オキクの復讐 - 1
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 灼熱の太陽のもとでの応援で噴き出た汗が、白いシャツを濡らし素肌を浮き彫りにする。しかし不思議と高校生の汗は、透明感がある。夏の甲子園大会予選。東東京大会も日程が進み、あと1試合勝てばベスト16。観客席から球児たちを見守る生徒達の応援も当然熱を帯びてくる。駒場学園高校は、2点のビハインドで9回の表を迎え、最後の頑張りで2アウトながら満塁の好機を得た。神宮第2球場観客席の5599人の目が、投手とバッターに注がれる中、ひとりの女子生徒だけがブルペンを注視していた。正直に言うとこの女子生徒は、試合の開始から今まで、ブルペンから目を離していないのだ。ブルペンでは、味方の逆転を信じひたすら投球練習をおこなうバッテリーがいた。しかも彼女の注視の先は投手ではなく、広い背中に12番を背負った捕手なのである。

 鋭い金属音とともに白球がライト方向に打ち出された。全選手が、全観客が、そしてブルペンのバッテリーさえもが投球をやめて白球の行方を追っている最中にも、女子生徒は12番の背中を見つめていた。やがて白球は大きな弧を描いて、ライトの外野手のグローブに収まった。ライト側のため息とレフト側の歓喜が渦巻く中で、球児たちは全力走で球審のところへ集まった。整列しながらも、プロテクターを付けたままの12番は、涙にくれる11番の背に優しく手をかける。球審の『ゲーム!』の声とともに、駒場学園高校球児の夏が終わった。しかし、12番を注視する女子生徒にとっては、その球審の声が開始の合図ように聞こえてならなかった。

 

 7カ月後。

 

 寒さに曇るガラス窓越しに外を眺めていた菊江は、校庭に制服姿でサッカーに興じている12番の姿を認めた。部活を終えた彼は、髪を伸ばして高校球児の趣はなくなったものの、一段とイケメン度を増している。

「石津先輩。私は初めて坊主頭のあなたを見た時から、あなたのかっこよさを、見抜いていました。」

 彼を目で追いながら、菊江はつぶやいた。

 菊江1年の春、グランドで部活をしている彼の姿に一目惚れして以来、彼女の片思いが続いている。人目を避けて河川敷のグランドに通っては、練習する彼の姿を追った。菊江は練習のなかでも特にシートノックが大好きだった。

「ほらー泰佑。声だせや!」

 内外野の部員が、捕手である彼の名を呼ぶ。菊江はこれで彼の名前を知った。そして、彼が内外野の野手に指示を飛ばし、彼の声を知った。

「よっつ!よっつ!」

 彼は、自分の声のキーを一つ上げた甲高い声で、外野へバックホームを指示する。後から知ったのだが、大きい声というより甲高い声の方が、外野によく聞こえるのだそうだ。短い波長の方が観測者まで減衰が少なく届くということらしい。野球選手は経験値からそれを知っていた。実のところ、彼の普通の声すら聞いたことが無い菊江だが、シートノックの声で十分に満足していた。

 部活が終わった今でも、学園で彼を見つけるといつまでも目で追ってしまう。もはやそれは菊江の習慣となっていた。そんな時は、まわりのことをまったく忘れてしまう。今も親友のテレサとナミが、彼を見つめる菊江のだらしない顔にあきれて、ため息をついているのだが、菊江は全く眼中になかった。テレサが読んでいたファッション雑誌を丸めてメガホン代わりにすると、菊江の耳元に近づけてがなりたてた。

「オキク!あんたの憧れの先輩はもうすぐ卒業よ。」

「そう、先輩の部活が終わったらコクルって言っていたのに、いままで何もしないのはどういうわけ。」ナミも参考書を閉じて菊江に詰めよった。

「何もしてないわけじゃない…。」

「じゃなにしたの、言って御覧なさい。」

 ナミの追及に、菊江は自信のない小さな声で答えた。

「先輩に渡す手紙を書いている…。」

「で、で、で、手紙渡したわけ?」

 テレサが身を乗り出してきた。

「毎朝持って学校くるんだけど、渡せなくて…。」

「今日も持ってるの?」

「ええ、持ってるけど…。」

「でもさ、今日も渡せてないってことは…。いつ書いた手紙持ってるの?」

 いつもながらナミの指摘はきつい。

「夕べ書いた…。」

「えっ!夜に書いた手紙を毎朝持ってきて、渡せなくてまた夜に書きかえて…。」

「あんた、そんなこと毎日繰り返しているの?」

「ええ、まあ…。」

「ばっかじゃない!」ナミとテレサの非難の合唱に、菊江は言い返す言葉が見つからない。

「ほら、手紙出しなさい!」

 テレサとナミが、菊江の手紙を奪った。

「そう、来るのよ!」

 ふたりの親友はもがく菊江の両腕を取って、校庭へと引きずっていった。そして昼休みも終わり、校庭から戻ろうとする泰佑の前に、容赦なく菊江を投げ出したのだ。

 

 投げ出された菊江は、泰佑の前でバランスを失った。倒れそうになる菊江の体を泰佑が思わず抱きかかえた。慌てて泰佑の腕の中から態勢を立て直した菊江だったが、恥ずかしさのあまり泰佑の顔も見られずにひたすら謝った。

「すみません。すみません。」

 しかし泰佑はそんな菊江には目もくれず、自分の行く手を阻んだ見知らぬ女子生徒に、小さく舌打ちして、立ち去ろうとする。菊江は両手で握りしめた手紙を慌てて差し出した。

「先輩。読んでください。」

 菊江は胸が苦しくなって、そう言うのが精いっぱいだった。顔が恥ずかしさで爆発する前に、この場から離れようとダッシュを仕掛けた瞬間だった。

「おい、待て!」

 菊江が間近に聞いた初めての彼の声だった。グランドで聞くよりも、低くて透き通った声だと感じた。

「今読むからそこで待ってな。」

 菊江の想定外の展開だった。手紙を渡した恥ずかしさで、その場に居ても立ってもいられないのに、今目の前でその手紙を読むなんて。しかし、菊江は泰佑の声に抗えず、動くことができない。やがて泰佑が手紙を読み終わると、あらためて菊江を見つめた。まさに『足の先から頭のてっぺんまで』という表現がぴったりの眺めようだ。そして、ようやく彼の口から言葉が出た。

「小川菊江っていうのか…。いいよ。」

「えっ?」

「今週の土曜なら空いている。どこにする?」

 菊江は、手紙に、一度映画でも一緒に、と書いたことを思い出した。

「…渋谷のTOHOシネマではいかがでしょうか?」

「ああわかった。午後1時にそこでな。」

 泰佑の後ろ姿を見送りながら、菊江は長年の願いがこんなにあっけなく実現したことに唖然としていた。やがて姿を現したナミとテレサに、ゴールを挙げたサッカー選手よろしく、もみくしゃにされた。

 

 待ち合わせ場所に現れた私服姿の泰佑は、制服姿を見慣れた菊江に少なからぬ衝撃を与えた。こんなに肩幅が広く背も高かったのかと驚かされた。何十年も経ったのち、泰佑のどこに魅力を感じて好きになったのかと聞かれると、この日のこの瞬間を思い出す。泰佑に異性を感じたこの瞬間が、菊江に恋が生まれた記念すべき時となっていた。ではその前までは何だったのかと言うと、恋と呼ぶにはあまりにも脆弱で稚拙な少女の感傷だったような気がする。

 実は、今日を迎えるにあたり、菊江は綿密な計画を練っていたのだ。待ち合わせ時間に間に合う上映作品とそれが放映されている映画館を確認し、終わった後のおしゃべりに最適なカフェを選び、楽しみながら歩けるストリートをマップで調べた。我ながら準備は万端だと思っている。現れた泰佑にドキドキしながらも、挨拶と来てくれたお礼をすませ、菊江は言葉を続けた。

「石津先輩。どんな映画が観たいですか?」

 泰佑は、返事もせずしばらく菊江を見つめていた。

「あの、映画が嫌だったらとりあえずカフェでも…。」

 事件は突然起きた。泰佑がいきなり菊江の手を握り締めたのだ。じっと彼女の瞳の奥を見つめていたと思うと、菊江の腰を引き寄せ周囲の目もはばからず強く抱きしめた。そして菊江の体の中にある何かのエネルギーが、みずからの体に染み渡るのを待つかのようにじっと目を閉じて動かなくなった。

 菊江はあまりのことに声も出ない。抱きしめられた体を動かすことさえもできなかった。泰佑の逞しい腕に抱きしめられると、彼の鼓動が自分の肌で直接感じられた。頭が真っ白になった。不思議と嫌悪感はなかったが、それが泰佑を好きと思う気持ちがあるからなのか、あまりにも突然で嫌悪を感じる余裕がなかったのか、後から考えてもはっきりわからない。ようやく体を離した泰佑は、とびきりの笑顔で菊江を見た。

 実はそこから先の菊江の記憶が曖昧になる。悲惨な記憶に対する防衛本能なのであろうか。今でも、やめてくれと拒んだと確信している。絶対に、抵抗したはずだと信じている。でもはっきりとした記憶は、なぜか円山町のラブホテルで目覚めるところから始まっているのだ。気付いたら菊江は、乱れたベッドにひとりでいた。しかも裸身にバスローブ一枚だ。薄暗く何とも言えない色の間接照明に染められた室内を見渡して、菊江は枕元に一枚のメモを発見した。

『ごめん。もう会わない。』

 小川菊江は声をあげて泣いた。彼女は、高校2年の2月のある日、初めて恋をしたその日に処女を奪われ、残酷にもその日のうちに捨てられたのだ。男と恋とセックスにトラウマを抱え、怨念の女性オキクがその日誕生した。

 

 10年後。

 

「バレンタインデーの起源は、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した、聖バレンティヌスに由来する記念日であるとされているのよ。」

青沼希久美は、夜景の良く見えるホテルの高級レストランにいた。食事をしながら、誘われた彼に今日の日の意味を説明していたのだ。

「バレンタインデーが一般的になる前、つまりローマ帝国の時代、2月14日は家庭と結婚の女神ユノの祝日だったの。でもローマ帝国の兵士はこの日を祝えなかった。当時ローマ帝王は士気が下がると言う理由で兵士の婚姻を禁じていたの。」

 ふたりのテーブルに食後のコーヒーが運ばれてきた。

「しかしキリスト教の司祭だったバレンタティヌスは、兵士たちを哀れに思い、愛を知った兵士を秘密に結婚させてあげていたの。しかし、それを知ったローマ帝王は、怒って彼を捕まえ、見せしめのためわざわざ女神ユノの記念日を選んで彼を処刑した…。」

 彼が希久美のコーヒーカップの横に、ホテルのルームキーを置いた。希久美は、そのキーを指でもてあそびながら言葉を続けた。

「歴史や由来を知ると、この日が男女の愛の誓いの日だと言うことは納得できる話なんだけど…。私にしてみればこの日は、男女の愛の誓いを押しつけたお節介な男の処刑の日としか思えないわ。」

 希久美は、キーを彼のコーヒーカップの中に投げ込むと、ハンドバッグを持って席を立った。

「ごめん。もう会わない。」

 出口へ向かう希久美だが、思い出したように立ち止まると、あっけにとられる彼に最後の言葉を投げかける。

「今夜のあなたのメニューチョイスはいただけないわね。ちなみにこのレストランのお勧めは、ズワイガニと生のりのリゾットで、加能ガニを取り寄せる関係上、前日までに予約しなければ食べられないの。思いつきで女を連れてこない方がいいわよ。」

 

 シオサイトにあるランチバイキングの店に集結した元女子高生3人。プレートに、こぼれんばかりの惣菜を載せながらナミが言った。

「オキクもお母さんが再婚してから変ったわよね。」

「そう、苗字が『青沼』に変わったと思ったら、下の名前まで変えちゃうし…。」

「それまでの自分を帳消しにしたかったの。」

 テレサがプチトマトを素手で口に入れながら、希久美に話し続ける。

「お義父さんが、会社役員で、しかもお金持ちだからここまで変われたのよ。」

「そうかしら…。」

「教育と美容に惜しげもなくお金かけられたし、一流広告代理店に強力なコネもあったし…。」

「全部お義父さんのおかげというわけでもないわよ。もともと素質があったの。美貌も仕事もね。」

「はーい。そのとーりですねー。」

「美貌はともかく。」

 ナミがふたりの会話に割り込んできた。

「確かにオキクは、昔から準備や調査にマメな方だったから、それが仕事に活きたのよ。」

「仕事でもなんでも、次に何が起こるかわからないと不安になるの。ナミもそうじゃない?」

「オキクほど神経質に不安にはならないけどね。」

「そう言えば、ナミから聞いたわよ、オキク。半年つき合っていた彼と別れたんだって?」

「まあね…。」

「まったく…。男たちを翻弄した揚句、見事に捨て去る『おあずけオキク』の本領発揮ね」

「そんなことないわよ…。」

「この魔性も、もともとの素質だったわけ?」

「テレサはどうなのよ。」

 顔を膨らませて希久美はテレサに言い返した。

「ファッション雑誌の編集チーフの座を利用して、食べたい放題じゃない。」

「まるで、今日のバイキングね。」

 希久美とナミがハイタッチしながら笑い合った。

「うるさい、黙れ。」

 テレサはテーブルナプキンで口元を拭きながら、すました顔で言い返す。

「ああ…、毎晩ラブレターを書いていたあの純朴な女子高生オキクは、いったいどこへ行ってしまったんでしょうね…。」

 ナミがテーブルの下でテレサの足を蹴った。ナミもテレサも当然、希久美の女子高時代のあの残酷な日を知っており、その日を思い出すような話題は今でもタブーになっていた。自分達がその日の遠因となった責任を少なからず感じていたのだ。ナミが慌てて話題を変えた。

「私なんか、小児科医なんかになってしまったから、親とこどもばっかりで、独身男が寄りつきもしない。」

「確かにねー。」

 希久美とテレサが憐れむように声を揃えて同意した。

「それに男を漁りに行く暇もないしね。ねえ、オキク。広告業界って結構いい男が多いんでしょう。誰か紹介してくれない?」

「この業界の男は勧められないわね。派手好きだし、見栄っ張りだし、口がうまいし。とにかく誠実さがないわ。」

「確かにナミのテイストに合うような男はいないかもね。」

「そう…。ああぁ、オキクのお義父さんみたいな人と見合いでもするかなぁ。」

「私も乗った!」

「ばかいわないでよ。年違いすぎでしょ…。」

 希久美は、今夜珍しくお義父さんに食事誘われていることを思い出した。今評判の創作和食の店らしい。『あとでチェックしておこう。』希久美は常に準備を怠らない出来る女なのだ。

 

 希久美が勤める会社は、広告代理店として単体では世界で最大の売り上げ規模で、連結売上高は2兆円を超える。単体の売上高でいっても、国内2位の代理店の約2倍、3位の代理店の約4倍と、名実ともに日本最大の広告代理店であり、「広告界のガリバー」の異名を持つ。その圧倒的なシェアゆえ、市場の寡占化が問題視され、公正取引委員会によって調査がなされたほどだ。従業員数はグループで1万7千名を超え、単独でも6千3百名を超える。

 シオサイトに置かれている東京本社ビルは、ビルで働く約6千人の社員がウォーターフロントを眺められるよう、南側を曲面としたブーメラン状の断面を持つ斬新なデザインとなっている。外壁に面するエレベーターは、平均待ち時間を30秒程度に収めるため、1階のエントランスホール、6階・14階・25階・36階・44階に停止する高速シャトルエレベーターと、中速運転のローカルエレベーターを組み合わせた、デュアルエレベータシステムが採用されている。建設当時は世界最高速であったが、あまりの速度に役員が恐怖を感じたため、運転速度が落とされたという逸話まである。そんな最新の施設でも、傷はかならずあるものだ。本社ビルのタクシープールは、設計したフランス人建築家の不勉強のために、右側通行用に設計、建設されてしまった。そのため、ビル前の道路で乗り降りする社員が多く、周囲を通行するドライバーから顰蹙を買っている。設計した当の本人は施主側との意見の対立により、本来の制作意図が叶えられなかったことを理由に、自身の作品として公表されることを望んでいないと言われている。

 そんなビルに勤務する希久美であるが、仕事は気に入っていた。実際、宣伝担当取締役のお義父さんのコネで、この大会社に入社したわけだが、『大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。』などと謳われた「鬼十則」を規範とした大勢の社員の中でもまれて、なんとか一人前の営業としての地位を確立していた。今では、パブリック担当営業として、自治体や公共団体をクライアントとして立派に売り上げを積み上げている。

「みんな、忙しいところすまないが、少しこちらに注目してくれるか。」

 営業室長が、部下に声をかけた。営業室はふたつのルームにわかれている。明日の打合せに備えて、デスクのPCで予算をチェックしていた希久美は、モニターから顔を上げた。

「今日から新しいメンバーが加わることになったので紹介する。」

 室長は、横についていた青年に自己紹介を促した。

「はじめまして、石津です。よろしくお願いいたします。」

 名前を聞いた希久美は開けた口から心臓が飛び出そうになった。

「えーと、こちらが斉藤ルーム長、そして…。」

 室長がひとりひとりを紹介し始めた。泰佑は、室長の後を、礼をしながらついていった。希久美は、挨拶して回る男が本当にあの悪党であるかどうかを確認するために姿を目で追った。自分に近づくに従い、確信するようになった。大人びてはいたものの、確かに顔の輪郭とつくりは高校時代に希久美が目で追っていた彼のものであり、そしてその声は、ラブレターを渡した時に聞き覚えたそのものだった。信じられない。こいつは本当にあの石津先輩だ。胃液が逆流した。希久美は10年たった今でも、決して薄れることのない怒りを自覚した。

「それから、こちらが、田島ルーム長、そして、山田くん、深江くん、そして…。」

 息が苦しい。希久美は心臓が肥大し、肺を圧迫しているような気分になった。自然にこぶしに力が入り、持っていたボールペンが砕けた。お産の時でもこんなに力むことは無いかもしれない。いよいよ室長と泰佑が、希久美の前に来た。もしもう半歩近づいていたら、確実に飛びかかっていただろう。

「彼女が、青沼くんだ。」

「よろしくお願いします。」

 泰佑は、希久美の顔を見ながら軽く会釈した。

「青沼くん、大丈夫か?顔色が良くないが…。」

「たかが生理ですから、気にしないでください。」

 室長の問いかけに投げ捨てるように返事を返す。

「そうか…。」

 聞いてはいけないことを聞いてしまったような気分になった室長は、これもセクハラになるのかどうか悩みながら、泰佑を引き連れてもとの位置に戻った。

「石津くんには、当面斉藤ルームで財団関係を担当してもらう。」

「みなさん、よろしくお願いいたします。」

 希久美は、深々と頭を下げる泰佑をにらみ続けた。彼はことさら希久美を見返す様子はない。あいつは、気づいていないのか?それともふりをしているのか? いや、雑草を踏むがごとくバージンを奪い去った私のことなんか、とっくに記憶にないに違いない。永久に格納するはずだった古い記憶が鮮やかに蘇り、得体のしれない感情が高速で渦を巻く。頭の中でドラム缶を叩くような音がガンガン鳴り響いた。

「田島さん。得意先行ってきます。遅くなると思いますので、そのまま直帰しますよ。」

 そう言うが早いか、ルーム長の返事も聞かず、希久美は上着を持ってオフィスを飛び出た。とにかく、今はここにはいられない。泰佑と同じ空気を吸うなんてありえない。落ち着くまで外に居よう。そうだこういう時は、何も考えず髪の毛をいじるのが一番だ。彼女は行きつけのヘアスタジオへタクシーを飛ばした。

 

「希久美。ここだ、ここだ。」

 先に席に着いていた義父が、彼女を呼んだ。

「おそかったな。まあいい。ここに座れ。」

「お義父さんと恋人じゃないのに、なんで隣に座らなきゃならないの。」

「文句を言わず、今日は素直にここに座れ。」

 義父は笑ながら、椅子を引いて希久美を招き入れた。

 どんなに憎まれ口をきいても、希久美は義父に逆らえなかった。感謝の気持ちが大きすぎるのだ。希久美を産んで早くに離婚した母は、愛娘を育てるために必死に働いた。シングルマザーとして様々な迫害や屈辱にさらされながら秘書課の契約社員として働いていた母だったが、会社の役員だった義父が母の誠実な仕事ぶりと生き様に惚れ込んだ。エリートで、しかもなうてのプレイボーイとして独身貴族を貫いてきた義父が、なぜ子持ちの契約社員にプロポーズしたのかは、今でも七不思議として社員の話題となっている。希久美にしてみれば、連れ子の自分を、わが娘の様にかわいがってくれたことよりも、自分を育てるために長年苦労してきた母を愛し慈しんでくれていることに、本当に感謝しているのだ。

 顔に不満の表情を浮かべながらも、素直に引かれた椅子に腰かけた。

「さて、今夜の料理は何にする?」

「なんでもいいわ。お義父さん選んで。」

「珍しい。今夜は人任せか?」

「忙しかったから…。」

 いつもと違う様子に、義父は思わず娘の顔を見た。

「おや、おれとの食事の為に髪をセットして来てくれたのかな?」

「暇だから…。」

「言ってることがむちゃくちゃだな…。心配ごとでもあるのか?」

「ストレスがそれなりにね。」

「今の部署がつらいなら、もっと楽な部署への異動を、お前の会社の役員にお願いしてやるぞ。」

「余計なことしないで。大丈夫だから。」

 義父のおせっかいを迷惑がる表情を見せながらも、母と同様に、義理の娘にも思いやりを見せてくれる義父に希久美は感謝した。

「青沼取締役。遅くなりました。」

 突然希久美たちのテーブルに見知らぬ青年がやってきた。

「おお、来たか。まあ座りたまえ。」

 義父は、希久美と対面する席をその青年に勧めた。希久美は驚いて、義父と青年を交互に見やっていたが、やがて事態を理解して、冷たい横目視線を義父に投げかけた。義父は希久美の機嫌を盗み見しながら、青年に話しかける。

「石嶋くん、紹介するよ。私の娘の希久美だ。」

 石嶋は緊張した面持ちで希久美に挨拶した。

「希久美。石嶋くんだ。彼はわが社の社員で、将来経営への参加を嘱望されている優秀な人材なんだよ。」

 希久美は、しばらくの沈黙の後、義父への冷たい視線のロックを外して、石嶋に微笑みかけながら挨拶をした。少し安心した義父は、言葉を続ける。

「石嶋くんはね、仕事もそうだが、思いつきとか即興で物事を動かさないタイプなんだ。その点、希久美とは気が合うと思うんだが…。」

 義父に恥をかかせるわけにはいかなかった。希久美は、笑顔を崩さず、その場は楽しそうに石嶋と義父との食事をこなしたが、こころはまったく別なところに行っていた。泰佑に再会して以来、何をしていても、もう希久美のこころに平安なんて文字は見つからない。

 

 数日後のオフィス、得意先の東京事務所から戻る廊下で歩きながら、希久美は田島ルーム長に食ってかかっていた。

「ルーム長、今さらスタッフを外注できないなんて言わないでくださいよ。」

「仕方ないだろう。県の商工観光課が補正予算が取れなかったって言うんだから。他に扱いがあれば原価を回せるが、単発だしな。」

「どうするんですか。私一人じゃこなせないですよ!」

 希久美の抗議に、田島ルーム長しばらく考えて代替え案を思いつく。

「お前のアシストにうちの社員をつけるのはどうだ?」

「えーっ、みんなそれなりに、忙しいのに。」

「金が無いんだから、仕方が無い。なっ、そうしよう。」

「でも…。」

「いいって、俺が室長に頼んでやるからさ。誰がいいか人選しろ。」

「人選て言ったって、周りはおじさんばっかりじゃ…。」

 ルーム長との話に夢中になっていた希久美は、足元にある増設中のランケーブル端子に気付かなかった。足を引っ掛けて体のバランスを崩した希久美の腕を、田島ルーム長が取ろうと腕を伸ばしたが、時はすでに遅く、虚しく空をつかんだ。希久美がフロアに叩きつけられそうになった瞬間、プリンセスを救う白馬の騎士が現れた。そばにいた同僚が希久美に逞しい腕を差し伸べたのだ。突然の出来事にもかかわらず、学生時代から身体を鍛えていた白馬の騎士は、しなやかに反応して軽々と希久美の身体を受け止めた。希久美は、寸前のところで床に這いつくばらずに済んだ。

「どうもすみません。ありがとうございます。」

 希久美は、詫びと感謝を繰り返し、わが身を受け止めてくれた白馬の騎士を見やった。騎士は泰佑だった。今自分を抱きかかえている相手がわかったとたん、希久美は釣りあげられた深海魚よろしく、身体中の血液が沸騰し、見開いた目から眼球が飛び出した。

「私の身体に触らないで!」

 慌てて自分の態勢を戻して身を離した希久美は、泰佑の頬にいきなり平手打ちをした。それは周りの社員の注意を引くには十分な音だった。

「おい!青沼。お前なんてことを…。」

 田島ルーム長の驚きも構わず、希久美は大きな足音を立てながらその場を立ち去る。泰佑は黙って、希久美の後ろ姿を見送った。

 この事件は、後日『泰佑がセクハラをして、希久美に殴られた。』というニュースになって、全社員に伝わったのだった。

 希久美を追いかけるようにして戻った田島ルーム長が、すでにデスクで平然と仕事を始めている彼女に、小声で話しかけた。

「おい青沼。さっきのはまずいよ。石津に謝ったほうがいいぞ。」

 希久美は、モニターから顔も上げず答える。

「なんで謝るんですか?」

「なんでって…。」

 希久美の反応にあきれながら田島ルーム長は言葉を続けた。

「誰を嫌おうがお前の勝手だが、ちょっと露骨すぎないか。この前も全体会議でコーヒー頼んだら、石津の分だけないし。みんなを誘って社食へ昼飯にいく時も、石津が入ると必ず抜けてひとりでどっか行ってしまうし…。」

「ああ、おなかすいた。もうこんな時間か…。社食に行ってきます。」

「お前…。どうして最後まで俺の話を聞けないんだ。」

「つきあい長いから、聞かなくとも何が言いたいのかわかっちゃうんですよ。」

 田島ルーム長は苦笑いしながら、デスクを離れる希久美の背に声をかける。

「じゃ、人選急げと言いたいのも、当然わかっちゃうよな。青沼!」

 

 ローカルエレベーターで4階に降りると、社食専用のフロアがある。社食は、 和食・洋食・中華・カフェテリア・蕎麦の5つのお店に分かれていて、社員は好きな店を選び、好きな料理をIDカードのICチップで購入することができる。気分の晴れない時は、希久美は比較的落ち着いて食事のとれる和食の「旬」に行くことにしている。

 窓際の席に着いて、浜離宮恩賜庭園の緑を眺めると、少し気持ちが落ち着いた。箸を口に運びながら希久美は考えた。このままの精神状態では、仕事もお見合いも、いつか手痛い失敗をする。泰佑への怒りを何らかの形で決着させなければ…。しかしどうやって?何かに没頭して忘れる?いや10年も引きずっていることを、当人を目の前に忘れられるわけがない。許す?とんでもない、それでは今までの自分があまりにも惨めだ。あの悪党を殺す?コンクリの中に生き埋めにするなど想像するだけで魅力的なプランだが、実現性が乏しい。殴って、蹴って、病院送りにする?それではあまりにも一過性だ。痴漢に仕立てて、社会的に抹殺する?しかし…おのれだけが知る潔白性をよりどころに、どこかで平安に生きているあいつを想像するだけで我慢ならない。

 そうだ、死ぬまで自らの『おこない』を悔いる人生。泰佑に今後の人生をそんな風に送らせることができたら、きっとこの気持ちを決着させることができるにちがいない。絶対に、怒りの決着は復讐しかないのだ。そんな思いを巡らせていた希久美に、男が突然声を掛けてきた。

「そこの席空いているか?」

 ひとりで4人掛けのテーブルを占有していた希久美に話しかけたのは、泰佑だった。希久美は何も答えないまま、定食の盆を持って立つ泰佑を見やった。体型にあったスーツは、余計に肩幅の広さと締まったウエストを強調する。あらためて彼を見ると、かつて捕手用のプロテクターを装着していた体躯は、高校時代に比べその逞しさを増しており、彼が大学でも野球を続けていたことが容易に想像できた。顔は相変わらずあの頃のイケメン顔だな。そう思うと急に、初めてのデートの日、会った瞬間に抱きしめられた彼の身体の感触が蘇ってきた。まずい!希久美は席を立ってこの場から離れようとしたが、泰佑が彼女の行く手に立ちふさがり言った。

「待てよ。食事もまだ終わってないだろ。声を掛けて悪かった。自分が他の席へ行くから。」

 希久美は、対峙する泰佑の瞳をじっと見た。希久美の心からまた得体の知れない感情が溢れだす。まだ早いのよ。復讐の計画は出来ていない。今あなたと絡むと何をしでかすかわからない自分が怖いの。だから、お願いだから今はそっとしておいて…。泰佑をじっと見ていた希久美の瞳から大粒の涙が溢れだした。

「なっ、なにも、泣くことはないだろう…。」

 希久美が泰佑を押しのけた拍子に、彼が持った定食のお盆が傾き、食べ物と食器が大きな音を立てて床に散らばる。今度も周りの社員の注意を引くには十分な音だった。涙を流しながら走り去る希久美。呆然と立ちすくむ泰佑。この事件は、前のニュースの続編として全社員に伝わった。内容は『そのあと泰佑はセクハラの謝罪をしたが、泣くほど傷ついた希久美がそれを拒否した。』であった。

 

 ワインバーに集った3人の元女子高生。人数にふさわしくない数のコルク栓が散らばるボックス席では、今夜は、ひとりの元女子高生の話しに、あたりを気にせず大笑する喧しい宴になっている。テレサが笑いすぎた涙を拭いながら希久美に言った。

「なんでそこで泣かなくちゃならないわけ?」

「私もよくわかんないのよ。自然と涙が出ちゃって…。」

 ナミも笑いながら希久美を慰める。

「結果的には、悪党にセクハラ男のラベルを貼れたから、良かったんじゃない。」

「でも、少しすればラベルも風化する…。」

 テレサは、ふたりのグラスにワインを注ぎ足す。

「オキクの言う、―死ぬまで自らの『おこない』を悔いる人生―ってどんな人生なの?」

「あれから私も考えてみたんだけど、一生消えない負のマークを付けるようなことかしらね。」

「たとえば…腕か足を一本もぎ取るとか。のどを潰して声を出なくするとか。目ん玉くりぬいて目を見えなくするとか?」

 テレサの発想は常に短絡的だ。希久美が反発する。

「キルビルじゃあるまいし…。私たちのテイストに合わないんじゃない。」

「それに身体的ハンディを持っていても、健常者以上に明るく逞しく生きている人も多いわよ。」

「批評だけでなくアイデア出してよ。」

 切れかかっているテレサを、ナミがなだめながら、ひとつの提案をした。

「悪党は結婚してるの?」

「指輪してなかったからまだじゃない。」

「なら、こういうのどう…。」

 希久美とテレサがナミの話に注目する。

「男にとって生きてて一番つらいのは、男としての使命を果たせない事じゃないかしら。」

「どういうこと?」

「つまり、女を喜ばすこともできず、子供も作れない。」

「そりゃ悲惨だわ。」

「そう、ここはやっぱり性的不能者にするってのが一番フィットするんじゃないかしら。」

「あそこを切り取っちゃうってこと?」

 テレサの短絡発言がまた出た。

「やめてよ、阿部 定じゃあるまいし。」

「誰それ?」

 ナミはテレサの無知に呆れて、希久美に向かって話を続けた。

「医学的に男性においての性的不能は、勃起不全と言うのよ。よくテレビでやってるED(Erectile Dysfunction)というやつね。解剖学的に勃起機能に異常がある場合と、異常は無いけど、何らかの心理的要因などによって満足な勃起が得られない場合とがあるの。今回当てはまるのは『心因性勃起障害』ね。ホモセクシャルは別として、精神的なストレス、性に対する誤った教育環境、失業などによるストレス、性行為に対する自信喪失が原因で発症すると言われているの。新婚初夜での性行為の失敗が原因となっておこる新婚勃起障害なんてのもあるのよ。」

「へえ、つまり心因性のEDは後天性の病気なのね。」

「さすがオキク、わかりが早いわね。」

「相手のセックスをさんざん侮辱したら、それになっちゃうわけ?」

「そんな単純なものじゃないと思うけど…。精神科学の論文に、男性を傷つけて勃起不全を誘発する代表的なコメントとして『役立たず。』『私に恥をかかせないで。』『男として終わりね。』が取り上げられていたわ。」

「でも、EDを治す薬ってのは良く聞くけど、EDにする薬なんてあるの。」

「そんな薬あるわけ無いじゃない。でも…。EDに処方する薬として、PDE5阻害薬と呼ばれているものがあるの。ペニスの勃起を止める酵素PDE5(ホスホジエステラーゼ タイプ5)を阻害する薬なんだけど、逆の発想でこの酵素PDE5を投与すれば、ある一定時間は勃起をとめることが可能かもしれない…。」

 ナミは話に夢中になっていたが、やがて自分の話の重大性に気付いてしまった。

「ちょっと待ってオキク!なにメモしてるの。調子に乗ってしゃべりすぎたけど、医師としてこの計画は賛成できないわよ。倫理に反する。下手すれば医師免許とりあげられてしまうわ。」

 慌てて打ち消すナミに今度はテレサが話の後を引き継いだ。

「つまり整理すると、悪党をベッドに誘っておいて、ことの直前にそのなんとか5とかいう薬を飲ませて役立たずにする。そこで間髪いれずに、『この役立たず。』『私に恥をかかせた。』『男として終わりね。』を連発すれば、悪党はめでたくインポテンツになるってわけね…。」

「ちょっとやめて!私は知らないわよ。」

「問題はどこでその『なんとか5』を手に入れるかね…。」

「きゃー。私もう帰る!」

 席を立とうとするナミをふたりの親友が押さえつけた。

「ここで帰すわけにはいかないわよ。」

「そうよ、発言しなくてもいいから、私たちの話しを聞いてなさいよ。」

 ふたりはナミをはさんで話し続ける。

「巻き戻すわよ…。」

「どうぞ。」

「どうやってその薬を手に入れるかが問題よね。」

「そうよね。」

「やっぱりプロじゃないと手に入らないのかもね。」

「そうよね、手伝ってくれたら、いいものあげちゃうかもねぇ。」

「そう言えば、テレサの持ってたコーチ(COACH)のバッグ。欲しがってる人いたわよねぇ。」

「惜しい気もするけど、オキクがそうしろと言うなら、あげちゃうかもねぇ。」

 ふたりはナミを見た。いたたまれないナミは、ちょっとトイレへと席を立ってしまった。やはり本物の医師であるナミに協力を求めるのは無理か。残されたふたりで、あらためてナミのアイデアの実現性を検討していると、突然テレサの携帯が鳴った。

「もしもし、えっ誰?…なに?」

 テレサはハンドバックからシステム手帳とペンを取り出し、何やら書き込んだ。電話を切ったテレサは、希久美に言った。

「問題解決よ。どんな薬も処方箋無しで手に入れられる『闇の薬局』ってのがあるんだって。」

「ねえ、誰から?」

「それが名乗らないのよ…。着信番号も非表示だからわからないわ。そう言えば水が流れる音も聞こえてた。でも不思議よね。こんなグッドタイミングに、いったい誰かしら?」

 テレサは相手が誰だか本当にわからないらしい。

 

 今日は休日であるが、ナミは医局の自分のデスクで、最近の小児科学の医学論文を読んでいた。休日当番で病院に詰めていたのだ。

『荒木先生、急患です。』

 院内PHSで呼ばれ、論文集を閉じて小児科診療室に急ぐ。

 診療デスクに着席して招き入れた患者は、5歳くらいの女の子とその父親だった。

「どうしました。」

「朝から熱が出て…。」

 女の子を抱いた父親が、心配そうに答えた。

「わかりました。とりあえずもう一度熱を測ってみましょうか。看護師さんお願い。」

 ナミの指示で看護師が、父親から女の子を受け取ろうとしたが、女の子が父親にしがみついて離れない。

「おやおや、甘えん坊なお嬢さんだこと。それならお父さんに抱いてもらったままお熱を測りましょうか。」

 ナミが体温計を女の子の脇に差し入れようと近づくと、今度は父親から離れてナミの腕の中にもぐりこんだ。

「おい、ユカ。先生が迷惑するだろう。」

 父親が慌てて娘を離そうとしたが、ナミが制した。

「いいですよ。ここがいいなら、ここでお熱を測りましょう。」

 ナミは女の子を抱きながら、あらためて父親を観察した。ずいぶん若い父親だ。

「ユカちゃんに咳、鼻水、嘔吐、下痢などの症状がありましたか?」

「ええ、朝少し咳をしていたようですが…。」

 父親が心配そうにわが娘の顔を覗き込んで言った。

「ユカちゃんの普段の生活で、様子が変だと思うところがありましたか?」

「少し元気が無いようでしたが、特に異常なことはなかったです。」

 ナミは、体温計を女の子の脇から抜き取り、温度を確認すると父親に言った。

「確かにお熱が高いですね。のどの腫れから考えると風邪でしょう。発熱の多くは、風邪などのウイルスの感染によって起こりますが、もともとはウイルスをやっつけるために、自ら熱を出してウイルスの住み難い環境をつくり出しているのですよ。高温になると活発になる免疫もあるし、ウイルス感染の殆どは自然に治癒しますから、安心してください。」

 ユカは顔をナミの胸に埋めている。ナミの話す声が、胸の振動から直接聞こえてくるのが心地好いのか、すっかり安心して腕の中におさまっている。

「わかりました。」

 父親はナミの診断に、安心したように娘の頭をなぜた。

「ユカちゃんの治る力を少し手助けしてあげれば、だいたい2、3日でよくなりますよ。解熱剤の処方を出しておきますから、帰りに薬剤部に寄って行って下さい。」

「ありがとうございました。さあ、ユカ。家に帰ろう。」

 父親がユカを引きはがそうとしたが、今度はナミから離れない。ナミは笑いながら言った。

「変な話ですけど、小児科医になって以来、ここまで患者のお子さんに好かれた経験はないわ。」

「すみません。ユカも初めて会った人にこんなにベタベタすることは無いんですが…。」

「いいですよ。これから薬剤部へお寄りになるでしょう?今日は休日だから他に診療もないし、病院出るまでユカちゃんを抱いてお送りしますよ。」

 ナミはユカを抱きながら、若い父親と連れだって診療室を出た。

「ユカちゃん。お母さんは、今日はお仕事なのかな?」

 ユカは答えなかったが、ナミはユカのしがみつく力が強くなったような気がした。質問は父親が代わりに答えた。

「ユカの母親は、亡くなったのです。」

「ごっ、ごめんなさい。変なこと聞いちゃって…。」

「いえ、気にしないでください。」

 石嶋は歩く歩調にあわせて、ゆっくりと話し始めた。

「実は、ユカの両親は3カ月に交通事故で亡くなったんです。ユカの父親は自分の兄で…。ユカの祖父母もとうに亡くなっているし、今はとりあえず自分が、面倒を見ているんです。早く適当な里親が見つけないと…。やはりユカも父親と母親がそろう優しい家庭で育てられた方が、幸せでしょうから…。」

 患者のプライベートには立ち入らない。それは、冷静で正確な診断と治療を施す臨床医の鉄則である。ナミは父親の言葉には何の返事も返さなかった。3人は、誰も居ない廊下を薬剤部へ向けて黙って歩いた。薬が出るのを、待合ロビーのベンチで待つ間も、ユカはナミの腕の中から動こうとしない。ユカはナミの胸に、失った母親の懐かしい柔らかさを、見出したのだろうか。病院の出口で、父親はムズがるユカをようやくナミから引き離しタクシーに乗り込んだ。走り去るタクシーを見送るナミは、車内で彼女を見て泣いているユカの口が、先生と言っているのかママと言っているのか判断ができなかった。

 

 希久美とテレサが、西新宿のホテルのロビーカフェで落ち合っていた。お互いなぜかサングラスを外そうとしない。

「今日、ナミは?」

「休日当直らしいわよ。」

「そう…。彼女は本当の医師だから、確かにこれ以上関わらせない方がいいかもね。」

「そうね。見て、これが例の薬よ。」

 テレサは、バッグから顆粒の薬を2包取り出しテーブルの上に置いた。

「これか…。よく買いに行けたわね?」

「私も怖いから会社の若い衆に行かせたのよ。彼らの手間賃も入れて4万円よ。」

「えっ、ふたつで4万円!そんなに高いの?」

「復讐もお金がかかるわね。」

「しょうがないか、モンテ・クリスト伯も大金持ちだからこそ復讐ができたんだから。」

「誰それ?」

 希久美は、相変わらずのテレサに首を振りながらお金を渡した。

「ところでさ、買ったのはみっつでね、ひとつ今の彼に試してみたの。」

「えっ、それならひとつ分のお金返してよ。」

「そんなケチくさいこと言わないの。もし効かなかったら、オキクの貞操が危なくなるでしょ。」

「ご心配いただきまして、すみません…。」

「それでさ、水に溶かして飲ませたの。」

「どうだった?」

「確かに5分後位から効き始めて、20分間位まったく使い物にならなかったわよ。」

「聞かなくてもいいことだけど、その後はどうしたの?」

「彼の自信を回復するために、えらくサービスしちゃったわよ。」

「やっぱり聞かなければよかった…。」

「それにこれ。」

 テレサが今度は、バッグから赤い袋の顆粒を2袋取り出しテーブルの上に置いた。

「若い衆が言うには、サービスだって、闇の薬局がくれたらしいの。」

「なにこれ?」

「無性にやりたくなる薬だそうよ。」

「なんでそんなものを…。」

「やれなくなる薬とやりたくなる薬がご対面するなんて、ミステリアスねぇ…。なんか、何でもできそうな気にならない?」

 テレサの感性は時々理解できない。

「サービスで貰ったこの薬はひとつ頂くわよ。」

「いいけど…。」

「なんか超役立ちそうだわ。」

「でも、やりたくなる薬を飲ませて、すぐにやれなくなる薬飲ませたら、体が変にならないかしら?」

「なったらなったでいいんじゃない。どうせ復讐なんだから…。」

 そんな大雑把なテレサの言葉に、納得していいものどうか迷いながらも、とにかく希久美はやっとスタートラインについたような気分になった。合図を待つ陸上選手よろしく、復讐がいよいよ始まるという緊張感で胸が高鳴る。

 

 希久美は、日頃の調査と立案の能力を発揮して、綿密に復讐劇のシナリオを練った。そして、決行の日は、泰佑の歓迎会がある今夜とした。職場のメンバーが企画した歓迎会に希久美も誘われたが、当然断った。しかし、歓迎会の場所も日時も知ることができたので、終わるころを見計らって、会場の出口が見えるカフェで、泰佑を待った。この夜の為に、一度家に帰り、シャワーを浴びて勝負服と勝負下着に着換えてきた。何度もバッグの中の薬を確認しながら、緊張で高まる胸を落ち着かせた。果たして、歓迎会が終わったメンバーがトラットリアから出てきた。泰佑は、契約社員の女子の何人かに2次回を誘われているようだ。2次回に行かれてしまっては、この計画は延期せざるをえない。幸いなことに泰佑はニコリともせず女子の誘いを断り、早々に仲間と離れて地下鉄の駅に向かって歩き始めた。

 希久美は席を立ち脱兎のごとく泰佑を追った。長い脚を比較的大股に使う泰佑の、歩くスピードは速い。必死に希久美は追うが、人ごみの中に一瞬泰佑の後ろ姿を見失ってしまった。確かあっちの方向だったけど…。自分の感を信じて進んでいくと、しばらくしてスターバックスの屋外席に、見覚えのある泰佑の背を発見した。アイスコーヒーを飲みながら酔いを醒ましているのだ。高校の河川敷グランドで大勢の野球部員が練習する中でも、遠目で眺めた泰佑の姿を見失ったことなど一度もない。さすが私よね…。変なところに達成感を感じながら、しばらく泰佑の様子を眺めた。久しぶりに落ち着いて眺める泰佑の姿だ。長い脚を投げ出して、ストローを口にしながら遠くの何かを見ている。何を考えているんだろう。仕事のこと? 家のこと? 趣味のこと? 彼女のこと?…。考えてみれば、自分は泰佑について野球部員であったこと以外何も知らない。きっと泰佑も私のことは何も知らない。お互いのことを話す間もなく、希久美は路傍の石のごとく捨てられたのだ。あの日の以前そして以後を、彼はどのように生きてきたんだろう。それなりに見栄えのするスタイルと顔だから、きっと私と同じような女を山のように生み出したに違いない。そうよ、その人たちのためにも勇気を出して始めなければ…。希久美はゆっくりと泰佑に近づいていった。

「あら、石津くんじゃない。こんなところで会うなんて、偶然ね。」

 希久美は、自分の第一声が緊張のあまり震えていなかったかどうか心配になった。しかし声の主が希久美であることに気づいた泰佑が、驚きのあまりコーヒーを気管に入れてせき込む姿を見て、まずは先制攻撃の成功を喜んだ。

「たしか今夜は、歓迎会だったんじゃない?」

 泰佑は苦しそうに咳き込みながらもうなずく。

「もう終わったの?」

 泰佑は、ようやく空気の通る様になった気管に安心して、唾を飲みながらうなずく。

「そう、残業で出られなくて残念だったわ。でも、せっかくお会いできたんだから…。もしよろしければ、今からでも歓迎の一杯をご馳走したいんだけど、お嫌かしら?」

 希久美は、可愛らしい笑顔を作って泰佑の顔を覗き込んだ。復讐する女とは、こんなにも女優になれるのかと、みずからを恐ろしく感じた。泰佑は希久美からの思いがけない申し出に、言葉を失っている。なんとか答えろ、この悪党!なかなか返事をしない泰佑に焦れて、希久美の笑顔も崩れかけきた頃、ようやく泰佑は口を開く。

「今夜はビンタなしか?」

「私がそんなことするわけないでしょ。やあねぇ。」

「今夜は泣かないな?」

「お誘い断ったら、泣くかもしれませんわよ。」

 しばらく考えた泰佑は、まさにプレゼンを始める直前にみずからを奮い起こすように、はずしていたワイシャツの襟ボタンをつけ直し、緩んだネクタイを締め直して席から立ち上がった。

「わかった。どこにする?」

 

 希久美が泰佑を連れていったのは、テレサから薬を受け取ったと同じホテルの高層階にあるクラブラウンジだ。あいにく夜景が見えるボックス席が満席だったので、ふたりはカウンター席に並んで座った。希久美は、もともと胸元の広く開いたドレスシャツを着ていたが。さらに胸の谷間が強調されるように、少し肩をすぼめてハイチェアに腰かける。泰佑の視線の先を探ったが、希久美の胸元には関心がなさそうだった。ちくしょう!対面席だったら、きっと私の胸を見たに違いないのに…。計画がひとつ狂った。

「ご馳走させていただく最初の一杯は、私が決めてもいいかしら?」

「お好きに。」

 希久美はバーテンダーを呼ぶと、カクテルの名前を言った。

「ブランデーエッグノッグをふたりにいただけるかしら。」

 希久美が指定したカクテルは、ブランデーに砂糖と卵黄1個をシェークし、牛乳で割る曲者だ。薬を混ぜ込み、飲む時に違和感を覚えないよう、事前に調査してこのカクテルを選んでおいた。やがてカクテルと呼ぶにはあまりにも濁った液体が、しゃれたグラスに注がれてふたりの前に並ぶ。

「さあ、ふたりの再会を祝って乾杯しましょう。」

「再会?」

 思わず出た言葉に、希久美は慌てて言葉を足した。

「今夜の偶然の出会いのことよ。ほらグラスを持ちなさい。」

 泰佑は、首をかしげながらグラスを持った。

「ちょっと待って、ワイシャツの襟に口紅が付いているわよ。」

「えっ。」

「キスマークでも付けられたの?不愉快だから乾杯の前に消してきて。」

「すまん…。」

 泰佑が慌ててレストルームへ駆け込むのを確認すると、希久美はバッグから薬を取り出した。やりたくなる薬とやれなくなる薬を間違えないように…。慎重に袋を破って、薬を泰佑のカクテルに混ぜ込んだ。

「またいじめか?そんなものないぞ。」

 レストルームから帰って来た泰佑が、希久美に抗議する。

「あら、そうでした?私の見間違えかしら。ごめんあそばせ。」

 希久美はまったく動じない

「それでは、気を取り直して乾杯。」

 再びグラスを手にしたその時、今度は希久美の携帯が鳴った。田島ルーム長からの電話だ。

「ごめんなさい。ちょっと、待っててね。」

 希久美は携帯を手に、席をはずした。泰佑は、こんな時間になっても、嫌な顔ひとつせず、熱心に仕事に対応する希久美の姿をしばらく眺めていたが、やがてバーテンダーを呼んで言った。

「自分は女性経験が乏しいので、教えて欲しいのですが…。」

「私でわかることでしたら。」

「ビンタくらわしたり、昼食を同席するにも泣くほど嫌がった女性が、急にカクテルをおごると言い出すのは、どういうわけがあるんでしょうか?」

「そのお答えは、お客様の前のグラスの中にあるようでございます。そのカクテルを飲み干されれば、お知りになれるかと…。ただ、お客様の身を案じて、あえて申し上げるのですが、謎のままお帰りになった方がよろしいかと存じます。」

 バーテンダーは泰佑の前のグラスに意味ありげな眼差しを投げると、別の客のオーダーを受けて歩み去っていく。泰佑はカクテルグラスを眺めながらしばらく考えた。一旦席を立ちかけたが思い直して座り直しす。そして、希久美と自分のグラスを差し替えて彼女の戻るのを待った。

「ごめんなさい。ルーム長から電話で、明日の朝一の会議が流れた連絡だったわ。さあもう一度仕切り直しで乾杯しましょう。」

 ふたりは、グラスを軽く触れさせて音を立てると、乳濁色のカクテルを口に含んだ。なんと甘いカクテルなのだろう。予想外の甘さだ。希久美は、吐き出したいところをぐっと我慢して、みずからも杯を空けることによって、泰佑にも飲み干すように促した。

「ところで石津くんは、何かスポーツしてたの?」

「いや、別に…。」

 高校時代、毎日あんなに野球やってたのに、なんで言わないの?

「そんなことは、ないでしょう…。いい身体して…。」

 希久美は泰佑の体中を、舐めるように眺めまわした。

「それでさ、今つき合っている彼女とかいないの?」

 泰佑は、希久美からいきなり繰り出された馴れ馴れしい質問に戸惑いを隠せない。

「正直に答える必要はないと思うが、そんなのはいない。どちらかと言うと女が苦手でね。」

「あら、よく言うわね。女の私を目の前にして…。やだ、なんかお尻がかゆくなってきちゃった。」

 ハイチェアに座る希久美の姿勢が崩れ始める。

「私にはわかるのよ。あなたは女を泣かせる悪い奴でしょう。」

 希久美の目つきが妖しくなってきた。

「こぉのぉ、たくましい身体で、何人の女の子を泣かせてきたのよ?」

 希久美は、今度は泰佑の体をスーツの上からまさぐる。

「あの、青沼さん。ちょっと。」

 泰佑は、体を硬直させた。

「冗談よ、やあねぇ。」

 希久美が、ようやく手を泰佑の身体から離した。

「ところでさぁ、この店ちょっと暑くない?やだ、やだやだやだ、なんか身体が火照ってきたわ。」

 希久美は手で仰ぎながら胸元に風を入れる。

「石津くんも熱いっしょ。上着脱ぎなちゃい。」

 希久美は、いやがる泰佑に構わず上着をはぎ取った。

「うわぁ。案外胸板が厚いのね…。そんでもって、この逞しい腕。うわぁ…。」

「シャツの袖まくるなって…。」

「こんな腕で抱きしめられたら、フフフ、女はイチコロね…。」

 何がしたくて泰佑の二の腕にしがみついたのかわからない。しかしその瞬間、希久美の熱は身体が火照るレベルを超え、へその下あたりが局所的にカーッと熱くなって燃え始めた。その熱さは胸に伝わり乳首をひりひりさせ、やがて頭に登って理性を溶かし始め、徐々に覆われた本能を露出させる。だらしなく開いた口から涎が滴りはじめた。酔いも一気に回って、眼球を真っ赤に充血させる。目の焦点も合わなくなってきているようだ。

「うーん。あなた、いい匂いね。」

 今や希久美は自分が言っていることすら理解できない域まで来ていた。ただ言葉が勝手に出てくるのだ。

「唇も濡れていて、ぷよぷよね。なんか美味しそう…。」

 吐く息が泰佑の顔にあたるくらいの距離で迫って来る希久美に、泰佑は後ずさりせざるを得なかった。

「ふふふ。こいつ、生意気にもあたしから逃げようとしてるぜ。」

 希久美の目が、獲物を狙う目になった。

「このあたしから逃げられるわけないだろ、この悪党!こっち来い。」

 女豹の様に泰佑に飛びかかり、そこで希久美の意識が飛んだ。幸いにも、ウイスキーの酔いが、やりたくなる薬の効果を遮断したようだ。

 

 希久美はホテルのベッドの上で目が覚めた。希久美は昨夜の記憶をたどったが、どうも乾杯のあたりから思い出せない。どうやってこのベットにやってきたかが思い出せない。希久美は室内を見渡して、枕元に一枚のメモを発見した。

「まずいカクテルご馳走さま。あらためて嫌われている自分がよくわかった。」

 結局10年経った今も、希久美はあの日と同じように乱れたベッドにひとりでいた。ただ違っていたのは、部屋は明るく小奇麗なホテルのツインルームで、希久美は服を着たままだったということだ。石津先輩は、今度は希久美に何もしなかった。ほっとした、恥ずかしい、悔しい、そして訳もわからず無性に腹が立つ。様々な感情が入り混じり、二日酔いの頭痛とミックスされて、起きたての希久美の頭を混乱させた。なんでこうなるの? 希久美はひとり残されたベッドの上で、また声をあげて泣いた。泰佑に泣かされたのは、これで3回目だ。

 

 PCのウェブカメラを使ってグループチャットをしている3人は、それぞれに夜のお手入れに余念がない。テレサが、フェイスパックのずれを気にして、口をなるべく動かさないで言った。

「オキクもドジね。薬入れたのバレちゃうなんて。」

 小さな綿で顔に美白水をしみ込ませながら希久美が答える。

「我ながら情けない。なんでバレたのかわからないわ。」

 ナミは濡れた髪にタオルを巻き、足の爪にマニキュアを指してため息をつく。

「もう警戒してオキクのおごりは口にしないわね。」

「でも、またヤラレなくてよかったわよね。これでヤラレてたら10年前と何の進歩もなかったってことだもの。」

 無神経なテレサの発言に、ウェブカメラ越しにナミが目をむく。希久美のがため息混じりに、テレサに応える。

「悪党も大人になったのか、それとも私の魅力が衰えたのか…。」

 綿を放り投げて、希久美がふたりに訴える。

「ねえ、この先どうその気にさせたらいいと思う?」

「復讐を断念するわけにはいかないわよね?」

「ナミ、何言ってるの。あたりまえじゃない!」

「もうやりたくなる薬も使えないし…。」

 フェイスパックを剥がしているテレサの手が止まった。何か思いついたようだ。顔にパックの皮を半分ぶら下げて、彼女は言った。

「それなら、薬なしでも男をその気にさせる専門家に聞きに行こうぜ。みんな、今週の金曜の24時に六本木に集合よ。」

 

「ユカちゃんは寝たか?」

「ああ、悪いな泰佑。誘っておきながら。なぜかユカは俺がそばに居ないとなかなか寝付かないんだ。」

「お前が亡くなった父親と似てるからじゃないか。」

「一応、兄弟だからな。」

 甲子園を目指してバッテリーを組んでいた泰佑と石嶋は、高校以来の飲み友達になっている。飲んでいる時はあれこれ好き勝手を話すのだが、不思議と野球の話しはしない。毎日野球の練習で、同じことの繰り返しに明け暮れた学生時代。実際野球しかなかったあの頃。今はもうお腹一杯で、いまさら野球の話しをしても、盛り上がらないことをお互いよくわかっているのだ。

「もう3カ月か…。ユカちゃんの落ち着き先は決まったのか?」

「まだだ。俺も役職が付いて忙しくなってきたから、面倒見るのもそろそろ限界なんだけどな。」

 石嶋は自分のグラスに氷を足しながら言葉を続けた。

「ユカにとっても父親と母親がそろう環境で育てられるのが一番幸せだと思うんだ。でも、だからと言って急いで変な里親を掴んでしまったら、ユカが可哀想だ。」

「こんなことは、軽率に言うべきではないと思うが…。」

 泰佑が石嶋のグラスに焼酎を注ぎながら言った。

「ユカもお前にだいぶ慣れているから、いっそのこと誰かと結婚してお前の養子にしたらどうだ。」

「いやぁ、俺は嫌だね。」

「なんだ、ユカちゃんのこと嫌いか?」

「嫌いじゃない。可愛いと思うけど…。」

「だったらなぜ?」

「そんな重責を今から背負うのは、負担だな。将来結婚する相手も嫌がるだろうし。」

 石嶋は、なんとなく上司に紹介された女性を想った。

「おい石嶋隆浩。今のお前にとって大切にしたいのは、ユカちゃんなのか?それとも将来の妻か?」

「うーん、わからないな…。」

「昔からお前は、球種を決められなかったよな。配球はいつも俺が決めた。」

「だから、よく打たれたんだぞ。」

 泰佑も石嶋もお互いにグラスを掲げて笑い合った。泰佑が言葉を続ける。

「俺がユカちゃんを養子にしようかな…。」

「えっ、意外なことを…。」

「なんだか、自分の子供は持てない気がするんだ。」

「だめだ。ユカだけは、お前には譲れん。」

「なんでさぁ?」

 石嶋は泰佑の問いに笑って答えず、質問で切り返した。

「ところでさっき言っていた、お前をとことん虐めまくる女の話だが、もっと聞かせろよ。」

「面白いか?」

「ああ、痛快だね。」

「でもカクテル事件があった以来、話もしていないし、ろくに顔もあわせていない。」

 泰佑はグラスを飲みほした。

「そのうちまた、意外なところから石でも投げて来るんじゃないかと、びくびくだよ。」

「ふーん、お前に関心があるんじゃないか?」

「いや違うね。相手のオーラから色っぽいものをまるで感じない…。殺気だけだ。」

「いじめられているうちに、お前が惚れたりして。」

「俺の女嫌いはお前もよく知っているだろ。絶対あり得ないね。」

「でも、俺の憶えている限り、お前が女の話をするのは、たしか…。」

 天井を見上げて、石嶋は記憶を掘り起こした。

「そう…高校以来初めてだぜ。」

「昔のことをよく覚えているな…。話題の方向を変えよう。お前は今、女は居ないのか?」

「居るわけないだろう。仕事一筋さ。」

 石嶋は、先日上司から紹介された女性の話は言いだせなかった。ユカのことを黙ってお見合いのような事をしている自分が、なんとなく後ろめたかったのだ。

「…でも泰佑、お前をそこまで嫌うその女に、俺はぜひ会ってみたいね。」

「またその話しかよ。」

 ふたりは笑いあいながら、たわいもない話を肴に夜が更けるまでグラスを重ねた。

 

 テレサがみんなを24時に集合させて連れていった先は、プチ・パレスというクラブであった。この店は、24時に開店し翌朝7時まで営業している、六本木でも老舗のニューハーフのクラブである。古めかしいビルの薄暗い階段を下り、分厚いドアを開けると、轟音にも等しい人々の話す声、笑う声に迎えられる。目の前ではこの世とは思えない世界が広がっていた。テレサ達は思わず立ち止まって、エントランスからフロア全体を眺めた。小さなステージを持つグランドフロアは、20名前後のニューハーフと30名くらいの男性客でひしめいている。たいした天井高でないフロアに、ニューハーフの嬌声と客の笑い声が轟く様は、まさに阿鼻叫喚といったところか。ニューハーフはそれなりに美しく華やかであり、男性達にとっては、六本木の空間の裂け目に生まれた神秘的な楽園と思えないこともないだろうが、じつはここに居る50名がテレサ達を除いてすべて男性である事実を考えると、彼女たちにとっては地獄の様としか思えない。

「なんでこんなところ知ってるの?」

「前に業界の人に連れてきてもらったの。」

 希久美の問いに、平然を装うテレサが答える。実は、彼女も店に圧倒されて内心怯えていたのだ。自分の声がかき消されないように、テレサの耳元で両手でメガホンを作りナミが言った。

「本当にこんなところに専門家がいるの?」

「ちょっと!」

 テレサが憮然として答えた。

「男であることを知られながら男に愛されるニューハーフを、専門家と言わずして誰を専門家と言うの?」

 彼女達が席に着くと、やがてフロアスタッフにエスコートされ、けばけばしい羽根衣装に身をまとった痩せた中年のニューハーフがやってきた。フロアスタッフは、チイママの順子さんであると紹介した。席に着くなり、チイママは毒舌を吐き始める。

「家のトイレでウンチを出すのに苦労してる時から、今日はろくなことがないって気がしてたのよ。」

「いきなりですか…。」

「あんたたちモノホンでしょ。朝いちからおむつも取れてないモノホン客の席に着かなきゃならないなんて…。この世に男はいないの?」

「まっ、そんなこと言わずに、楽しく飲みましょうよ。」

「あらやだ、嘘よぉ。お仕事だからいいのよぉ。仕方なく飲むわ。」

 希久美はみんなのグラスに酒を注ぎながら、チイママのご機嫌を取ってなんとか乾杯までこぎつけた。乾杯を終えると早速まじめな口調で、ナミがチイママに問いかける。

「ところで、ニューハーフのみなさんは、私たち…モノホンなんかより断然色気がありますよね。」

「ちょっと馬鹿にしないで。あなた何人の男知ってるの?せいぜい数十人でしょ」

 ナミは話の流れ上、この年で未だ処女だとは言いだせない。

「私たちは百人の単位で男を知ってるのよ。なかには千人の単位の奴もいるわ。色気は、やっぱり男の数で決まるの。」

「当然、複数プレイもなきゃそんな数達成できませんよね?」

 的を外したリアクションのテレサを睨みつけるチイママ。希久美は慌ててとりなす。

「私もチイママみたいな色気を身につけて、幸せになりたいなぁ。」

 そう言いながら、希久美はチイママに酒を勧めた。チイママもだいぶ酒が回ってきたのか、口が柔らかくなってきた。まあ、もともとニューハーフはおしゃべりな人種なのだが。

「幸せ…。でもね、実は楽しいニューハーフにも悲しいお話があるのよ。」

「なんです?」

「今日は女同士、何でも話してすっきりしちゃいましょう!」

「あらま、この娘たち何?なんだか私の子宮で、警戒警報が鳴ってる。」

「えっ、子宮もあるんですか?」

「この前ドン・キホーテで買ってきたの。」

「ハハハハ、ハァ?」

「いいから、信用して話して下さいよ。」

「うーん…。実はね私たち、神様のいたずらで、女のこころを持って、男の体で生まれてきてしまったじゃない。」

「ええ。」

「男の身体を持つ私たちが、女であることを実感できる幸せな時って、どんな瞬間だか知ってる?」

 しばし考える三人。やがてナミが真面目口調で答えた。

「それは、やっぱり女性らしい身体と美しさを得た時でしょう?」

「あんた、浅いわね…。男に愛されたことないでしょ。」

 チイママの言葉が、誰もの予想を大きく上回る深さで処女のナミの胸に刺さった。

「私たちが女であることを実感できる時は、やっぱり男に愛された時なのよ。」

 そう言うと、チイママはグラスをぐっと飲み干して、空いたグラスを希久美に差し出す。希久美は慌ててグラスに酒を満たした。

「生まれた時の姿で男に愛されるなら、身体なんかいじらないわ。このままの身体では男に愛されないから、いじるのよ。お金を貯めては、胸を変えに海外へ行き。一生懸命働いてまたお金を貯めては、別の場所を変えに行く。自分を切り刻んで、膨らまして、へこませて。いつしかフェラーリと同じくらいのお金を自分の身体にかけて…。それもこれも、男に愛されて女であることを実感するためなの。モノホンのあんた達には解りっこないわよね。」

 3人の本当の女たちはあらためてチイママの身体を見入ってしまった

「やがて、年老いたニューハーフは、身体をいじることもできなくなっていく…。ねえ、男に愛されなくなったニューハーフってどんなに惨めだかわかる?女でもない、男でもない、自然界に存在してはいけない不気味な生物よ。ビリー・ホリデーじゃないけど、『奇妙な果実』そのまんまね。」

「ねえ、ビリー・ホリデーって誰?」

 希久美は小声で聞いてきたテレサの尻をつねって黙らせた。

「チイママ。今日は女同士、楽しく飲みましょうよ。」

 希久美はチイママのグラスに氷を足した。チイママの言葉で傷ついたナミが、気を持ち直して問いかける。

「チイママ。男に愛される方法を教えてください。」

「あら、あなたえらく直球でアスクね。」

 チイママはしばらくヒョッコ3人娘を眺めていたが、またグラスを置いてしゃべり始めた。

「いいわ。今夜は暇だから特別に教えてあげる。」

 4人はテーブルの中央に頭を寄せた。

「いかに美しいニューハーフとは言え、相手はわたしがもともと男だったことを知ってるわけでしょ。」

「うん、うん。」

「だから、いきなり迫ったら失敗ね。ゆっくり、はいずって、なめるように、ステップを踏んでアプローチしていくの。」

「みんな、メモよ!」

「まず、ステップ1。お互いを下の名前で呼び合うようにするの。シンプルだけど自然と親しくなるいい方法よ。親しくなると相手の男は、ニューハーフを女と言うよりはいい友達として見るのね。いくら女の姿をしていても、まさか自分が元男に惚れるわけない。実はこの『絶対あり得ない』という気持ちが、あとあと落とし穴になるのよね。」

「うーん…わかる気がする。」

「次に、ステップ2。お互いに共通で出来る作業を作るの。私たちがよくやる手は、部屋の模様替えとか引越しの手伝いをお願いするの。ニューハーフだから力がなくて重い荷物が持てない、なんて甘えてね。ここだけの話だけど、全く嘘よ。いくらニューハーフでも筋肉だけは男を捨てられないの。その辺の男よりよっぽど力があるわ。」

 三人娘は、力こぶを作るチイママの上腕筋を眺めた。テレサが吐きそうな顔して目を逸らした。

「えっと話を戻して…。そうすると自然にふたりだけの時間が作れるようになるのよ。この自然と、と言う感じが重要なの。」

「だんだん、獲物が近付いて来た感じですね。」

 ナミが誰よりも身を乗り出して言った。

「そうよ。」

 チイママは、乗り出してきたナミの額に手をあてて押し戻す。

「そして、ステップ3は相手の私生活に触れること。相手の私生活に触れることによって、『親しい友達』が、『特別な友達』に変化するの。大切なことよ。」

「そうか…。」

「これはいろんなやり方があって、例えば…引越しのお手伝いのお礼に彼の家に食事を持っていくとか。彼の友達の集まりに同行するとか。極端な例では、彼の奥さんやお子さんにお会いするとかの例もあるのよ。要は、相手の気持ちや状況に合わせて臨機応変に方法を見つけることね。」

「なんか、怖くなってきた…。」

「いよいよ仕上げよ。特別な友達になったところで、一瞬自分の弱さを見せるの。」

「弱さ?」

「なんでもいいの。弱さをみせると大概の男は『こいつの為になんとかしてやりたい』と思うのよ。そしてこの想いは、いつしか『こいつは自分を必要としている』になり、結局『こいつを自分のものにしたい』欲求につながっていく。男の所有欲が呼び醒まされる瞬間ね。」

「如来降臨って感じ?」

「ぜんぜん違うんじゃない?」

「うるさいわよ小娘たち、話をお聞き!いよいよ決めどこよ。弱さを見せて『必要としている』の想いを生み出し、それを『自分のものにしたい』の実行動に進化させるには、もうひと工夫が必要なの。何だと思う?」

 誰もが返事をせず。固唾を飲んでチイママの答えを待った。

「どこでもいいから女の身体の一部分をチラ見させるの。いい、モロ見はだめよ。相手が引いちゃうから、あくまでもチラ見…。うなじとか、足首とか、唇とか、まつ毛とか…。すると、不思議ねぇ、その部分を見た男たちが完全な女として私たちを錯覚してしまう瞬間が訪れるのよ。いわば、樹を見て、森を見ずって事かしら…。そう、これがクライマックス。この瞬間をモノにできれば、本能に抗えない男達は、ほぼ100パーセント私たちの体に落ちてくるわ。」

「チイママすごい!」

「感動した…。」

 興奮する希久美。ナミなどはもう涙ぐんでいた。

「余計な話だけど、一度私たちの身体に落ちた男たちは、なかなか抜けられないみたいね。」

「どうしてですか?」

「ばかね、案外気持ちいいからに決まってるでしょ。」

「すみません。そっちの話しも詳しく教えてもらえませんか?」

 身を乗り出してきたテレサの額を、チイママは押し戻した。

 

 石嶋がセッティングしたデートに、希久美は満足していた。実は希久美にとって石嶋は、そんなに関心の持てる相手ではなかったのだが、恩義のある義父に紹介された以上、デートのひとつくらいしなければ申し訳が立たない。初めてふたりだけで逢うことになった今夜、その会食を準備した彼のセッティングには、店の雰囲気、サービス、料理の流れ、味とも、うるさい希久美も文句のつけようがなかった。義父が彼を買っている理由の一端を見たような気がした。一方石嶋は、料理を目の前にして、時々見せる希久美の遠い視線とため息が気になっていた。しかし、相手が上司の娘と言うこともあり多少のことは目をつぶることにした。やがて希久美は、自分ひとりでないことを思い出し慌てて会話を始めた。

「石嶋さんも何かスポーツされてたんですか?」

 希久美の『も』という表現に、今彼女のこころの中にいる誰かと自分が比べられているんだなと石嶋は感じた。

「ええ、学生時代野球をやってました。」

「あら、私、野球をやってた方には好感が持てます。」

「野球がお好きですか?」

「いえ、初恋の人が野球をやってたんで…。」

「なるほど…。そう正直に答えられると、言葉が継げませんね。」

「野球では、どのポジションでしたの?」

「控えのピッチャーでした。」

「控えなんて付けなくてもいいのに。私も正直に答えられると言葉が継げません。」

「これは、失礼しました。」

「ちょっとお聞きしていいかしら?」

「なんでしょう?」

「投手と捕手は、バッテリーと言うじゃないですか。いつも一緒なんですか?」

「そうですね。一緒のことが多いですよ。」

「捕手ってどんな人たちなんですか?」

「投手じゃなくて、捕手に関心がおありですか…。」

「ごめんなさい。」

 石嶋は高校時代ブルペンですごした相手のことを想った。

「いえ、いいんですよ。そうですね…。よく捕手は投手の女房役と言うじゃないですか。あれは嘘ですね。少なくとも私のつき合った捕手は、女房なんてもんじゃなかった。」

「どういうこと?」

「面倒を見てくれるわけではないし、特に優しくしてくれるわけでもないし、好きな球は投げさせてくれないし、気分ですぐ配球を変えるし。」

「意外ですね。」

「それでいて別れられないんです。」

「どうして?」

「奴に投げると気持ちいいんですよ。自分の投げた球が、奴のミットに収まると、なんか変な清々しさというか、達成感というか、そんなもんが感じられて楽しいんです。」

「どうしてかしら?」

「誰でもない、この僕の投げる球を受けることが、本気で好きだからなんだと思います。だから、投げている自分は、受けてくれている相手に本気で愛されているって感じます。」

 希久美は自分が受けた仕打ちと石嶋の言葉を重ねて、納得できない気持ちを表情に現す。

「ほんとですよ。投手は自分の投げた球しか愛せないタイプが多いんですが、捕手は違うんです。」

 希久美は、自分の言っている事をわかってもらおうと必死に説明する石嶋に好感を持った。

「ということは、石嶋さんは自分しか愛せないタイプかしら?」

「しまった、墓穴を掘りましたね。」

 ふたりは笑い合った。

「…ところで、青沼さんは、球を投げると気持ちいい相手はいらっしゃるんですか?」

「居るわけないじゃないですか。」

 希久美は即答したが、また窓の外を眺めて遠い目をすると言葉を繋いだ。

「でも…石を投げつけると気持ちいい相手ならひとりいますけどね。」

「怖いこと言わないでください。」

 希久美の何気ない答えを聞いた石嶋は、その言葉にデシャヴーを感じていた。

 

 希久美は田島ルーム長と斉藤ルーム長を従えて、社内の大会議室で待っていた。今いる三人とやがてやってくるひとり。その人数を考えるとあまりにも大きな会議室であったが、今の時間適当な大きさの会議室が空いていなかったのだ。

「おい青沼。本当にいいんだな。」

「斉藤ルーム長、何度も念を押さないでください。」

「しかし、あいつはお前にセクハラした相手だろ…。」

「いや斉藤。彼の名誉のために言っておくが、それは誤解だよ。」

 田島ルーム長が慌てて否定したが、希久美に振り返ると不思議そうに言った。

「だが、泣くほど嫌な相手だったのは事実のはずだ…。」

 田島ルーム長が心配そうに希久美の顔を覗き込む。

「周りに遠慮して、無理にあいつに決めなくもいいんだぜ。」

「決めたからいいんです。それに、そろそろ彼が来ますよ。」

 希久美の予想通り、ノックした泰佑が失礼しますの声とともに会議室のドアを開けた。泰佑は大きな会議テーブルの一番奥に、斉藤、田島両ルーム長を認めた。しかし、そこに希久美が居ることを発見した泰佑は、部屋に入ることを躊躇した。彼の第6感が、彼の全神経に警報を伝えた。

「なにしているんだ石津。ここに座れ。」

 斉藤ルーム長に促された泰佑は、奥へ進み彼の隣に座った。しばらくの沈黙の後、会議の口火は、斉藤ルーム長が切った。

「実は、お前に田島ルーム長のところでやっている、米子コンベンションセンター開館記念事業の業務アシストしてもらいたい。」

「鳥取県商工課がクライアントなんだ。」

 田島ルーム長が補足する。

「どうして自分が斉藤ルーム以外の業務をするのですか?」

 斉藤ルーム長に向けて即座に発せられた生意気な質問に、上司は威厳を保ちながら言い聞かせる。

「室にとっても重要なプロジェクトだから、ルームの垣根を越えた協力は当然だろう。」

「自分でなければならない理由があるんですか?」

「それが…、青沼の指名なんだ。」

 今度は田島ルーム長が代わって答えると、泰佑は驚いたように希久美を見た。希久美は、そっぽを向いて会議室の窓の景色を見ていた。泰佑はそんな希久美を見ながら、しばらく彼女の真意を計っているようだった。

「やってくれるな?」

 黙っている泰佑に焦れた斉藤ルーム長が、少し語気を強めて言った。依頼ではなく命令口調だ。

「もちろん業務命令に逆らうつもりはありません。」

「そうか、では業務の内容と進め方はリーダーの青沼君から詳しく聞いてくれ。」

 両ルーム長は、心配そうに希久美の様子を伺いながら、ふたりを残して出ていった。大会議室に、希久美と泰佑だけが取り残された。

 希久美は、外の景色に向けていた視線を戻し泰佑を見つめた。泰佑は、希久美の殺気立った視線を、みずからの眼力で跳ね返そうと必死ににらみ返す。やがて希久美が口を開いた。

「ということだから、石津くんよろしく。」

「なんで…。」

「そう言えば…。先日の夜のお礼がまだだったわね。ご迷惑おかけしたみたいですみません。」

 希久美は泰佑の疑問に答えようとしない。いらついた泰佑は希久美の席まで大股に近づき、仁王立ちして言った。

「この前は、プライベートだと思うから黙ってたが、仕事であんなことをするつもりだったら…。」

「安心して。公私はわけられる大人だから。」

 そんな言葉がにわかに信じられるかといった様子の泰佑に、希久美は言葉を続ける。

「これから円滑に仕事をするためにルールを決めましょう。」

 泰佑は黙っていて返事をしない。

「まず、このプロジェクトのリーダーは私。あなたはアシストなんだから、常に私のデシジョンに従うこと。わかった?」

「君のプロジェクトだから仕方ない…。しかし意見は自由に言わせてもらう。」

「それから、私が気持よく投げられるように、あなたは常に努力すること。いいわね?」

「意味がわからん?」

 希久美が、会議テーブルをたたき大きな音を立てて立ちあがった。

「ではこれから、リーダーとして最初の指示を出します。」

 泰佑は身構えた。

「得意先や外部の人が居る場合は別として…。」

 泰佑は身体を固くして次の言葉を待った。

「これからお互いを下の名前で呼び合うこと。」

「なんだ?」

「私はあなたを泰佑と呼ぶわ。あなたは私をオキクと呼んで。」

 いよいよ希久美の公私のプロジェクトが再稼働を始めた。

 

説明
女子高生時代、心に傷を負わされたオキク。恋と男に癒えないトラウマを背負いながらも、母親の再婚でなんとか乗り越え、今では大手広告代理店の営業として活躍するまでに成長した。しかし10年の時を経て、あろうことかトラウマを負わせた張本人と再会。オキクの怨念が再燃し復讐を決意する。高校時代からの親友たち、闇の薬局、精神医学、はたまたニューハーフのチイママの力まで借りて、心と心のガチバトルを展開。最後は、幽霊まで飛び出しての復讐劇は、はたしてオキクの怨念を晴らすことができたのか…。
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