ガラスのキャンバス
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 何をしているのかと訪ねたら、氷に色を塗っているんだと返ってきた。

「そんなことぐらい、見れば判るわ。問題は、どうしてこんなことをしてるのかってこと」

 すると男は不思議そうに首を傾げた。カチリと音がした気がする。気の所為かも知れない。

 男は首を戻し、何故そんなことを聞くのか判らないと言った。

 怪訝そうな顔をしているように見える。それも気の所為かも知れない。単純に嫌なだけかも知れない。

「だって無駄じゃない? 氷なんかに色塗っても、結局すぐ溶けちゃうでしょ?」

 理解出来ないわ、と続ける。

 男は少し困ったように、若しくは考えるように頭を落とす。視線は歩道。アリが自分より遙かに大きなアメを、辛そうに運んでいる。

 可哀想に……。働きアリほど、哀れな生物もいないんじゃないか。働いて、働いて。でもそれは自分のためでは無いのだ。働きバチと同じくらいに哀れだ。私は唐突に、パレートの法則という言葉を思い出した。

 曰く、全体の二割のアリは働くが、残り八割はサボタージュをしていると。

 やがて男が口を開いた。

「君は……君はそう、例えば花だ」

「はあ……花?」

「そう、花。君は花を育てるときに何を考える。いや違うな、花を……花を育てる人を見たときに、君は一体どんなことを思うんだい?」

 突然の質問に少し面食らう。

 下を見る。アリはよたよた。

「どう……って、大変だなーとか?」

「無駄だとは思わない? どうせいつかは枯れちゃうのにとか思わないの?」

「それは……だって、あなたの場合とは全然ちが……」

「何が違う? それは必要なことなのかな? 生きていくのに、絶対に必要なのかな?」 どうだろうか。多分必要は無い。じゃあ無駄なんだろうか。多分……いや、絶対違う。花を育てることは意味があるはずだ。花は愛でることが出来る、それはきっと素晴らしいことだ。でもこの人がやっていることは……意味が判らない。花のように、心が満たされることは無いだろう。

「そう、別に必要は無いことだろう? でも君の言うとおり、無駄じゃあないんだ。君が言ったように、意味があることなんだ。僕も同じだ。僕にとっての、これも同じなんだ。勝手に人の気持ちを、行為を、決めつけちゃあいけない」

 嫌な気持ちになる。自分が悪いのに。

 今日は本当に、嫌なことがあったんだ。余計なことはしちゃいけない、無駄なことはするな……だそうで。そう、私は気が立っていたんだ。

 いらいらしながら歩いていた、私の通り道にこの男がいて……。丁度いい八つ当たりだと思って、

 「邪魔」

 そう言ったのだった。

 それが、いつの間にか私が説教されている。

 自業自得?

 俯く私の目には、動くアメが映る。アリはまだほとんど進んでいない。でも、辛いだろうと思うのは、私の勝手な決めつけなのか。八割のサボりと、女王アリのために働くなんて、無駄だと思うのは間違いなのか。

「ねえ」

「うん? どうした?」

「じゃあさ……これは、あなたのやってた事には何の意味があるの?」

「よくぞ聞いてくれた!」

 誇らしげに、男は語る。

「これはね、僕の心なのさ。こんなことをしていても、花を見るように心が満たされるわけじゃない。でもね、僕がしたいのはそもそも心を満たすことじゃないんだ」

「じゃあなんで?」

 何が言いたいのか判らない、ぐちゃぐちゃした頭の私に、微笑みながら男は続ける。

 それは演説のように見える。それとも新しい玩具を自慢する子供だろうか。

「氷に色を塗っても色が定着するわけがない。当たり前だ。溶けちゃうんだから。でもさ、人間の心ってそういうもんじゃないか? 一瞬一瞬で変わるんだ。二度と同じ状態なんて見られない。僕は今を作るんだ。僕は心を吐き出したいんだ」

 道の真ん中、色だらけの氷を持って、喋る。

 逆光が刺さる。その所為なのか、いやに目が痛いい。

 違う。

 これは頭痛だ。それとも心臓の痛みか。私より五、六は年上だろう男を見て、自分には無い、懐かしい光が見えた。

 こんな、幻想が浮かぶ。

 

 何処までも広がる雪原。

 私は一人、空は灰。

 風が吹く。

 でもそれは、たった今だけの話。

 こんな天気は、きっとすぐに変わるんだ。

 それを信じて、私はペンキをぶちまける。

 

 それはきっと、素敵なことだろう。

 でも……、でも……。

「でもだめよ、それじゃあ。それじゃ駄目なの。確かに心を描くことはできるでしょう。でも残らないじゃない、何も。溶けて、終わり。それは悲しいことじゃないの?」

 楽しいも。

 苦しいも。

 涙も。

 光も。

 何も、残らない。

 変化する何かじゃなくて。どうなるかわからない何かじゃなくて。私が欲しいのは違うんだ。どんなでもいいから、カタチに残って欲しい。辛いとき、苦しいとき、手にとって笑えるモノが良い。

 きっと私は弱いから、氷なんかじゃ駄目。

 

 クスリ、と笑われた。

「ちょっと待っててね」

 そう、言って氷を置く。水色、赤、黄、そして名前も知らないような色。塗られた氷は、儚さで涙が出そう。

 これがこの人の心なのか。

「……ごめんなさい」

 無駄だなんて言って、ごめんなさい。

 声は消える、水沫のように。

「大丈夫、きみにぴったりのモノがあるんだ」

 そう言って、彼が私に見せるもの。

 それはきっと、ガラスのキャンバス。

説明
キャンバスとキャンパスってややこしいと思います。
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