銀と青Episode2【雨界童話】
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【雨界童話】

 

 

 

 

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季節は六月。テレビや新聞のニュースの欄には、全国的に梅雨入りしたことを知らせる報道が掲載され、浅見屋探偵事務所の中から窓の外を眺めてみると鬱になるような勢いで雨粒がアスファルトへ向かって降り注いでいる。それは一粒一粒弾けるように幾重にも音を立て、まるで指揮者の居ないオーケストラを奏でているかのようだった。

 

 

「――――雨ですねぇ」

 

 

 事務所に備え付けてある黒塗りのソファーに背を持たれながら、私は誰に問いかけるでもなく呟く。あぁ、こんな日は気分が鬱になります。脳みそが湿気で腐りそうです。世界よ、もっと私に優しくなれ。

 

 

「雨だなぁ。こういった日は誰もが小夜みたいな状態なのか、仕事も来ないし暇だ」

 

 

 翻訳もあらかた片づけてしまったし――――と、自身の後方から聞こえる男性の声。気だるい頭を声の聞こえた方へと捻じ曲げると、青い瞳をしたスーツ姿の男性が視界に入る。

 彼の名前は浅見屋双司。今から二カ月程前に知り合った変人。変人と言っても、ソレがヒトに分類されるのか私には判断がつかないのでこの呼び方も適切ではないかもしれない。あえて言うなら、人外と言った方が正しいでしょう。

 ぼーっと自分を眺める私を余所に、双司さんは取り出した煙草に火を灯し、紫煙を吐き出していた。

 

 

「双司さん、煙草の吸い過ぎは身体に毒ですよ? あと、目の前に女子高生がいるんだから、少しは遠慮して下さい」

 

「今さらだろう、小夜。それに、女子高生に夢を持っている男達の希望を粉々にするかのような状態のお前に言われたくない」

 

「仕方ないじゃないですか。私、雨嫌いなんですよ」

 

 

 私は軽く猫のように伸びをしながら双司さんへと答える。まぁ、彼の言うように今の私は色々とだらけきっているので、夢見る男子諸君が見れば幻滅するかもしれないですね。しかし、これも全て頼んでいないのにも降る雨が悪い。必要だと分かっていても、やっぱり何で降るの? と、コイツを降らせているヤツに会えるなら文句を言ってやりたいくらいだ。

 

 

「気にするから余計にだらけるんだ。と、言う訳で気分転換にお茶でも汲んで来てくれ」

 

「こういったものに悩まされない双司さんには私の気持ちは分かりませんよーだ。……お茶ですね。今お湯を沸かしてきますから待ってて下さい」

 

 

 気だるい身体を起こして、私は給湯室へと向かう。さて、ここ浅見屋探偵事務所は名前通りの探偵事務所である。最も、このご時世探偵稼業だけではやっていける筈もなく、普段は双司さんの無駄にある知識を生かして外国書の翻訳で食いぶちを稼いでいるのが現状だ。まぁ、受ける依頼が特殊すぎるというのも理由の一つなのですが……。

 

 

「―――――何だかんだで、もう二カ月ですか」

 

 

 私がここに通うようになって、である。我ながら無茶な理屈で持ちかけましたが、本当に雇われるとは思いませんでした。あれ以来、私は毎週金曜の夜から土曜の夜まではこの事務所で過ごすのが日課になっている。基本的に私の仕事は頼まれた資料の整理、部屋の掃除、お茶くみ等々。資料の整理は、バインダーノートに種類別に纏めるだけ。お茶くみは双司さんの気分次第。部屋の掃除に至っては、毎回殆ど汚れていないので一時間足らずで終わってしまう。

これではあまりにすることが少なく、半ば遊びに来ている様な感覚になりそうなので、双司さんに「ご飯くらいは作りましょうか?」 と、相談したことがあった。

これでも私は独り暮らしの女子高生。一般世間ではどうかは知らないが、その辺りの男性よりは美味しいものが作れますっ!! と、意気込んで尋ねたことなのだが……。

 

 

「―――――料理は俺がやる。なぜなら、趣味だからだ」

 

 

 無駄に握りこぶしを掲げながら言われた為、大人しく身を引いた。実際、彼の作る料理はそこらのレストランに出されていても疑問に感じないくらい美味しいものだったので、私の胃袋としては嬉しい限りなのですが―――――自分と比較した瞬間、目じりから涙が零れました。普通に女の子のプライドズタズタにされました。だって、何度食べても私が作るより美味しいんですもん。思わず、初めて食べたその夜はタオルケットに顔を埋めて寝ました。……悔しくなんてないんですからねっ!!

 

 さておき、私がそんな思考に身を寄せている間にも、サァァと雨はまだまだ降り続く。双司さんは煙草を吹かしながら何か分厚い本に目を通し、完全にこちらに意識を向けていない。話し相手にもなりそうにないので、私は何となく視線を事務所の中を見回すように移す。外見とは明らかに比率がおかしいこの事務所。双司さんの腰かけている椅子の正面にある仕事用の茶塗りの机。さらに、机の正面に向かい合うように置かれた来客用の黒革の長椅子。長椅子を中心から遮るように置かれた、机と同じ茶塗りのアンティークテーブル。壁は、扉のある個所を除いてすべて本棚で覆われている。扉の数は全部で四つ。

 

 出入り口であるスチール製の扉。

 

 双司さんの私室兼寝室に続く、木製の茶塗りの扉。

 

 私が泊まる時に使用する寝室へと続く、木製の黒塗りの扉。

 

 そして。

 

 

「……双司さん。いい加減突っ込みますけど、あの根性≠チて紙が貼ってある扉―――何ですか?」

 

 

 四つ目の扉。色は白。ぱっと見、特に何の変哲もない扉なのだが、そこに根性!≠ニ書かれた赤い紙が貼っているとなると話は別である。

 

 

「―――――あぁ、それか」

 

 

 双司さんが本から顔を上げる。文字を読み続けて疲れたのか、何処か眠たげな目をして。

 

 

「開けない方がいいぞ。変な物が出てくるから」

 

「――――――変な物って何ですかっ!?」

 

 

 アレですか!? この事務所何か得体のしれないナマモノでも飼っているんですかっ!? だが、今何故か良い笑顔をしたネオンの顔が思い浮かんだのは何故だろう。しかもその笑顔に対して、私の本能がびーっ、びーっ、とアラートを告げている。勿論真っ赤なデッドランプで。

 

 

「生モノではないから安心しろ。どちらかと言うと、その中に入ってるのは無機物だな。まぁ、少しばかり頭がパーになって、軽く引き込もりになる可能性があるような無機物だが。命に別条は無いさ」

 

「命に別条なくても頭にあるじゃないですか――――――って引きこもりっ!?」

 

 

「――――小夜、中に興味があるのか?」

 

 

私は激しく首を横に降る。あれですよ、藪と突いて蛇なんて出したくありませんし。そんな私の反応に、そうか……と、少し残念そうに言葉を零して双司さんは本へと視線を戻した。なんで残念そうな顔するんですかっ!!

 

 

 

 

 

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 チクタク、チクタク、と掛け時計の無機質な針の音が室内に響き渡る。双司さんは再び本を読み耽り、私は来客用のソファーに腰をおろしてある一点へと視線を送り続ける。視線の先には根性!≠ニ書かれた赤い紙の貼ってある白い扉。

 

――――――気になります。だけど、開けたら引きこもりで変な物である。何処ぞの馬鹿な友人二人なら何の躊躇もなく扉を開けそうだが、生憎と私はその辺りの自制心は持ち合わせています。だけど、やっぱり気になる。

 

 

「―――――やはり、気になるのか?」

 

 

 私の内心を察したのか、双司さんは本から顔をあげてこちらを見据える。

 

 

「――――いえ、気のせいです」

 

「……そうか」

 

 私の返事に再び本へと視線を戻す双司さん。心なしか、その声は残念そうだ。そんなに私を引きこもりにしたいのだろうか、この自称吸血鬼は。

 

 しかしながら、時計の音が響く室内で二人っきりの無言の時間と言うのは酷く気まずいです。誰しも経験したことはあるのではないのだろうか? 親しい友人との会話でも、いつの間にか発生する無言の空間。俗に言う話のネタ切れである。私自身嫌いではないのだが、やはり他者といて何をするでもない無言の時間というのは精神的によろしくない。確かに、これまでもこの事務所に出入りしている時に、同じ状況になったことはなかったのかと聞かれれば否である。しかし、今回はあの扉という謎のオマケ付きなのだ。自分の理性というか精神的な垣根は既に崩壊気味。そんな私は、思わず少しならいいですよね? と内心の誘惑に負けてしまうのであった。

 

 

「……双司さん、あの扉――――――」

 

「――――――やっぱり気になるのか?」

 

「―――――違いますっ!! いや、そんなに違わなくもないかもしれないですけど……。扉に貼ってある紙の事です。何で根性≠ネのかなーって」

 

「少し違うぞ、小夜。根性≠ナはなく根性!≠セ」

 

 

 最後の!≠ェポイントなんだと彼は言うが心底どうでもいい。

 

 

「で、何で根性!≠ネんですか? 基本的にそんな言葉とは無縁に近いですよね双司さんは」

 

「君はあの文字を聞きたいのか俺を貶したいのかどっちだ?」

 

「別に貶してなんていませんよ。―――――ただ本音を言っただけです」

 

「……最近、小夜が冷たい気がするんだが。あぁ、春先の清純無垢な君は何処にいったのだろう」

 

「さぁ? きっと双司さんの妄想の中じゃないですか?」

 

 

 まるで私が汚れてるとでも言いたいのか。失礼です。私は身も心も清純無垢な女子高生ですよ。

 

 

「やはりドライアイス張りに冷たいなっ!?」

 

 

 何か机にの≠フ字を書きながら言っているが無視。それより私の質問に答えて下さいよ。

 

 

「曲がりにも大の大人――――を色々通り越してそうな人が見っとも無い真似しないで下さい。吸血鬼みたいなものって言ってたんですから、双司さんって良い感じに長生きしてるんですよね?」

 

「むっ、まぁな。吸血鬼―――――あぁ、この際だから教えておくか」

 

 

 何をですか?

 

 

「俺は正確には吸血鬼―――――あんな自然の摂理に真っ向から喧嘩売っているような理不尽生物じゃない。以前は小夜がイメージし易い例としてああ答えたが、本来は違う。確かに少々変質して吸血でエネルギーを回復したり同等の身体能力や回復能力も持っているが、その根源は全くの別物だ。俺自身のアレは、あくまで自然の摂理の延長線上のものだしな。加えて言うと、吸血鬼の始祖はヨーロッパだが、俺は国産だよ」

 

「……難しすぎて良く分からないですが、とりあえず吸血鬼ではないと?」

 

「その通りだ。まぁ、今まで通り自称吸血鬼と思っといて貰っても構わん。同じようにほぼ不老不死なお且、俺の真名は少々有名すぎるのでね」

 

 

 昇る紫煙を見つめながら、双司さんは何処か懐かしむ様に呟く。まぁ、とりあえず今まで通り自称吸血鬼の変人というカテゴリでいいのだろう。それより。

 

 

「話が思いっきり反れましたけど、結局扉に貼ってある文字って何か意味があるんですか?

いつまでも机にの≠フ字を書いてないで教えて下さい」

 

 それとも、人には言えない理由でもあるのだろうか? そんな考えが脳裏を過ぎり、思わずゴクリと唾を飲み込む。私の雰囲気を察したのか、彼は真面目な顔をしてこちらを見据え―――――。

 

「いや―――――――気分で書いた。特に意味は無い」

 

「――――――ふざけるなっ!!」

 

 その言葉に、近場にあった湯呑みを投げつけた私は悪くはないだろう。ここまで引っ張ってソレですか。

 

 

 

 

 

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「大人びた人でも、妙に子供っぽい所を発見するとドキッってこない? そういうギャップに、女ってのは弱いと思うんだー」

 

 

 それは、いつか読んだ女性向けのファッション紙でアイドルがコメントしていた言葉だ。当時の私は、そんなものなのかなーと流し読みしながら考えていたことを覚えている。なにせ、異性にそのような感情を抱いたことなんて産まれてこの方一度もないのだし、私の知る大人なんていうのは学校の先生かロクデナシの母親しかいなかったのだから。そんな私が、アイドルの言うような感情を体験したことがある筈が無い。でも。

 

 

「―――――実際見ると、結構痛々しいんですね…」

 

 

 と、いつの間にかコピー用紙を取り出してボールペンでの≠フ字を書いている男性を見る。貴方、一応自称吸血鬼ですよね? 春先の時の威厳はどこにいったんですか?  そんなことを内心で思うが、彼に届くはずもない。どうでもいいが、最近彼のあしらい方に馴れてきたなー。

 

 気が付けば、面倒くさくなったのか平仮名からカタカナのノ≠フ字に変化した文字の羅列を書く双司さん。既にコピー用紙は三枚目。それでも描くのを止めないのは、彼なりのプライドなのだろうか。眺めていてもアレなので、私は再びあの白い扉へと視線を向ける。

 

―――――――やっぱり気になります。でも開けたらパーになって引きこもり……ダメですっ!! 花の十代+女子高生としてそれだけはダメですっ!!

 

 と、思ってもやはり気になってしまうのは人の性なのか。頑張れ私の自制心、負けるな私の自制心、勝ち抜け私の自制心。あぁ、もうむず痒いですっ!!

 

私は気を紛らわす為に、お茶をくみに台所まで向かう事にした。カチッと、私は水を入れたヤカンをガスコンロに置き火をつける。台所は、双司さんの寝室へ続く扉を開けたすぐに左手に存在する。ちなみに右手が双司さんの寝室だ。コンロでお湯を沸かしている間に、棚から急須を取り出しお茶の葉を入れる。銘柄は『KO鉄』。名前の胡散臭さとは裏腹に、深みがあり割と美味しいと評判らしい。ちなみに買ってきたのは無論双司さん。

 

最初このお茶の葉を見た時、何かの冗談かと思った。まず銘柄から有り得ないし。一体何処で買ってきたかと聞いた所、双司さんは。

 

 

「決まってるだろう? こんなもの、河嶋雑貨くらいしか売ってない」

 

 

と、答えた。どうやら、自分でもおかしな物を買ったと自覚はあったらしい。

 

河嶋雑貨とは、ここから10分程歩いた所にあるこじんまりとした雑貨屋だ。店主である『河嶋真』氏は、近所どころか街中でも変人として有名である。そんな彼が経営する雑貨屋には文房具から調理器具まで、幅広いジャンルの商品が存在する。ただ、どれも聞いた事の無いようなメーカーの物ばかりだが。ちなみに、意外と和風びいきな友人。秋山香織に、『KO鉄』の事を聞いた所。

 

 

「勿論知ってるよっ!! アレって結構美味しいよね〜。でもこの辺りじゃ、取り扱ってる所が少ないのが残念……」

 

 との事である。流石は香織。『紙一重のアホの相方』なだけある。だが、和風びいきな彼女が言う程『KO鉄』の味は確かなのだ。なんでも、昔から和食だけは良い物を食べていたからだとか。ちなみに、ネオンにも同じ問いかけをしたところ、返ってきた言葉があそこは本当に色々あって便利だよねー、縄とか≠ナあった。思わず腰の入ったボディブローを打ってしまった私。その後で、何故か香織が追い打ちをかけるように蹴り飛ばしていたが。実はあの二人、私が思っているほど仲は良くないのかもしれないです。

 

 

「でも、じゃれ合っているようにしか見えないんですよねー私。確か……クラスの男子曰くツンデレとアホ娘でしたっけ?」

 

 

 どちらがとちらなのかは、あえて言わず、です。

さておき、お盆を取り出し、その上に湯飲みを二つに急須を乗せる。お湯はまだ沸かない。仕方がないので、暇つぶしに棚の引き出しから折り紙を一枚取り出す。何故台所に折り紙があるのかというと、双司さん曰く風水的な問題らしい。台所とは水場であり、ココの台所は建物の調度北東に位置している。風水では、北東に水場は鬼門とされているらしいので、厄を緩和、消滅させる為に折り紙、『折り神』を台所に置いていると言っていた。自分にはその辺りはよくわからないが、折り紙は折る事でその意味合いを発揮するらしい。

 

 

「暇だったらソレで遊んでてくれ。折る手間が省ける」

 

 

と、双司さんは私に言った。それ以来台所での折り紙は、私の暇潰しの日課でもあるのだ。。気を紛らわすには調度いい。先程の白い扉の事を忘れるように折り紙へと集中する。が―――――っ、やっぱり無理ですっ!!

折り紙をクシャクシャと丸め、ごみ箱へと投げ入れる。無理だ。不可能だ。忘れる事なんて出来やしない。インパクトがありすぎた。あ〜もう、気になりますっ!! と言うか、二ヶ月近く個々に通って今までアレに気が付かなかった私って一体っ!? 両手を頭に抱え唸る。気になる物は仕方がない。だが、変な物と御対面で引きこもりは遠慮したい。

 

考えが頭の中をループする。ものの見事に深みにはまってしまいましたよ私っ!?

その時、私の思考を遮るようにピーッと、ヤカンのお湯の沸いた合図が鳴り響く。中断された思考に安堵しながら、良い塩梅に蒸らしたお茶を注いだ湯飲みをお盆に乗せ、双司さんの所へと運ぶ。コピー用紙は、八枚目に差し掛かっていた。

 

 

 

「……双司さん。まだ書いてたんですか」

 

「これは既に戦いなんだ。コピー用紙と俺、どちらが最初に力尽きるかのなっ!!」

 

 

なんか勝手に盛り上がっているのでお茶、置いときますね。と、コピー用紙と格闘してる彼の横に湯飲みを置く。多分だが私がここの通う前から、あぁやって一人で暇を潰していたに違いない。

 極力、扉が視界に入らないようにしながら、私はソファーへと向かう。こういう時はお昼寝でもして忘れるに限ります。が、ソファーへ踵を返そうと後ろを向いた瞬間。

 

 

「―――――――――――あっ?」

 

 

不覚にも縺れる私の足。

 

 

「あっ、うっ?」

 

 

倒れまいと手をバタバタさせるが、私は鳥じゃない。そして蝶でもない。ましてや蛾でもない。

 

 

「―――――――ふっ」

 

 

視界の端で、皮肉げに笑う双司さんの顔が見えた気がする。殴る、あのエセ吸血鬼絶対後で殴る。重力の法則に従って、私は床へと倒れて行く。その拍子に手からお盆が抜け飛び、あの白い扉を―――――強打っ!?

 

 あっ、今、私の時が止まりました。現在、私の心は氷河期です。

 

 

「……そっ、双司さん」

 

「……何だ、小夜」

 

「……アレくらい、大丈夫ですよ……ね?」

 

「…………」

 

 なんで残念そうに首を横に振るんですかっ!?

 

 

「……小夜。物っていうのは、結構繊細なんだぞ?」

 

 

キィィと、金具が擦れるような音が扉から聞こえてくる。扉の隙間から、白い霧のような物が吐き出される。嫌な予感しかしないのは私だけだろうか。

 

 

「双司さん、私家に帰ってもいいですか? 全身全霊をかけて」

 

 

「手遅れだと思うぞ? まぁ、ゆっくり不思議体験でもしようじゃないか」

 

 

「――――――いやぁぁぁぁ!!」

 

 

拝啓。

全国は梅雨入りしジメジメした空気が漂う中、皆様はどうお過しでしょうか?

私、逝ってきます。

敬具。

 

 

 

そんなコトを思っている間に、霧は私たちの居る事務所一面を真っ白にし、その場にいる者全てを夢へと誘った。

 

 

 

 

 

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―――――綺麗な音色。それが純粋な感想だ。

 

頭の中に、パイプオルガンの音が鳴り響く。繊細で尚且つ慈愛を感じさせるその音は、泣きじゃくる子供に母親が聞かせる子守唄に似ていた。体が冷たいく、硬い物に触れている感触がある。だが、意識だけはハッキリとしない。目を開けようにも、強烈な眠気のような物が襲って来て開けれない。

 

なんなんですかコレは?

 

回らない思考で考えるが、何も思い浮かばない。真っ白だ。雪みたいに白いキャンバスの様に、頭の中が無理矢理真っ白になる。

 

 

私は……誰だっけ?

 

ここは……何処だったっけ?

 

アレ?私は……『何』なんだろう?

 

 

オルガンの音色だけが真っ白な頭の中を埋め尽くし、奏でられている曲名すらも考えるということが出来ない。

 

 

「■■■■■■■■■■■」

 

 

私は何かを呟いたが、それさえも何を言ったのかわからなかった。

 

 

もう無理だ。そう、体が震えているが、それさえ理解出来ない。確かに『ある』のに『理解』が出来ない。今の私にとって、自分を含めた世界は『情報』の渦でしかなかった。

 

理解不能の情報の世界。

 

 

「■■■■■■■■■■」

 

 

言葉など意味を成さない。何も理解出来ない情報のみの世界。

 

 

「■■■■■■■■」

 

 

胸の奥から自分を自分でいられなくさせるような、嫌悪感に似た物が沸き上がってくる。

 

 

「■■■■■」

 

 

 響き渡る音色は次第に激しさを増し、大気を震わす波となる。

 

 

ワカラナイ。

 

 音色だけが響く寂しい世界で、私は何故か子供の頃の記憶を思い出していた。

 

ナニモカモワカラナイ。

 

―――――――何で、アンタなんて………産まれてこなきゃよかったのに。

 

イヤダ、イヤダ、イヤダ。

 

――――――あの人じゃなくて……アンタが死ねばよかったんだ。

 

 

「■――――あぁ、やっぱり私は■■■■■だったんだ」

 

 夢に、呑みこまれる。記憶に、呑みこまれる。私の中の歪みが、全部、全部―――――。

 

「――――ここまでだ」

 

 

 そんな女性と思わしき声で、誰も居なくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガツンと、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、暗転。目の前には、既に見慣れた事務所が写し出されている。息は、何か激しい運動をした後のように荒々しい。体中が冷や汗をかいていて、今すぐにでもシャワーを浴びたい気分だった。

 

 

「大丈夫か? 何か体に不具合とか無いか?」

 

 

双司さんが、こちらを無表情で見つめながら問いかけてくる。彼の背後にはあの白い扉。

 

 

「……さっきの何ですか?」

 

 

自分の体を両腕で抱きしめながら口にするのはそんな言葉。その問いに、双司さんは右手をこちらに掲げる。その手には題名も何も書いていない、ただの赤いハードカバーに被われた分厚い本が握られていた。

 

 

「これは『魔王』という楽曲の写本でな。対象者に、『虚無』を見せる力があるんだ。と言っても、力はオリジナルの百分の一くらいだが」

 

 

聞いた事位はある。楽曲で『魔王』と言えばそこそこ有名だ。確か、童話調の物語もあった筈。坊やよおいで……でしたっけ? だが、私の身体はそんなことはどうでもいいとばかりに震え続けている。

 

 

「小夜。とりあえず熱いシャワーでも浴びてこい。話しの続きはそれからだ」

 

 

そんな双司さんの言葉に私は、コクンと力無く頷いて風呂場へと向かうことにした。

 

 

 

 

 

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ノズルを捻る。私は、シャワーや湯舟は熱めが好きだ。衣服を持ってきていたボストンバックへ脱ぎ捨て、未だ震える身体を両の手に抱きながら浴室の中へ。さっきのは、何だったのでしょうか? 少し熱めのシャワーを浴びながら、私は先程の出来事について考えるが――――――。

 

―――――――やめた。

 

今考えてもわかる筈もないし、後で双司さんに聞いた方が早い。それに私は、一刻も早くこの体の震えを止めたかった。未だに残る、『理解』出来ないという『恐怖感』。

 

雫が髪を伝い、体のラインをなぞりながら零れ堕ちて行く。凹凸の少ない平坦な体だ。脳裏に、友人二人の顔が浮び――――思わず正面の壁を殴った。月曜、学校で会ったら殴っておきましょう、主に私の腹いせに。決めた。同い年なのに、この発育の違いは理不尽だ。シャワーを浴びながら思う。アーメン、ハレルヤ、糞喰らえ。神様なんて信じない。

 

 

 

 

 

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「やれやれ、どういうことかね? 俺の時は永遠と不思議の国のアリスを見せられたものだが……」

 

 シャワーを浴びて戻ってみると、双司さんが先ほどの本を片手に何か呟いていた。戻ったか、と呟くと、彼はそのまま白い扉へと向かい、扉を開けて無造作に本を投げ込む。扉を閉めると、ガタガタと何かを訴えるようにドア縁が揺れる。

 

「少々、五月蝿い」

 

言葉と共に、双司さんが指先で扉を撫でると。お経のような文字の青い光が浮かびあがり、すぅっと消えた。同時に、揺れていた扉も大人しくなっているので、彼が何かしたのだろう。

 

 

「さて、小夜。上がったなら先程の―――――」

 

 

顔を上げ、こちらを見る。そして少し眉を潜め。

 

 

「小夜、お前コスプレの趣味なんてあったのか?」

 

「違います!! 一体何の話しをしてるんですかっ!?」

 

「いや、だってなぁ、ソレ」

 

 そう言葉を口にしながら、彼は私の着ている服を指さす。ちなみに、私は今現在一泊用の着替えしか持って来ていないので、学園の制服を着用中です。

 

 

「これは着替えが無かったから着てるだけですっ!! 私が制服でここに来た事くらい覚えてるでしょう!?」

 

「そういえばそうだったな。やっ、よかったよかった」

 

 

何がですか。そして女子高生が制服を着ているだけでコスプレ呼ばわりしないで下さい。そんな私の嘆きを余所に、双司さんはタバコと取り出し、手元にある百円ライターで火を付ける。しかし、コノ人はそんなにタバコを吸うならオイルライターでも買った方がいいのではないだろうか?

 

 

「小夜。ボーッと突っ立ってないでまぁ座れ。さっきの話しもしたいしな」

 

 

―――――その言葉で、湯上りで火照っていた私の思考は一気に冷えた。小さく頷き、来客用のソファーへと座る。

 

 

「さて。さっきのアレは『写本・魔王』による物だって事は言ったな?」

 

 

――――――頷く。

 

 

「これは対象者を『虚無』という現象で包み、体験させる力がある。何故そんな力を持つのかは、俺も調べてないので何とも言えない。ただ、オリジナルの『楽書童話・魔王』の劣化したコピーがこれらしい」

 

 

―――――虚無?

 

 

「『虚無』とは何も無い事を指す。ただの『無』ではなく、『理解』の存在しない『無』の事だ。」

 

「理解が、無い?」

 

 

おもわず聞き返す。……理解が無いというのはどういう事でしょうか?

 

 

 

「そう。いわゆる『認識出来るが理解できない』ってヤツだ。普通はオリジナルの楽曲と同じように、童話調でこれを体験するんだが……」

 

 

君は何を見たんだ? 双司さんの視線が、そう問い掛けて来る。よくは覚えていない。意識がはっきりしなかったし、何も考えられなかったからだ。だが、覚えているとすれば―――――。

 

 

「――――音、ですね」

 

「音?」

 

 

はい。と、答え。

 

 

「音が聞こえました。パイプオルガンの。曲名までは覚えていませんけど……」

 

 

双司さんはタバコの灰を落とし、腕を組む。

 

 

「音か……。もしかしたら写本の原点に辿り着いたのかもしれないな」

 

 

原点?困惑の表情を浮かべるが、双司さんは気付いていないのか。

 

 

「ただの人間に辿り着けるのか? いや、ただの人間だからこそ辿り着いたのかもしれない」

 

私の声が届いていないのか、ブツブツと独り言を続けている。……仕方ないですね。大きく息を吸い、お腹に力を溜め、そして。

 

『そーうーじーさーんっ!!!!』

 

それを爆発させた。

うおっ!? と、双司さんが椅子ごとひっくり返る。ゴツンと響いた音は、彼が床に頭をぶつけた音だろうか。こちらからでは机が邪魔で、その惨状を確認出来ない。……怪我してなきゃいいですけど。

自分でやっといて、何故かそんな事を思う。でもこれがある意味良心というヤツですよね。そんなことを考えていると、ヌッと机の後ろから腕が生えてきた。腕は机にその手を着くと、奈落の底から這い出すように自分の本体を持ち上げる。奈落の底。もとい床から、双司さんは無事生還した。

 

 

「目、覚めましたか?」

 

 

笑顔で問い掛ける。

 

 

「覚めるどころか地球一周して、そのまま地獄にダイブするような勢いだったぞ」

 

 

久しぶりに姉貴の顔を見た気がしたと、批難がましい視線で呟くが、私はソレを軽く受け流す。てゆーかお姉さんいたんですか? やれやれ。と、双司さんは倒れた椅子を元に戻し再び座り直した。

 

 

 

 

 

                       ●

 

 

 

 

 

いつの間にか先ほどの会話はお流れに。結局、双司さんが一人で悩んで納得してしまった。おかげで、こっちは完全に不完全燃焼である。仕方がないので、気を紛らわす意味も込めて視線を窓の外へと向ける。雨はまだ止む気配は無い。むしろ、どこと無く悪化しているような気がする。そういえば私、今日帰れるんでしょうか?

 

疑問に答えるのは、外から響く雨音だけだ。別に明日は日曜だから帰れなくても大丈夫だが、代えの着替えが無いのはいただけない。主に下着的な意味で。

 

ポフッと、私は座ったまま体をソファーへと倒す。柔らかく気持ちがいいです。このまま少し、ソファーで寝てしまいましょうか。そう思うと、意識が睡魔に掻き消されそうになる。しかし、そんな淡く甘い欲望を抱いた思考を打ち消すかのように。

 

ガタン。と、何か音がした。

 

ギギギッ、といい感じに脳内の危険本能を感じ取ったかのように重い身体を動かして辺りを見回す。双司さんも、さっきの音に気がついたようだ。同じ様に辺りを見回している。見た感じ物が落ちたとか、そういった異常は見られない。

 

 

「こういう時って、大概嫌な予感がするんですよねぇ」

 

人間の性なのか動物の危険本能なのかは知らないが、思わずあの白い扉に視線が向かう。扉には、いつの間にか南京鍵が取り付けられている。おまけに貼ってあった紙が、赤から白に変わっていた。しかも、文字が『根性!』ではなく『必殺!』になっている。必ず殺すと書いて必殺。双司さんのセンスは、本当なよくわからない。

 

ガタン。と、再び音がする。私は見た。今。

 

……扉、揺れましたよね?

 

 

「どうやら愉快な魑魅魍魎達が中でダンスでも踊っているようだ」

 

「魑魅魍魎に愉快とかあるんですか!?」

 

 

南京鍵がガチャガチャ音をたてる。

 

「ステップを間違えたのか、体をぶつけているようだ」

 

「明らかに故意にぶつけている様に思えるのは、私の気のせいでしょうか?」

 

 

 チッ、もう少し強めに術掛ければ良かった、とガタガタと、激しく揺れる扉を見ながら彼は言う。

 

 

「まぁ気にするな。さっき無理矢理『本』を閉じ込めたからご立腹なだけだろう。しばらくすれば治まるさ」

 

 

以前もそうだったし。そう彼は付け加える。

 

 

「そういえば小夜。お前、今日帰れそうか?」

 

 

私は窓の外へと視線を向ける。雨は未だに降り続く。とゆーか―――――洪水っ!?

 

 

「って、なんか道路が水没してるじゃないですか!?」

 

「梅雨だからな。テレビでも付けてみるか」

 

 

そう言うと、彼はテレビのリモコンをどこからか取り出しスイッチを入れる。

 

 

―――本日は…明日の明け方まで…極地的な大雨が……全国各地で…降り続く見込み……です―――

 

プツンと、テレビを消す。……今日帰るのは無理ですね。そう思った一瞬であった。

 

 

 

 

 

                       ●

 

 

 

 

 

――――――暇だ。

 

 

外は洪水クラスの大雨。仕事はするコトが無い。本なら事務所に山ほどあるが、そのほとんどが私には読めない。双司さんいわく事務所の本は、大体ルーン文字で執筆されているらしい。本人曰く、なるべく信仰を落とす為だとか。

 

……ルーン文字ってなんですか?

 

不思議文字は古典の授業で習うものくらいしか、私には理解不能だ。だが、その起源くらいは聞いた事がある。

 

ルーンとは北欧において、大神『オーディン』が自らを大樹『ユグドラシル』に九日間縛り付けて習得した文字の筈だ。それはあらゆる形で分岐し『アイルランド』『アレグロサクソン』『ケルト』『ゲルマン』と、地域ごとで独自の体型を残し発展した。今でも、一部の民族では使用されているらしい。そして、双司さんが言うには。

 

 

「魔術の基本はルーンやアラビア等の『文字』という数式の組み立てなんだ。意味合いのある『文字』を、魔術という意味合いを持つ『数式』の通りに並べてやる。そこに『魔力』という解答式を入れてやる事で、魔術とは起動する。最も、古代魔術には術者の感情を起源として発動させる物もあるらしいから、断言は出来ないがな」

 

 

との事らしい。私にはさっぱり解らなかったですけどね。とにかく事務所にある本は、私には読めないというコトだ。

双司さんはというと、少々やることがあると台所に引きこもってしまった。中は見るんじゃないぞ? だそうだ。鶴の恩返しですか?話し相手もいない事務所のソファーで、右へ左へとゴロゴロする。だが、することも無いので、このまま今度こそ一眠りでもしようか。そう考えた矢先、私の意識は闇へと沈んだ。

 

 

 

 

――――聞こえる。また、あの音だ。

 

響き渡るパイプオルガンの音色。今度は理解出来る。これは、聞く物を闇へと招く『魔王』の旋律。

 

ゆっくりと瞳を開ける。私の視界に広がるのは、白い礼拝堂。白で統一された壁。几帳面に、一寸の狂いも無く並べられた木製の長椅子。窓枠には、マグダラの描かれたステンドグラス。聖者のいない十字架。そして、漆黒の闇に彩られた弾き手のいない巨大なパイプオルガン。この空間はまるで、懺悔を聞くための神の箱庭ではなく、罪を内包して溜め込む煉獄のようだった。

 

懺悔する神もいなく。

 

罪をゆるす神もいなく。

 

大罪の聖母が見守る中。十字架に、自分自身を張り付けにして罪を償う。弾き手のいないパイプオルガンは、旋律を奏で続ける。

 

存在しない神を待つように。

 

懺悔する人々を包みこむように。

 

そして、己の弾き手を待つように。

 

音色は止まない。全てを包みこむまでは―――――。

 

 

 

 

 

                       ●

 

 

 

 

 

目の前が、瞼ごしなのに眩しい。体を動かそうとすると、なぜか間接が軋む。妙に重い瞳を開けると、なぜか双司さんの顔がドアップで目の前にあった。

 

 

「小夜、起きたか?」

 

無表情で尋ねてくる。ホラーだ。ナチュラルにホラーだ。そして何故かデジャビュだ。

 

 

「―――――起きましたから、ちょっと顔を引っ込めて下さい。なんだか、殴りたくなります」

 

 

 何か言いたげな顔をしながら私から離れる双司さん。どの位寝ていたのかと、窓の外を見てみると朝方の様に明るい。雨は降っておらず、快晴の青空が天に広がっている。

 

 

「双司さん。今何時ですか?」

 

「朝の六時三十分だ。ただし、月曜のな」

 

 

―――――――――――はいっ?

 

「……双司さん。今、何て言いました?」

 

固まった笑顔で問い掛ける。私の聞き違いであることを祈りたい。

 

「今日は、月曜日の六時三十分だよ。君は丸々二日程寝ていたんだぞ?」

 

 

「………………」

 

言葉が出ない。……二日も寝てた?

私は朝に弱いとかそういうコトの前に、9時間寝たら勝手に起きる体質である。その私が一度も起きずに、二日も寝ていたというのは一体……。

 

 

「小夜。考えるのもいいが、今日学校じゃないのか?」

 

 

ピキッと、世界が止まる。――――――そうでしたぁぁぁ!?

 

「やっ、ヤバイです!! 双司さん、私急いで帰りますのでこれで失礼します!! あぁ〜なんでですかっ!?」

 

 

「そのまま行けばいいじゃないか。制服着てるんだし」

 

 

分かってない。この人は分かってない。私だって一応女だ。それも花の女子高生だ。このまま学校へ行くなどという恥さらしは出来る筈も無い。

 

「双司さんのデリカシーをぶっ飛ばすような発言は置いといて、私もう行きますんで!! 放課後、また来ます!!」

 

 

私は双司さんの返事も聞かず、事務所を飛び出す。事務所の窓から見たように、やはり空は一面青に包まれていた。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

「――――行ったか」

 

俺は、事務所の窓から小夜が走り去るのを見送る。

 

「まさか、二度も写本に取り込まれるとは。小夜のヤツ、完全に適合者みたいだな」

 

魔道書はオリジナルであれ写本であれ、自らの『意思』を持つ。魔道書は己の意思で『主』を決め、魔術師としての知識と力を与える。己の根源の意味を果たすために。どうやら、小夜は『写本・魔王』に気に入られたみたいだった。でなければ、二度も同じ人物を取り込んだりはしない。しかし。

 

 

「彼女は生憎と、まだ一般人だ。魔道書よ、貴様が何故小夜を選んだのかは知らん。だが、あの子とは契約させんよ」

 

 

扉がガタガタと震え始める。まるで、こちらの言葉に返答するかのように。……やはり、無理矢理にでも契約するつもりか。

だが、それは不可能だ。扉に付けてあった南京鍵が、甲高い金属音と共に弾け飛ぶ。扉自体を固定してある金具のボルトが、扉から逃げ去るように外れていく。俺は出てくる物に備え、指先に魔力を込めて前方に突き出す。親指と人差し指だけを伸ばした状態。いわゆる、指で銃を作っている状態だ。扉が金具という支えを失って、ゆっくりとこちら側に倒れてくる。

そのタイミンクで、俺は呟いた。

 

 

「風は時として、事象すらも変質させる=v

 

 

指先から出(いずる)は黒い風。形という物は存在しない。ただ、対象を飲み込むだけの幽玄の存在。影は扉ごと中身を飲み干す。有無を言わさず、跡形も無く闇へと送り込む。跡に残ったのは、一部屋分位の『何も存在しない』空間だけだった。

 

 

 

 

 

                       ●

 

 

 

 

朝の予鈴が教室に鳴り響く。周囲の生徒達は、未だ学友とのお喋りを楽しんだりしている。だがそんな中、私は比喩でも何でもなく自分の机で突っ伏していた。

 

 

「小夜ちゃん。どしたの?なんかダレてるよ……」

 

 

友人、秋山香織が少し呆れながら話しかけてくる。どうやら、ネオンはまだ来ていないらしい。で無ければ、私の周りがこんなに静かな筈が無い。今の私は制服はスペアを使っているが、シャワーを浴びていたら時間が無くなったので髪は濡れっぱなし。さらに、全力疾走してきたので体力は底をついていた。それが、他人の所に泊まって寝過ごしたせいとは言える筈も無く。

 

 

「何でもないです。ただ、寝過ごしただけですから」

 

「珍しいね。小夜ちゃんが寝坊するなんて。深夜番組でも見てたの?」

 

 

香織は少し目を輝かせながら聞いてくる。

 

 

「残念ながら、深夜番組を見たとしても絶対貴女と同じ番組は見ないと思いますよ?」

 

 

だって、香織と言えばミステリーだし。オカルトだし。この子、空想科学とか大好きだし。私には、そんな番組見る気すら無いし。

 

「ふーん、じゃあ――――」

 

 

―――――何してたの?

 

 

そう聞かれても、正直に言える内容では無い。……何かいいごまかし方は。

ふと頭の中に、あのパイプオルガンの音色が響いてくる。これだ。

 

 

「―――――音楽を聞いてたんですよ。ちょっと不思議なクラシックをね」

 

 

私は意味ありげに笑いながら言う。キーンコーンカーンコーンと、始業のチャイムが鳴り響く。さて、真面目に授業を受けるとしようか。

 

私の日常は続く。

ゆっくりと、思い出を紡ぐように。

 

日常と非日常の生活は、まだまだ終わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あとがき

 

 

 

 どうも、皆さん桜月九朗です。

 

 どうにもリアルが忙しいこの頃。落ちついて過ごせる日はいつになるやら……。

 

 さておき。

 

 今回は時系列的には第三話のお話。小夜ちゃん、とある不思議体験をする―――の巻です。この話は、おいおい続きがあるので詳しくはその機会に。

 

 今回は細かいあとがきは無しです。最後に、この作品を読んで下さった方々へ最大級の感謝を。

 

 

 

説明
季節は6月。
平凡な女子高生こと秋月小夜が浅見屋双司の助手となってから約二カ月が過ぎた。そんなある日、彼女は事務所にあった一つの扉に興味を持つ。見事にソレが運のつき。ようこそ不思議な不思議な本の世界へ。

作品自体初見の方は銀と青Episode1【幽霊学校】からお読みください。
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