世界と私と世界観の哲学 |
世界と私があり、その間に世界観がある。
世界観(本の中の創作)はたとえば、キリスト教的創作だと虚妄(こもう)的世界観、ニーチェ的創作だと真実的世界観、通常的創作だと虚構的世界観が展開される。
世界は無変、科学で解明出来ない領域にある。科学は「変化」を説明するからである。世界観は原則変わらず、乗り換え可能で、私だけが変わって行く。
この私を科学は証明してみて、科学的に世界(の一部)を解明したと言うのである。言ってみれば、科学や科学技術は私(わたくし)的世界観で、通常の世界観と違う。通常は世界的世界観であるから。
「万有引力」は「宇宙のすべてにある概念」とされるが、言ってみれば、「真実であるかは重要ではない。真実と信じられている事が重要なのである」と東洋では考え方としてあるようだ。「万有引力」は「宇宙のすべてにある概念」と信じられる事が科学では重要視される。逆に、「宇宙のすべてにある概念」であるかは重要ではないというわけである。(この辺りは「ムダな事」に掲載した)
たとえば、星が爆発したのは、星が失われる事だが、幾多の私の中の一つ星が失われたのである。世界が変わったわけではない。
…このように、私と私の中のものは変わって行く。
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