少女の航跡 短編集07「暗黒の掟」-1
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 幾重にも張られた霧のカーテンが、作戦本部周辺を覆いつくし、兵達の張った布陣の全体像を把握できないようにしている。

 奇襲をかけるにはうってつけ。逆に、奇襲される側にとって見れば、これほど不利なことは無かった。

 ソフィア隊の伝令は、元々は、海賊達を奇襲する目的だったのだが、逆に奇襲されている事を伝えられるとは。

 海賊達は10キロも離れていない漁村にすでに上陸している。本隊への襲撃も間もなく襲い掛かってくるに違いない。しかも、巨大な昆虫の化け物まで従えており、騎士達への全面戦争行為を仕掛けてくると見られた。

 本来ならば、海賊が上陸するであろう漁村を中心とし、海戦さえ繰り広げられる予定であったのだが、『リキテインブルグ』の草原を中心とした陸上戦が行なわれると想定された。

「海賊どもは、どこから来るのか、分かっているのか?」

 この作戦を陣頭指揮している『リキテインブルグ』の騎士が言った。

「おそらく…、海側から来るのが定石でしょう…。しかしこの地はなだらかな斜面にある。この地形と、この天候を生かし、内陸側からやって来るという可能性も考えられる…」

 そう呟いたのは、『ベスティア』の作戦参謀を務める、ビクターなる男だった。

「どちらにしろ、我々に有利である事に変わりはあるまい。どうせ相手は海賊無勢だ。作戦なんぞ適当に…」

 『リキテインブルグ』の騎士は自信満々にそう言ったのだが、ビクターはフードを目深く被った顔から、密かに呟いた。

「だが、漁村自体を囮にする作戦は、簡単に見抜かれましたな…。この気候も我々は味方に付けることが出来なかった…」

 そうビクターが言った言葉を、『リキテインブルグ』側の総指揮官は、こざかしく思ったようだった。

「ふん。まあいい。どうせ、この作戦が終わった後、お前は、所詮海賊なんぞに作戦など立てる必要など無かった。と思うだろうさ」

 自信満々な『リキテインブルグ』の総指揮官が発した言葉に、ビクターは苦笑していた。まるで彼の言った言葉が滑稽であったかのように。

「何がおかしい? 貴様」

 その時だった。慌てた様子で、一人の兵士が本部へと駆け込んできた。

「伝令! 伝令です! 北西部から、海賊の一群が奇襲! その数数百! 奇怪な怪物を連れております!」

「何だと! なぜ、内陸からそんな軍勢が!」

 と、総指揮官は言うが、

「すでに2部隊が壊滅! 霧に隠れた奇襲で、こちらは手を出すこともままならず…!」

「ええい! 主力部隊を北西部に送れ! これは討伐作戦などではない、もはや戦争だ!」

 彼の声が、伝令の声を掻き消すかのように響き渡った。

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 ソフィアは事切れたカテリーナの体を抱え、まだ戦っていた。海賊達も、全く倒れず、たった一人で数十という海賊と死闘を続ける彼女に、いい加減手を焼き始めていた。

 しかし、そんな彼女への海賊の攻撃が突然止んだ。

「もういい。そこまでだ…。やれやれ、たった一人相手に、こんなにてこずるとはなぁ…」

 一人の海賊が他の者達よりも前に出てきて、周りを制止した。どうやら、この海賊達の中でも権力のある者らしく、服装も身なりも大分違っていた。

 どこからか奪ってきたのか、帽子やマントを付けている姿は、海賊の頭でも気取っているのだろうか?

「首領が、こいつらの本隊を襲撃した。オレ達もいつまでもここにいられないぜ…。さっさと、そこの漁村から奪えるもの奪って、逃走の準備をしておかないとなぁ」

 その男の言葉に、ソフィアは、相手の目的が読めてきた。

 騎士の本隊を襲撃するのは海賊の主力の部隊で、この場を襲撃してきたのは、ソフィアが仕掛けた財宝を奪う部隊という事だ。

 騎士達の本隊を壊滅させ、同時に財宝も奪う。何とも欲の張った作戦だが、海賊の恐ろしさ。その力を見せ付けるには十分な作戦だ。

 もし彼らの作戦が成功し、海賊が騎士達を壊滅させ、財宝まで奪われたら、民は恐怖に駆られ、この国は海賊に支配されてしまうだろう。

 ソフィアはそれを何としても阻止したかった。

「そこで…、こいつだが…、残ったのはこいつだけだろう…?」

 手にした短剣で、まるで物色するかのようにソフィアを見てくる男。ソフィアはすかさず剣を突き出したが、相手はその先で、余裕さえ見せている。切りかかろうと思えばいつでもソフィアはその男に切りかかれた。

「男だったら、死ぬまで放っておいてもいいだろう。だが年増とはいえ、見てみろ、十分な女だ。いい土産になるだろう。金にもなるし。ガキの方が良かったんだがな。殺しちまったしな…。こりゃあ、もう駄目だろ…」

 海賊達の間から、下卑た笑いが漏れた。それはソフィアの怒りを更に逆撫でする。

「貴様なんぞに、カテリーナを侮辱させるかッ!」

 ソフィアはその男に切りかかろうとする。こいつを倒すことができたとしても、どうせ周りの海賊達に反撃されるだけだ。

 だが、ソフィアは切りかからずにはいられなかった。カテリーナに対する侮辱は、自分の命に代えても許すことが出来ない。

 しかし、ソフィアの剣は簡単にかわされ、逆に背後から押さえ込まれてしまう。

「ほらよ。お前はもう戦える体じゃあねえんだ。見た所、受けた傷も致命傷じゃあねえ…。これからは、オレ達と仲良く暮らそうや…。悪いようにはしないからよ…」

 ソフィアを羽交い絞めにしたその男の言葉は、ソフィアにとっては今度は自分に対する侮辱にしか受け取る事ができなかった。

「ふざけるな…! 貴様! 私をも愚弄する気か…!」

「いいねぇ! そのぐらいタフであってくれないとな!」

 ソフィアが幾ら反抗しようとしても、その海賊は全く力を緩めようとしなかった。相手の力が強すぎるのではない。ソフィアがそれだけ弱ってきているのだ。

 もはやどうしようもない。このまま海賊達に捕らわれて、いいように扱われるだけになってしまうのか…、ソフィアの中に絶望感さえ生まれた。

 むしろ、それくらいだったら、この場で命を絶ってしまった方が良いだろう。ソフィアはすでに覚悟を決めていたから、あとは決断するだけだった。

「カテリーナ…」

 ソフィアの目には、すでに目の前で事切れているカテリーナの姿が見えていた。

 今すぐ、彼女の後を追う。お前一人に寂しい思いはさせない。

 ソフィアがそう決断したときだった。

 カテリーナの体が突然、まばゆい光に包まれた。

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「クラリスッ! 周囲の状況はどうなっている!」

 一人の騎士の声が、霧の中に響き渡った。周囲の視界は数メートル先までしか望むことが出来ず、完全に視界を奪われている。

 だが、海賊達は確実に本隊を襲撃してきているはずだったし、海賊の軍勢はどんどん作戦本部へと接近してきていた。

 そんな中、つい先日、騎士としての地位を認められたばかりの、女騎士、クラリス・アルセイデスは、一つの騎士団に所属。エルフの騎士であるという事から、人間ではなすことの出来ない事をさせられていた。

 霧に覆われた、視界が利かない周囲。しかしクラリスは、そのエルフが持っている、何よりもの特徴である、長い耳を細かく動かし、周囲の空気を読み取る。

 彼女にとって、風は、視界と同じように感じ取ることが出来る。例え、豪雨と霧に覆われていようとも、彼女には周囲の光景がはっきりと手に取るように分かっていたのだ。

「前方10メートルほど先に、3人…。昆虫のような姿をしたものが一体います…」

 クラリスは目を閉じたまま、自分の所属する騎士団長にそう言った。

「聞えたか? 相手は、我々が見えていないと思っている。だが、我々には、クラリスという目がある。一気に迎え撃ってやるぞ…」

 自分の周囲を取り囲む騎士達に、彼らを指揮する騎士団長は言った。

 彼は、本来ならば作戦会議に参加するだけで、戦場にはよほどの事が無い限りは出ないつもりでいたのだが、本部付近にまで海賊が迫ってきているともなれば、彼らも出陣するしかなかった。

 騎士達は霧の中に馬を飛び込ませて行き、クラリスが言っていた海賊達を次々と仕留めた。霧の中のからの奇襲では海賊達の方が有利だったが、逆に居場所が分かってしまえば簡単に仕留めることができる。

 元々数では騎士や兵士達の方が大きく勝っているのだ。

 しかし、霧の中でも気配を感じることが出来るクラリスは、連合軍の中にはクラリスと、数人の亜人しかいなかった。

 更に、霧の中に飛び込んでいった馬達は、ある存在に大きく怯むことになる。

 それが巨大な昆虫だった。

 クラリスは自分の跨った白馬が、霧の中から迫る大きな昆虫に恐れを成している事が分かった。

 人間でだって恐れを成す。馬達は自分よりも更に大きな存在に怯えているのだろう。

 例え歴戦の騎士の馬であっても、海賊達の操る巨大な昆虫には、恐怖を感じている。

「怖れるな! 所詮相手は虫ケラだ!」

 そう自分の馬に叫びかけ、昆虫に向って馬を飛び込ませていく騎士。

 昆虫が振り下ろしてきた鎌を、馬上で剣で受けて弾き返す。そして、昆虫の体目掛けて、剣を突き立てて行った。

 クラリスも、大きく怯んだ昆虫に向って飛び込んで行き、手にしたミスリル銀の槍を突き出す。その一撃が昆虫の息の根を止めた。

「ふん! こんな昆虫共など、所詮は虫ケラに過ぎん! 海賊共のこけおどしに過ぎないのだ!」

 と、崩れ去った昆虫を蹴りつけながらクラリスの上官の騎士は言った。

「後ろ! 後ろから来ています」

 クラリスはすかさず叫ぶ。彼女の目の前にいる上官の背後から、また巨大な昆虫が迫ってきていたのだ。

 彼は素早く馬を振り返らせ、振り下ろされてきた鎌を受けた。

「おのれ…! 小癪な…! この霧さえ晴れてしまえば、貴様らなんぞ…!」

 吐き捨てるかのように騎士は言い放つ。彼らの戦いを妨害するかのように、霧は一層濃くなろうとしていた。

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 光りだしたカテリーナの肉体は、周囲に眩いばかりの閃光を放っていた。

 一体何が起きているのか、ソフィアには分からなかった。彼女を捕えている海賊達も何が起きているのか分からないまま、ただ目の前で輝く閃光に目を眩まされている。

 カテリーナの体から放たれた光は、周囲に広がり、1分ほども発光を続けると、やがて光がカテリーナの体に収束した。

 カテリーナの事切れたはずの体から一体何が起こったのか、ソフィア達は、自分が今置かれている状況など忘れ、彼女の体に見入っていた。

 やがて、カテリーナが、その身を起こしたとき、ソフィアは自分の眼を疑った。

 そんなはずは無い。さっき、カテリーナは確かに自分の腕の中で事切れたはずなのだ。それも、明らかに致命傷だと分かる傷を負っていた。息を吹き返す事など、まずあり得ないはずだったのだ。

 それに、今の閃光は一体何なのだ?

 海賊達が、体を起こしたカテリーナに畏怖を感じているかのように後ずさっている。

「な、何だあ…? 息を吹き返しやがったのか? いや、死んだふりでもしていたってのか? 大人しくお寝んねしていりゃあ、良かったってのによ…」

 ソフィアを羽交い絞めにしている海賊の一人がそう言った。

 だがカテリーナは、ただ黙ってその場から起き上がると、抜き放たれている剣を片手に持ち、ゆっくりと海賊達を見回した。

 良く見れば、彼女の体からは、奇妙な発光体が迸っている。まるで稲妻のような青白い光が、彼女の周りを走っていた。

「や、野郎共、やっちまえ…! できれば生かしておけよ…!」

 その合図と共に、カテリーナに向って、一斉に海賊達が飛び掛っていった。だがカテリーナは全く動じることなく、十数人はいるかという海賊達に、その剣を向ける。

 突如、カテリーナの剣から、落雷でも起こったかのような衝撃が周囲に撒き散らされた。

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 『リキテインブルグ』『ベスティア』両国の軍が張った、作戦本部周辺では、海賊達と連合軍の戦いが最高潮に達していた。

 海賊達は、霧に紛れ、次々と兵士達に奇襲を仕掛けて来る。一時期は、海賊達に翻弄されつつあった連合軍だったが、本部周辺の守りと、数では圧倒的に勝っていたため、だんだんと状況を覆しつつある。

 相変わらず霧と豪雨の為に、海賊達の奇襲も続いていたが、統率が取れ、熟練の騎士達が率いる連合軍には、海賊達も後退せざるを得なかった。

 形勢逆転をし出した連合軍。しかし、突然、新たな動きが見られた。

 押し返していたはずの本部周辺の部隊がにわかにどよめく。そして、だんだんと前線が後退しだした。

 海賊達を押し返していたはずの騎士達も、突然の出来事に動揺が広がる。

 誰かの声が叫んだ。

「アンジェリーナだ。海賊の首領、アンジェリーナが姿を見せたぞ!」

 騎士達に更なる動揺が広がった。

 それは、海賊を率いる長、自らが最前線に乗り込んできたためだ。

 その声を、本部周辺で海賊達からの奇襲の守りについていた、クラリスも耳にしていた。

 彼女は霧の中から迫って来る海賊達の気配を感じ、即座の奇襲にも対処できていたのだが、近付いて来た新手の海賊が、アンジェリーナだとは分からなかった。

 しかも彼女の周りには、何か、巨大な気配も一緒についてきている。

「な、何だ…、あれは?」

 クラリスの側にいる騎士が、恐れを成したかのようにそう言った。クラリスも、皆が向いている方を振り向く。

 するとそこには、霧の向こうに巨大な黒い影があった。それは、先ほどまで、クラリス達が戦っていた昆虫の、何倍もの体格をもつ昆虫だった。

 黒い体と巨大な鎌をもつ姿は、騎士達をまるで小動物のように小さなものと錯覚させてしまう。

 そして、その昆虫が大きな鎌を振り下ろせば、大地が抉れ、衝撃だけでも騎士達が一気に吹き飛んだ。

 馬ごと吹き飛んだ騎士達は、衝撃で何メートルも飛ばされて、地面の上を転がっていく。大地を揺るがすような音と共に、クラリス達に迫ってきていた。

「ど、どうすれば良い…。こんなもの、海賊達が操れていたなんて、知らないぞ…」

 迫りくる巨大な昆虫に、クラリスが所属する騎士団の団長は、明らかに恐れを成しているようだった。

「アンジェリーナです…、彼女を倒せば、何とか…」

 クラリスは迫って来る昆虫に危機を感じてはいたが、何とか団長を落ち着かせるような声で言った。

「あいつを倒せば、だと。この海賊共の首領を倒したところで、この昆虫共はどうにもならんぞ…!」

「いえ、アンジェリーナが仕切っているこの海賊は、彼女がやられれば統率が取れなくなり、自滅します。この昆虫達を例え倒すことが出来たとしても、彼女がいては、次から次へと軍を呼び込まれるだけです…」

 クラリスがそのように話している間にも、巨大な昆虫は彼女達の元へと着実に迫ってきていた。

「だが、アンジェリーナをどうやって倒す? あの巨大な昆虫に守られている内は手出しができん…!」

 と、団長が言った直後、クラリス達に向って、巨大な昆虫が、鎌を振り下ろしてきた。

 その衝撃で団長は馬から振り落とされてしまい、地面の上に転がった。

「ええい! おのれ!」

 毒づく団長を尻目に、クラリスは、再び降ろされてきた鎌を、軽やかな馬のさばきによってそれをかわす。

 昆虫は巨大な鎌を地面に付きたてたものの、深く突き刺してしまったために、それを抜くのに手間取っている。

 これを隙であると判断したクラリスは、素早く、昆虫の懐に馬を走らせて行き、巨大な鎌を支えている根元へと槍を突き出した。

 すると、鎌こそ巨大であった昆虫の武器は、根元から簡単に折れてしまう。昆虫は奇声を上げつつ、その武器を失った。

「この昆虫達は、体が巨大すぎる分、小回りが利いていません! 鎌と足の間を掻い潜っていけば、アンジェリーナに近付く事ができます!」

 クラリスが、自分の所属する騎士のみならず、周りの者達に向って叫んだ。

「アンジェリーナを倒すことが出来れば、海賊は自滅して、この戦いは事実上わたし達の勝利になります! 覚悟を決めて!」

「ええい! わかっておるわ! 小娘がいちいち粋がるな…」

 自分が落馬している最中に、この状況を打破する方法を見つけた部下に言い放ちつつ、団長は再び馬の上へと戻った。

 クラリスは巨大な昆虫の一体を退けると、その脚の隙間を掻い潜っていく。昆虫の体は見上げるほどの巨体があったが、その大きさゆえ、素早く動くクラリスとその馬を認識する事ができないらしい。

 騎士達にとって恐怖を与えるには十分だったが、軍勢の中からたった一人飛び込んできたクラリスの姿は見えていないのだ。

 昆虫達の間を掻い潜ってきたクラリスは、突如、開けた場所に出た。

 辺りには誰もいない。ただ霧のカーテンに周囲を覆われた場所。しかし、決して騎士達やあの昆虫達、海賊達と離れた場所にやって来てしまったのではない。

 騎士達の戦いの声が聞え、昆虫の奇声も聞える。クラリスは、エルフ特有の長い耳を動かして、周囲の風を読み取ろうとした。

 そこへ、

「あらら、可愛い娘だねぇ。とってもあたし好みのエルフちゃんがやって来たわねぇ…」

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 どこからか女の声が聞えて来る。甘く囁くような声が、クラリスの周囲を取り巻きながら迫って来る。

 どうやら、自分の周囲を取り囲んでいる霧の中に、何者かが潜み、狙ってきているのだと、クラリスは悟った。

 警戒の姿勢を緩めないまま、クラリスは自分の耳を小刻みに動かし、周囲の気配を探る。

 風の動きを読んだ。いくら霧で視界が不明瞭になっていようと、風は変わらず流れている。クラリスが20歳を待たずして立派な騎士になれたのも、エルフの血を引いており、この風を読む力を持っていたからだ。

 風邪を読めれば相手の動きを、目と体で感じて、一足早く行動することができる。さらに今のような濃霧の中で戦う事も、十分にできるのだ。

 クラリスは、霧の中から風を切り裂いて、幾つものナイフが飛んでくるのを感じた。霧を切り裂いたナイフは、クラリスの脇を掠めて、霧の向こう側へと消えていく。

 2、3本のナイフが同時に投げつけられていた。

「あら? 避けたわ。この濃い霧の中で、よくあたしの投げたナイフが見えたわね…」

 霧の中から聞えて来る甘い声。それは今さっき聞えてきたばかりの女の声と同じものだ。

 この声の主は、多分、アンジェリーナ。クラリスは直感した。

「そういうあなたこそ、私の姿が見えていないはずですのに、よくわたしに向ってナイフを投げることが出来ますね?」

 周囲に警戒を払いつつも、クラリスは落ち着いた声で答えた。槍を背後から突き出せるようし、盾で体の前面をしっかりとカバーする。

 だが、クラリスの視界の中には何者もいない。霧のカーテンだけが覆っている。

「あたしは、あんた以上に勘が鋭いし、音や気配に対しては敏感なのさ…」

 そう声が聞えた刹那、霧の中からナイフが再び飛んできた。クラリスはそれを察知し、盾を前に構え、2本のナイフを受け止めた。

「あなたも…、騎士の部隊を相手に全面対決を挑むなんて、随分と無謀な事をなさいますのね…?」

 クラリスがそういった直後、素早く霧の中から何かの影が飛び出してきた。その動きを素早く風を読むことで読み取ったクラリスは、盾で何者かの攻撃を受けとめた。

 刃が二本。盾に向って叩き付けられる。素早く反応しなかったら刃に切り裂かれていただろう。

 素早く動いた何者かは、クラリスの目に映ることもないほどの素早さで、彼女の盾を踏み台にし、再び霧の中へと身を隠した。

「うふふ…、いつまで持つのかしら…? 楽しみだわね…」

 霧の中から聞えてきたアンジェリーナらしき者の声。クラリスは彼女の声、そして霧にどんどんと追い詰められている自分を感じていた。

 とその時、クラリスは遠くの方で音が聞えたのを耳にした。

 霧のカーテンの向こう側から聞えて来る。騎士達が、昆虫や、海賊達と戦っている音の向こう側から、大きな音が聞えてきて、それが大地を揺るがしたのを感じた。

 それは落雷にも似た音だった。

 嵐が訪れ、濃い霧も出ているのだから、雷鳴の一つが聞えても不思議ではないだろう。

 しかしクラリスは感じた。この雷鳴はどこか違う。何か音以外の、違う『力』を感じたのだ。

「どこ向いてんのよ!」

 アンジェリーナの声が響き、再び彼女が霧の中から飛び出してきた。しかしクラリスは、アンジェリーナと共にやって来た別のものを感じていた。

 それは突然の突風だった。凄まじい衝撃波が広がってきたのだ。その衝撃に身構えたクラリスも、吹き飛ばされそうになってしまうが、何とか身を持ちこたえる。

 衝撃は一瞬のうちに通過していった。海賊達や、騎士達は今の突然の衝撃に押し倒されてしまう。

 そして周囲を見回してクラリスは気が付いた。

 霧が晴れ渡っていたのだ。同時に、あれだけ激しく降っていた豪雨も止んでいた。雨雲が、今の一瞬の衝撃によって全てかき消されていたのだ。

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 霧が晴れ渡った後、ソフィアは、突然の落雷の衝撃から身を起こしていた。

 今の衝撃波は一体何だったのだろうか、ソフィアには分からなかった。

 ソフィアが顔を上げると、そこには、カテリーナが立っていた。死んだはずのカテリーナが自分の脚で立っているのだ。

 今、何が起こったのか、ソフィアにも分からない。ただカテリーナの剣の上に落雷のような閃光が落ちたのだけは見ていた。

 あの閃光が、衝撃波を撒き散らして、霧も雨雲も吹き飛ばしてしまったのだろうか?

 ゆっくりと、カテリーナは海賊達の方へと向っていく。彼らも、今の衝撃波で吹き飛ばされてしまっていたらしい。

 カテリーナは彼らへと近付いていく。まるで、そこに立っている彼女自身が、まるで現実味を持っていないかのような姿で。

「何だ? 何だ? 何が起こったってんだ?」

 海賊達が、わけも分からない様子で倒れたその場から立ち上がろうとしていた。この場にいたほとんどの海賊が、今の衝撃波で吹き飛ばされていた。中には何メートルも吹き飛ばされていた海賊もいたようである。

 カテリーナは、そんな、何が起こったのか分かってもいない海賊達の方へと、ゆっくりと近付いて行っていた。

 彼女が何を自分達にしようとしているのかと、海賊達が気が付くよりも前に、彼女は海賊達へと近付いていくと、その剣を振り下ろしていた。

 

 

 海賊の首領、アンジェリーナは見たところ、ただの若い女でしか無かった。

 長い黒髪に海賊ならではの帽子を被り、顔には目の下あたりに弧の字型の刺青をいれている。マントを羽織ったかのような姿をしており、背は割と高かった。

 その手には二本の刃を持っていたが、やはり見たところはただの女でしかない。

 彼女の父親が、海賊を取りまとめて、それを娘に受け継がせた。もしくはアンジェリーナ自身が、幼い頃に元々海賊に捕えられて育てられ、謀反を起こして海賊達を従えた。など、色々なうわさもある。

 しかしそれは、海賊達でなければ真実を知らないだろう。

 クラリスにとっては、今目の前にいる、年のころが同じほどの娘こそが、この海賊達を従えているのだという事が、何よりも大事だった。

「ふん…。霧が晴れたって、あたしの部下達は、そう簡単にはやられないよ。こっちには、昆虫もいるんだからねぇ…」

「随分と威勢が良い事ですわね。騎士達に全面戦争を仕掛けて、勝てるとでもお思いなの?」

 クラリスは視界の開けた戦場で、再び槍と盾を構えていた。

 新緑の色を呈す長い髪と白い肌。そして彼女の纏うミスリル銀の鎧の薄緑色の光は、戦場においても、特異的な存在だった。

 対するアンジェリーナは、そんなクラリスの姿になど動じず、乱暴な素振りで双刃を構えた。

 彼女は、海賊の帽子を被り、マントを着てはいたものの、ろくな武装をしておらず、騎士達に比べれば無防備にも見える。しかし彼女は動じず、クラリスへと正面から迫って来た。

「エルフちゃんが戦えるのかい? 見せてみな! その戦い方を!」

 アンジェリーナは正面からクラリスに斬りこんで来る。その刃を、クラリスは盾を突き出すことで受け止めた。

 一点の陰りもないような、ミスリル銀の、鏡のような盾がアンジェリーナの双刃を受け止めた。

 金属同士が激しく擦れる。数秒の間、競り合った二人だったが、クラリスの方が、盾で相手の体を押し出して崩そうとする。

 しかし、アンジェリーナは、その盾の上で宙返りをし、クラリスの体の上を飛び越えると反対側へと着地した。

「へええ…、結構やるじゃあない。エルフの華奢な娘がいるから、これは狙い目だと思って来てみたけれども、あんた普通の騎士なんかよりも全然強いよ。人間じゃあないだけあるね…」

 アンジェリーナは振り向きざまにそう呟いてきた。

 クラリスは、自分の頬から垂れてくる血に気が付いた。それは、たった今付けられたばかりの傷。アンジェリーナは、自分を飛び越えるついでに、刃を走らせてきていたのだ。

 だがクラリスは、傷の事など構わず、黙ってアンジェリーナに向って再び対峙した。

「あらら、綺麗な顔が傷つけられて怒っちゃったかしら…? 怒った顔も随分可愛いわよ。あんた」

 だが、クラリスは、今度は自分から盾を前にしてアンジェリーナへと迫る。

「別に、怒ってなんかいませんわよ…!」

 槍を突き出したクラリスだったが、アンジェリーナはそれをひらりと身軽な動きでかわして、再び、盾の上で宙返りをしようとした。

「何度やったって、あんたの動きじゃあ、このあたしを捕らえる事なんか…」

 と、空中で彼女が言いかけたとき、突然、アンジェリーナの体が突風に煽られ、地面へと叩きつけられた。

「ああっ! なッ!」

 地面へと倒れこんだアンジェリーナに、クラリスは槍を突き立てていこうとしたが、彼女は素早く転がりながらそれを避ける。

「エルフが、自然と共にある種族だという事を、お忘れになりましたの?風は、エルフと共にありますのよ」

「忘れちゃあいないさ。あんたも、あたしがナイフ投げの達人だって事を、忘れてやしないかい?」

 アンジェリーナがそのように言った直後と、クラリスの背後から、何本ものナイフが彼女へと襲いかかってきた。素早く防御の姿勢に入ろうとしたクラリスだったが、ナイフは彼女に奇襲をかけ、彼女の体をかすめた。

 その衝撃で、クラリスは、自分の持つ盾を手放してしまった。

 盾は地面の上を滑っていってしまう。

「おおっと、危ないね…。今のはたまたまかわせたみたいだけれども、次はどうかな?」

 そう言って、アンジェリーナはどこから取り出したのか、再び数本のナイフを取り出し、クラリスに見せ付けた。

「さあ…、かわせるんじゃあ、ありませんの? また投げてきてみたらどうです?」

 クラリスはアンジェリーナの挑発には乗らず、代わりに盾を持たないままの姿勢で、槍を構えて見せた。

「肝心の、防御に使っていた盾も失ってしまったからね…、次はかわせるかな、って…、あれ?」

 アンジェリーナはクラリスの方に構えたまま、ある事に気がつき、表情を変えた。

「あんた…、自分の盾はどうした?」

「さあ、何の事ですの?」

「今、あたしが手放させてやった盾を、どこに転がしていったかって、聞いているのよ!」

 アンジェリーナは叫んだが、クラリスは知らん顔をして、

「さあ、あなたに突然手放されてしまった盾の事なんて、わたしも、どこに転がっていったかなんて分かりませんの…。それより、あなたも、背後に気をつけたほうが良いんじゃあなくて?」

 そうクラリスが言ったときだった。アンジェリーナは突然自分の頭の後ろにやって来た重く、鈍い衝撃に突き飛ばされていた。

 何が飛んできたのか、彼女は分からなかった。それが近付いてきている事さえも分からなかった。

 だがその衝撃で、アンジェリーナは自分の意識が吹き飛びそうになっていた。クラリスの方へとよろめく。

 クラリスが突き出してきた槍を避けるような暇も無かった。

「さっき、あなたがナイフを投げてきたのをみて、ふと思ったんですよ、わたしにもできないかなって…。それにわたしには、風を操ることができる力がありますの。だから、投げたものは、自在に風を使って操る事ができるのですよ…」

 とアンジェリーナに寄りかかるような姿勢でクラリスが言った。彼女が握る槍には、鮮血が流れ落ちてきている。

「何よ…、あたしが死んだからって、…、この海賊団が、滅ぶとでも思っているのか…? どうなんだよ…?」

 クラリスの耳元で囁くような声で、アンジェリーナは言ってくる。彼女の右の肩口からは血が溢れ出してきており、それがクラリスの槍を伝わってきていた。

「さあ…、でもわたし達は、あなたさえ倒せば、この海賊の脅威は去ると言われていますので…」

 と言ったクラリスの言葉に、アンジェリーナは苦笑したようだった。

「ああ、そう…? 残念だけど、それはないね…!」

 そう言い放つなり、アンジェリーナは半ば乱暴に、クラリスの槍から自分の体を引き抜いた。

 同時に彼女の肩から血が溢れ出す。

 アンジェリーナは傷を負っていない左腕に握ったナイフを、自分の首筋に押し当てる。

「な、何を…!」

 そんなアンジェリーナを制止しようとするクラリスだったが、彼女はクラリスから距離を置き、彼女に向って言い放った。

「あんた達に捕まるほど、あたしは甘ったれていないのよ!死に方は自分で決める。あんたに止めを刺されるような筋合いもないね…。最後に教えてあげる。あたし達にあの昆虫共を売りつけてきて、代わりに騎士団を壊滅させろって言ってきたのが、誰なのか?」

「え…、何の事ですの…?」

 アンジェリーナが何を言っているのかと、分からないままのクラリスを無視して、アンジェリーナは更に話を進めた。

「ハデスっていう奴さ…。どこの誰だかは知らないけど、今のあたしからして見れば、随分と割りの合わない仕事だったわね!」

 そう言い放つと同時に、アンジェリーナは自分の手を思い切り手前側に引き、自分の首筋に刃を走らせた。

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 一体、何人の海賊が彼女の前に斬り捨てられたのか、ソフィアはとても数えることが出来なかった。

 中には剣によって斬り捨てられただけではない。稲妻のような電撃が、あっという間に海賊の肉体を焼き、黒こげにさせてしまっていた。

 無数の海賊の体が高台の平原に積み上がった。

 それでもまだ彼女は、迫って来る海賊達を斬り捨て、葬り続けていた。

「カテリーナ…、一体…」

 ソフィアは、カテリーナが一体、どうしてしまったのか全く分からなかった。ただ彼女は、何かにとりつかれてしまったかのように、海賊達を葬り続けている。

 その時、ソフィアの首を掴んでくるものがあった。ただ呆然とカテリーナを見つめていたソフィアの首を掴んでくる者の姿。

 それはさっき、ソフィアを捉えようとした海賊達の副頭だった。

 彼は体を黒焦げにされており、かぶっていた帽子も髪も焼け爛れている。みるも無残な姿のまま、ソフィアの首を掴んできていた。

「おれは…、ただでは死なん…!きさまだけでも道連れに…!」

 ソフィアは必死になってその男の手を振り払おうとした。だが、力が入らない。元々体力を消耗していたせいで、立つことさえできなかったのだから。

 一方で、黒焦げにされている男は、凄まじい力を発揮していた。死ぬ間際に一気に力を出そうとしているようである。

「カテリーナ…」

 どうする事もできないまま、ソフィアはがっくりとその場に力尽きていた。

 疲労によって力尽きたのが先か、黒焦げの男によって止めを刺されたのが先立ったのか、ソフィアはそれさえも分からなかった。

「ソフィア様!」

 カテリーナがそのように叫び、ソフィアの元へと駆けつけてきたのは、ソフィアが力尽きてから、何分も経った後の出来事だった。

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「カテリーナッ! カテリーナ! どこにいるの!?」

 草原にクラリスの声がこだましていた。

 先ほどまで、辺りは濃い霧に包まれていた。だが今は違う。豪雨も濃霧も全てが消え去り、草原には広い視野が広がっていたのだ。

 だが、決して空が晴れ渡っていたわけではない。またいつ濃い霧が出てくるか、雨が振り出すか分からない、不安定な空模様は続いていた。

 クラリスは、アンジェリーナが自害した後、戦線の最前線を抜け、草原を海の方へと向っていた。

 海賊達は、アンジェリーナが倒れたと知るなり、突如として混乱に陥った。すでに連合軍によって、かなり追い詰められていた海賊だったから、彼らの指揮系統は機能しなくなり、中には逃げ出す海賊達もいる始末だった。

 アンジェリーナが支配していた海賊は、壊滅したのだ。

 この作戦は、連合軍の勝利だ。それもクラリス達が勝利に導いたのだ。

 だが、クラリスは素直にその場で喜ぶことが出来なかった。カテリーナは、カテリーナはどうなってしまったのだろう?

 海岸で、ソフィア隊の一員として偵察に当たっているはずのカテリーナ。海賊があそこまで内陸にやって来ては、彼女達もただでは済まないはず。

 クラリスにとって、カテリーナは欠かすことの出来ない、妹のような存在だった。血は繋がっていないし、人とエルフと言う、種族さえも違うカテリーナ。だが、姉妹のように育てられたことに代わりは無い。

 クラリスは必死になってカテリーナを探す。

 やがて草原の中に、黒い塊が多く見られる場所まで、クラリスはやって来ていた。

 クラリスの跨っている白い牝馬が、鼻を鳴らした。戦場で駆け回る勇敢な彼女も、周囲に漂っている臭いを、クラリスより敏感に感じている。

 これは何かと、馬上からクラリスは見下ろしたが、それが海賊の黒こげになった死骸だと知ると、思わず目を背けた。

 草原には、無数の黒焦げになった塊が転がっていた。それは全て海賊の死骸で、数は、百、二百、もっと、千はあった。

 一体、何が海賊達をこのようにしてしまったのだろうか? そういえば、さっき遠くの方で落雷の音が聞えた。その直後、霧は晴れた。

 落雷が、海賊達を葬ったのだろうか?

 だとしたら、カテリーナ達も、この中にいるのだろうか。嫌な予感。最悪の予感に襲われるクラリス。

 しかし、クラリスはすぐにカテリーナの姿を見つけた。

 カテリーナは、山積みになっている黒焦げの死骸の中で、ただ一人そこにいた。

 彼女は、膝を付いたままの姿勢で、じっと空を見上げている。

 奇妙だった。何故、こんなに黒焦げの死体が大量にある中で、カテリーナだけただ一人が無事でいるのか、クラリスにとってはあまりに現実味が無い光景だった。

 そこにいるカテリーナが、現実のものではないのかとさえ思ってしまう。

 だが、カテリーナは確かにそこにいた。周りの海賊達に比べてまだ未成熟な体躯の彼女が、あまりに不釣合いな存在としてそこにいる。

 クラリスと、彼女の馬が近付いていっても、カテリーナは気が付いていないかのようだった。

「カテリーナ? カテリーナ!」

 クラリスは馬から降りて、カテリーナに駆け寄る。しかしそれでも彼女は気が付く様子は見せない。

 カテリーナの前までやって来た時、クラリスはある事に気が付いた。

 カテリーナの体や、身に付けている装備が、どす黒い色に染まっていたのだ。海賊達と戦闘があって、返り血を浴びたのだろうか。

 それだけではない。クラリスはすぐにある事も気が付いた。

「カテリーナ…。あなた、その胸…、痛くないの?」

 クラリスは、カテリーナの鎧の胸に開いている黒い穴を指差して言った。

 カテリーナの胸には、それが傷跡かとすぐには分からないほど、深い穴が確かに開いている。

その傷跡があまりに深すぎて、逆に現実味が無いのだ。

「あ…、血が一杯出ている…」

 カテリーナは、自分の体に開いている傷の事など、全く意識をしていなかったようだ。

 あまりの痛みが、彼女の感覚を麻痺させているのかと、クラリスは思った。だが、彼女の胸に開いた傷は、開いてから数十分は経っている。

「あなた…、どうして平気でいられるの…? 今すぐ、その傷、治療してあげるから、ほら」

 カテリーナの着ている、革製の鎧をその場で脱がせたクラリスは、鎧下に着ているシャツだけになったカテリーナを処置しようとしたが、その時、カテリーナの胸に確かに開いている傷を目の当たりにした。

 しかもその傷は背中側まで貫通している。クラリスが腕を通そうとすれば、カテリーナの体に腕が通せてしまうだろう。

 カテリーナが鎧下に着ていたシャツは真っ赤に染まっており、体と同様に穴が開いていた。

「どうして、あなた、生きて…?」

 わけも分からずにクラリスは呟いた。目の前にいるカテリーナが、本当は生きてはいないのではないかと思い、何度も彼女の顔を確かめる。

 実際、カテリーナは目付きも虚ろで、まるで生きていないようだった。しかし、クラリスが触れるカテリーナの体は決して冷たくなどなっていないし、確かな存在感もあった。

 カテリーナ自身、その傷が致命傷になっているという様子は無い。

 やがてカテリーナは静かな声で呟いた。

「ソフィア様は…、逝ってしまわれた…。わたしが、わたしが、もう少し早く目覚めていれば…」

 カテリーナはじっと一方向を見つめてそのように呟く。

 一体、どうしてしまったのだろうと、クラリスは、カテリーナが向いている方を見た。するとそこには、ソフィアが海賊達の黒焦げになった死骸の側に横たわっている。

 ソフィアがどうなってしまったのか、クラリスにははっきりと分かった。

 カテリーナと違って、生きているという生気が全く感じられない。そこにあったのは、ソフィアの亡骸だった。

「私が、もう少し早く目覚めていれば…」

 カテリーナは生気の篭っていない目でソフィアの体を見つめ、ただそう呟くだけだった。

「カテリーナ…、海賊の首領である、アンジェリーナは倒したの。海賊達もちりぢりになって逃げているわ…。これは、あなた達のおかげ…」

 と、クラリスはカテリーナに向って言ったのだが、彼女はそれに対して何も答えようとはしない。

 ただ、一人の人間の名前を、静かに呟き続けていた。

「ソフィア様…、私、私は…」

説明
少女の航跡の過去のエピソード。大海賊軍団の討伐に駆り出されたカテリーナ達。まだ若いカテリーナが海賊との大決戦に挑みます。
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