巾着を振り上げた。

「私、加藤君とセックスしたよっ!!」

 僕の胸に得体のしれない刃物のようなモノが突き刺さった気がした。

 泰田は純潔を失ったのだ。

 処女で無くなった汚れた女が、清く正しい童貞の僕をばかばかと巾着で殴った。

「や、やめろっ」

「てっちゃんのわからずやっ! いくじなしっ!」

 泰田の女下駄キックが僕の足を襲い、あまりの痛さにかがみ込んだ所を、両手で突き飛ばされてあがりかまちに突っ伏した。

 淫乱で恥知らずの女は僕への攻撃をやめない。

「加藤君は優しくしてくれた! 加藤君大事にしてくれる! でも、私が好きなのはてっちゃんなのっ! だから付き合いを元に戻すから!」

 むちゃくちゃな事を言うな。

 泰田は僕に馬乗りになってぼかぼか殴る。

「セックスなんか大したこと無いじゃないっ! てっちゃんとお話できなくなるのイヤだっ! だから良いじゃないっ!、兄妹みたいな、肉親みたいな付き合いでも、いいじゃないよおおっ!!」

 ぼかぼか殴られている背中に熱い水飛沫がぱつぱつと落ちるのを感じた。最後の方の泰田は鼻声になっていた。

 ちきしょう、と思った。

 なんで、ちんこが立たなかっただけでこんな屈辱的で悲しくて寂しい目にあわないといけないんだ。

 どおして大事な子がとてつもない暴力を振るうほど追いつめてしまうのだ。

 僕はいつの間にか、嗚咽を上げて泣いていた。

 おうおうと犬のように屈んで泣いていた。

 ちくしょうちくしょう。

 泰田も僕の背中にすがりつき震えて泣いていた。

 ふと視線に気がついて目を上げると、お母さんが気まずそうな微笑みを浮かべて立っていて、目が合うと視線を逸らし台所方面に消えた。

 

4

 

 泰田とは、なんか微妙な関係になった。

 兄妹みたいな、肉親みたいな、親友みたいな、そんな関係になった。

 泰田は加藤との交際は続けているみたいだ。

 中庭でお弁当を一緒につついている姿とか見てしまうと、上から物をおとしちゃれなどの悪い心が立ち上がり、いかんいかんと即座に反省し、僕は泰田と仲良しではあるが、愛を交わす資格などないわけで、ヤキモチを焼いたり、不快になったりする方がおかしいのだ、そうなのだ、泰田が幸せなら良いじゃないか、と自分に言い聞かせるが、よく考えたら僕が好きなら、加藤と付き合う必要は少しもないわけで、その辺の所を問いつめると、処女が重かったの、と答えられて一言も返せない。女子に肉欲がないというのは男子の身勝手な願望であって、マンコがあるんだから欲望もあるのだろうと思った。

 

5

 

 夏休みがどんどん近づいて来て、泰田が遊びに行こうよ、とか言いながら甘えてくるのが嬉しくてうっとおしくて切なくて甘い。泊まりがけで行って一緒に夜を過ごせば、セックスできるか試そうとするだろうし、たぶん、また立たなくて、悲しい朝を迎えるのだ。プールや海に行くとしても泰田の水着姿を見ると、なぜ僕はこのちょと寸胴気味の肉体と愛を交わせないのかと悲しみのどん底にスパイラルで落下していきそうな予感がした。

 そんな砂糖菓子のように綺麗でもろい男の子の心を、無神経であばずれな泰田はちっとも理解しないで、下から見上げるように小首をかしげて、いいでしょ? とか聞いてくる。

 

6

 そんな初夏のある日、僕はオリエと出会った。

 

7

 

 転がり落ちそうな満月の夜だった。

 犬の遠吠えが寂しそうに長く低く夜の果てにのびていくのを聞いた。

 泰田と図書館のロビーで夏の計画について話し合い、というか泰田が一方的に喋っていたのだが、喋り疲れた泰田を家まで送って行った帰りだった。

 街灯の光で長く伸びた影を連れて僕は坂をのぼった。

 蛾がはたはたと街灯に羽ばたきをしていた。

 昼の熱気もこの時間には消え去り、涼しい風が頬をくすぐっていく。

 雲が月をかすめ流れ、ふくらみ、月光を遮って辺りは暗くなった。

 

 前方から、ふいに異臭が漂って来た。

 公衆便所みたいな匂い。

 そして、強い血の臭いが漂ってきた。

 街灯の明かりの円の中に、つつ、と赤い物が流れてきた。

 ざあああ、と頭の後ろの竹藪が風を受けて鳴る。

 ぐちゃぐちゃと何かをかき混ぜるような音がする。

「ない、ない」

 女の子の声がした。

 捨てられた子供の泣き声のような悲しげな声だった。

 

 月が顔を出す。

 蒼白い月光に闇の中身が浮かびあがった。

 線の細いかんじの女の子が男の死骸に跨って、むき出しになった腹部を切り刻んでいた。

「ない、ないぃ」

 彼女の手は猛禽のようなかぎ爪になっていた。

 かぎ爪は男の死骸のはらわたを掻きだし、切り刻み、引きちぎっていた。

 

 僕は恐怖にすくみ上がった。

 でも目が離せなかった。

 僕の額から粘っこい汗が出て、眉の所で止まったのが解った。

 後ずさりする時に空き缶を前に蹴飛ばしてしまった。

 缶はからんからんと音を立てて重力に逆らい上に転がり、彼女の足に当たって動きを止め、またこちらに戻ってきた。

 ペプシの青い缶にぺったり血が付いて、アスファルトに筋を描いた。

 その瞬間、幻覚じゃ無いんだと実感し、総毛立ち、ひっと一声声を上げてしまった。

 

 死骸の腹腔に頭をめり込ませるようにしていた彼女の動きが止まる。

 まず、肩があがって、頭があがり、ぎらぎらとした目が上を向いて、僕を見た。

 白いサマードレスが血まみれだった。

 頬にも血が飛び散っていた。

 もの凄い目だった。

 感情のこもっていない、獣の目。

 突き刺すような視線。

「みつからないの」

「な、なにが?」

「どこにもないの」

「な、なにが?」

「あなたはしらない?」

 ゆっくりと彼女は死骸の上から下りて、背中を丸め四つんばいのような姿勢で僕の方へ近づいてくる。

 だらりと伸ばしたかぎ爪がアスファルトに四本の血の筋を付けていた。

「シオミツタマ……」

「し、しらない」

「誰かの中にあるの、どうしても必要なの」

 彼女は裸足だった。

 足にぺったりと血が付いて、赤い靴を履いたようになっていた。

「探さないと」

 彼女が近づく。

 目が暗い。

 吸い込まれるように暗い。

「探さないと」

 そして。

 彼女は綺麗だった。

 血にまみれ、焦点の合わない目をしていたけど。

 街灯の灯りの輪の中の下で、信じられないほど美しかった。

 白い肌、赤い血、黒い目。

 かぎ爪。

「探さないと」

 彼女の荒い息が聞こえる距離まで近づいてきた。

 彼女から強い血の臭いがするほどにまで近づいてきた。

 かぎ爪が届く距離まで近づいてきた。

 

 死ぬんだなと思った。

 綺麗な女の子に猛禽のような爪で切り刻まれて腑分けされ、シオミツタマとやらを探されるのだ、と思った。

 

 女の子はそのまま、つい、と僕の隣を通り過ぎた。

「探さないと……」

 血で赤いまだらになったサマードレスが遠くなり、つぶやく声が小さくなり路地を曲がって消えた。

 僕はただ、立ちすくんで路地を見つめていた。

 

 僕のアレが天を突くように堅くきつく立ち上がっていた。

 信じられない思いで久々に硬度を増したそれを握りしめた。

 何かが帰ってきたような気がした。

 

2

 

 お巡りさんを呼んで慌てて現場に帰ってきたら、殺害の痕跡など欠片もなく、僕はお巡りさんに頭をこづかれた。

 頭を撫でながら、僕はしおしおと家に帰った。

 

 納得できないので、事の顛末をブログに書いた。

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バケモノを見た        byアイアン

 

塾の帰りにバケモノに会った。

男の人を殺して、はらわたをぶちまけていた。

綺麗な女の子で、手にかぎ爪が生えていた。

 

お巡りさんを呼んで現場に戻ったら、痕跡一つ無かった。

あれは、一体……。

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 ノートパソコンでパコパコとブログに打ち込んで文章にすると、呆れてしまうほど嘘っぽかった。

 まあいい、このブログは誰も見てないし、コメント一つ書き込まれた事がないが、今後僕に何かがあったらきっと良い証拠になることだろう。

 そう思って僕はノートパソコンをたたみ、寝た。

 

 

3

 

 登校の前に彼女を見た坂に行ってみた。

 やっぱり、なんの痕跡もなく、道だけが、なだらかに河童山の上に向けてジグザグに昇っていた。

 夢、だったのかな。

 そう思って学校へ向かう。

 妄想。

 幻覚。

 そんな単語がつぎつぎに脳裏に浮かぶ。

 

 それにしては、くっきりとあの時の情景を脳裏に浮かべることが出来る。

 血の臭い、斬りつけるような雰囲気、あの子の暗い目。まだらに赤いドレス。捨てられた子供みたいな悲壮な声。

 

 教室について、僕の席で考え込む。

 あれは、なんだったんだろう。

 どうして勃起できたんだろう。

 あの後に家に帰って試したのだが、わが情けない器官は、また、しんと静まりかえっていた。

 

 ふと、僕の視線が止まった。

 向かいの校舎。屋上の金網の向こうに女の子が立っていた。

 あれは……。

 僕は立ち上がった。

「てっちゃん、どこ行くの。授業がはじまるよ」

「授業がなんだっ」

「うわ、理由無き反抗だよ」

 僕は机の間の谷間を早足で歩き、教室を出た。

 あれは彼女だ。

 急いで歩く。

 隣の棟へ渡り廊下を伝う。

 階段を上る途中で始業のチャイムが鳴った。

 

 屋上のドアを開けた。

 青い空が広がり、その下の屋上には人影がなかった。

 物陰や貯水タンクの下などを目で探す。

 誰も居ない。

 確かに……。

 あれは彼女だった。

 屋上の金網越しに僕の教室を見ると、泰田が小さく手を振っているのが見えた。

 

4

 

 放課後、彼女を見つけた。

 焼却炉の上で猫みたいに丸くなって寝ていた。

 思わず近づいて行った。

 焼却炉は轟々と燃えていて、きな臭い香りがあたりに漂っていた。

 煉瓦で出来た年代物の焼却炉は、ゴミ入れ口と煙突の間に少し段があって、彼女はそこで丸くなって目を閉じていた。

 彼女の手を観察する。

 普通の綺麗で華奢な手だった。

 彼女は細く目を開けて、こちらを見た。

「なに?」

 なにと言われて、僕は困る。

「そ、そこは温かいの?」

「ぬくいよ」

 彼女はそう言うと興味を失ったように、また丸くなって目を閉じた。

「き、君の名は?」

 彼女の目がまた開き、不思議そうな色を浮かべて僕を見る。

「なんで?」

 なんでって……。

「ぼ、僕は哲夫。君は?」

 彼女はめんどうくさそうに煙突から立ち上がる煙を目で追った。

「オリエ」

「な、何組?」

 上履きは青い、同じ学年だ。

「うるさいよ」

 拒絶された。

「さがしものは見つかったの?」

「サガシモノ?」

「き、昨日言ってた」

「昨日? しらない」

 とぼけている感じではない。では、昨日のオリエは……。

 ごとんと焼却炉が音を立てた。きな臭い香りが強くなる。

 オリエが僕を見る。

 その目の色は真っ黒な目ではなくて、少し鳶色で、昨日のオリエとは違う存在なんだと思った。

 僕はその場を立ち去った。

 名前を知った。学年も同じだと解った。

 

5

 

 ブログ会社のサーバーが壊れたらしく、僕のブログが全損していた。

 丁寧なお詫びのメールが来ていた。

 テキストエディタで書いてからブログにアップしていたので、記事のバックアップはあった。

 トラックバックもコメントもほとんど無かったので問題はない。

 僕は一週間分の記事を登録しなおした。

 

6

 

 学校でオリエの事ばかりを目で追う。

 オリエは友だちが居ない。

 協調性がない。

 先生からも生徒からも敬遠されていた。

 綺麗なはぐれ狼な感じだ。

 勉強は出来るようだ。

 運動神経も良い。

 ずっとオリエを目で追う。

 まだ、捜し物をしているのだろうか。

 夜の街を徘徊し、かぎ爪で人をバラバラにしているのだろうか。

 時々オリエと目が合い、そのたびに、なに見てんだ、という目で見られた。

 

 もくもくと煙を吐き出す焼却炉、その上にオリエは今日も居た。

「お前はオリエの事が好きなのか?」

 焼却炉の上の変わり者の女は僕にそう聞いた。

「きっと運命だ」

 僕はナイスな受け答えをした。

 オリエはなんだか遠い目をした。

「そんな運命はイヤだ。オリエはお前みたいなタイプは好きではない」

「どんなタイプが好きなんだ? 努力するから」

 オリエは寝ころがったまま腕組みをして考え込んだ。

「今、考えた、オリエはあまり恋愛に興味がない事が解った」

「何に興味があるんだ?」

「……誰とも付き合わない静かな生活?」

「世捨て人だなあ」

「あまり人が好きではないんだ。うるさいし、うっとおしい」

「僕はうっとおしい?」

「うるさいと思う」

「誰とも喋らず、誰とも関わり合いにならないで焼却炉の上で寝てるのがオリエの理想?」

「……それは、すばらしい生活だとオリエは思う」

 なんて堕落した女だ、卒業したらニート一直線だな。

「一度デートしてくれたら、あきらめる」

 オリエがどうしようかなあという顔をした。

「デートしないければ、毎日来るのか?」

「来るとも」

「めんどくさいな。噂に聞くデートなる物事がオリエの人生に入ってくるとは思わなかったぞ」

「何にだって初めてはあるさ」

「わかった一回だけだぞ」

「よし、どこに行く?」

「どこでも、お前の好きな場所に連れて行け」

 デートは次の土曜日という事になった。

 やったー。

 

8

 

「シオミツタマ」というのは、古事記に出てくる物ではないかと思った。

 市立図書館に古事記を探しに行った。

 ロビーで泰田が本を読んでいるのを見つけた。感づかれないように屈んで通り過ぎたのにばれてしまった。

「てっちゃん、織絵さんとデートだって?」

「な、なぜそれを!」

「女子のネットワークを嘗めちゃいけませんぜ旦那」

 泰田は編み物の本を傾けて、くふふとハードボイルドに笑った。

「どこに連れていったら喜ぶと思う?」

「……」

 不愉快そうな顔の泰田って珍しいよな。

「やきもち?」

「へ、平気だよ、てっちゃんが一番好きなのは私だし、私が一番好きなのも、てっちゃんだから、信じてるし」

 泰田は平気で嘘をつくからイヤだ。

 編み物の本がぷるぷると震えていた。手の血管が浮き出るほど強く本を握りしめていた。

 ざまあみろと思った。

 加藤とセックスしたと聞いた時の僕の気持ちが少しはわかったかと思った。

 同時に申し訳なさと、泰田を裏切ったという苦い気持ちが胸の中一杯にあふれてきた。

 泰田が制服のポケットからチョコレートを出して銀紙を向いてカリリと囓った。

 ポロリ。

 泰田の丸い頬に涙がこぼれた。

「織絵さん、植物園が好きだって」

 鼻声で泰田は言った。

 もぐもぐと、泰田は泣きながら何時までも何時までもチョコを噛んでいた。

「いっしょに……」

「行かないっ!!」

 泰田はいきなり立ち上がると食べかけのチョコを僕の口にねじ込んだ。

 荒々しく編み物の本を閉じると、タタタと本棚の向こうに消えていった。

 チョコが、すごく甘かった。

 

9

 

 図書館から借りてきた古事記をカバンから取り出して、ベットに寝ころんだ。

「むぎゅっ」

 体の下に何か固まりがあって、僕の下敷きになって変な声をだした。

 体を起こすと、十歳ぐらいの小さな女の子がのそのそとタオルケットの下から顔を出した。

「痛い」

 おかっぱで凄くちっちゃくて可愛い子供だった。

「えっと、誰?」

 親戚にこんな子居たっけ?

「わたしは犬吠埼犬子、犬子でいいよん」

 なんだか凄く偽名っぽい名前だった。

「はあ、そうですか」

「ブログの記事のバックアップを消しに来たんだ。ああいう事書いちゃだめ」

「はあ?」

 ああいう事? たいした事は書いて……。

 もしかしてオリエの記事?

「インターネットが出来て、もう面倒くさいったらさあ。とにかく駄目だから処置したよ」

 犬子は僕の机の方を指さした。

 僕のノートパソコンがバラバラになっていた。

「うわああっ」

「これ、代わりのハードディスク。直せなかったら修理に出して領収書を送ってちょうだい、払うから」

「な、なんて事するんだよっ!」

 僕はよろよろと机に近づいた。

 パソコンは凄い適当にバラバラにされていた。

 ハードディスクに大穴が空いていた。

 お小遣いを溜めてやっと買ったのにー。

「仕事したら疲れたので、犬子は寝まーす」

 そう言って犬子はタオルケットを巻き付けて寝ころがった。

「なに、勝手な事言ってるんだっ!」

 なんだ、この身勝手な生き物はーっ。

 

8

 

「おかあさんお代わりっ!」

「犬子ちゃん、食欲旺盛ね、たんと食べてね」

 わが母親はニコニコしながら犬子にご飯をよそう。

「やっぱり女の子は良いなあ。哲夫はいつもしかめっ面でなあ」

 わが父親は夕刊の向こうから満面の笑みだ。

 犬子めは小さい体にみあわず、ばくばくご飯を食べる。

「おかあさん、料理上手いね、美味しいよ」

 誉められて、わが母親はえびす顔だ。

 僕はしかめっ面でぽそぽそご飯を食べる。

 なにゆえ、わが両親は「親戚の犬吠埼犬子」という自称をすんなりと受け入れるのだ?

 

 夕食が終わり、自室でパソコンの無い机に付いて、茫然と座っていた。

 インターネット出来ないと手持ちぶさたな物だなと思った。

 お風呂に入ってホカホカになったパジャマ姿の犬子が入ってきた。

 そして、そのまま、僕のベットに潜り込む。

「まて」

「なに?」

「おかあさんが客間に布団ひいたろ」

「堅いこと言わない言わない」

 犬子はにっぱり笑った。

「女の子と一緒に寝れるかっ!」

「いいじゃんかよー。Hな事してもいいよ」

「ふざけんな、子供がっ!」

 ロリコンエロゲーじゃないんだぞ。

「お前は何者だ?」

「犬吠埼犬子だってば」

「どうしてブログを消しに来たんだよ」

「仕事だから」

 うわ、取り付く島がない。

 ブログを消す仕事ってなんだろうか。

 襟首つかんで放り出すわけにもいかないしなあ。

 しかたなく僕は机について古事記を読み出す。

 海彦山彦の話の章を開ける。

 

9

 

 海彦山彦の話は単純だ。

 海産物を得る事を生業にする兄の海彦がいて、山で猟をする弟の山彦が居る。

 ある時、山彦はお互いの仕事を交換しようと提案する。

 で、仕事交換したあと、山彦は海彦の大事な釣り針を無くしてしまう。

 大事な剣を溶かして千本の針を作っても、海彦は許してくれない。

 海辺でしくしくと泣いていると、海の中に入って探せと、神様の一人に助言されて、山彦は海の中に行く。

 竜宮城みたいな場所で豊玉姫なるお姫様と山彦は仲良くなり、無くした釣り針を見つける。

 海彦に釣り針を返そうと竜宮を出る山彦に豊玉姫はシオミツタマとシオヒルタマを持たせた。

 意地悪を言った海彦に、山彦はいろいろ悪さを仕掛け、最終的にシオミツタマで溺れされ、服従させるのであった。

 

 古事記の中でも因幡の白ウサギに並んで童話っぽい話だ。

 なんで、釣り針無くした事を責めただけの兄に、ここまで復讐しなければならないのだろうか。

 山彦やりすぎだと思うなあ。

 

「シオミツタマ……」

 話からすると水の満ち引きをコントロールする玉のようだ。

「球がどうしたって?」

 正体不明のお子様がベットの中から声を出した。

 僕は答えない。

「どうしてあのブログ記事を隠したいんだ? 誰が困るんだ」

 かわりに聞き返す。

「一般の人は知らなくて良いんだよ」

 だったら特殊な人に僕の持つ情報を与える筋合いもない。

「かぎ爪の女の子を追っているの?」

「トリオニ」

「トリオニ……」

 かぎ爪。血の臭い。オリエ。

「僕に協力して欲しいなら、それなりに情報を教えてくれよ」

「哲夫の協力なんか要らないよ」

「じゃあ、なんで僕の家に居着くんだ」

「ホテル代が浮くじゃん」

 なんだよ僕の家は単なる無料宿泊所なのかよ。

 

10

 

 犬子が寝込んでいるのを確かめて、僕は外に出た。

 夜間外出は不良の始まりだが、あのオリエには夜間しか会えない気がした。

 昼間のオリエも魅力的だけど、やっぱり僕は夜のオリエが好きみたいだ。

 オリエのお屋敷を起点にくるくると円を描いて夜の街を回る。

 夜の街、夜の匂い。空には星、月は半月、初夏の夜風は丸くやわらかな匂いがする。

 歩く、歩く。

 考えるのは泰田の事、オリエの事、僕の立たないモノの事。

 不幸は時に雨降りのように人生にやって来て、去っていく。

 何時か、また僕のモノはたくましさを取り戻し、泰田を満足させることが出来るのだろうか。

 このまま排尿にしかつかわないモノをぶら下げながら、中国の宦官のような人生をおくるのだろうか。

 

 児童公園でブランコを漕ぐ白いサマードレスを見つけた。

 近づくと、オリエ。しかも目が海の底のように黒い。

 近づいていく。

 オリエはこちらを見ない。ぶつぶつと何かつぶやいている。

「こんばんわ」

「……」

 反応が無かった。

 キイキイと軽くブランコを揺らせていた。

「サガシモノ見つかった?」

「ない……」

「そうか、見つかると良いね」

「シオミツタマが見つからないと……」

「どうなるの?」

 その先をオリエは語らない。

「姉が……」

 姉?

「さがさないと……」

 オリエはブランコから立ち上がった。

 ふらふらと公園の出口に向かう。

 僕はあわてておいかける。

 

11

 

 夜の街をオリエは飛ぶような速度で歩く。

 ついていくのが精一杯だ。

 赤い顔をした酔っぱらいのおじさんが電柱に額をこすりつけるようにして携帯を掛けていた。

 ざわりと、空気が変わった。

 オリエの背中の筋肉がうねるのを僕は見た。

 ヤバイッ!

 僕がオリエに飛びつくのと、オリエがかぎ爪になった手を振り下ろすのが同時だった。

 かぎ爪は軌道を変え、電信柱に巻いた黒と黄色のカバーに四本の筋を作った。

 カバー下のコンクリート部分まで削り、体育倉庫の石灰のような匂いがただよう。

 僕が飛びついたオリエの腕は、まるで鉄の棒みたいで、ギザギザになった皮膚で僕の手が切れて痛い。

 よっぱらいのおじさんは目をまるくして後ずさりをした。

「早く、逃げてっ!」

 オリエが真っ黒な目で僕を見た。

「じゃま? する?」

「するっ!!」

 おじさんが悲鳴をあげて逃げた。僕はオリエに一振りされて路上に転がった。

 月を背にオリエは僕を見下ろす。

 真っ黒な瞳が無表情に僕を見下ろす。

 それはそれは綺麗で。

 僕のアレが立ち上がった。

 

 解った。

 解った。

 僕はオリエとセックスしたいんじゃない。

 オリエに殺されたいんだ、と、解った。

 胸に甘いものがあふれ出した。

 オリエが腕を振りあげる。

 かぎ爪で殺されるんだと思った。

 ワクワクした。

 腰がジンジン痺れて、アレがびくびくと、僕とは無関係な生き物みたいに蠢く。

 

 オリエの爪が振り下ろされるのと、僕が射精するのと、真っ黒な大きい何かが横から飛び込んできて僕の前に立ちふさがるのが同時に起こった。

 耳障りな金属音を聞きながら僕は閃くような快感に呻いた。

「?」

 オリエが目の前のモノを見つめていた。

 それは大きい人間で、頭だけが狼だった。

 狼男?

 ふさふさとした毛並み。

 ボディビルダーのように盛り上がった筋肉。

 手に握った何か棒のような物でオリエのかぎ爪を止めていた。

 なんだ、これ?

 流れるような動きで狼男が腰を落とし、腕を引いた。

 古武道みたいな構えだと思った。

 パパパパンと軽い音が聞こえ、正拳突きが何発もオリエのいた位置に伸びるのが見えた。

 オリエは半身を捻って拳をかわし、野球の投球みたいなフォームで爪を振るった。

 狼男は二の腕を立て、それを止め、滑るように前に流れて肘をオリエの胸板に打ち込んだ。

 鈍い音がしてオリエが後ろに吹き飛ばされ、空中で姿勢を戻し、背筋を丸くした姿勢で着地した。

 狼男はがふんと笑って、左半身を捻った構えを見せる。

 オリエは肩に手をやると、何かを引くようにした。

 鳶のような茶色の大きな羽がオリエの背中から出現して、月を隠し、路上に影を落とした。

 が、と狼男が声を上げた。

 ばさっという音と共に砂煙が僕のほうへ飛んできた。思わず一瞬目をすがめるとオリエが居なかった。

 慌てて見まわすと羽のある黒い影が月を背にして空にあった。

 オリエは羽ばたきながら、高く、高く昇っていき、見えなくなった。

 僕は狼男の逞しい背中を見ながら茫然とそれを見送った。

 狼男も空を茫然と見上げているのが、尖った鼻の角度で解った。

 急に狼男の輪郭がぐねぐねっとねじ曲がると、黒色の体毛が白くなり体積を減らしていった。

 気がつくと目の前には素っ裸の犬子が足を開いて空を見上げていた。肌が月光を反射して真っ白だった。

「羽化までするとは……」

「ななな、何者だお前はっ!」

「犬吠埼犬子だよ」

 犬子は振り返って微笑み、一瞬の後、嘲笑するような表情に変わった

「……哲夫、ちんこ立ってるよ」

「うるさいっ!」

「にはははは、私の裸を見て欲情しましたか」

「ちがうよっ!」

「ま、あれだ、一宿一飯の恩義で慰めてあげよう」

「や、やめろー」

 犬子がニヤニヤしながら、僕の股間をまさぐろうと手を伸ばし、湿ってるのに気がついてイヤーな顔をした。

「早漏な……。あれっ!?」

 僕のアレはみるみるうちにしぼんでいった。

「な、なんかむかつく」

「あ、当たり前だ、僕は子供の裸なんかに興味はないっ!」

 犬子がズボンの上からこねったり、揉んだりしたが、僕のアレは沈黙したままだった。

「えー」

 犬子が口を尖らせて傷ついた表情を浮かべているので、ちょっと可哀想になった。

「立たないんだよ、僕」

「だって、さっき」

「オリエにだけ、立つんだ」

「はあ?」

「好きな女の子とHしたときに立たなくて、僕は」

「インポ君?」

 泰田の顔が浮かんで僕は急速に悲しくなった。

 鼻の奥がきな臭くなって、涙が滲んだ。

 と、視線に気がついて頭をあげると、ちょと先で泰田本人が棒立ちしていた。

 尻餅をついた僕の上には裸ん坊の犬子がのしかかり微妙な所を握っていて……。

 犬子も泰田に気がついて、ちょっと頭を下げ頬を赤くして、えへへと笑った。

「へ」

 へ?

「へんたいっ!!」

 女子特有の高ぶり金切り声が夜空に響いて、すれ違いざまにカバンの角でバカンと一撃された。

 ばたばたばたと走りぬけていく泰田の姿が路上に倒れこんだ僕の目に写った。

 犬子がまだ僕の上に乗っかっていて、アレの上に手を置いていた。

 

12

 

 素っ裸のエロガキが服を貸せとぬかしたので、シャツを貸して僕はTシャツ一枚となった。

 裸にシャツを着た犬子はそれはそれは可愛いのだが、まだ外をうろつくには露出が多いような気がする。裸足だし。

 だらだらと二人で家に向かって歩く。

「色々説明しろよ」

 犬子は夜の街を遠い目で見た。

「夜に生きる人たちがいるんだ」

「魔物?」

「まあ、魔物のたぐいだよ」

「オリエも?」

「うん、あれはトリオニの末裔。変化と言って大抵は血族の中で生まれ育つんだけど、たまーに普通の人の血の奥に潜んでいて顕現する時があるんだよ」

「トリオニ」

 鳥鬼だろうか。

「哲夫が今大人になりかけで悩んでいるみたいに、魔物も初めて変態して大人になる時に色々あるんだよ」

「へえ」

「初変態って言うんだけど、血族の中にいれば儀式とかで上手く誘導できるんだ。でも、はぐれて生まれる魔物はそれを知らないから発狂したり人を食い殺したり、色々あるんだよ……」

 犬子の声が沈んだ。

「犬子もはぐれて生まれたの?」

「うん……、まあ、そう」

 寂しそうに犬子は笑った。

「魔物にも社会があって、勢力争いや管轄とか色々ややこしくてね、一応横浜にある中央って団体が本州を色々管理運営してるわけ」

「魔物のお巡りさん?」

「小役人かなあ、巡回行政サービスっぽい」

「小さいのに大変だね」

「私は見たとおりの年じゃないよ。初変態の時に姿が固定化された魔物だから。禿(かむろ)って言うんだ」

 僕よりもお姉ちゃんなのかよっ!

「今度はそっち、ブログに書いてた状況を教えて」

「あの死骸を片付けたのも犬子達?」

「そうだよ、隠蔽工作班が動いたのだ」

 僕はあの時の事をかいつまんで犬子に伝えた。

「シオミツタマ? 何それ?」

「僕に聞かれても、魔物の何かじゃないの」

「聞いたことないなあ」

 犬子は腕を組んで考え込んだ。

 魔物の秘宝とかじゃないのか、じゃあ、何だろう。

「ふむ。まあ、とりあえず羽化まで来たから、来週には決着がつくよ」

 来週……。土曜日にはオリエとデートなんだが。

 

13

 

 朝、学校の昇降口で靴を履き替えていたら犬子にお早うと言われた。

 犬子はぶかぶかの我が校のブレザーを着て、カバンを下げていた。

 なんか、たちの悪いコントみたいな格好だった。

「いや、犬子、それは無理があるかと」

「そ、そうかな」

 自覚はないのかー。

「うわ、変態の片割れっ! って、同い年なのっ!!」

「泰田……。犬子っていう、うーん、親戚みたいな感じのもの」

 僕は泰田に犬子を紹介した。

「犬子、泰田っていう、うーん、ガールフレンドのようなもの」

 僕は犬子に泰田を紹介した。

 微妙な関係の人間が僕の回りには多いな。

「よろしくー、いつも哲夫が世話になってるね」

 犬子は引きつっている泰田の手をがっしりと握り、力強くシェイクハンドを交わした。

 犬子のクラスはオリエと同じ二組に転校してきたようだ。ロリの気があるオタの奴らが偵察に行って萌だ萌だわあわあと騒いでいた。

 

 放課後、焼却炉に行くと、いつものようにオリエがだらんと丸くなっていて、ちょっとほっとした。

 オリエは無口なので、いつも通りあんまり会話は弾まない。

 やあ、とか、うん、とか言って、黙って側にいた。

「オリエのお姉さんてどんな人?」

 オリエがむっくりと上体を起こして僕の方を見た。

「……どうして、姉さんの事を知ってる?」

「い、いや、聞いたから」

 夜のオリエに。

「聞いた? 姉は死ぬまで寝たきりで、一度も学校になぞ来ていないぞ、誰に聞いたんだ」

「死んだの?」

「死んだ、最後は苦しんで苦しんで可哀想だった」

 まずい事を聞いたようだ。オリエの目の色が変わっていた。

 病気で死んだのか……。

「ごめん」

「……いや。別に哲夫のせいで死んだわけではないから、謝らなくて良い」

「あ、初めて哲夫って呼んでくれたね」

「な、なんだ、哲夫は哲夫なのだろう、哲夫と呼んでなんの不思議があるのだ、へ、変なやつめ」

「ちょっと嬉しかったんだよ」

「そ、そういう良くわからない事を言うから男子は嫌いなんだ、り、理不尽だ」

 慌てているオリエがなんだか凄く可愛くて、僕は嬉しくなって笑う。

 オリエは不思議な生物を見る目で僕を見ていたが、やがて、やわらかく微笑んだ。なんだか心が通い合った気がしてとても幸せな気持ちになった。

 

14

 

「オリエは手強い、仲良くなれない」

 夜の風が入ってくる僕の部屋で僕のベットを占領した年齢不詳のちびっ子が足をばたばたしてそう言った。

「どうやって哲夫は仲良くなったの?」

「あんまり仲良しってほどじゃないなあ」

「今度デートするって、やっちんが言ってたぞ」

 やっちんとは泰田の事らしい。放課後二人が仲良くお喋りしていたのを僕は目撃していた。

 デートと言っても、僕もオリエも無口だから、盛り上がるとは思えない。ホテルに引っ張り込む事も叶うまい。

 頭の中でシミュレートしても、二人で、ずーーーと黙って植物を見て、「じゃ」と別れる以外の光景が浮かんでこないなあ。

 デートの日までに、オリエの姉の事を知っている人を探さないと。

 オリエの姉さんが全てのカギを握っているように思う。

 

 階下でピンポーンとドアホンが鳴り、とたとたと誰かが僕の部屋へと近づいてきた。

「犬子ちゃん、お友達がきたわよ」

 お母さんが犬子のお友達を僕の部屋へと連れてきた。

「こんばんわー」

 なんかおとなしそうな中学生風の女の子がお母さんの後ろに居た。

「や、麻美、ごくろうー」

 犬子が偉そうに片手を上げて挨拶した。

 お母さんがクスリと笑って、ごゆっくりと言い、姿を消した。

「はじめましてー、先輩がいつもお世話になっています」

 真面目そうなそばかすの女の子がぺこりと頭を下げた。

 僕も釣られて頭を下げた。

「哲夫の世話をしてんのはあたし」

「これ、先輩が壊したパソコンの代わりです、どうぞ」

 犬子の言葉を無視して、麻美ちゃんは僕にパソコンの箱を差し出した。

「うわ、ありがとう」

 おっと、壊されたパソコンよりも一段か二段ぐらいグレードの高い機械だ。やったー。

「壊れた奴を修理して使えばいいじゃんよう」

 ちびっこがベットの上でごろごろと転がりながらそう言った。

 あんなにぞんざいにバラバラにされたパソコンを直せるか。

「あと、作戦部長から伝言です『里の人に迷惑かけんなボケ。予算考えろ』だそうですよ」

「ふざけんな、あのドケチメガネめっ」

「君も、その、魔物?」

「はい、そうですよ」

 ほわー、普通っぽいのになあ。

「麻美ー、祭具の手配は?」

「ホテルに置いてありますよ、部長からの命令で、犬子は壊すから使うときまで渡すなだそうです」

「信用ないなあー」

「祭具?」

「お祭り用の道具だよ」

「お祭り?」

「人間で言うと、元服というか成人式かな。オリエが大人の魔物になる儀式を略式でやるのさー」

 犬子はにへへと笑った。

 麻美ちゃんがぴっと正座をして、僕の方へ向き直った。

「このたびは思慮の浅い先輩が色々ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 きちんと頭を下げられたので、なんとなく困ってしまい、僕も畳に正座して、いやいやとか言いながら頭を下げた。

「迷惑なんかかけてないもん」

 居るだけで迷惑だと突っ込むのはよしておいた。

 麻美ちゃんはそれではと言って帰って行った。

「きちんとしてるなあ」

「麻美は律儀なんだよ」

「魔物ってみんな犬子みたいにいい加減なのかと思ってたよ」

「うるさいなー」

「あの子も変身するの?」

「いや、まだ麻美は初変態すましてないよ。変態出来るかどうかも解らない」

「みんな変化する訳じゃないんだ」

「うん、部分変態って言って特徴的な部分だけの変化形態を取る者が多いよ。血の濃さの関係でさ。オリエとか私みたいな奴の方が少ないんだ」

 魔物さんも色々あるんだな。

「麻美ちゃんはなんて魔物?」

「哲夫も知ってるかも。カマイタチだよ」

 ほー。

 割と有名な妖怪さんなんだなあ。

「犬子は?」

「え? わたし? 変化だけど」

「ああ、固有の名前は無いのか」

「私はウツセミと言う珍しい変化なんだ。」

 あまり聞いたことないね。狼女じゃないのか。

 っても、ぬらりひょんと言われても、ひょうすべと言われても僕には検証する事もできないわけで。

 ……。

 ひょっとして犬子はぬらりひょんなのかも。急に来て居着いて邪魔だし。

 ちなみにぬらりひょんというのは、大掃除の時にいきなり出てきて広間でくつろぐという迷惑な能力を持つ妖怪だ。

 かりんとうをポリポリ食べつつ、うつぶせになって少女漫画雑誌を読んでいるちびっこぬらりひょんを横に置いて、僕もベットに寝ころぶ。

 オリエの姉について調べたい。

 何か重大な手掛かりがそこに隠れているような気がする。

 オリエが人殺しをしてるのも……。

 ……。

「なあ」

「なに?」

「オリエは人殺しをしたんだよね」

 犬子はこちらを見ないで、片手をぱーにして僕につきだした。

「五人。おっちゃんばっかり」

「五人!」

「何故かはしらないけど、内蔵引き出して殺してたよ」

「そ、その人たちの家族は?」

「交通事故に偽装しといた、掛けた覚えのない保険が下りるのだ」

「お金、だけ?」

「うん、金だけ。あとは不幸ということで」

 僕は犬子の肩をつかんだ。

「だけど、お父さんが急に死んだら、その家族は!」

「しかたがない」

 犬子は少女漫画から目も離さないで突き放すように言う。

「しかたがないじゃないだろっ!!」

「うるさいな。じゃあ、どうしろっていうんだよ、魔物に喰われましたって説明するのか?」

「いや、だけどっ! ……喰われた?」

「トリオニは人食いするんだよ」

 嘘だろ。オリエが人食い。

「タマを探してたって……」

 シオミツタマを探すためはらわたを掻きだしてるのだとばっかり思っていた。

「喰った跡があったよ」

 犬子が笑いを含んだ声でそう言った。

「怖いか? 哲夫。おまえ勘違いしてたんじゃないのか? オリエも私も魔物なんだよ」

 ちがう、モノ、なんだ。人とは……。

「人を食べて生きてるの?」

「常時喰ってたりしないよ。というか、人食いが癖になったモノは魔物社会の迷惑なので誅殺されるのだ」

「でも」

「でも、意識が飛んで魔物の本能で動いてる時に人食いするのは……。事故みたいなものだから」

「……犬子も人を食った事が……」

「初変態の時、がぶがぶがぶーっとね」

 犬子は両手を犬の形にして虚空をがぶがぶと食べた。

「三十人ばかり食べたよ」

 背筋が総毛立っていた。目の前のニコニコ笑っている幼女は獰猛な人食いで、あの大きな犬人間の姿でバリバリと人を食い殺したのか……。

「怖い?」

 犬子は優しそうな目をしてそう言った。

「こわい」

 僕は正直に答えた。

「正直な哲夫が好きだよ」

 犬子は満足そうに笑った。

「人殺しをして悲しかったり苦しかったりしないの?」

「戦うのも殺すのも好きだよ」

「好きなの」

「血がざわざわしてさあ。強敵と戦った後に私が立ってると、勝ったなあって思う。そういう生き方をしてるから、喰っちゃった三十人も、すまん、とは思うけど、心のうずく事もないよ」

 谷が見えた気がした。僕と犬子の間は三十センチも離れてないのに、底が見えない谷が二人を隔てている気がした。

 可愛いのに、善良そうなのに、犬子は殺しが好きなんだ。

「ま、戦うのは好きだけど、人食いの癖はないよ」

「オリエは……。五人殺していて、しかも食べたって知ったら……。苦しむかな」

「苦しむね。はぐれのモノは魔物の中で育ってないから、感情は普通の人なんだ、いくら変わり者でもね」

「知らせるの」

 犬子は目を逸らした。

「日曜日に祭り。オリエの元服の祝祭をする」

 あと三日だ……。

 

15

 

 オリエの姉を知ってる人。

 オリエの親か。

 彼女の家はこの街の旧家で、大きいお屋敷だ。

 放課後、オリエの家の前をうろうろしているのだが、ドアホンを鳴らす気になれない。ほら、僕はシャイだから。

「なにしてる?」

 学校から帰ってきたオリエに見つかって、僕はいたずらが見つかった猫みたいなポーズでびくっとしてしまった。

「いや、その、オリエはどんな家に住んでるのかなあと思って、その」

 へどもど。

「上がるか?」

 僕に反対意見があるわけもなく、オリエに先導されて、相原家に上がり込んだ。

 綺麗に磨き上げられた黒い廊下。ぶっとい梁。天井の高い平屋だった。

 なんか大きすぎて博物館みたいな家だなあ。

 和服に割烹着をつけたお姉さんが、僕たちを見てガランとお盆を落とした。

「お、オリエさまが男の子を……」

「美佐江、あとでお茶を持ってきて」

「は、はいっ!」

 喜色を浮かべて美佐江さんは、とてとてと小走りで奥に去っていった。

「女中の美佐江だ」

「オリエはお嬢さんなんだなあ」

「そうかもしれない」

 庭の盆栽の棚の前に優しそうなおじさんがいた。

 おじさんはこちらを見ると一瞬いぶかしそうな顔をしたあと微笑んで頭を下げた。

「こんにちわ」

「父だ」

 オリエのお父さんはにっこりと笑った。温厚そうで良い人っぽいな。

 とすとすとオリエは廊下を進む。僕はオリエのお父さんに頭を下げて彼女の後を追った。

 オリエの部屋は、庭に流れる小川を橋になった廊下で跨いだ離れにあった。

「茶室を改造した」

 六畳間ぐらいのオリエの部屋はちゃぶ台が一つあるきりだった。

 泰田の縫いぐるみジャングルみたいな部屋とは対照的だなあと思った。

 座布団をオリエが出してくれて、僕は対面に腰を下ろした。

 静かな離れで、綺麗に手入れされた庭が良く見えた。

 オリエと黙って庭を見ていた。

 静かな時間が流れる。

 ウグイスの鳴き声が聞こえてきた。

 さやさやと風が梢を鳴らして通りすぎる。

 なんとなく、良い感じだなと思った。

 オリエがふと立ち上がり縁側に立った。

 鳥が一羽、空から降りてきてオリエの差し出した手に乗る。

「オリエの飼っている鳥?」

「ちがう、良く来る知り合いの鳥」

 鳥の知り合いですか。

「鳥は好き?」

「好きだ。よく鳥になる夢を見る」

 小鳥がオリエの手の上でピイと一声鳴いた。

「空にただ一人で飛ぶんだ。どこまでも。一人で。それはそれは孤独なんだけど、なんだかすがすがしくて、白い雲の上をずっとずっと飛んでいくんだ。風が耳元で轟々と怖いくらい鳴る。日差しがぎらぎらと眩しい。高い高い空の上を行くんだ」

「一人で?」

「オリエは一人が良いんだ」

 オリエがまた翼を生やして飛んでいってしまいそうで、どこかにいってしまいそうで、気がついたら、僕は立ち上がりオリエの背中を抱いていた。

 オリエは背が高いので、僕の目の前にはオリエの背中があって、襟口に頭を付けた。

「行っちゃ駄目だよ……」

「……。オリエには予感があった。もうすぐどこかに行くという予感があった。だから人を避けてる……」

 ああ、そうか。

「哲夫はいつもうるさくて、ずうずうしくて、私の回りを騒がせる……」

 僕の頬にオリエの背中の体温が伝わる。手を離したら風船みたいに飛び上がってしまいそうで、僕は後ろから回した手でしっかりとオリエを地上につなぎ止める。

「……でも、最近、オリエは……」

 ガチャンと何かが壊れる音がして、振り向くと美佐江さんがあたふたと廊下に落ちたお茶菓子を拾っていた。

「あわわ、おじゃましました。どうぞおかまいなくー」

 オリエの背中が堅くなって、身じろぎして僕の腕をふりほどいた。

「も、もう帰れ、哲夫」

「う、うん」

 オリエの頬が赤く染まっていた。何か妙に可愛い。

「じゃ、土曜日、駅に九時」

 オリエが、うん? という顔をした。

「植物園に行こう」

「ああ、デートか、忘れていたよ」

 美佐江さんが伸び上がって、きゃあ、デート? と小声で言った。

 なんだよ、このへっぽこ女中さんは……。

 

16

 

 相原家を出ると、空はもう真っ赤だった。

 後ろから、とててててと軽い足音がした。

「きゃあ」

 と可愛い声がして、どすんと鈍い音がしたと思ったら、僕の足が後ろから掬われるような感じになって路上を三回転した。

 へっぽこ女中さんの美佐江さんがひっくり返った僕の体の上でオロオロしていて、何というか、重いのと良い匂いがするのと手がふわふわな部分に当たっていて、なんだ、このお約束イベントはと思った。

「ごごご、ごめんなさい」

「重いです」

 僕が立ち上がると、美佐江さんは米つきバッタみたいにぺこぺこぺこぺこと謝った。

「当ててみましょう、美佐江さんは僕に『オリエ様をよろしく』お願いにきましたね」

 美佐江さんの顔に、な、なんで解ったのと書いてあった。

「あのあの、え、エスパー?」

「いや、その、やってることがベタベタだから」

「べ、べとついてますかっ!」

「意味が違います」

 この手のへっぽこさんと話すと脳が疲れるので早めに切りあげよう。

「あのあの、オリエ様が男の子をお家に呼ぶだなんて初めてで、私なんだか嬉しくなっちゃいまして、でも私のせいでせっかくのラブラブ空間が壊れてしまって、その、オリエ様はぶっきらぼうですが本当にお優しい方なので、ええと、お付き合いなさるのには、その、お勧め、絶対のお勧めで、その、が、頑張ってくださいって言おうと」

 早くもノーシンを飲みたくなるほど頭痛が痛い。こういう人が日常的に横であたふたしているから、オリエは一人になりたくなるのだろうか。

「美佐江さんは、あそこの家に勤めて長いんですか?」

「そんなでもありませんけどー」

「オリエのお姉さんの事を何か知りませんか?」

 あうあう、という表情を浮かべていた美佐江さんの顔が急に引き締まった。

「キリカお嬢様の事ですか?」

 オリエの姉はキリカという名前だったのか。

「お話を聞かせて頂けませんか?」

 

 美佐江さんと喫茶店に入った。

 彼女がコーラフロートなんか頼んでいるのを見て、へっぽこ女中さんらしいチョイスだなあと嘆息した。

「コーラフロートのアイスとコーラの境界にある、凍ったコーラが好きなんですよー」

 ああ、そうなんですか。

 美佐江さんは嬉しそうにスプーンでコーラ氷を掬ってシャクシャク食べた。

「キリカ様とオリエ様は双子の姉妹でございました」

 アイスをひとつまみ舐めて、美佐江さんはいきなり話を始める。

 僕はコーヒーを啜る。

「小さい頃は二人とも元気で活発で幸せな生活を送っていたと母に聞きました。母は先代の女中長だったのですよー」

 美佐江さんはお母さんの血をあまり引いてないようだね。

「キリカ様が発病したのは小学生の頃です。原因不明の病気で寝たり起きたりの生活が続き、中学生になるころにはもう寝たきりになられておりました」

「姉妹仲は?」

「それはそれは良かったのですよー。オリエ様は付ききりで看病なさっておりました」

「オリエは優しいんだね」

「そうですよー、今は無口でぶっきらぼうな感じになってしまわれてますけど、心の中は温かくてお優しい方なのです」

 僕の脳裏に小さなオリエが同じ顔の女の子の看病を一生懸命している絵が浮かんだ。

 美佐江さんは顔を伏せた。

「キリカ様は……。もともと癇が強いお方でして……。病み疲れて心が荒れてしまわれて……。オリエ様にもお父様にも怒鳴ったりなじったりなされまして……」

「それで……」

「私はその頃からお屋敷に使えておりまして……。双子の御姉妹なのに、オリエ様は健康で、キリカ様は歩けないほどの状態で、キリカ様もオリエ様もお辛かった事だと思います。ほがらかだったオリエ様の表情がだんだんと凍りつくようになられて……」

 しかし、姉とシオミツタマの関係が解らないなあ。

「キリカさんは古事記とか好きだったですか?」

「乞食さん……。浮浪者は普通みんな嫌いじゃないんですかー?」

 わざとすっとぼけた事を言ってるんじゃないだろうなこの人は。

「本とかお好きでしたか?」

「ええ、キリカ様は御本好きでいらっしゃいました。私も図書館に良く本を借りに行かされたものです。上山町図書館の中身はほとんど読んでるぐらいの勢いでしたよ」

 その後、美佐江さんに色々と話を聞いたが、収穫のようなものは無かった。

 僕は帰り道、オリエの事を考えながら歩く。

 本好き……。

 山彦海彦。弟と兄。妹と姉……。

 弟は兄の持っていない超自然からの恩恵で兄を追いつめる……。

 妹は健康、姉は寝たきりで怒鳴ったりなじったり……。

 シオミツタマ。

 

17

 

 次の朝、学校で泰田を見て唖然とした。

「あ、ちがうちがうよ、てっちゃん。こ、転んだの」

 泰田が慌てたようにそう言うが、どう見ても顔の痣は殴られた物だった。

「だめ、だめだよ……、てっちゃん」

 泰田の声なんか聞いて無かった、僕は立ち上がった。

 握りしめた拳がブルブル震えていた。

 気がつくと僕は加藤のいるクラスに駆け出していた。

「駄目っ! てっちゃん!!」

 廊下を走った。視野が狭窄して、前しか見えなかった。

 ドアを荒々しく開いた。

「加藤っ!!」

 加藤の顔が見えた。

 キッと僕を睨みつける。

「なんだよ」

 僕はゆっくりと近づく。加藤が立ち上がる。

「泰田を殴ったのか」

「おまえに関係ないだろ」

 てっちゃんだめーという泰田の叫びにあわせて僕の鉄拳が加藤の顔に飛んだ。

 あっさりと鉄拳は加藤に避けられ、カウンターで右フックが僕の顔を打ち抜いた。

 衝撃で僕は吹っ飛んで床に這った。

「かっ、かっ、かんけーねーだろおおおおっ! お、おまえは、おまえはっ!!」

 加藤は顔を真っ赤にして怒鳴った。

 僕は血の味を噛みしめて立ち上がり加藤に武者ぶりついた。

 もみ合いになった。

「やめれやめれー、くそぼうずどもー!」

 犬子が僕たちの間に割って入ってきた。

 泰田が僕の肩を引っぱって、やめてやめてと泣いていた。

 犬子?

 えっ……。

 だとしたらこのクラスは……。

 ちょっと離れたところでオリエが立ってこちらを見ていた。

 感情のこもっていない目だった。

「お前は京子のなんなんだよっ!! そんなに好きあってるのにどうしてなんだっ!! ふざけんなよお前達はよおっ!!」

 加藤は絶叫していた。

 僕はオリエから目を離せない。

「あちゃ〜、最低」

 犬子がつぶやいた。

 オリエがゆっくりと僕に近づいてきた。

「……オリエはややこしい事が嫌いだ」

 オリエが僕の前に立ち、僕の目をじっと見つめる。

「哲夫はその子の事が好きなのか?」

 今、一番聞かれたくない質問だった。

 私への気持ちは嘘なのか? オリエは言外にそう聞いていた。

 結論は簡単だった。泰田なんか好きじゃない。好きなのはオリエだ。

 そう言えばいいと解った。

 そうすれば、全ての物事が丸く収まるのが解った。

 オリエのクラスの全員が僕の次の言葉を待って静まりかえっていた。

 一言、言うだけでいい。そうすればオリエとのデートも成功するし、加藤の怒りも収まるだろう。

 泰田を見た。

 泰田が苦しそうな顔をして目を伏せていた。

 泰田の口が『いいよ』って動いた。

 僕の胸が切り裂かれるように痛んだ。

 音が無くなったように静かだった。

 

 言えなかった。

 泰田なんか好きじゃないって言えなかった。

 どうしても言うことが出来なかった。

 

 オリエが振り返って、自分の席に戻った。

 カバンを荒々しく取り上げ、出入り口に向かって歩いた。

 戸をあけて振り返った。

「オリエは哲夫が嫌いになった」

 そう言うと、オリエは教室を出て行った。

 加藤が僕の胸ぐらをつかんだ。

「どういうことだっ!! この二股やろーっ!!」

 泰田が僕の肩を強く握って背中に額を付けたのを感じた。

「馬鹿、てっちゃんの馬鹿……」

 犬子が僕の手首と加藤の手首を取った。

「ちょっとこい、この青春坊主どもめっ!」

 犬子がちょいと僕たちの手首をひねると激痛が走った。加藤も僕も悲鳴を上げて、誘導されるように教室を出た。

「ここに座れっ! 正座っ!」

 水飲み場の前で加藤と並んで正座させられた。

 犬子は水飲み場のステンレスのシンクの中に飛び乗ると蛇口に手を付けて僕らに水をぶっかけはじめた。

「あたま冷やせっ!」

 隣で加藤がぎゃあぎゃあ騒いでいるのを聞きながら、僕は茫然と水を受けていた。

 僕は泰田とオリエと、どっちが好きなんだ。

 解らなかった。

「加藤おおおっ! どんなに怒ったかしらないが、女の子に手を出すとは何事だっ!」

 犬子がシンクの中で仁王立ちになって、そう怒鳴った。

「だ、だってよお、京子がはっきりしてくれなくて」

 加藤がもごもごとつぶやいた。

「俺だって京子が好きなのに、いつもてっちゃんてっちゃんって、お前ら変だよ。どうしてなんだよお」

 ああ、加藤も可哀想だ……。

 泰田も可哀想だ……。

 全部、全部僕のアレが立たなかったせいで……。

「ごめんなさい、私が悪いの」

 泰田が泣き声でつぶやいた。

「それはちがう、悪いのは僕だ。加藤、僕が悪いんだ、だから、殴るなら僕を殴れ」

「どうして、そんなに好きあってるのに、おまえは相原に粉かけたりしてるんだ?」

 僕は……。

 加藤に説明が出来なかった。

 ちんこが立たないからオリエに粉をかけている。

 そう言うのは簡単だけど……。

 そう言うと加藤との事は泰田が全部悪いと断罪する事になるわけで。いや、泰田は確かに悪くて狡いんだけど、七夕の日に僕が押しきられてしまったのも事実で。あの時泰田が僕に馬乗りになってぽかぽか殴ってくれたおかげで随分救われた所もあって。だいたい、説明するとなると魔物がらみの話もしなければだし。そんな事になったらシンクの中で仁王立ちのちびっこも黙ってないわけで。

 僕は濡れたリノリウムの床につっぷした。

「加藤、ごめん、混み合っていて説明ができない……」

 加藤が溜息を吐いた。

「相当ややこしいのか?」

「僕にも訳がわかんないよ」

 加藤が動いた気配がしたので顔を上げると、奴は泰田方向を向いて土下座していた。

「京子、ごめん、殴って悪かった。二度と殴ったりしない」

「え、あ、その、加藤君やめてよ」

 泰田がおろおろしていた。

「状況が落ち着くまで俺は待つよ。お前ら二人で相談しろ」

 そういって加藤は立ち上がった。

「どんな結論でも良いよ、京子が決めたなら受け入れる。俺ははっきりしないの駄目なんだ」

 加藤が去っていった。加藤は立派だと思った。男らしいと思った。

「てっちゃん……」

「行ってきなよ」

 泰田が小走りで加藤の後を追って行くのを僕は見た。

 僕は背中を丸めて床の合わせ目を見つめていた。

 背中に何かがどすんと乗った。

 犬子が僕の背中に尻を下ろしたのが解った。

「はー、厄介な事になったぞ」

「……僕のせいだ」

「この時期に精神的ショックはまずいんだ。最悪の場合、オリエを狩る事になる」

 狩る!? オリエを殺すのかっ!

「ぼ、僕に出来ることは?」

 犬子が立ち上がって、僕を見下ろした。

「なにもない」

 冷たい声で言い放つと犬子は去っていった。

 始業のベルの鳴るなか、僕は立ち上がる事も出来ずに、濡れたリノリウムの上で座り込んでいた。

 

18

 

 その後の授業は早退して、僕は家に帰った。

 自分の部屋で、自分のベットで、ただぼんやりとしていた。

 オリエを傷つけた。

 加藤にも悪いことをした。

 くるくると思考だけが空転していた。

 窓の外が早回しのように黄金色になり赤く染まり群青色に変わる。

 犬子が黙って僕の部屋に入ってきて、ベットの上に飛び乗り僕を足でつついた。

「生きてるかー」

「……」

 答えるのがおっくうだった。

「やっちんに哲夫を慰めてくれって頼まれたよ」

 犬子が僕の上にどっかりと腰を下ろした。

「だけど、私も明後日の準備で忙しい。だから一人で立ち直れ」

 明後日?

「祭りをやるのか……」

「やるよ。この時期を逃したらオリエは確実に堕ちる。チャンスは一回だけだ」

「僕が足をひっぱるような事をして……」

「哲夫は悪くないだろ。悪いのはやっちんだぞ、どう見ても」

「ちがう、僕が悪いんだ」

「……じゃあ、……そうかもね」

 溜息をついて犬子がベットの上で立ち上がった。

「さて、私は仕事に行ってくる、夜中帰ってくるかもだから窓あけといて」

 そう言って犬子は部屋を出て行った。

 僕はベットの中で夜の時の流れだけを見ていた。

 

18

 

 いつの間にか寝込んでいてガタガタという音で目を覚ました。

 犬子が窓から入り込んで来た。

 彼女はパジャマに着替えると僕のベットに潜り込んできた。

「起こしちゃった?」

「いいよ」

 そう、と言って犬子は僕の枕を引っぱって取った。

「おやすみ」

 外を見ると、東の空が白みかけていて、新聞配達のバイクの音が聞こえて来た。

 

 七時になるのを待って、僕は服を着替えた。

 なるべく格好いい服をチョイスする。

「んっにゅ? デート?」

 犬子が顔を上げて寝ぼけ声を出した。

「うん」

「オリエは来ないと思うよ」

「うん。でも約束だから」

 駅で待って、来なかったら帰ればいい。

「哲夫は女の子に夢を見すぎだよ」

「うん」

「いってらっしゃい」

 犬子がタオルケットを巻き付けて寝返りをうった。

 僕は部屋を出た。

 

19

 

 駅のベンチで座り込んで、絶対に来ない相手を待った。

 八時に約束していた。

 十二時まで待とうと思った。

 土曜の駅は人が行き来していた。祝日なので家族づれも多かった。

 ゆっくりと時間が流れて行く。

 空はうらめしいぐらい晴れていて、気持ちの良い風が僕の頬を撫でて行く。

 未練がましいと自分でも思った。

 絶対に来てくれないと解っていた。

 ため息をついてかがみ込んだ。

 もうすぐ八時だった。

 僕の前に誰かが立った。

 まさかと思った。

 顔をあげると、そこにはオリエが居た。

 おしゃれな格好をして、僕を睨みつけていた。

「なんで哲夫は居るんだ」

「オリエこそ何でだよ」

 二人で黙り込んだ。

 オリエは僕の隣に腰をかけた。

「居るとは思わなかった……。絶対来ないと思っていたからオリエは来た。もしも哲夫が来たらすっぽかす事になって悪いし……」

 僕もそう思っていた。

 二人で並んで座って、駅前の雑踏をしばらく眺めていた。

「しかたがない、こうなったら植物園にいくしかあるまい」

「そうだね……」

 僕たちは立ち上がり、切符を買った。

 電車はすぐにやって来た。

 並んで座席に座った。

 何も話さなかった。

 

20

 

 植物園は隣町にある。

 駅前からバスにのってすぐだった。

 大きな温室が立ち並び花壇にお花が咲き誇っていた。

 初夏の日差しに花々の色がまぶしいぐらいに目にしみた。

 花の香り、土の臭い。オリエと一緒に園内をゆっくり歩いた。

「植物園、好きなの?」

「オリエは植物が好きだ。彼らは静かだから」

 オリエは花々をゆっくりと見ながら歩く。

 想像していたとおりに二人で黙ってお花を見て歩いていたけど、想像していたほどつまらなくはなかった。

 植物園内のレストハウスで昼食を食べた。

 開け放された窓から花の匂いをまとった初夏の風が吹いてきて、テーブルクロスをはたはたと鳴らした。

「事実を聞きたい。今回の事に関して」

 ハーブのスパゲティを食べながらオリエはそう言った。

 そうだね、オリエは問いつめる資格がある。

 

 どこまで話そうか。

 僕は正直にしゃべった。

 泰田とセックスしようとして駄目だったこと。

 それから一度別れて、七夕に微妙な形でよりを戻したこと。

 そして……。

「夢を見たんだ。オリエの夢。夢の中で僕はオリエとセックスできていて」

 そこだけは嘘を付いた。

「オ、オリエと、夢の中でやったのか。そ、それは、その……」

 オリエは真っ赤になった。

 ああ、そうなんだ、夜の世界、魔物の世界は夢の中と一緒なんだと、僕は思った。

「うん、それでオリエが好きなのかもと思って、近づいたんだ……」

「ど、どうなんだ?」

 オリエの声が裏返っていた。

「オリエの事は好きだよ」

「泰田京子とどちらがより好きなのだ」

 オリエが身を乗り出してそう聞いた。

「……ごめん、たぶん泰田……」

 オリエは少しがっかりしたような顔をした。

「まだ……、今は……」

 オリエは身を引いて微笑んだ。

「でもその答えは哲夫らしくて良い。オリエはすっきりした」

 ほっとした。その対応もオリエらしくすっきりシンプルで、僕も気持ちが良い。

「だいたい、オリエも卑怯なのだ。まだ哲夫の事が好きかどうか自分でも解ってないのに焼き餅を焼いた。オリエにはまだそんな権利なぞないのに」

「オリエは僕の事、どう思ってるの?」

「て、哲夫の事は少し好きだ。でも、友情なのかもしれない。恋と言うには小さい感じがする。でもオリエは恋愛経験が無いからよくわからない」

 オリエらしい返事だと思った。

「オリエは男子なんかは動物の内と思っていた。うるさくてさわがしくてなんて駄目な生き物だと思っていた。哲夫が話しかけてきて正直うっとおしかった、嫌だった。でも、心のどこかで少し嬉しく思っていたらしい、哲夫が来ない日は何だかもの足りないような気がした。すこし胸が詰まった気がして、ああ、これは寂しいという感覚だと思いだした」

 オリエはお冷やを一口飲んだ。

「あの日、哲夫があの子のために殴り込んできて、オリエは裏切られたんだと思った。なにかの罰ゲームか何かで哲夫はオリエをからかったんだと思って、そして……。胸が潰れるぐらい悲しかった」

「ごめん」

「駅に行く間、絶対に哲夫は居ないと確信してた、居たら馬鹿だと思った。そしてオリエは駅前で馬鹿を発見した。なんか、ちょっと、嬉しかったんだ」

 駅前に行って良かったと思った。行かなかったら一生後悔しただろうなと思った。

 オリエも同じ思いなんだろうなと思って顔を見た。

 彼女は微笑んでいた。

 邪気のない子供みたいな笑顔だった。

「仲直りで良い?」

「うん、仲直りだ」

 

 おたがいすっきりして、レストハウスを出た。

 西側にあじさい園があって、見渡す限りのあじさいが咲き誇っていた。

 オリエが小声でわあといってあじさいの中に小走りで入っていった。

 あじさいの中、振り返ったオリエは凄く綺麗で。でも、なんだか儚い感じがして、飛んでいってしまいそうで、胸が締め付けられるような気がした。

 元服の祭りが済んだらオリエは魔物になる。

 オリエの世界が変わってしまう。

 それは、文字通り空に飛んでいってしまうようなもので。

「オリエ、ちょっとまってよ」

「おそいぞ、哲夫」

 笑いながらあじさいの中を行くオリエを僕は追って走る。

 オリエ、どこにも行くな。

 せっかく仲良くなったんだから。

 ずっと一緒に居よう。

 オリエ。

 

21

 

 夕方、オリエと別れて家に帰った。

 魔物のちびっ子は出かけていた。今日はホテルに泊まると連絡が有ったみたいで、夕食中「さびしいわ」と母は連発していた。

 窓から外を眺める。

 太った月が山に掛かって見えていた。

 夜の世界の住人。

 オリエは明日、魔物になる。

 魔物にならないで人として暮らしていく道は無いのかな、と思った。

 オリエと進む未来。

 泰田と進む未来。

 でも、どちらにしてもチンコが立ち上がらなければ、熱い血潮が脈打つ青春の青い山脈を駆けていけないわけで、ああと僕は夜空に絶望の溜息を流した。

 

22

 

 日曜日の時間はだらだらと過ぎていく。

 古事記の続きを読んで見たが、後半は人名が多く、歌も多くてあまり面白くなかった。

 階段をどたばた駆け上がる音がしたと思ったら僕の部屋のドアが開いて、犬子が入ってきた。

「やー、やー、哲夫、デートどうだった?」

「仲直りしたよ」

 犬子は一瞬きょとんとして、えーっと大声を出した。

「来たのっ! わー、凄いなオリエ」

「ああ、オリエは凄いよ。犬子の祭りの準備の方は?」

「ああ、だいたい終わったよ。今夜八時から始まる」

「場所は?」

「天神神社を占領した。魔物は神道系が多いので儀式も神社でやることが多いんだ」

 八百万の神様の仲間みたいなものだからかな。

「そいでさ」

「うん」

「哲夫、お祭りに参加しない?」

「はい?」

 

23

 

 天神神社に向かう坂道の途中で僕は前に進めなくった。

 上に行こうという気持ちはあるのだけど、なんだか嫌な感じがして足が前に進めない。今日は神社に行かないほうがよさそうだという気持ちがむくむくと沸き上がって、犬子を置いて回れ右をして坂を下る。

「止まれー」

 止まった。

 犬子が手を出してきたので握ってみる。そのまま引っぱられるようにして件の場所を通過した。

 あっさりと通過することが出来た。

「なにこれ?」

「結界がはってあるんだよ。一般人は嫌な感じになって帰っちゃうんだ」

「へえ、それはすごいなあ」

 結界の中といっても霧がたちこめてたり異様な雰囲気がしたりはしていなかった、普通の宵闇の風景が続いている。

 巫女服のような着物をまとった犬子と一緒に長い長い石段を僕は登る。頭の後ろにはまん丸になった月。今日は満月。

 微かにシャリンという鈴の音が木立の間を通って僕の耳に届く。

 ざわざわと人の気配がする。

 神社には電球が吊されて屋台が出ていない事を除けば七夕祭りのような雰囲気だ。

 ひょおおと笛の音が通ってくる。雅楽のような柔らかい旋律が静かに境内に立ち上がっていた。

 神社の中には人が居ない。隣接する木立の中に人影が動いている。

「人出はどうなの?」

「元服の祭りにしては多いよ、近隣の暇な魔物さんたちが遊びに来てる」

 木立の中を覗きこむと、普通な感じのお姉さんやらお兄さんやらおじさんやらが話をしていて、僕が見ている事に気がつくと笑いかけてきた。お酒とかつまみとかが配られているようだ。

「みんな、魔物?」

「うん」

「なんで木立の中で宴会してるの?」

「魔物だからさ。儀式関係者以外は境内に入らないんだ。神域なんで」

「へー、拝殿かどっかでオリエをお祓いとかしてお終い?」

「まあ、色々やり方があるんだけど、今回はお祓いとか無し」

 境内の空き地に白い玉砂利が撒かれ、小山が築かれていてその上にお祓いに使う棒が立てられていた。巫女服を着た人や宮司の格好をした人たちが右往左往している。

 オリエの姿を探したが見当たらなかった。かわりに麻美ちゃんが巫女姿でうろちょろしているのを発見した。

 シャーンと鐘がなる。チャリチャリチャリと鈴がリズムを刻む。

 昇殿に掛かった幕が下ろされると笛が音を立ち上げた。

 澄んだ笛の音は高く高く昇っていき、満月まで達した時、祭りが始まった。

 

 犬子が盆に餅かなにか丸いものを乗せ、境内の白い玉砂利で出来た築山に備えた。

 風がざんざんざんと間欠に吹き、木立を揺らしていた。

 暗い木立の中に人影が立って微動だにせず、よく見ると影の中に人のものとは思えない輪郭がちらほらとあった。

 犬子は意味の掴めない祝詞のようなものを築山に向かって唱えている。すこし離れた所に立つ宮司姿巫女姿の人影が祝詞を引き継ぎ、音は音楽となり雅楽器の音に混ざり境内を満たしていく。

 僕は境内の端でオリエは何時出るのかと思ってきょろきょろしながら儀式の進行を見ていた。気がつくと僕のとなりに麻美ちゃんがいて、目が合うとにっこり笑った。

「オリエさんはもう少しで出てきます」

 その言葉は正しかった。

 いきなり轟と僕の頭上に突風が吹いたと思ったら、オリエが空から飛び降りて来た。

 築山の上の祭壇を踏み散らかして乱暴に着地した。

 四つんばいに近い格好で犬子を睨みつけていた。

 オリエは白のサマードレスを着て、瞳が闇を固めたように黒い。

 僕の腰の深いところで何かがびくりと動き、中心がかたくしこるのを感じて、あれは夜のオリエだと解った。

 祝詞の唱和の中、オリエは築山の上に立つ。

 彼女は獰猛な獣のような表情で、足を広げ、手を左右に軽く開いて身構える。

 一声唸るとサマードレスからのびた手がかぎ爪に変わった。

「オリエは呼ばれて来た訳じゃ……」

「呪で呼んだんですよ」

 オリエが犬子に向けて、動いた。

 眼に見えないぐらいの速度で打ち込まれた左右のかぎ爪を犬子はポンと宙返りをして避ける。

 犬子は中空で帯を解き、袴を落とし、衣をはだけて全裸になる。爪を避けながら器用に足袋を脱ぐと、そのまま輪郭を揺らめかせて狼人間の形に膨張した。

 犬子がオリエに向かって吠える。

 僕の下腹がびりびりと震えるほどの大きな吠え声。

 オリエはかぎ爪を次々と打ち込むが犬子の四肢が器用にそれを捌き、内懐に入れない。

 複雑な足捌きで砂利の上を滑るように犬子は移動してオリエに拳を打ち込んでいく。無駄のない美しい動きから犬子の武術の錬度が高いのが僕でさえも解る。

 犬子はオリエの羽を狙っている。

 オリエが大きく羽ばたいた。

 風でパシパシと犬子の体に玉砂利が飛び跳ね返る。

 オリエの体が浮き上がり、空へと昇っていく。

 犬子は構えを崩さずにソレを見つめる。麻美ちゃんがシャリシャリと砂利を蹴立てながら小走りで犬子に近づいて大きな弓を差し出す。

 犬子は弓を掲げ持つと矢をつがえ引き絞った。

 オリエは満月を背に高く小さくなっていく。

 犬子の鍛え上げられた全身の筋肉が連動するように動いて弓が丸く引き絞られた。

 ブンと音がすると矢が飛び、高空にあるオリエの影が揺れ、そして落ち始めるのが見えた。

 麻美に弓を返すと、犬子は拝殿の屋根に向けて飛びあがり、雨樋を蹴飛ばして更に宙に駆け上がる。

 犬子の逞しい腕がオリエの羽に絡みつき、背中にのしかかるようにして築山の上に一緒に落下した。

 鈍く大きな音がして、玉砂利が四方に飛び散る。

 砂利のひとかけらが僕のスニーカーの甲に当たり、痛みが脛を昇って僕はかがみ込んだ。

 空中で犬子が関節を決めていたのかオリエの羽はねじ曲がり用をなさなくなり、顔に血が一筋流れるのを見た。

 殺す気なのかと立ち上がった僕を麻美ちゃんが手で止めた。

「羽を殺しただけです」

 

 犬子はオリエから離れて人の形を取り戻した。

 白い肌が夜の闇ににじむように光っていた。

「オリエ、シオミツタマが欲しいか?」

 オリエは砂利を振り落としながら立ち上がった。

「どこにある……」

「シオミツタマは、哲夫の中だ」

 犬子は僕を指さした。

 

24

 

 祭りに参加させるとは、こういう事だったのか!

 オリエが玉砂利を踏みしめながら僕の方へゆっくりと近づいてきた。

 横をみると麻美ちゃんが立ち上がって僕の退路を塞いでいた。

 どうしようか、と思った。

 初めて会ったときのようにオリエはかぎ爪が地面に当たるほどガックリと肩を落として、ゆっくりと歩いてくる。

 犬子は素っ裸でこちらを見ていた。

 そして、僕は激しく勃起している。

 僕は生け贄なのか。

 僕をオリエに捧げるために犬子は呼んだのか。

 魔物として成人させるために。

 混乱して立ちすくみ、そして砂利を踏む感触で無意識にオリエに近づいていたことを僕は知る。

 オリエの目は暗い。真っ黒な穴のような目。

 すこし笑っている。

「シオミツタマを手に入れるとどうなる?」

 オリエの背後から犬子が声を掛ける。

「タマさえあれば、手に入れれば、私は人に戻れる……」

 それは……。

「姉がそう言ったのか」

「姉はそう言った。おじさんの体の中にあると言った」

「どんなおじさん?」

「中年だ。私よりも少し低いぐらいのおじさん……」

 オリエの家で見た、オリエのお父さんを思い出した、あの人の背は……。

「では、哲夫を殺し、体からタマを取り出せ。そうすれば……」

 犬子は小声でオリエにそうつぷやく。

 オリエが近づいてきた。

「そうすれば……」

 オリエがかぎ爪を振り上げる。

 僕の腰の辺りが溶けたバターのようにゆるゆるになった感じがする。

 僕は殺されて、オリエに喰われる。

 そう思った瞬間に背筋に電流のような快楽が走る。

 オリエのかぎ爪が振り下ろされた。

 

 僕はオリエの目を見た。

 僕は無意識に言葉を発していた。

 

25

 

「オリエに殺されるなら、いいよ」

 

26

 

 かぎ爪がぎりぎりで止まっていた。

 僕の頭のすぐ近くだった。

 僕は瞬きもしないでかぎ爪だけを見ていた。

 何かを押し留めるかのようにかぎ爪はぶるぶると震える。

 歪んだ口元から、歯をくいしばっているのが見えた。

「いい……」

 オリエの目を見た。

 鳶色の目をしていた。

「哲夫を殺さなければならないなら」

 ふわりと一粒涙がこぼれて、頬をつたい、アゴから落ちたのを僕は見た。

「オリエは魔物でいい……」

「いいの?」

 僕は聞いた。

「うん」

 オリエは頷くと、壊れた人形みたいにしゃがみ込んだ。

 オリエの肩に羽は無く、腕にかぎ爪は無く、血だけがたらたらと指につたわり白い玉砂利の上にこぼれ落ちていた。

「夜の世界にようこそ、相原織絵。我々は貴殿を歓迎する」

 犬子が手を高々と上げて宣言する。

 木立の間から歓声が聞こえ、雅楽が高く鳴り響いた。

 

 祭りは終わり、オリエはトリオニとして元服した。

 

27

 

「説明しろ、こんちくしょう」

 犬子に怒鳴ると、彼女は巫女服を身につけながらニマニマと笑った。

「精神的ショックを与えて、魔物のオリエと人のオリエの意識を混ぜたんだよ」

「そのための僕かっ! オリエがあそこで踏みとどまらなかったどうなったんだよ」

 犬子はそっぽをむいてニヘラと笑った。

「獣になったオリエを狩っておしまい」

「おまえな、人の命をなんだと思ってるんだ!」

「なんとも思ってないよー、では、哲夫、さらばだ」

 手を振って犬子は小走りで去っていった。

「え、あ、もう行っちゃうのか?」

「さよならだけが人生だ、ではではー」

 薄情な子供の魔物が闇の中にたたたと走り去って行った。

「先輩は祭りが上手くいってほっとしてるんですよ」

 麻美ちゃんがクスクス笑いながらそう言った。

「色々おせわになりました」

 ぺこりと頭を下げ彼女も闇の中へ去っていく。

 木立の中の人影も次第に数を減らし、天神神社は閑散としていく。

 

 シャリシャリと玉砂利を踏みしめながら、スーツ姿のメガネの綺麗なお姉さんが僕の方へやって来た。

「君が哲夫君?」

「はい」

「どもども、犬子たちの親玉です」

 お姉さんはにっこり微笑んだ。

 あ、この人もしかしてドケチメガネの人かも。

「犬子の報告書はいつも破天荒で面白くて、今回も哲夫君が見たくて新幹線で来てしまったんだね」

 むふふとおねえさんは笑った。

「あの、オリエはこれからどうなりますか?」

「中央って魔物の組合で働く事になるわね、残念ながら哲夫君たちとはお別れね」

 オリエともお別れなのか。

 やっぱり飛んでいってしまうのか。

 無意識に溜息が出ていた。

 でも、魔物の道を選んだのだから、仕方がないのかも。

 犬子とか麻美ちゃんを見ていると、オリエの事を大事にしてくれそうな予感がして、それはそれで良いのかとも思った。

「あと、織絵ちゃんの記憶やら犬子の記憶やらは忘れてもらいます」

「えっ?」

「ごめんねー、一般人に魔物の事を知られると、良くないんだわ」

「でも……」

 織絵の想い出、犬子との想い出、それが全部消える、そんなの嫌だ。

「大丈夫、消しちゃう訳じゃないから。砂漠の地下水脈みたいに見えなくなるだけ。思ったこと感じたことは心の底に沈んでいるだけで無くなる訳じゃないよ」

 でも、思い出せなくなるのは切ない。

「これから隠蔽班が回って、あちこちで記憶の書き換えしなければならなくて大変なのよ」

 大がかりな隠蔽工作が行われるんだな。こうやって昼の世界と夜の世界は境界を作るのか。

「シオミツタマって何だったんですか?」

「キリカちゃんはね、お父さんと織絵ちゃんを憎んでいたのよ。家の古文書を読んで魔物の事になんとなく気がついていたみたい。だから、嘘をついたのよ」

「オリエに人に戻りたかったらお父さんの中にあるシオミツタマを取って食えって?」

「そう、死に際に嘘をついたの、キリカちゃんが病みついたのも初変態に向けての変化の不調だったみたいね。もう少し早く私たちが知っていれば彼女も何とかできたかもしれないのに……」

 そう言っておねえさんは首を軽く振った。

 ああ、山彦が釣り針を返す時に呪いを掛けたように、キリカも健康なオリエに呪いを掛けたんだ。

 オリエは変態をして、魔物の本能で動くようになって、でも、お父さんを殺すわけにはいかなくて、中年の男性を……。

「さて、記憶を封鎖させてもらうわよ」

 お姉さんのしなやかな手が僕の額に掛かった。

 僕は抵抗をしなかった。逃げても無駄だと思ったから。

「あとね、報告書で読んだんだけど、君の勃起不全の原因もなんとなく解ったわよ。ついでに直してあげる。いろいろお世話になったからねー」

「え、原因が?」

「泰田京子ちゃんの事が好き過ぎたのよ、だから、立たなくなって固定されちゃったんだと思うよ。あとオリエちゃんに立ったのは死ぬ前の恐怖心からで、あんまり恋愛とか関係なさそう」

 ああ、そうだったのか……。

 おねえさんの手が温かくなって、そして……。

 

28

 

「あれれ?」

 なんで、僕は夜の神社で立ってるんだ?

 人っ子一人いない境内はひっそりとして何か不気味だ。

 僕は参道を下りて家に向かった。

 

 遅くまでになにしてたの? とお母さんに怒られ、僕は散歩と言い訳をして部屋に戻る。

 なんだか、部屋ががらんと広い気がするなあ。

 ベットに寝ころんだ。

 あれ?

 なんだろうな、なんでこんなに悲しいんだろうなあ。

 目から涙が出てきた。

 何だか解らないけど、すごく悲しかった。

 枕に子犬のようなお日様臭い匂いがする気がして。

 誰かを失ったような気がして。

 枕を抱きながら僕はすこし泣いた。

 

29

 

 朝起きたら、僕のアレが痛いぐらいに立ち上がっていた。

 なんだか忘れていた男の熱き血潮が蘇った気がした。

 

 そのまま登校して、泰田を校舎裏に拉致してキスをした。

「て、てっちゃん、何? ……、あ、あれー!」

 泰田が僕のモノを握りしめた。

 そして僕の胸の中に顔を埋めて泰田は泣いた。

 うむ、回り道をしたものだ。

 

 泣いている泰田の肩越しに焼却炉が見えた。

 どうして焼却炉を見て切なくなるのか解らなかった。

 なにか、大事なものを無くした気がした。

 でも大事なものが帰ってきたような気がした。

 失っていたサガシモノが帰ってきたような。

 そんな気がした。

 

(了)

説明
オマケノベルの旧作です。
一本完結の伝奇短編。
勃起不全の少年が怪異に出会います。
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