笑って。
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■笑って。1

 

 

 

 入学式を終え、一ヶ月近くが過ぎていた。

 広い広い天使学校の敷地も、ようやく迷わずに歩けるようになった。神殿とはまるで違う寮での生活リズムにも、少しずつ慣れつつある。だが、どうしても慣れずに困っていることがひとつだけ。

 ――またか……。

 ミカエルは廊下の端から聞こえてくる上級生達の話し声を、聞こえないふりでやり過ごす。

「彼だよね?」

「そう。ラファエル教官が担当しているミカエルだよ。今年の新入生総代だ。十三年前の事件の欠片さ」

「どうして輪っかがないの?」

「この間、落ちちゃったんだってさ」

「へえ……よく入学が許されたね。そりゃ、在学中に落とすやつも稀にいるとは聞くけどさ」

 学校でも寮でも、いつもこの調子だ。天使の雛が集まる天使学校で、輪がないということは、予想以上に目立つ。そのうえミカエルは今年の総代。入学式の席上で挨拶もしたから、なおのことだった。

 

 入学式で壇上に上がったときに湧き起こったあのざわめき。講堂中の視線が一斉に、ミカエルの頭上に集中していた。

 足が竦んだ。柔らかな筈のステンドグラス越しの光ですら、目に眩しく感じられた。頭の中が真っ白になる。何度も練習してきていた挨拶の言葉が、少しも出てこない。霞む視界の中で自分の手が震えている。

 もう嫌だ、ここから逃げ出してしまいたい。

 代表として挨拶をしろという連絡がきたのは、つい一昨日のことで、それから一生懸命挨拶の言葉も考えたのに。何度も何度もラファエルと練習して……。

 それを思いだした途端、目の端に映っていた黒い色が意識に登った。

 天使学校の制服はアイボリー。教官達も淡い色か鮮やかで美しい色の衣を着ている者ばかりだ。そんな中に一際目立つ、意識が吸い込まれていくようなあの黒衣。

 ラファエルが教官席から、励ますような力強い笑みを浮かべてミカエルを見ている。

 ――そうだ、天使になるんだ。この学校で学んで、天使に。

 あの人に恥ずかしいところを見せるわけにはいかない。あの人の生徒として、恥をかかせてしまうようなことだけは断じて出来ない。

 ラファエルを見た途端、力が涌いてきた。講堂中の視線を跳ね返すつもりで顔を上げた。

 

 ――頑張るんだ。

 今もミカエルはあの時と同じように、傲然と胸を張って教科書を小脇に抱き、前を睨み据える。噂話を無視して、次の授業の教室を目指した。

 天使学校の授業は大別して、教科担当の教官が受け持つ一般教科と、担当教官が授業をする天使学に二分される。ミカエルの担当教官であるラファエルは、同時に一学年の一般教科、地上人類学も受け持っていて、次はその授業だった。

 教室に入ると、先に来ていた生徒達が教壇を取り囲んでいる。明るい笑い声が響くその中心にいるのは、ミカエルの教官である片翼の天使だ。授業の前の馴染みの光景。

 ――またか。

 ミカエルは胸の奥から湧き上がってくる訳の分からぬもやもやを、吐息にして唇からこぼした。

 入学式の時から衆目を集めていたラファエルは、直に目だけではなくて、心まであっさりと掴んでしまった。ラファエルの居るところには、必ずと言っていいほど人が集まる。

 片翼の彼は、自分などよりも余程目立っているのに、いつも堂々としていて、いっそ余裕を感じさせてくれるくらいだ。

 ――あの人はなんで、あんなふうに生きていけるんだろ。

 また溜息が漏れた。 ラファエルはどれだけ注目されても平気な顔で、いつだって飄々とみんなを引き寄せてしまう。……まあミカエル自身も、初対面で引き寄せられたようなものだけれど。

 教壇から少し離れた窓際の席を選んで教科書やノートを置いていたら、ラファエルに、いつもの響きの良い声で呼ばれた。

「ミカエル!」

「はい?」

 見れば彼の教官は、人垣の中心で微笑みながら手招きしている。周りに集まっていた生徒達の視線も、自然とミカエルに集中することになって、居心地が悪い。

「何か?」

 近付いてきたミカエルに、ラファエルはプリントの束を押しつけた。

「悪いんだけど、これ配っといて〜」

 言うが早いか、出口に向かってすたすたと歩み去ってしまう。ミカエルは泡を食って声を掛けた。

「ラファエル様、どちらに行かれるんですか。もう授業が始まっちゃうんですよ!?」

「トイレー」

「ト、トイレって……」

 ひらひらと手を振って出て行く教官に絶句する。

 言葉を失っているのはミカエルだけではなかった。ラファエルの周りを囲んでいた生徒達も呆気にとられている。しかもその大部分が女生徒だ。……何だか自分のことのように恥ずかしい。

「す、すみません。うちの教官あんな人で……」

 思わず縮こまって謝ったら、周りが弾けるように声を上げて笑った。

「ラファエル様って飾らない方ね」

「はい、まあ……そうですね」

 他の天使達と違うのは間違いない。神殿にいた頃よりも強くそう感じるようになっていた。他の教官達と比べてみても、あの人が飛び抜けてざっくばらんで、あらゆる意味で個性的なのは確かだろう。

 少女達のひとりが首を傾げる。

「でも、天使ってトイレに行くの?」

「え。……さ、さあ、どうでしょう」

 ……言われてみればそうだ。少なくともミカエルは、神殿のトイレを使っている天使を見たことがない。トイレがあるからには使うのかも知れないが、神殿にいた頃は、天界人の来客用だとばかり思っていた。

「それより、プリントを配らなければなりませんね。わたくしたちがお手伝いしましょうか?」

「あ……どうもありがとうございます」

 周りにいた女生徒達が、にっこりと笑って手を差し出してくれた。

 気のせいかも知れないけれど、ラファエルのお陰で、他の皆と少し話しやすくなった気がする。

 

 

 授業が終ると、ラファエルは学生達に取り囲まれる前に、教室を出てしまった。話をしようと待ちかまえていた生徒達はがっかりしている様子だったが、ミカエルはほっとする。ラファエルが他の人に捕まっていると、情けないけれど、ほんのちょっとだけ疎外感があるのだ。……本当に情けないとは思うのだが。

 廊下に出て、自分の教室が入った教棟に向かう渡り廊下を歩いていたら、急に陽射しが翳った。 雲が出たのだろうかと空を見上げると、目の前に黒いものが迫ってくる。

「ミカエル〜っ!」

「う、うわわっ!」

 空から突然舞い降りてきた黒衣の天使に抱きつかれて、ミカエルは危うく尻餅をつくところだった。バランスを崩しつつも何とか立て直して、ラファエルを引き剥がす。

「もーっ、ラファエル様、いきなり何をなさるんですっ! 転ぶところだったじゃないですかっ!」

「教室に向かってたら、ミカエルの姿が見えたからさ。ちょっとおどかしちゃおっかなーなんて思ってぇ」

 首をすくめてくすくすと笑われて、ミカエルは盛大に脱力した。

「……おどかしちゃおっかなーじゃないです。天使のすることじゃありませんよ」

「ミカエルに叱られちゃった」

 そんなことを言いながらも、やっぱりラファエルは楽しそうだ。少し離れたところでこちらを見ていた生徒達もくすくすと笑っていて、ミカエルは真っ赤になった。

「いいから行きますよ、次の授業に遅れるでしょ!」

 ラファエルの背を押して、教室を目指す。この渡り廊下を通って階段を上り、左手すぐがミカエルの教室で、隣にはラファエルの教務準備室がある。ラファエルは教室の扉に手をかけながら、ミカエルを振り返った。

「ところでミカエル、そろそろ友達は出来た?」

「……いえ」

 入学して一ヶ月も経つと、同学年の学生達の間にも、それぞれにグループが出来つつある。天界人が多く住む区域に住んでいた子供達などは、入学前からの交友関係が出来上がっていて、ミカエルは上手くその輪の中に入れなかった。クラスメイトがいないというのも、原因のひとつなのかも知れない。

 ……それ以前に、光輪を持たないというだけで悪目立ちしている自分だ。友達なんて出来よう筈がない。

「そっか……寂しい?」

 今度はラファエルに背中を押されて教室に入りながら、ミカエルは澄まして答える。

「別に。クラスも僕ひとりなんですし、友人は必要ありませんから」

「強がっちゃってぇ」

 ラファエルは笑いながら、ミカエルの頭を軽く小突いた。

「べ、別に強がってなんかいません!」

「嘘だ。本当は寂しがりの癖に〜」

「寂しがりじゃないです!」

 ミカエルはむきになって言い返すと、自分の席に腰を下ろし、ラファエルから目を背けた。

「友人と遊んでいる暇があったら、天使として必要なことをひとつでも多く学ばないといけないんです。僕にはただでさえ、ハンデがあるんだから」

「ハンデねえ……」

「いたっ」

 ラファエルに額を弾かれた。 ミカエルは額を押さえてラファエルを見上げる。

「ラファエル様?」

「やれやれ。そんな顔してちゃ、天使になんかなれやしないよ」

 ラファエルは机の前にしゃがみ込んで苦笑している。ミカエルは少しムッとして、唇を尖らせた。

「顔と天使になれるかどうかなんて、関係ないんじゃないですか?」

「あれぇ、言ってなかったっけ。天使になるための一番重要なことだったのになぁ」

「一番重要なこと……?」

 ラファエルは両手で頬杖をつき、目をきらきらさせてミカエルの顔を覗き込んでいた。

「教えて欲しい?」

「はいっ、教えてください!」

 一番重要なことと言うからには、訊かねばなるまい。だがラファエルは人差し指を頬に当て、目を宙に泳がせる。

「え〜、どうしようかな〜」

「ラファエル様ぁ、意地悪しないで教えてくださいよ」

 ラファエルは快活な笑い声を立てると、今度は身を乗り出して顔を引き締め、声をひそめた。

「天使になるために一番大事なのはね……」

「はい」

「微笑むこと」

「……え?」

「大切なのは、心から微笑むこと。そうすればいつか望みは叶うよ」

 ミカエルは慌てて胸ポケットから天使マニュアルを取りだし、ぱらぱらとめくる。読み方のコツを教わってすぐに、全ページに目を通した筈なのに、そんな項目は覚えていない。

「そんなの、天使マニュアルのどこにも書いてませんよ」

「マニュアルに書いてなくても、大事なことはたくさんあるさ。君は微笑みを知らない天使を見たことがあるかい?」

「あ……」

 そう言われてしまうと、確かにそうだった。ミカエルの知る天使は微笑みを讃えている。天使にしては猛々しい方である天軍に所属する者達でも、普段は仄かに笑みを浮かべているものだ。

「笑ってごらん。少しずつでいいからさ。その度に君は天使に近付くよ」

 ラファエルはミカエルの頭を撫でると、教壇に向かって歩いていった。

 

 いつもの通り、人で溢れた食堂で一人っきりの昼食を終えた後、ミカエルは売店に立ち寄った。文房具と一緒に並べて置かれた、小さな銀色の鏡を指さす。

「すみません、そこの手鏡下さい」

 それから教室に。

 天使学校は基本的に少人数制だが、マンツーマンのクラスは滅多にない。一学年に一クラス、あるかないかだ。ミカエルの教室も、本来ならば五、六人は楽々と机を並べることが出来る広さで、授業の時ならばともかく、教壇の前にぽつんと置かれた机は、ひとりのときには落ち着かない。 それで壁際にしゃがみ込んで、さっき買った手鏡を覗いた。

 とにかく笑ってみる。

「…………」

 ミカエルはすぐに鏡から目を逸らした。

 ……何というか、手鏡の中に変な物体が居た。くしゃみを堪えたカエルのような。

 咳払いをひとつして、もう一度勇気を出し、手鏡の中を覗き込んだ。頬をあげて、目尻を下げて。

「……………………」

 ……何だろう、この、頬の引きつった、目の据わった、且つ互い違いに目尻の下がった物体は。生物学で習った魔界の蛙に、やっぱりこんな顔のが居たような居なかったような。あとで教科書を調べてみないと。

 あ、いや違う、そんな問題じゃなくて。もうちょっとこう……そうだ、左の頬が上がって、右の目尻がちょっと上がれば人間の顔に――

 指先でちょいちょいと上げたり下げたりしていたら、突然、教壇の方から弾けるような笑い声が聞こえてきた。

「っ――!」

 手鏡を背中に隠して慌てて振り返ると、教壇をばんばん叩きながら、身を突っ伏したラファエルが笑い転げている。

「笑わないでくださいっ、っていうか、いつからそこにいらっしゃったんですかぁっ!」

「あははっ、ミカエルってばかわい〜っ!!」

「あ、悪趣味ですっ、のぞき見なんて!!」

 頬が火照る。何だかもう、笑うどころか、いっそ泣きたい気分だ。

 ラファエルは目を指先で拭いながら近付いてくる。

「覗き見してた訳じゃないんだー。一生懸命だったから、声をかけなかっただけでさあ」

「それが悪趣味だって言うんです! ……もう」

 一度は背後に隠した鏡を、もう一度覗いてみた。今は赤い顔をして唇を尖らせた、みっともない顔の自分がそこにいる。

 情けない。こんな顔、嫌いだ。

 ラファエルがミカエルの隣に腰を下ろして、鏡をつついた。

「っていうかさぁ、さっきの自分の顔見て、笑いたくならなかった?」

 並んで映ったラファエルの綺麗な笑顔にムッとして、ミカエルは鏡をポケットにしまった。

「笑いたくなんてなりませんよ。みっともないだけです」

「えー。可愛かったのにー」

「可愛くないですっ!」

「可愛くないでしゅ〜」

「真似しないでくださいよっ」

「ミカエルは本当に可愛いねー」

「……もう」

 寄りかかられてほっぺたをつつかれると、何だか怒る気もなくしてしまった。

「無理しないの。笑顔なんて自然と涌いてくるものだよ。気を楽にしてれば勝手に顔が笑っちゃうようになるって〜」

 ――そりゃ、ラファエル様ならそうかもしれないけど。

 自分にはとても難しいことのように思えた。笑ったことなんてあったっけと、思わず記憶を辿ってしまう。あったのかもしれないが覚えていないし、どんな気分の時なら笑うのだろうかと、真面目に悩みこみたくなった。

 勿論、楽しいことがまるで無い訳じゃない。授業は楽しいし、勉強するのも楽しい。少しずつ天使に近付いているのだと思えば、まるで苦にならない。でも、それって笑うようなことなんだろうか?

 俯いたミカエルの頬を、ラファエルがもう一度つつく。顔を上げると、ラファエルは自分の顔を指さして、嬉しそうに微笑んでいた。

「ほらミカエルー。花のような笑顔〜!」

 柔らかに和んだ紫色の瞳に、自分の間抜け面が映り込んでいる。

 何だか知らないが頬が熱くなったので、ミカエルはラファエルから目を逸らした。

「はいはい、全くその通りですね」

「ミカエル、入学してから強くなったねぇ……」

「ラファエル様のお陰です」

 ラファエルはいつもこんな調子だ。この人を相手にしていると、いちいち怒ったり慌てたりしているのが、馬鹿馬鹿しくなってしまう。

「それよりラファエル様、昼休み、もう少しで終りますよ。せっかく早くいらっしゃったんだから、授業を初めてください」

 ミカエルが腕を引っ張ると、ラファエルはぐずぐずと床にへばりついている。

「えー。まだ早いよー、もうちょっと遊んでよ〜」

「教官のおっしゃることじゃありませんっ!」

「ミカエルこわ〜い」

 そう言いながらも楽しげなラファエルに、ミカエルは大きな溜息を落とした。

「……ほんとにもう」

 

 

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■笑って。2

 

 

 

 授業を終え、寮に戻り夕飯をすませる。自習の時間は勿論、自由時間も費やして勉強をするのが、ミカエルにとっては当たり前の日常だ。談話室に向かう生徒達の足音が、扉の前を通り過ぎていく。

『ところでミカエル、そろそろ友達は出来た?』

 不意に、ラファエルの声が頭をよぎった。

 ……入学してすぐの頃、同学年の生徒達が、談話室に行かないかと声を掛けてきたことが何度かあったが、ミカエルは誘いを全て断った。

 相手は鼻白んだ顔をしていたが、仕方がない。だって、勉強しなきゃいけないじゃないか。

 魂が欠けているというハンデを抱えた自分には、遊んでいる暇など無い。おまけに輪っかまで落としてしまったのだ。この上、自分が努力を怠ったせいで、三人とも天使になれないなんて事態に発展したら、あとの二人にどう謝ればいい。

 自分に出来るのは、ラファエルに乞うて天使としての教えを授けてもらうことだけ。天使になって融合を果たし、本来の姿に戻る為には、遊んでいる暇なんて……。

 ふと、吐息が漏れた。

 何だか疲れた。根を詰めすぎたのかもしれない。シャワーでも浴びて気分転換をしようか。

 寮の部屋が全て個室で、狭いとはいえシャワールームが完備されている。寮の設備の中で、そこが一番のお気に入りだった。このシャワールームがあるお陰で、人と接する煩わしさからひとつ解放されている。大浴場もあるにはあるのだが、ミカエルは一度も使ったことがなかった。

 どうせならば、食事も部屋で取れるようにしてくれたらいいのにと常々思っているのだが、自室で食事を取ることは、病気のときにしか許されないと、寮則で決まっている。

 熱めのシャワーを軽く浴びる。いつもなら寝不足の時や疲れたときでも、これで気分がすっきりするのだが、今日は効き目が今ひとつだ。諦めて寝るべきか迷いながらシャワールームを出ようとしたら、壁に取り付けられた鏡が目に入った。

 湯気に白く煙った表面を、ミカエルは拳でざっと拭う。まだらに散った水滴の向こうに、貧相な身体と生白い肌を持つ、無愛想な顔つきの少年が映っていた。

「……変な顔」

 造作が、というよりも表情がだ。

 ミカエルは鏡を見るのが、あまり好きではなかった。ひとりで居るときは大抵、少し途方にくれた情けない顔をしている。置いてけぼりにされた子供みたいな顔だ。

 ――どうやったら微笑むことが出来るんだろ。

 ミカエルは鏡にこつんとおでこを押しつけた。

 微笑むことが出来なければ、天使にはなれないらしい。ラファエルは天使にとって一番大事なことだと言っていた。

 でも、理由もないのに笑うことなんて出来ない。いつだってミカエルには気の重いことがつきまとっていて、それどころじゃないから。

 笑顔は自然と涌いてくるものだから、無理をするなとラファエルは気楽に言うが……。

『ほらミカエルー。花のような笑顔〜!』

 自分に向かって微笑みかけるラファエルの顔が、瞼に浮かんだ。

 楽しそうだったり嬉しそうだったり、優しそうに見える時もあれば、意地悪に見える時もあって……。あの人はいつも笑っているけれど、色んな笑みを持っている。

 ――あんな風に笑えたらいいのに。

 あんなに綺麗に笑えるのなら、ミカエルだっていつでも笑顔でいられる。

「……そうだ」

 ふと思いついて、ミカエルは鏡を見た。

 ――ラファエル様は普段、どんな顔をしていたっけ?

 記憶の中のラファエルの笑みを写し取るように、ミカエルはそっと頬を緩めてみた。

 だが、違う。こんなのはラファエルの笑みじゃない。気に入らなくて何度か繰り返し練習してみたら、段々自分の顔が、ラファエルに似てきた気がした。似ていると思ったら、次第に笑顔を作るのが苦にならなくなった。

 いつの間にか落ち着いた笑みを浮かべた自分が、鏡の中からこちらを見ている。

 ――自分じゃないみたいだ。

 胸がどきどきする。昼間に手鏡の中に見た、みっともない顔とは大違いだ。最初からこうすれば良かった。こんな笑みなら、いくらだって浮かべられる。

 ミカエルは小さなくしゃみをひとつ。

 笑顔の練習に熱を入れすぎて、身体が冷えてしまった。

 もう一度シャワーを浴び直し、今度は上機嫌にシャワールームを出た。大きな課題をひとつクリアしたから、今日はよく眠れそうだと思った。

 

 そして眠りに落ちる前の気分の良さは、翌朝起きてからも続いていた。 寮で食事を取るのは気の進むものではないのだが、それもあまり気にせず済んだ。

 上機嫌のまま学校に行って、中庭を通って教室を目指す。ベンチの方から、話し声が聞こえてきた。

「あの子がそうなの?」

「ほんとだ。光輪が無いわ。入学式の時は遠かったし、見間違いかと思ったのだけど……」

 上級生らしき女生徒が二人。ミカエルを見て話をしている。

 ――まただ。

 気持ちが竦みかける。咄嗟に足が止まったから、あちらもミカエルに聞こえていたことに気付いてしまったようだ。気まずそうに顔を見合わせている。

 どうしよう。このままいつも通りに立ち去ってしまってもいいものだろうか。でも向こうも気にしているみたいだし、このままでは、何だか自分が情けない。

 こういうときは、どうすればいいんだろう? ……いや、ラファエルならどうする?

 ミカエルは恐る恐る顔を上げると、昨夜鏡の前で何度も練習した通りに笑顔を浮かべる。

「……お早うございます」

 途端に上級生達は手を取り合って、小さな悲鳴をあげた。

 ……やっぱり失敗してしまったのだろうか。

 だがふたりはすぐにベンチから立ち上がると、ミカエルの元まで小走りにやってくる。

「あの、ごめんなさいね。私達、悪気があった訳じゃないの」

「本当よ。ただちょっと驚いたものだから」

「あ、いえ……お気になさらず」

 二人ともミカエルがちょっとたじろぐくらいの笑顔だ。……どうやらしくじったわけでもないらしい。よく分からないけれど。

「何かあったの?」

 二人の友達なのだろう、別の女生徒が声をかけてくる。試しにミカエルは、彼女に向かっても笑いかけてみた。

「お早うございます」

「……あら」

 その上級生は、頬にぱっと朱を散らした。どうやら少なくとも、嫌悪感は与えなかったようだ。

「あなた、一年生よね。今年の入学式で挨拶をした……」

「ええ、ミカエルと言います。よろしくお願いいたします」

「困ったことがあったら何でも言ってね」

「学校にはもう慣れた? 道は覚えてしまったかしら」

「はい。大分慣れました――」

 人が集まっていると目立つせいか、登校途中だった生徒達が、ぱらぱらとこちらにやってくる。いつの間にか人垣に囲まれていた。

 言葉も普段よりすらすらと出てくる。笑顔ひとつでみんな優しくしてくれるし、良いこと尽くめじゃないか。まるでラファエルになった気分だ。

 ……なんだ、最初からこうしていれば良かった。

 

「お」

 眠たいばかりの職員会議を終え、何気なく中庭を見下ろして、ラファエルはぱちりと瞬きをする。

 人垣に囲まれているあのアクアマリンの髪は、間違いなくミカエルだ。

 集まっているのは概ね上級生の女生徒のようだが、ちらほらと男子生徒も混じっている。楽しげなムードがこちらにも伝わってくるから、虐められている訳ではないだろう。

 窓縁に肘をついて、ラファエルは上機嫌に眼を細めた。同僚の天使が隣に立って、同じように中庭を見下ろしている。

「人気者じゃないですか」

「僕の可愛い教え子だもの。当然さ〜」

 歌うように答えたラファエルに、相手は苦笑した。

「やれやれ。君はミカエル贔屓ですねえ」

「他の子も一緒の授業の時は、そりゃあ平等に扱うけどさぁ。こんな時にたったひとりの生徒を贔屓しないで、誰を贔屓するんだい?」

「そう言われるとそうなんですが。――友達が出来たなら良かった」

「まあね〜」

 マンツーマンクラスの弊害は、友人を作りにくいことだ。ましてやミカエルは、その生い立ちから、同じ年頃の他の子供と接することに慣れていない。折に触れ、気にかけるようにはしていたのだが、何とかなったようでほっとした。

 少しの間、並んで中庭を見ていた天使は、ふと思い出したように苦笑した。

「それにしても、君が予定通りにミカエルに挨拶をさせると言いだしたときは驚いたなあ」

「あー、入学式のこと?」

 入学式で挨拶をするのは、その年の試験で首席になった生徒と決まっている。だがミカエルは入学式を控えた身でありながら、光輪を落としてしまった。

 壇上に登らせるか否か、教官達の意見は割れた。ミカエルへの通達が遅れたのは、結論を出すのが長引いたせいだ。

 試練が人を大きく成長させることを、天使達はよく知っている。だが、光輪を落としたばかりの天使の卵は、精神状態がとても不安定だし、入学式で式辞を読めば、否応なく目立つことになる。ミカエルに与えるダメージは計り知れないという意見に流れつつあった中、真っ向からそれを否定し、予定通りミカエルを壇上に上げることを望んだのは、担当教官であるラファエルだった。

「だってぇ。入学しちゃったら、四六時中人目を集めて暮らすのにさあ。入学式の時だけ隠してたって、意味無いだろ?」

 そのくらいなら、大舞台を踏ませてやった方がいい、本人の自信にも繋がるはずだと、ラファエルは会議の場でもそう主張した。

「でも、ダメージが大きすぎる危険性もあったでしょう。実際、壇上に登ってすぐは、逃げ出したいって気持ちが見ている方にまで伝わってきましたよ」

「ほんとに逃げ出すほどプライドの低い子じゃないさ」

「だからこそ危険じゃないですか。失敗したときの傷の深さは計り知れない。僕ならとても出来なかった」

 ラファエルは壁に凭れ、太い笑みを浮かべた。

「その時は僕が全身全霊で支えるんだよ。じゃなきゃ、何のための個人教授?」

 天使にならせてあげると、ミカエルに約束したのだ。光輪だっていずれはきっと戻す。

 肩越しに見下ろした先には、明るい陽射しに包まれた中庭。そこには、人に囲まれて遠ざかっていくミカエルの、華奢な後ろ姿がある。

 

 ラファエルはそれから、意気揚々と教室に向かった。

 あれだけ人に囲まれていたと言うことは、もしかしたら笑えるようになったのかもしれない。

 この学校の生徒は、全員が天使の卵。天使はある程度容色に優れているのが基本で、それは生徒達にも言えることだったが、ミカエルがずば抜けて可愛らしい顔をしていると思うのは、何も自分がミカエル贔屓だからという訳でもあるまい。笑えばきっと人気が出る筈だと、前から思っていたのだ。

 ――もしかしたら今日は、笑顔で出迎えてくれるかな。

 扉の前で足を止め、真鍮製の取っ手に手をかけて、ラファエルはうきうきと声を張り上げる。

「ミカエル〜、おっはよー!」

「お早うございます、ラファエル様」

 すぐに返ってきた元気な声。

 ――だがラファエルは教室に入った途端、笑顔を凍り付かせた。それどころか、身動きすら忘れてしまう。

 教室に置かれたたったひとつの机には、いつも通りミカエルの姿がある。

 ラファエルの入室に合わせて立ち上がった彼は、ラファエルの希望通り見事なまでの微笑みで迎えてくれた……のだが……なんだ、この違和感は。

「ラファエル様?」

 ミカエルは、それはそれはきちんとした笑みを顔に貼り付けている。細められた黄水晶の瞳。優雅な弧を描く唇。まるで高名な画家が、絵に描いたような。

「……えーっと、ミカエル?」

「はい?」

 ラファエルが首を傾げると、ミカエルも首を傾げる。

「あの……さ。その顔、どうしたの?」

「僕の顔、どうかしてますか?」

 反対側に首を傾けると、ミカエルの首も反対側に折れた。

 ……まるで歪んだ鏡を相手にしているようだ。

 笑みを浮かべたままのミカエルとは正反対に、ラファエルの顔からは笑みが消えていく。つかつかと歩み寄ると、思わずミカエルの鼻を摘んでいた。

「わぷっ。な。なにするんれすからふぁえうさまぁ」

 普段の困り顔に戻ったのを見計らって手を離し、ラファエルは笑みを作って言ってみる。

「はいミカエル、にっこり〜」

「はい?」

 つられてミカエルが、またさっきと同じ形の笑みを顔に貼り付けた。

 ……間違いない。作り笑顔だ。

 実にパーフェクトではあるが、自然に出たものじゃない。地上に居た頃にあちこちで目にした、べたなアイドル笑いのようだ。

 ラファエルが苦り切った顔をしているものだから、ミカエルの顔からも笑みが少しずつ消えていった。今はもう不安そうにラファエルを見上げている。

 ラファエルは重苦しい溜息を落とし、教科書で己の肩を叩いた。

「……そりゃあ確かに、作り笑いにも人間関係を円滑にする効果はあるしさ。百歩譲って、他の人の前ではいいんだけど。でも、僕の前では禁止だ」

「あの、ラファエル様、禁止って何をですか? おっしゃっていることがよく分かりません」

「僕の前で作り笑いは禁止ってこと。僕は微笑むのが大事だとは言ったけど、心から微笑むこととも言っただろ?」

 ミカエルは少しの間、呆然とラファエルを見上げていたが、しおしおと項垂れてしまった。

 多分ミカエルは、ラファエルが褒めてくれると思っていたのだろう。落ち込む様を見れば胸が痛んだが、撤回する気には、どうしてもなれなかった。

 形から入るのが悪いとは言えない、嘘の微笑みがいつしか自然に本物に変わる日も来るかも知れないと、分かってはいるのだ。 

 この程度のことで、こんなに衝撃を受けるなんて、自分でも思ってもみなかった。

 でも。

「……僕はあんな顔が見たかった訳じゃないからね」

 ラファエルは教科書でミカエルの小さな頭をこつんと叩くと、教壇に向かった。

 取り澄ました笑顔を見せられるくらいなら、いっそ怒っている顔の方が、百倍魅力的じゃないか。

 

 ミカエルはしばらくしょげ返っていたが、ラファエルが頑として折れなかったことから、そのうち諦めたようだ。

 あの作り笑いはその後も健在で、ミカエルの学校生活は些かなりと楽になった様子だったが、言いつけ通りラファエルに向けられることはなかった。

 彼がずっと望んでいた、ミカエルの満面の笑みを見られるようになったのは、数年後。ミカエルの頭上に光輪が戻った後の話だ。

 

 

 

 

<終>

カエルさんのような顔は20話の外で透明ラファとノエルに挟まれてたとき。

作り笑いは「やあノエル」を連想していただければ。

ぼーとした普段の顔は、16〜19話のラファエルと一緒にいるときのあれのイメージです。

説明
実はアニメ中でミカってラファに一度も笑いかけてない(背中越しにしか)とか、ひとりの時やラファと一緒の時は直立不動だったり正座だったり膝抱えてたりするのにカッコつけてるときだけ片足重心片ポッケになったりしてちょっとラファ臭くなるとか、ていうかミカエルのかっこいいの基準は全部ラファエル様なんじゃね? とか、なんかそんな話。
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あんなことやそんなこと。 BL 天なる ラファミカ 

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